section 8:Consideration "V. The Hierophant"
夕刻。雨に濡れたリリスが拠点に戻った時には、他の全員が既に帰還していた。
一度自室に戻り濡れた髪を拭いて着替え、リリスは皆の集まっている一号室に向かう。一同はコメットを中心にして何かを見ている最中だった。
「何なの? 」
リリスが尋ねると、コメットは少しばかり得意気な顔で答えた。
「アーサー宛の手紙にあった暗号文だよ」
「そう。随分と面白い物を見つけたのね」
リリスはまず暖炉の側で手を温めて、人心地ついた後に「見せて頂いても良いかしら? 」と尋ねた。コメットは頷き、書簡を封筒ごとリリスの手に渡した。
ケインが腕組みしながら首を傾げる。
「暗号でなきゃ、単なる"変な詩"だよなぁ。最初に見た時はマザーグースかと思った」
「そうねぇ。普通に考えたら一行目から既に意味が分からないわよね」
リーファスが夫の言葉に同意する。
He came from hell of Buckinghamshire.
彼はバッキンガムシャーの地獄から来た
Oh, he say.
ああ、彼は言う。
"Come for a row with me!
keep you waiting. "
一緒にボート遊びをしよう!
待たせたな。
Cocks is five
雄鶏が五羽
Apples is two
林檎が二個
AND he enter the room of Alexander.
そして、彼はアレキサンダーの部屋に入る。
リリスはしばらく文面と封筒を隈なく見つめた後、コメットに尋ねた。
「あなたの見解はどうなの? 」
「うん、行の一番前の文字だけ読むんじゃないかな」
コメットはそう答えた。ゲーリーがリリスの手の中の紙を覗きこむ。
「H、O、C、K、C、A、Aか?」
「最後の三行は別の読み方だと思う。Cock、Apple、Alexanderだろうね」
コメットの言葉にケインがポンと手を打った。
「あ、コックニー・ライミング・スラングか! ……となると、本来の意味はFive is ten、stairs is two、AND he enter the room of plate.だな」
「なるほどね。hock(豚の足)って言うから、後半は何かのレシピかと思ったわ」
リーファスが冗談交じりに言う。しかしその言葉にコメットは、額に指を当てて悩めるハムレットさながらの表情で言った。
「hockは違う意味じゃないかな。質屋とかワインの名前とか。どう? 」
最後の問いかけはリリスに向けられた物である。
「そうね。この蝋封の獅子がヘッセン州の紋章だとしたら、ドイツワインのHock(ラインガウ・ワインの愛称)ね。あの辺りなら、ドイツ移民相手の酒場があっても違和感ないだろうし」
そう答えたリリスに一同は怪訝そうな顔になる。コメットが聞き返した。
「何の話さ? 」
リリスは一枚のメモを出し、皆に見せた。
「これが遺物バイヤーの情報よ。三番目のヘンリー・スタインは名前から推測してドイツ人でハインリヒ・シュタインが本名かもね。この男がアーサーを呼び出して取引に使った場所を示した暗号じゃないかしら? 」
そこでリリスは一同の顔を見て、一旦言葉を切った。
「ああ、ごめんなさい。これじゃ説明不足よね」
彼女は暗号と思わしきその書面を卓上に広げ全員に見せた。
「一行目の「from hell」。この言葉に聞き覚えはないかしら? 」
「あ、もしかして切り裂きジャックからの手紙? 」
リーファスの言葉にリリスは頷く。ホワイトチャペルの殺人犯、通称「切り裂きジャック」の手紙と言われている書状の一文にある有名な言葉だ。
「続くBuckinghamshireは略するとBUCKS。それに掛かるのが三行目のRowよ」
「バックス・ロウ?」
「そうBuck's row。ホワイトチャペルの第一被害者発見場所、現在でいうダーウォード・ストリートの事ね。その辺りでHockをメインで出す酒場や販売店。5と10は番地か、目印になる数字……15や105かも知れない。そこの二階、ドアに陶器のプレートがついた部屋が取引の場所じゃないかしら」
リリスはそこまで言うと、封筒に書状を戻した。
「……あっさり見つけちゃうよなぁ」
短い沈黙の後、少しつまらなそうにコメットが呟いた。
「コメットとケインのお陰よ」
リリスは変わらぬ笑顔で答える。
(ダーウォード・ストリートって地名をすぐ連想した事を言ったんだけど)
コメットはそう思ったが、何となく悔しいので口には出さない。
「そう言えばダラス教授には会えたのかしら? 」
「それどころじゃなかったよ。もう大騒ぎでさ」
ケインがうんざりした顔で言う。今度小首を傾げたのはリリスの方だ。
「どうやらミイラが盗まれたらしい。ダラス教授も行方不明で、彼の研究室の床の上には大量の血があった」
ゲーリーが説明する。リーファスが更に付け加えた。
「私たち何の関係もないのに警察に色々聞かれて、もう大変だったのよ」
「それは、三人ともお疲れ様でした」
リリスは心から同情して言った。ゴーストハンターという立場を明かせない以上、事件当日にミイラを見に行ったり教授に会いに行った人間も怪しまれるのは当然だろう。だが真先に疑われたゲーリーは平然として言う。
「まあ、よくある事だからな」
「あってたまりますか! 」
リーファスは憤慨して言った。
「それで、何か分かった事はあった? 」
苦笑するリリスの問いにリーファスが答える。
「ダラス教授は亡くなっていると思うわ。彼の霊は見えなかったんだけど」
ゲーリーが頷く。
「確かにあの血が全部教授の物なら、ちょっと生きてはいられないだろうな」
「教授の霊がいるかなんて、俺の『霊魂君』なら一発で分かるのに」
ケインが不満そうな顔で言った。
「あなたの発明機械は、ちょっと人目に付き過ぎるのよ」
リーファスが言うと、ケインは更に不満げになる。
「何を言うか、俺の『霊魂君』はああいう時にこそ活躍をだなぁ……」
「ケイン、警察の捜査の邪魔しちゃ駄目よ? 」
リリスがリーファスとケインのやり取りに笑いを含んだ声で言う。
「わかってる。だから今日は諦めたんだよ」
ケインは不本意そうな顔のままそう言った。今度はコメットが聞く。
「ゲーリーの方で何か分かった事は? 」
「助手のモリスンが教授に最後に会ったのは、昨日の午後5時前後でそれ以降が不明。大学内での目撃情報も今の所はないって話だった。室内にある本は大半考古学関係だったけれど、魔術関係の表紙も見えたな」
「魔術? 」
聞き返したリーファスにゲーリーは頷く。
「古代秘術の研究書だった」
「あからさまに怪しい教授だな。……現場って校内のどの辺りだった? 」
コメットが身を乗り出して言う。犯人不明の怪しい強盗事件に探偵の血が疼くらしい。
「そうね」
リーファスがテーブルの上に乗せたままの封筒を地図に見立てて説明する。
「敷地全体がこうだとすると、正面の門がここ。それで現場になった建物はこの辺りよ」
それを見ながらコメットが呟いた。
「塀を乗り越えて来たのかな?それとも内部の犯行かな? 」
「どちらの可能性あるけれど、どちらでもないかも知れないわね」
「どういう意味さ? 」
リリスに反論されたコメットは少し不機嫌な声で問い返した。
「仮に犯人が外部者であっても、犯行時刻の遥か以前に入って潜んでいたかも知れないでしょう? とにかく今は情報も証拠も不十分すぎて、推理なんて出来る段階じゃないわ」
リリスは淡々とした口調で答える。
「まあ、それは、確かにそうだね」
コメットは元より「安楽椅子探偵」タイプではないため、証拠の少ない段階の推測は苦手だった。正論とは言え、それを指摘されたのは面白くない。だが、ここはクールダウンして黙っておく。
「うーん」
低く唸りながらゲーリーが脇に置いていたスケッチブックに何かを描き始めた。
(始まった)と全員が思う。ゲーリーは普段アトリエで油絵を嗜んでいるのだが、毎回調査の合間に自分の推理に基づいた犯人像や事件のキーになる物を描く。脇に記した説明がなければ何を描いた物かよく分からない代物で、当たる気配のない突拍子もない絵が多い。誰も正解への期待はしないが、彼独特の奇妙なセンスは捜査の良い息抜きになっていた。
「こういうのはどうだ? 」
と言ってゲーリーがスケッチブックに描いたものを全員に見せた。
「えーと、これは本? 」
リーファスの言葉にゲーリーは頷く。本の横には「犯人」と書かれている。
「本の下にあるのは、影? 」
今度はケインが聞くがゲーリーは首を横に振る。そして影のような物の隣に「教授とミイラ」という文字を書き足す。
「……ゲーリー?つまり、教授とミイラは本の下敷きになり潰れているから発見されていない、と? 」
「さすがリリス、分かってるじゃないか」
「理解した訳じゃないから、褒めないでくれる? 」
リリスが消え入りそうな声で言う。コメットが苦笑する。
「本の下も警察はちゃんと調べてると思うよ? 」
「コメットの推理は可能性あるけれど、これはさすがに無いわよ」
ため息混じりのリリスの言葉に、ゲーリーは「それは残念」と言ったが、彼自身もこれが正解と思っている訳ではない。
会話が途切れた時、ノックが聞こえた。この時間なら恐らくはジェーンだろう。
「はい」
リーファスが応じると、扉が開きジェーンが顔を覗かせる。
「皆さんお揃いのようなので。ご夕飯はどうしましょう? 」
一同は顔を見合わせた。
「有難う、ミセス・コッカー。すぐにお願いします」
答えたのはゲーリーだが、誰も異論は唱えない。一日の探査を終えた調査員たち全員が既に空腹だったからだ。
ジェーンが二号室に用意した夕食のテーブルへ向かう途中、コメットがふと疑問に思った事を口に出した。
「そう言えばさ。さっきの暗号文って、アーサーはすぐに全容を理解出来たのかな? 」
特に誰宛に言った訳でも無かったのが、それに答えられるのはリリスだけだった。
「恐らく"From hell"の部分でホワイトチャペルの殺人の話だって事はすぐ連想したでしょうね。私にあの事件に関する資料や文献について教えてくれたのは、アーサーだから」
リーファスが少し不思議そうな顔で口を挟んだ。
「あらリリスって、そんなにランドン教授と親しかったの? 」
一緒に仕事をした事くらいはあるだろうが、いつも必要以上に他人とは接触したがらないリリスにしては珍しいと思ったのだ。リリスは少し複雑な表情で答えた。
「以前アーサーと一緒になった調査で、ホワイトチャペル事件の被害者だと言われる霊の一人と対峙した事があって。当時の私は調査員としても駆け出しで、ホワイトチャペル事件や現場周辺の地理にも詳しくなかったの。その時アクシデントがあって、かなり危険な状態になったのよ。アーサーが事件や被害者の事を正しく理解していたので、調査は上手く解決出来たのだけれどね」
そこまで真顔になっていたリリスが、リーファスに笑顔を向けて言葉を続けた。
「もしも現場にアーサーが来るのがあと五秒遅ければ、確実に私は死んでいたわ」
事も無げにそう言われて、思わずリーファスは瞬きを数回繰り返しながら彼女を凝視した。
「つまり、君はその頃から無鉄砲に突っ走る性格だったって事なんだね」
コメットの皮肉を含んだ言葉に、リリスは笑顔を崩さずやんわりと答えた。
「ええ、生憎これは生まれつきですから」
夕食後。明日のミイラ取材の打ち合わせのため、リリスは友人の記者ジョン・グリンウッドに連絡を入れた。ミイラの紛失で取材は中止になるかとリリスは予想していたのだが、「予定変更はない」とグリンウッドは言った。
受話器を戻しながら、リリスはわずかに眉を顰めた。
紛失の情報が博物館側にまだ渡っていないとは到底考えられない。遅くとも昨日か今日にはUCLから博物館に移送される予定だったはずの物だ。幾ら待っても届かなければ、博物館側から大学宛に問い合わせくらいはするだろう。
取材を断らないのは「何の問題もない」という事だ。
しかし今ここであれこれと想像するより、明日の取材先で事情を聞くのが妥当だろう。リリスは考えを中断して他のメンバーのいる一号室へ戻る。そして、リーファスとケインに明日の同行を頼んだ。勿論取材を行う部屋には彼らは入れないので、「同刻頃に博物館に一般客として訪れて欲しい」という内容である。
「あら、珍しいわね。リリスが応援を頼むなんて」
リーファスの言葉に、リリスは少しばかり歯切れの悪い口調で答えた。
「私には霊能力もないし、化学的な分析も全く出来ないから。何か変わった事があれば探って欲しいの。お願い出来るかしら? 」
「勿論構わないけれど、そこに何かありそうなのかい? 」
ケインの質問にリリスは頷く。確信はないが、彼女の直感は面識の無いロードマック卿にそこはかとない不気味さと違和感を訴えている。これは全く直感的な物でしかないので上手く説明は出来ないが、特殊な調査が必要なように思えた。
「じゃあ酒場とブローカー探しは僕の担当だね」
ここまでのやり取りを聞きコメットがそう言ったが、ケインが首を振る。
「酒場はゲーリーが適任だろう」
「何故さ?この暗号を見つけたのは僕だよ? 」
理不尽だと言いたげなコメットに、リーファスが言葉を選びながら補足する。
「あなたは……とにかく若く見え過ぎるわ。酒場に入れなければ意味がないでしょう? 」
二人の意見は尤もだ。コメットは憮然とした顔になったが少し考えた後、何を思いついたのか明るい表情に戻りゲーリーに言った。
「じゃあゲーリー、酒場に入る役をお願いするよ」
コメットの満面の笑顔に少々不思議そうな顔でゲーリーは「構わないが」と答える。
「僕は周辺で密売やブローカー関連の状況調査しているからさ。もし何か危険な感じがしたら、すぐに空砲撃って合図してよね! 」
「それは、コメットと警官のどっちが先に現れるか見ものね」
リリスが言うと、コメットはきっぱり断言した。
「警官が店に常駐でもしてなきゃ、絶対に僕が早いさ」
「早くても遅くても、警察沙汰になるのは困るぞ」
ゲーリーが慌てて言う。
「それはそうね。調査を始めて一定時間以上経過したらゲーリーが外へ出る。出てこなければ、多少強引にでもコメットが酒場に乱入する。……それ位で良いんじゃないの? 」
リリスの無難な提案にゲーリーは即同意したが、コメットは少しだけ不満顔だ。しかし「多少強引にでも」という点で妥協したようで、すぐに顔に笑みが戻った。
「とにかくさ。僕がすぐに駆けつけるから、ゲーリーは大船に乗ったつもりでいてよ」
意気揚々とそう宣言するコメットにゲーリーは軽く咳払いして言った。
「ひょっとしておまえ、俺に何かあるってのを大前提に話してないか? 」
この会話にケインとリーファスは「やれやれ」と首を振り、リリスは「God bless you.」と一言呟いた。