「―――――――――――――」

 気がつくと、ひどく殺風景な部屋にいた。
 後ろにはベッドがひとつ。部屋の中央にはテーブルとイスがひとつずつ。
 そしてその奥にドアがひとつあった。
 かくん、と脚が脱力する。膝をつき、肘をついた。
 堅い。床はどうやらコンクリートでできているらしい。
 冷たい、灰色の床。しかし不思議とそれは冷たく感じなかった。
 頭はまだぼんやりとしていて、視界もはっきりとしない。

「起きてしまったのか」

 男の声。ドアがいつの間にかに開いていた。
 中年の男。この部屋の……家の、住人だろうか。
 男は優しく微笑んでいる。
 立ち上がろうと、力をこめる。が、指先が震えた。
 まるで力が入らないので、イスに手をかけてどうにか立った。

 男の声が、耳に入ってくる。

「―――君は死ぬ。生きたくても死ぬ。チャンスは無い。おめでとう。君の日常は、唐突に終わりを告げた」

 テーブルには――――――――――、一本のプラスドライバー。

 何も言わず、
 それを強く握り、
 男の右目に向けて、
 真っ直ぐと―――――――、

「あ」

 突き刺した。

 耳をつんざくような悲鳴。うるさい。
 熱い血液のシャワー。自分の体に赤い花が返り咲いていた。
 のたうちまわる男。ぐったりとしていく身体はまだ、小刻みに震える。
 赤くなったその両手には、男の右目を潰した感触が鮮明に残っていた。

「…………………………………………………………………なんだこれ」





  ぅあ、まぶしっ。
 カーテンの隙間からもれる陽の光がまぶたをチラチラ直撃する。
 自分の寝覚めのよさに少し感心しつつ、不機嫌そうにまぶたを開けた。
  目覚ましはまだ鳴ってないらしい。
 って事はまだ六時前・・・・・・・か。
 今日は確か、木曜日。なら一時限目は英語だ。
  考えながら右手で目覚ましを探す。
 今日は長文読解だった気がする。こりゃどうせ寝るな。
 手探りするが、まだ目覚ましは見つからない。くそっ。何かイライラしてきた。
  どうせ寝るんだったらここで寝た方が絶対気持ちいい。
 『家で寝る』賛成百票・反対零票。よし、サボろう。
  慣れない感触。右手がやっと何かを掴んだ。

 引き寄せ、目の前に出てきたのはまさかのプラスドライバー。
「――――――――――――は?」
 何でこんな所に? あたし、置いたっけかな。
 父親も母親もいないこの家で、生活しているのは自分ひとり。だから物が移動するとしたらあたしが移動させる他はありえない。
 昨日の事がよく思い出せない。脳トレ、サボりすぎたかな。
 そのわりに今朝の夢は嫌に鮮明だった。
  両手を目の前に出す。開いたり、閉じたり。握る感触を確かめる。
 一瞬、目の前が夢の中の光景に切り替わったり。
 フラッシュバックのように映って、あの鮮明な感覚は消えていった。
 見えた視界はクリアなものじゃなかった。でも何故か、とても鮮明な記憶。

 ――――――――――――目覚ましが鳴った。

 とりあえず、ベッドから出て着替える事にするか。



「あちー」
 仮にも十月。なんでこんなあちーんだよ。
 朝っぱらからこんな調子なのに昼とかどーすんだ。日本の気候ちゃんと仕事しろ。
 今日の天気、晴れ。っていうか快晴。清清しい朝の空気と潔い残暑的暑さがクソみたいに青空いっぱいを満たしている。
 ワイシャツのボタンを第二まで開けて、胸元の布をつまんでぱたぱた。やる気のない足取りは、勿論ローファーのかかとを踏んでいる。
 住宅街の道を歩いて、曲がり角を曲がる。食パンくわえた学生とかが出そうな気もしなくもない。けど、いつも誰ともぶつからない。そんな曲がり角を曲がる。
 曲がった先で、いつもストレッチしてる近所のおばちゃんに軽く挨拶して、通り過ぎた。
 そこをちょっと進めばゆるい上り坂。時々塀でネコがたむろしてるけど、今日はいない。
 昨日、撫ですぎたかな。
 がさごそと鞄を探って、家から持ってきといた煮干を適当にばら撒いといた。
 その近くには公園と喫茶店。――ふと、日課を思い出す。
  今朝コーヒー飲むの忘れたな。
 ちょっと立ち寄って、カプチーノをいただく事にしよう。そう思って喫茶店のゲートをくぐった。

 空調の効いた店内。席に着いて、一息。
 店員め。ブラックとか薦めてくんじゃねぇ。ブラック苦すぎてあたしは飲めねーんだよ。
 あわあわで、あったかいカプチーノが入ったカップを唇につけて、傾ける。
 ……まぁ、朝から優雅なティータイムが楽しめただけよしとしてやろう。
 窓ガラスの外で、サラリーマンやOLやらが大勢乗ったバスが通り過ぎていく。おそらくは駅に向かうバスだろう。今朝はいつもより早く家を出たから、あれは初めて見た。
 忙しそうで何より。
 きびきびきびきび働く人たち。きび団子かお前らは。
  カプチーノをもう一口。
 毎日ご苦労様だ。そんなんじゃ、切羽詰って食べる朝食の味もわかんねーだろ。
 それじゃ時間を食ってるのと全く変わらない。もっと味わって食べろよ。朝メシぐらい。
 鞄の中から教科書を出して、開いた。

英語長文読解レッスン18
問一 傍線部(1)を和訳しなさい。
A:もしトムがこの事を知ったら、僕は彼にぶち殺されるだろう。
問二 ドロシーは傍線部(1)についてどのように思っているのか、日本語で書きなさい。
A:マックスはトムのことを好いているので、きっと彼は許してくれる気がする。
問三 傍線部(2)のマックスの台詞を違う英文に書き換えなさい。
A: Kill you.
問四 この文章に題名をつけるとしたら1~4の選択肢のうち最も正しいものを選びなさい。
A:5 『復讐と血の代償 ―――「てめーは俺を怒らせた」―――』

 シャーペンを置いて、伸びをする。
 今日の英語の予習終わりー。こんなもんに四十五分フルに使うとか。バカかよ。時間じゃなくて頭使えっての。
 さて、喫茶店を出て、立ち止まった。
  だりぃ。
 もういーじゃん態度点とか。テストで点数取れりゃ言う事なしだろ今のご時世。
 生活態度なんて記録したって結局会社では効率とかが要求されるんだからさ。
  だらだらと学校へと足を動かす。
 いつも以上に飾られた校門をくぐり、校庭を抜けて、靴を上履きに履き替えて、学食にある自販機で炭酸買って、一息ついて、校舎の階段を上り、あたしは教室のドアを開けた。
「おいーっす。遅刻しましたー」
「見れば分かるわ!」
 機敏な反応速度と怒号があたしをウェルカム。
 凄い剣幕でお出迎えしたのはいつもの英語教師じゃなかった。
 英語科担当の橋口。普段は高一を担当してる教師で、厳しい・・・・っていうか口うるさいことで有名。学校側としては入学したての頃から生徒に『厳しく』かつ『しっかり』指導してますアピールを踏まえて高一担当に位置づけたつもりなんだろうが迷惑この上ない。
「なんで今日はせんせーが高二教えてんスか」
「二年一組担当の江原先生は急な仕事が入って今日はいない。ついでにホームルームも私がやるから覚悟しとけ」
 はいはいごくろーさん。変に意気込んでる輩を素通りして、あたしは自分の席に着いた。
「伊吹。お前電車通いか?」
 まだ用あんのかよ。
「歩きですが」
「なら遅延証明とかそういうのは無い訳だな」
 ……あ?
「昼休み職員室来い。ついでに今までの遅刻回数分、説教させて貰うぞ」
 めんどくせぇぇーーーー…………。
 何でこんなやつと生徒指導室で二人っきりにならなきゃなんねーんだよ…。
  深い溜め息をついて、あたしは鞄から教科書と筆箱を出した。

 本名、伊吹 実。『実』と書いて『サネ』と読む。
 席は窓際の一番後ろ。夏は暑いし冬は寒い席だ。
 そよそよ吹いてくる風があたしの短い髪と耳の間を通り抜けていく。景色とか、眺めだけはいいから、あたしはこの席を嫌いにはならない。いい暇つぶしになる。
 橋口の無駄にデカイ声が教室中を駆け回る。音量、もっとどうにかなんねーのかよ。
 これじゃ景色を眺めてゆっくりすることもままならない。
「伊吹! 問三を答えてみろ!」
 だりぃー。問三、問三……………あ、これか。
「『Kill you.』」
 まもなくあたしの席にチョークが飛んできたのは言うまでもなかった。
 
 ま、教科書でガードしたけど。



「あ、おかえりー」
 説教帰り、屋上で待ってたのは二人の男子。持ってきた鞄を下ろす。
 おかえりを言ったのはその内の片方、ケンゴだ。
「ほら、投げるぞ」
 少し遠めから焼きそばパンが飛来。すかさずキャッチ。
 今焼きそばパンを投げてきた不良っぽいのがアキラ。ちなみにあの焦げ茶は地毛らしい。
「後で金返せよ」
「いーじゃねーか百二十円くらい」
 ラップを割いて、あむっと一口。紅しょうがの風味が口の中やそこら中に広がる。
「いや、おい。それじゃここ一週間全部俺がお前の食費払ってんじゃねぇか」
 二人はすでに食べ終わってるらしく、ケンゴがお茶をのほほんとすすっている。
「勉強教えてやってんだから文句言うなよ。これでチャラにしてやってんのはあたしだぞ」
「伊吹と違ってケンゴは何も要求してこねぇぞ」
「あたしはあたし。ケンゴはケンゴだろ」
 犬が「がるるる」ってノド鳴らす時みたいな感じでアキラはあたしを睨んだ。
 わざわざあたしがお前ごときの為だけに個別授業してやってんだ。感謝しろし。
「それよりどうだったのさ。橋口の説教」
「ケンゴてめぇ」
 あははと笑って流されるアキラウケるー。
「出席日数とかそーゆーのは足りてるけど、このままじゃ態度点悪くなる一方だからテストの点数引かれるぞーだってさ。マジうぜぇ」
「よく言ってるよねー。特に橋口先生は」
「態度点が悪いからテストの点数引くとかマジ意味わかんねぇよ。それ教師の自己満じゃねーか。クソが」
 ヤケになってパンをほうばった。
 焼きそばの風味がいくら伝わってきても、今は「おいしい」どころじゃない。
 …思い出したらイライラしてきた。
「嫌なら伊吹だって時間通り学校来いよ。俺なんて真面目にしててもマークされてんだぞ」
 拗ねてたアキラが口を出す。
「あたしはお前みたいな不良モドキとは違うんだよ。強いていえば天才美少女だから優遇されるべきなのはとーぜん。それが自然の摂理」
 ケンゴがまた笑う。アキラは呆れた顔で「やれやれ」のポーズ。
「美少女を名乗るんだったらもう少しその残念な胸が成長してからにしろよ」
「むっ」
 何を言うかこの不良モドキは。あたしだってギリギリCぐらいはあるっつーの。
「うっせー禿げろ。このセクハラ不良モドキ野郎が」
「俺は不良モドキじゃねぇ!」
 不良モドキってのは気にしてるらしい。そうやってイガイガしてるから友達いねーんだよ。
 何かのタイトルみたいでいいじゃん。『不良モドキ AKIRA』的な。
「そういえばアキラって、見た目だけで出店停止処分くらったんじゃなかったっけ?」
 そよそよ流れる屋上の風で涼みながら、ケンゴが涼しげに言う。
「なってねぇよ出店停止には。お前どっからそんな根も葉もない噂を……」
 出店停止って……
「あぁ、もうすぐ文化祭なのか」
 忘れてた。
「忘れてたの?! 四日後だよ?」
「そーだっけ」
 そうかそういえばもう十月……。言われてみれば、校門のすぐ傍に「あと四日!」って看板があった気もする。
 アキラが柵に手をついて指をさす。
「あそこに看板あるじゃねぇか」
 本当だ。赤と黄色のめちゃめちゃ目立つ組み合わせで看板が突っ立ってる。
「お前今日はどっから学校に入ってきたんだよ」
「今日はって、あたしはいつも正門くぐってるぞ」
「嘘付け。お前が正門をまともにくぐったのなんてどうせ入学式ん時ぐらいだろ?」
「人をイメージだけで語ってんじゃねー」
「その台詞そっくりそのまま返してやろうか」
 こいつ…ちょっとはやるな。
 相変わらずケンゴはメイドインマイホームのお茶をすすってのほほんとあたし達を見てる。
 背景に桜を置いたら似合いそうな笑顔だ。
「幼馴染なだけあって、やっぱり二人とも仲いいよねー」
「「誰がこいつなんかと!」」
 お互いが一瞬顔を合わせて、すぐにケンゴを睨んだ。
 何であたしがこんなやつとシンクロする羽目に――――
「何で俺がこんな淡白無愛想系女子と相性良くなきゃいけねぇんだ!」
「淡白無愛想系女子ってなんだよ」
 今聞き捨てならない言葉があたしの耳に直送されてきた気がする。
「でもアキラが今度文化祭で出す喫茶店って伊吹さんのためにやるんでしょ?」
「………は?」
「ばっ! コイツが勘違いする様な言い方すんな!」
「違かったっけー? 自分から僕に向かってその話をしてきた気がするけどぉー…」
「あたしのため?」
 口ごもるアキラ。なんだこいつ。おもしろい奴だな。
「いや! これは違っ! ケンゴお前マジふざけんなっ!」
「口がすべっちゃったかなー?」
「くそ、てめぇ……! お、お前最近学校遅刻してばっかだろ!」
「え。あー、そうだけど」
 何を慌てふためいてるんだか。
「俺んとこの喫茶店に来れば、なんかっ…もう、丁度いいだろ! だから来い!」
 ………言いたいことがよく分かんないんだけどさ。
「要するにあたしが学校にくるような口実を作ったって事?」
「ちょっと違―――――」
「そういうことだ! それでいい!」
 …変な奴。
「それでいいっていうのは変だと思うけど」
「ケンゴお前ちょっと黙れ」
 今度はケンゴに吠え始めるアキラ。今思ったけどこいつ、犬っぽいイメージが似合うな。
 そんなこんなで昼休み終了のチャイムが鳴った。
 って、まだ焼きそばパン食い終わってねぇし。橋口め。説教長ぇんだよ。
「ほら、行くぞ」
 ケンゴは先に行って、アキラが扉を開けて待っている。
「あたしはいい。どうせ午後の授業出ねーし」
「お前、橋口に説教されたばっかじゃねーか」
 半分になった焼きそばパンを、一口。
「じゃああたしと一緒にサボれ。そうすればお前を言い訳に使える」
「俺の社会的地位をどんだけ下げる気だよお前」
「冗談だって」
 溜め息混じりにアキラは階段を下りていった。
 さーて。何してヒマを潰そうか。何か朝しっかり目覚めた分、眠くなってきた。
 ちょっとした段差がついてるとこに腰掛ける。
 鞄を枕にすれば寝れそうだ。
 はぁ……………眠っ。
 二の腕で目を覆って寝る体勢へ。
 ――――――――――――――――――――――――――ふと、違和感。
 がばっと起き上がり、鉄柵のところへと小走りで近寄った。
 それは何の意思か。気付くと視線はその場所へ――――校門近くに人影を確認する。

「………なんだあれ………」

 微笑みながら、その場所には男が立っていた。

               ―――――――+



 授業が全部終わった。ホームルームが始まる前。つまり教師達が各クラスにたどり着く前の時間。休み時間っぽい空白の時間。
 あたしは背負ってきた鞄を下ろして、自分の席に着いた。
 周りの奴らが色んな視線を送ってきてるけどまぁ、いいか。
 視線はすぐに止み、また生徒達の会話が始まった。
 ふとアキラの席の方を見る。あいつの席はあたしの二列隣+二個前。
 ケンゴは不在。普段なら授業が終わるのとほぼ同時にアキラに話しかけに来るのに。珍しい事もあるもんだ。
 当のアキラは勉強中。あいつもたまには柄にも無いことをするらしい。
 …………あいつもひとりか。寂しい奴。
 ぼんやりとアキラを見てたら、突然目が合った。アキラの、少し驚いたような表情。
 あたしは軽く「よぅ」って感じに会釈。
 アキラも「お、おう」と言わんばかりの会釈を返してきた。
  分かりやすい奴だなー。
 おもしろがっていると、生徒達の話声が次第に止んできた。
 教室のドアが開かれる。
「よーっしお前ら席に着けー」
 今日のクソ野郎MVPの登場。ミスター橋口の一日天下独裁政治、はっじまっるよー。
 本日のホームルームは基本的な連絡事項から始まった。先生が変わった事で、いつになく静かな教室内で無駄にデカイ声がわんさか鳴り響く。
 すっきりと、箇条書きみたいに一個一個まとめて連絡事項を言う辺り、コイツの性格が滲み出てるホームルームだ。
 かと言って今日も特に変わった連絡事項はない。
 簡潔に一つずつ物事を伝えるだけの作業が淡々と続くだけ。
 普段なら、つまんないながらも語り口調で伝達される連絡事項。今日は必要最低限の言葉しか伝わってこないせいで、いつもより一段とつまらない。
窓から見える景色の陽も、ご機嫌斜め気味に傾いている。
「―――……連絡事項は以上だ。それじゃ、今から持ち物検査するぞー」
 ざわめく教室内。橋口は得意気な顔で生徒一人ひとりの顔を見回す。
抜き打ちとか。マジだりーな。
 全員の前で一人ひとり鞄の中身をオープンセサミ(開けゴマ)。
 ゲーム、ポータブルオーディオプレーヤー、お菓子、等。そんなのがぽろぽろ出てくる。
 片っ端から取り上げて、っていうか巻き上げていく様は見てるとイライラしてくるな。
 橋口がアキラのところで一旦止まった。
 何もやましいものが出てこないせいか、少し不満気な顔。次の目標へと進んでいく。
「見た目だけで決め付けやがって」
 ぼそりとアキラの一言。橋口が振り向く。
「お前も後で職員室来い。徹底的に話し合おうじゃないか」
 うわっ。気持ち悪いぐらいめんどくせぇよあいつ。
 文句を言っていた他の生徒達はそれを見ておとなしくなった。
「次っ!」
 とうとうあたしの番か。
 橋口は何の躊躇もなく、机に置かれたあたしの鞄を開けた。
 ちょっとは遠慮しろよセクハラクソ教師め。
 がさごそ必死に探す様はナンダコイツの一言。ハイエナかお前は。
「これはなんだ?」
 取り出されたのはノラネコ用に持ってきてた煮干。別にいーじゃねーかそんなもん。
  あたしはそれを奪い取って口へ放り込む。
 呆気に取られるクソ教師。
「カルシウム補給をしちゃいけないなんて校則に書いてありませんでしたんでー」
「…そういう問題じゃない。そんなにカルシウム補給したいのなら弁当に入れて来い」
「はーいはい」
 あー。うぜぇ。絡みがうぜぇ。
 がさごそがさごそ。橋口はなおも鞄の隅から隅まで舐めるように見る。
 ひととおり探って、手が止まった。
「……伊吹。これはなんだ」
「あ?」
 出てきたのは今朝手にとったプラスドライバー。
 ………何で入ってんだ。今朝の自分の行動を丹念に思い出す、じゃなくてそれ以前の問題―――――………。
 あー、また説教か。
「お前こんなもの持ち歩いてるのか?」
 言い訳する気にもなれない。
  『ちょっとまぁ諸事情がありまして』―――――駄目だ。こんなんじゃどうせ無意味だ。
  『何持ってこようがあたしの勝手だろうが』―――――即行指導室行きだな。
  『あたしドライバー好きなんでー』――――――――物騒な奴みたいだ。
  『ごめんなさいもうしません』――――――――死ね。
 結局一瞬の内にあたしの脳内で導き出された答えは。
「さーせん」
 とりあえず謝っとくこと。
「………もう一回職員室来い」
 案の定、説教が確定した。
「今日はこの辺で終わりだ。没収した物品は保護者会の時に返すから覚悟しとけよ」
 全員の怒りと憎しみ総なめだな。どうせなら映画とかの賞を総なめしてくれれば害はないのに。やるだけやって、号令。後、橋口は帰っていった。
ぞろぞろとストレスを溜めた生徒達が足取り重そうに教室を出て行く。
 はぁー。参ったな。また説教か。
 アキラが自分の荷物をまとめて近付いてきた。
「……………………お前いつもドライバー持ち歩いてんのか?」
 お前もか。
「あたしが無意味無利益無駄無謀なことする訳ねーだろ」
「だよな」
 そっと胸をなでおろすな。お前の中でのあたしのイメージはなんなんだよ。
 机の中に教科書を適当にぶち込んだ後、鞄の口を閉める。
 鞄の持つとこを肩にかけてアキラと一緒に教室を出た。
 アキラが玄関の方へ向かったのに対して、あたしはその反対を向く。
「ちょ……伊吹、お前職員室行くとか言い出すんじゃないよな」
「面倒なら先に帰っとけよ。後の事はあたしは知らねーぞ」
  後ろも見ずに手を振っとく。
 と思ったらすかさずアキラは走り寄ってきて、あたしの目の前に立ち塞がった。
「無意味無利益な事はしないんじゃなかったのかよ」
呆れ顔のアキラ。行くぞと言わんばかりに肩にかけてない方の鞄の持つとこを引っ張る。
「サボって態度点下げられて次の日また呼び出されてーってなるよりは今行っといて橋口に言わせるだけ言わせて疲れさせといた方があたしはしてやったりな感じするけど」
「何が楽しくてあんな奴の話を延々と聞かされなきゃいけねぇんだよ。あんなの聞くなら念仏聞いてた方がマシだ」
「じゃあそもそも聞かなきゃいーじゃん」
「無茶言うな」
 あたしは逆にアキラの手を握って、無理矢理職員室の方へと歩き出す。
「おっ、俺はお前みたいに器用な真似できねぇんだよ!」
 無理矢理その場に留まろうとはするものの、手を振り払う気はないらしい。
 あたしはアキラの言う事には耳を貸さずに受け流す。
「何で俺まで……」
「あたし一人だといちいち面倒なんだよ。ちゃんと聞いてるか確認してきたりとか色々質問してきたりとかあーもうめんどくせぇ」
「だからって俺が犠牲になるのは納得いかねぇ」
「あんな奴の話聞くより念仏聞いてる方がマシなんだろ? だったら頭ん中で念仏でも唱えてろ」
「それ答えになってねぇよ」
「あー早速イライラしてきた。お前後であたしの愚痴を聞け」
「お前そもそも俺の話聞いてないだろ」
 職員室の目の前に到着。扉を二回ノックして、橋口を呼ぶ。
「橋口せんせーはいますかー」
 棒読みもいいとこだ。すごいやる気のなさがオーラみたいに出てるなこれは。
「橋口先生―?」
 他の教師たちが辺りを見回して、橋口がいないことを確認。
「今橋口先生出ちゃってるみたいだから。用件は何? 伝えとこうか?」
 近くの若い先生が代わりに事情を聞いてきた。なんだいないのか。
「何でもないです失礼しました」
 なかなかの反射速度。アキラはぴしゃっとドアを閉めた。
「お前、今いないからって帰ろうとか言うんじゃねーよな?」
「何でわざわざ俺が待ってまで怒られなきゃいけねぇんだよ。てか、俺はもともと橋口に呼ばれてた訳じゃねぇぞ」
 んだよ。こんな美少女が一緒にいてやってるというのにこの不良モドキは。
 今度はアキラがあたしの手を取って玄関の方へ歩き始めた。
 しぶしぶ歩調を合わせる。ぶっちゃけあたしだって帰りたいっつーの。
「これで明日また橋口に呼ばれたらジュースおごりな」
 アキラは振り返らずに口を尖らせる。
「その前に昼飯代返せ」
 こっちを見向きもしない。無愛想はお前の方じゃねーか。
 ずんずんペースを上げて、早歩き。ちょっと待て、速い。もっとゆっくり歩け。
「いいから行くぞ」
 玄関に着くまで、通り過ぎる教室から時々見える生徒達の顔。
 アキラとあたしの組み合わせに驚いてるのか何なのか。つーかこっち見んな。
 明日また変な噂流れるんだろーな。全く。お前らはパパラッチか。
 玄関に着いて、革靴に履き替えて。アキラは先に玄関を出て、外で待機。
 履き終えて、それを追いかけるように小走りでアキラに近寄る。
 目指すは校門。視線の先には男が二人。何やら話をしているような雰囲気だ。
「あれ…、橋口か?」
「は?!」
 残念ながらあたしの方が視力は上だったみたいだな。どうだ参ったか。
 橋口が校門で立ってる他に、もう一人男がいる。
  誰だ? あれ。
  目を細める。

 視線の中心に映ったのはどこぞで見た男。談笑している雰囲気ではない。

「隣にいんのは………って、何だよいきなり――――」
 アキラの腕を掴んで、急激なUターン+ダッシュ。
 校門と反対の方面、玄関を出て左に行った先をさらに左へと曲がる。
 鞄を担いでる半身に重心が寄ってるせいで走りづらい。
 男二人が見えなくなったところで足を止めた。
「どうしたんだよいきなり。お前の方が帰る気満々じゃねーか」
 違う。あいつは違う。確実に何かがヘンだ。
  直感―――。乱れた呼吸を少しずつ整えていく。
 これが普通なら、あたしはもっと堂々と裏門をくぐって帰ってる。
 だけどこれは何かが決定的におかしい。
「アキラ、あいつ知ってるか?」
「あいつ? あー、教師じゃないなら知らねぇ。どうせ誰かの保護者だろ」
どーだか。あんな、見てて寒気のする保護者なんてあたしは少なくとも見たことねーよ。
 肩の鞄を掛けなおし、アキラは再び歩き出した。
「そんなに帰りたいんだったら早くしろよ。とりあえず見つかりたくないんだろ?」
 …見つかりたくないことは確かだ。
 まだ心拍数は高いまま。勿論冷や汗とかの方の心拍音だ。
 くそっ。なんなんだ、あれ。
  ――――――――……………気持ち悪ぃ。
「あたしを置いてくなっ」
 アキラはゆっくりと後ろ歩きで置いていく。
 あたしは小走りでそれを追いかけた。
 不快感がぶすーっとした表情になって出てたかもしれない。
 こみ上げる嫌な汗がそれを助長させたのか、逆なのか。
 とにかく。とにかく今は不愉快だ。何かすごく引っかかるものが確かに存在する。
 ……気にするだけ無駄っちゃ無駄だけど。
 学校の外へ出る以上、いちいちつっかかってくるウザい教師のことや再び 現れた気味の悪い男のことを考えても得はない。
 深い溜息。内側から外へ送り込むように空気を肺から送り出した。
 今日みたいにツイてない日は違う事に気を取られたい気分になる。
家に帰ったら何しよっかな。ケンゴから借りた小説はもう読んだしな。パソコンも今日はいいや。つけるのだりぃ。宿題は適当にやるとして………。
 そういえばアキラに前借りたマンガ返してねーな。
 マンガ返しに行くついでにアキラん家でゲームするか。
 歩調はいつになく早め。
「なぁー。お前今日ヒマ?」
「俺?」
 お前以外誰がいんだよ。
 っていうか早い。一人でさっさと歩いてくな。
「別に…、ヒマだけど」
 おーい。話す時は人の目を見て話せって言われなかったのかお前は。
「じゃあ家帰ったらすぐ行くからよろしく」
「いや急過ぎるだろそれ。俺の事情は無視か」
「だってヒマなんだろ? いーじゃん」
 溜め息混じりにアキラは振り返る。
「あのなぁ。もうちょっと段取りとかそういうのがあるだろ普通。この事に限らず…ってか、大体お前はいっつも適当過ぎるんだよ。世界はお前を中心に回ってる訳じゃ――」
「うっせーばーか死ね」
 アキラは青筋を浮かべて、一時停止。
「…あのなぁ」
「あたしは適当なんじゃなくて適度に手を抜いてんだよ。ヒマは増えても手間は増やしたくないわけ」
「世間一般ではそれを適当って言うんだよ。お前、一つの事をやりきったことあんのか?」
 やりきったこと…?
 頭の中を適当に一周してみる。
「……そんぐらい、ある」
「嘘つくな」
 即行全否定。
「どうせ夏休みの宿題とかやりきったことないタイプだろ」
 どすっ。
「しょうがないか、とか言ってすぐ逃げたり」
 ざすっ。ぐさっ。
 言葉の暴力があたしのみぞおちをクリーンヒット。
「何でもかんでも全力でやってたら効率わりーだろ! いちいち細かいことに気を配るとか…そーゆーのにはあたしは向いてねーんだよ」
 ふんっ、と視線を脇へ移した。
 アキラは嘲笑を浮かべて続ける。
「そんなんだから無愛想系淡白女子なんだよ、ばーか」
 はははと気分良さ気な笑い声。
 なんだこいつ。今日に限って調子乗りやがって。馬鹿はお前だっつーの。ばーかばーか。
 せっかく思いっきり愚痴ってスッキリしようと思ったのに何でコイツがいい気分になってんだよ。
  イライラ。
「………」
 半眼でつめたーくアキラを睨んで、あたしはさっさと歩き出した。
「まぁ拗ねんなって」
 マンガ借りパクしてやる。
「悪かったよ」
 無視。
「今日ぐらいいいだろ」
 無ー視。
「明日なんかおごってやるから」
 大抵は何でもお前のおごりだけどな。だから無視。
「それにしても今日も暑いなー…。アイスおごってやろうか?」
 ……無視。
 少し揺らいだのは秘密だ。
「お、歩調狂ったな」
  急に立ち止まって、振り返り際に一発。
「のがっ!」
 全て計算されていたかのようにアキラの顔面へと流れ込んだ、華麗なる一撃。
 それは裏拳。あたしの仇を見事に討ち取った。
「うるさい」
 アキラは45度顔を上に傾けて停止。
 つーんとしているであろう、鼻を押さえる。
「……わりぃ」
 うむ。それでよし。

 テナント募集中の看板を境に、道は二手に分かれている。
 右があたし。左がアキラ。
 別れの挨拶を適当に済ませ、各々がそれぞれの道へと歩き出していった。
 あそこはマンガとかだとよく待ち合わせ場所とかにされそうな場所だけど、生憎アキラと待ち合わせをしたことはない。っていうか登校する時間がそもそも合わないんだよな。
 何故かアキラはそこで毎朝ケンゴと待ち合わせをしているらしいけど。
 そこを進んで、曲がり角を二つ越えて曲がった先に今朝のゆるい坂がある。
 今度こそはネコがいるといいんだけどな。
  鞄の中身をがさごそ。
「…あ」
 不覚。そういえば煮干はあたしが食べたんだった。
  ゆるい坂道へと曲がる。
 もともと持ってきてた量も少なかったし、まぁいいか。
 塀を見渡しながら坂を下る。今日一日はネコが一匹もいませんでしたっと、日記にでも書いとこうか。いやそもそも日記なんてやってねーわ。

 坂を登って、登って、登って―――――……。
 上りきった先に、それはいた。

「………」

 いや、正確には『また』いた。

「初めまして。こんにちは」
 目の前に現れたのはネコじゃなく、中年の男。
 別名、〝昼休みに見たあの男〟。
 どことなく面影のある顔―――。記憶が脳を揺さぶる。
 優しそうに微笑みながら佇んでいるその右手には―――――――――銃。
 鈍く、冷たい輝きが男の小太りな図体の端っこから顔を覗かせていた。
「目は、覚めたかい?」
 真っ直ぐな一本道。普段いつもいるはずのおばちゃんの姿も見えない。
 近くの公園にも、人っ子一人といない。
  あぁ、思い出した。コイツ、あたしが今朝夢の中で殺したあの男だ。
「誰だよ、お前」
 とりあえずとぼけてみる。
「話し合いをしに来た訳じゃないんだ。分かるね?」
 とても穏やかな表情。それが首を傾げるように小さく傾ける。
 柔らかな顔つきとは対照的な鉄の塊が、いよいよあたしに真っ直ぐと顔を向けた。
 どうやら何かヤバイらしい。

自問自答。
 あたしがなんかやったか? ―――やってない。
 じゃあこれは? ―――さぁ。

 簡潔に結論付ける。答えは出そうにない。
 男が口を開く。
「この世界は規律によって護られている。しかし君はやってはいけない事をしてしまった。つまり君は、いてはいけない存在なんだ」
「ふーん」
 いや納得いかねぇし。
 大体何なんだ? 何であたしがこんなおっちゃんに道のど真ん中で銃を突きつけられながら説教されなきゃなんねーんだ? よく分からん。っていうか本当にお前誰だ。
「なぁ。おっちゃん誰? 昼休みにも帰る時にも見たけど、ストーカーなの?」
「私かい? 私は規律を護っていた者だよ。今はこの世界を護る者の一人だ」
 うわぁ。何かマジっぽい。リアルにイッちゃった人っぽい。
「何かの宗教勧誘? あたしそういうの興味ないんだけど」
 おっちゃんは表情を一切崩さない。
「まだ目覚めてないのかい? いや、君は一度覚醒したはずだ」
「はぁ」
「君もこの世界を護る者の一人だ。この、素晴らしくて、広くて狭い現実を永遠に護り続ける者の一人…。その、最後の選ばれし者。それが、君なんだよ」
「………はぁ」
 銃を突きつけて『君は選ばれし者』? 脅して強制入会って手口か?
 っていうか、何であたしなんだ。そういうの好きな人はもっと他にいるだろ。
 どいてくんないかな…。あたしの家、ここをちょっと進んで曲がればあるんだけど。
 あの銃が本物だったとして、あの目は本気で撃つ目だ。本気と書いてマジと読む。
 だって普通、銃を握りながらにこやかにはしてられないだろ。大概は挙動不審にならなきゃおかしい。そいつが普通なら。
 ならないって事は逮捕願望のある愉快犯か、精神的にイッちゃった人かのどちらか。
 いやいや、めんどくせぇのに絡まれたな。相手が精神的駄目人間なら何言っても無駄か。
「あーそーだったそーだった。あたしすっかり忘れてたわー。で、次どうすりゃいいんだっけ? おっちゃん」
 親しげに肩を竦める。棒読みだけどな。

 おっちゃんは「ははは」と笑い返した。

「死ね」

 ずがーん。

 ―――――――――――――――――――――え。

 耳鳴りのように頭の中で繰り返される、発砲音という名の絶叫。

 放たれた。
 銃口から火が噴いた。
 真っ直ぐとした軌道が一瞬だけ目の前を通り過ぎて。

 傷口を押さえる――――暖かい。
 意識が遠のく―――――冷や汗と痙攣。

 それはあまりに一瞬の出来事だった。

「やり直すんだ。まずはそこからだよ」
 二発目――三発目――四発目――五発目。それから何発か連続で銃弾は心臓付近に食い込んだが、その全部を受け止めることなく、あたしはその場に崩れ去った。

「はっ……、ぁ……………っ……?」

 撃たれた? あんまりに急だったから、理解するのに時間がかかった。
 呼吸がままならない。苦しいというよりかは、どうしたらいいのか分からない。

「く、は……」

 あれ、あたし、死ぬのか? リアルに? 嘘付けよ。なんだこれ。
 手足が重い。錘(おもり)をつけたかのように重くて仕方がない。

 ……………仕方が、ない?

「………お…………い……………」

  力の入らない指先を、全力で握りしめた。

 ――――――――――――――――――――――ふざけんな。

 倒れた身体に力をこめる。鋭い痛みに震える足腰を、無理矢理持ち上げる。
「致命傷にならなかったのか…? 銃弾は全て急所近くにいったはずだが…」
 おっちゃんの嫌に優しそうな声が不確かな音声として耳を通過していく。
 フラフラの足で立った気分は最悪。――――あぁ、とても最悪だ。
 一歩歩く度に出ていく血液が地面を不恰好に濡らしていく。訳のわからない芸術作品を見るよりもそれは不快で、こみ上げてくる何かをそれが後押しする。
 おっちゃんは銃に弾をこめ直して再び構える。
  霞む視界。あたしの足が止まった。
「…あたしがお前を殺したのは夢ん中だ。なのにお前があたしを、この現実世界で殺し返すっていうんならこっちにも言い分がある………」
 確かに地面へと滴っていく血液。
 男は無言。
 何でだろうな。こんなに血が流れてるのに、口がよく回る。

「……よーするにだ。あたしは、おっちゃんを、ここで殺す」

 赤い、濡れた左手を伸ばした―――――――――――――――――――。

 勢いよく広がる空間――――景色はとうの昔に吹き飛び、世界は反転する。

 無限大の孤独が体を包んで、何もかもを感じ取れなくなった頃。衝撃が鼓膜を震わせた。

 まるで逆再生。風景が超速で眼前を通過し、あたしは初めて“ここにいる”を自覚した。

  気付くと、伸ばした左手が男の襟元を掴んでいた。
「なに!?」
 右手にはいつの間にかプラスドライバーが握られている。その感触は手の平にしっくりと馴染み、どこか懐かしいような、待ちわびていたかのような感覚を醸し出す。
  あぁ。そーゆー事か。夢で見ていたアレは練習で。今目の前に見てるコレが本番って事か。
 血をこぼしていた穴はいつしか塞がっていて、銃弾の食い込んだ感じや痛みでさえも完全に消え去っている。
「なぁ。これってさ、おっちゃんがやったの?」
 おっちゃんの返答――――至近距離からの鉛弾四発。肋骨と骨盤が揺れる感触。
 それさえも瞬時に消えて、傷も痛みもなくなっていく。
「馬鹿な?! 有り得るはずがない!」
 へぇ。焦ってるってことはあたしがやったって事か。
 ホントのあたし、デビュー(笑)
 目の前で起こってるって事は有り得てるってことなんだよ。
「タダで死ぬなよ。ツケの分、しっかり受け取ってから死ね」
  襟元を掴む左手に力がこもる。
 ふくよかな顔付きに浮かぶ冷や汗。
 ドライバーを逆手に持ち替え、プラスになっている先っちょを首筋の頚動脈辺りへと一気に突き刺した。
 硬いような柔らかいようなモノを貫く複雑な感触が、後から後から手を汚す。
「かっ……………っ!」
 噴き出す赤色―――――――――――――――――――――――――
 白目を剥き、血の泡を吐いてガクガクと震えるおっちゃん――――――――――
 持ち替えて引き抜くと、ビクンッと反応した―――――――――
 倒れこむ寸前に心臓を思い切りもう一突き―――――
 新たに赤いのが出て、男は地面へと倒れた――。
「はっ、は……………っ!」
「ざまーみろ。ばーか」
 あたしはそれが動かなくなるまで、その姿をじっと見つめていた。
 やがて溢れ出る血が勢いを失って、強張っていた力が男の全身から抜けたのを確認した。
  あたしはドライバーを、冷たくなった肉の塊から引き抜いた。


 …………………………………………………………………なんだこれ。


「あたしが……………殺した……………………」
 全身に真っ赤な返り血。右腕にも、袖にも、髪にも、制服にも…。顔についたそれを拭って、拭って……拭って――――――――…………。

  逆手に持った、ドライバーを握る手から力が抜けた。

 有り得ない。現実的に、常識的に考えて……………ありえない。
「――――!?」
 ふと走る足音が聞こえる。
 右手にもう一度力をこめて構え直し、辺りを鋭く睨んで――――……静かにその手を下ろした。
 足音は走り去っていく。
 遠ざかっていく足音という事は、この光景を見て逃げた一般人の可能性が高い。ここは道のど真ん中。今、ここにあたし以外〝誰もいない〟のが不気味なくらい不思議だ。
  膝が力を失って、あたしはその場に力なく座り込んだ。
 こんなのは、違う。こんなのは消えればいい。無かった事になればいい。

  あたしは固く目を瞑った。

「あら、サネちゃん大丈夫?」
「!」
 近所のおばさんの声。朝に会ういつもの人だ。
 目を開けて、急いで声のした方向を見る。
「こんな所に座り込んでどぉしたのよぉ。目が潤んでるけどコンタクトでも落としたの?」
 おばさんは何事もなかったかのように話しかけてきた。
 あたしの目の前にいた死体も、飛び散った血痕も。あたしが浴びた返り血さえもが全て綺麗になくなっていた。
「あ………、」
 あたしはただ、空になった心境で、右手にプラスドライバーを握っていた。
               ―――――――+



 朝早くに登校してみると、クラスの男子がダーツをやっていた。
 この時期にそんなもので遊んでるのを察するに、ここの男子たちの文化祭の出し物にはダーツが使われるらしいという事が容易に理解できる。
 ダーツか。学生に相応しい、チープな出し物。しかしそれは文化祭という熱を帯びて、普段以上の魅力を発するのだ。
  あたしもやりてー。
  視線を窓の外へ戻し、あくびをひとつ。
 結局昨日は眠れなかった。理解できそうになかったから諦めたけど、どうなのか。
 あの謎の光景と夢は。
 『昨日は結局眠れなかった』って事は夢じゃなかった事になる。
 第一何で夢で見た男があたしを殺しにやって来て、消える? 意味わかんねーよ。
 幻覚でもあれはねーだろ。
 しかも何であの時あたしはプラスドライバーを持ってたんだ? 鞄から取り出した事なんて覚えてないし、っていうかあの時あたしは血塗れだったし。
そもそも血塗れだったのは現実か? 現実だよな? それさえも確信できてない。
 あの後あたしはちゃんとまっすぐ家に帰ったよな? うん。…うん?
 やっぱわからん。
「伊吹?」
「んあ」
 アキラ登場。目をやると少し驚いたような顔があたしを出迎えていた。
「んだよ。あたしがお前より早く着いちゃ悪いのかよ」
「いや、別に…。ってかお前昨日俺ん家来なかったよな。…何かあったのか?」
 まぁ、色々あった。確かに。
 あたしが腕を組んで何て言えばいいか悩んでる隙に、アキラは自分の鞄を置きに行く。
「あー…だるかった。どうせ外寒いしさ。一回家ん中入ったせいで出る気になれなったんだよ」
 即行で考えた言い訳。でもだるかったのは事実。
「…そうか」
 納得のいってなさそうな返事だ。
「まぁいーじゃん。それが人生ってやつだろ」
 アキラは窓際によっかかって、苦笑した。
「例え意味分かんねぇよ」
 うし。会話を激烈にうやむやにさせること成功。流石はあたしだ。
 ホームルームが始まるまではまだかなりの時間がある。たまにはアキラとの日常会話を深く楽しむのもいいヒマ潰しになるのかもしれない。
 そういえばコイツがいつもどうやって朝のヒマな時間を潰してるのかは知らない。とは言っても、勉強するかケンゴと話してるかの二択か。どうせ後者なんだろうけど。
 アキラとケンゴって普段どんな話してんだろ。あたしがあいつら二人のセットを見るなんて昼休みん時ぐらいだしなぁ。
 あたしがコイツに振る話題といったら―――……………。
「…なぁー。もし自分がさ。不死身になったら、どうする?」
 ………無いな。話題なんて特にない。この話題もないわ。
「はぁっ?!」
 そのアキラの声に、教室にいた数人の視線が集中する。
 気まずい空気を感じたのか、アキラはしゃがみこんだ。
「……らしくないこと言ってんじゃねーよ。頭でも打ったのか?」
「昨日めっちゃ打った」
 真顔で返答。
「なんだよそれ…」
 再び苦笑い。流石に返す言葉が思いつかなかったのか、視線は自然と下に落ちた。
 コイツ、逃げやがった。
「アキラこそらしくない返事じゃねーか。で、どーなんだよお前は」
「俺は……考えた事ないから分からないけどさ。マンガとかだと大抵はバッドエンドになるよな」
  むっ。
「マンガとか創作物はどーでもいいんだよ。あたしはお前の意見を聞いてんだ」
「んなこと言われたってな…」
「…」
 思わずぶすっとした表情が出る。
 何かなぁ。今日のコイツは反応が鈍い。いちいち考えるなっての。
 出した話題も話題だけど。

 もし、不死身になったら―――――――――。

 昨日の出来事、光景が全て本当だとしたら。あたしは間違いなく不死身だということになる。傷口を一瞬で修復し、痛みすらも完全に抹消。脳が痛みをシャットダウンさせたのか神経が単純に図太いのか………。
 しかもそれだけじゃない。超能力っぽいのを使う事が出来ることにもなる。
 あたしが自分の血に塗れた左手を伸ばした直後のあの景色。
 空間が嘘のように伸縮して、男の姿、建物、陽の光、背景等その全てが歪みに合わせて変形していっていた、あの奇跡。
 あたしはあれをどう解釈すればいい?
 あたしは〝日常(いつも)〟を〝常識(あたりまえ)〟とあしらってきたのに。
 昨日のあの、たった数分の出来事があたしの積み上げてきた大事な何かを崩した。
 あたしはベッドの中で、それを理解する事が精一杯だった。
 何かを言っていたあの中年の男。おっちゃん。
 好きに言わせておけばよかった。何でもいいから、もっと喋らせておけばよかった。
 あたしが今、あの男について鮮明に覚えている事は……この手で殺したということだけ。

 あたしが、この手で。

 今でも鮮明に覚えている、夢と現実での両手の感触。そして消えた死体。返り血。あたしを追い込んだ、あの数分間の出来事全て。きれいに、跡形もなく無くなった―――――。

   ―――――『この世界を護る者の一人』―――――

 言ってたな。そんな事。
 待てよ。〝一人〟? まだいるのか? おっちゃんみたいな奴が?
  眉間を押さえて悩む。
 まだあんなのがいんのか……。
 いきなりにも程がある。急だ。もっと段取りってやつがあるだろ。
 こんにちはから始まったって急なもんは急だ。丁重にお断り願いたい。
それも話が通じる相手ならまだしもこっちの事情なんてまるで分かっちゃいない。
 全く、はた迷惑な話だ。
「――――――――――――あっ」
「ん、どうした?」
 何かが頭をよぎった。
 そっか。確かにそうだな。
「確かに段取りって必要だな」
 ぽんっと左手の平に右拳を軽く打ちつけるジェスチャー。対するアキラは呆れた表情。
「………遅ぇよ。俺が昨日言ったことじゃねぇか」
「おー。ちょっと適当過ぎた」
 まぁよくある話だと笑って誤魔化した。
 なるほど。相手はこっちの事情を無視してくる。それなら次、いつあたしの元へ来たっておかしくはない訳で、つまりそれは用心を怠る事ができないという事。
 それはすなわち存分に“自己防衛”しても構わないということになるな。
 あたしが空間を捻じ曲げても?
 あたしが死の淵から蘇っても?
 目の前にいて欲しくない存在を、あたしが綺麗さっぱり消し去っても?

 へぇ。それは中々おもしろい話だ。

 段取りがあってこんな事が実現してもつまらない。
『今日は念力で石を十センチ動かしてみましょう』
 とってもつまらない。
 急激な変化は唐突に目の前を訪れる。それだからこそ人は戸惑って、それを認めない。
 でもあたしは違う。常識なんて信じない。
 そう。今日、今、この瞬間。あたしの中の常識は死んだ。『当たり前』が我が物顔であたしの頭の中を闊歩することはなくなったんだ。
 全てが『起こってもおかしくはない』。何だか量子の世界みたいだ。
でも確率の話じゃない。あたしが起こすんだ。何の前触れも無い奇跡を。
 今日もおそらく来るだろう。あの男の仲間が。
 段取りなんて必要ない。
「アキラ」
「ん?」
 笑み。表情に出てはいなかったが、何かがこみ上げてきた時のような謎の高揚感があたしを襲っていた。
「わり。今日は早めに帰るわ」
「あ…おう、わかった」
 楽しみだ。それがあたしの今の素直な気持ちなのかもしれない。
  バレないように、寂しそうな表情を演技する。
 心なしかアキラの表情に不安が見えたのはきっと、気のせいだろう。



 夕刻。
 翳りだした陽が人々を夜へと誘(いざな)う。
 あたしが今持ってるものは普通のプラスドライバーと精密ドライバーの二種類。技術室から勝手にパクってきたものだ。どうせならもっとマシな武器っぽいものを持ちたかったな。スタンガンとか。
 あたしは別に殺人趣味なんて持ち合わせてない。だからせめて自己防衛グッズで十分だ。
 …ドライバーはただの工具だけど。
 ――――――――昨日、あたしは本当にあの男を殺したんだろうか。
 一度目を瞑ってもう一度開けた時、全てがリセットされていた。
 それはあたしが消したから? そんなはずない。それは違う。はず。
 でも確かにあたしは、あの男が倒れてから動かなくなるまでをじっと見つめていた。
 ―――まさか。あいつの仕業だ。きっと。
 君と僕は仲間だー的な事言ってた訳だし。あの男が何か能力を使えたって不思議じゃない。
 実は死んだように見せかけて生きてましたー、とか。漫画でもよくある話だ。
 現在、午後五時四十分。流石に暗くなり始めてきた。
 今日も坂にはネコがいないし、おばちゃんもいない。昨日と同じように、一人としてその場から人間たちがいなくなったかのような静けさが満ちている。
 誰の家の塀かも分からない所へ、よじ登って腰をかける。
  何でだか、今日も来る気がする。
 また、張り詰めたような緊迫と非現実的な世界がこの空間を支配するかもしれないんじゃないかって。何の根拠もなく、あたしらしくもなく。深く信じている。
  そうだと期待していた。
 疾走感のあるヴァイオリンの音色がどこからともなく聞こえてくるようだ。
 右手に昨日のプラスドライバー。もう一本のプラスドライバーを右足のニーソに挟んで、左足の側にも精密ドライバーを三つ挟む。
 妙に落ち着いた気持ちの、どこかにある不安。恐怖。そして、自信と高鳴り。
  ――来るのか? ――来ない。――来いよ。――来るな。
  あたしが楽しみにしているのは何だ? 何だった?
 はっきりとした答えは出ない。出てない。出せてない。
 間違いない。きっと、あんまり知りたくない答えだ。
 ――――――右目にドライバーを突き刺した時も、肉の身体に初めてそれを突き刺した時も、最後に筋肉の塊である場所に思いっきり刺した時も、気分はいいものじゃなかった。
 むしろ気持ち悪かったぐらいだ。
  大丈夫。
  ………大丈夫。
 慣れていたはずの孤独があたしの目の前を覆っているように知覚する。
まるで―――――

『―――殺す瞬間だけを分からなくさせているみたいに―――』

 一本道の曲がり角から一人の男が現れる。
 あたしは言って聞かせていたかのように口だけを動かしていたらしい。
 長身の男。痩せ細った体型と、黒いロングコート。寝不足なのか、目の下にはクマ。
 赤く細長い布に包まれた何かを手にして、あたしのすぐ近くまで歩み寄ってきた。
  塀から降りて、距離を保つ。
「お前、昨日の奴の仲間か?」
 男は無言。昨日のおっちゃんとは印象が桁外れに違う。
 表情ひとつも変えずに、男は赤い布を取り去った。
「私は守護者。この世界を護る者の一人」
 風に乗って飛んでいく赤い布。
 日本刀って、マンガとかアニメでよく見るよな。それが今目の前に姿を現した訳だけどさ。
「またそーゆーのかよ。で、よりにもよってまた殺しに来たわけ?」
「それは君の返答次第だ。君が管理者なのかどうかを確かめに来た」
こいつらの話には設定があるらしい。守護者だか管理者だか。
「いや、正確にはそれが相応しいかどうかを確かめに来た、と言った方が正しいか」
 あからさまに武器を取り出して何を会話する気なんだコイツは。
 どうせ話が続かなくなったらその日本刀で強引に意見を押し通すんだろうと見た。
 ま、殺されそうになったらあたしが殺すけどね。
  ふふんと余裕の笑み。
「楽しみだ」
 対する男はじっとあたしの様子を伺ったまま、何の前触れもなく切り出した。
「この世界に疑問を持ったことは?」
「………あ?」
 男はポケットから硬貨を一枚取り出す。
「例えばこうしよう。コインには裏と表がある。コイントスして、どちらか一方が上になる。確率は二分の一。つまり考えられるのはたったの二通りという事だ。だがそれでいいのか? コインには裏と表しかないのか? コインに〝隙間〟はないのか? 『全』か『無』? 果たしてそれだけで一括りにできるのか? もしかして奇跡が起きて、裏と表以外を目にすることができるんじゃないか? つまりそんな風に疑問を持ったことは、ないか?」
 いきなりなんだこいつは。意外に喋りまくる奴だったとは。
 心の準備はできている。それならあたしなりに返してやろう。
「あたしは賭け事なんてしないし、コインはコインだ。あたしにとって今お前が握ってるそれは物の価値を示すものさしでしかない。要するに、あたしの結論はこうだ」
 左手を突き出し、手のひらを空へと向けた。
「その百円よこせよ」
 ……………男は唖然(?)。
 会話に〝間〟ができた。
「…話を聞いてたのか?」
「聞いてた聞いてた。でも『百円あったらさっさと来い』ってあたしの中の赤と黄色の服着たピエロが言ってきてさ。急に行ってやりたくなったんだよ」
 またも沈黙。
「話が通じていないならもう一度言おう。君が―――――」
「あたしはこの世界を絶対だとは信じてない。だからもしかしたらコインには裏と表以外の何かがあるかもしれない。でもそんなことはあたしにとって大して重要なことじゃない。そもそも絶対だなんて信じてないんだから、何が起ころうと不自然じゃない」
「なら君は? 絶対なのか?」
「あたしはあたしだろ。絶対以外のナニモノでもない」
「確証は? 根拠は? どうしてそう言える?」
「あたしが今こうやって居る事をあたしが今認識してる事が証拠」
「いるだけじゃ存在の証明にはならない。もし君が作られた存在で、性格や記憶の全てを設定されたモノだったら?」
 ふぅ。ちょっと一息。
「人間を特別扱いするの、好きなんだな。人間だって考え方によってはそのモノの中に入るじゃねーか。人間の人生なんて結局敷かれたレールを辿ってるのと同じ。性格を設定されようが記憶を設定されようが生きているって自覚している以上、それ以外の答えを求めても意味はねーだろ。あれこれ考えて不安がって生きるより、『そんなもん』として割り切って生涯を過ごした方がはるかに楽しめるに決まってる」
 退屈な会話だ。あたしはこんな言葉遊びをしたい訳じゃない。
「せいぜい楽しく生きろよ。お前も」
 馬鹿みたいに深く考えこんで、その末に見えた錯覚を一生追いかけてんだろうな。コイツ。
 たとえあたしが常識を信じてたとしても、答えは変わらない。
 我思う故に我あり、って奴だ。それは機械にしろプログラムにしろ、精神や意識があれば共通して言えることだ。
 人間は日々日常生活を営んでる事を不思議だとは疑わない。それと全く同じだ。
「……………」
 ―――精錬された金属が尾を引いて響く音。静かな場に澄んだ鉄の音が響き渡る。
 それは目の前の男が黙って日本刀を引き抜いていった音。
「なんだよ。口出しできないからって手ぇ出すのか?」
  ほーら。やっぱりだ。ご名答。
 男は答えない。瞬きひとつせずにあたしを見たまま、じっと立っている。
「……………君はおかしい。おかしいのは君だ。おかしいのはこの世界じゃない。君は危険だ。非常に。危険過ぎる。危険なモノは削除しなければならない。それが私の役目」
 見開いた両目の焦点があたしをおぼろげに捉えた。
「よって、私は君を削除する」
 うわぁ出た。またこういう謎のパターン。マジかよコイツら。
 あたしは余裕を崩しはしない。
「端から端までおかしいだろーが。おかしくて危険で削除されなきゃならないのはお前らの方だっつーの」
 どうせ何言っても無駄――――右手の、握る手に力を込めて。
 男は刀を正面に構えたまま。
 ドライアイになりそうなくらい目を見開いたまま、立っている。
「大丈夫だ。私は正しい」
 おっけー。『言って分からぬ奴は黙らせろ』。
 =戦争開始だ。
「なら、あたしがお前をぶち殺せばいいんだよな?」
 右手にドライバー、逆手持ち。左のニーソから精密ドライバー×3を手に取る。
 男が突然笑い出す。気が狂ったかって程笑いながら、刀を斜めに振り下ろしてきた―――――――寸前で、男の動きはスローになっていた。
「・・・・あ?」
 コマ送りのように動きが残像を引く。丸くなった目を細めて、状況を把握。
 男の動きに合わせて自分の動きも一緒に遅くなっている――――――?

 風の音は消え、やけに太く長い雑音声だけが耳につく。
 体が軽い。しかしなかなか動けず、脳の命令が届くには時間がかかっているように見えた。

 いや、刀の軌道さえ読めれば男の攻撃をかわすのは簡単だ―――――――――

 斬り払いをかわした直後、着地したかのように速度は普通に戻った。

「…君は普通じゃない。やはり君は危険だ」
 まぁ普通じゃないな。それに関しては同意見だわ。
 昨日の、空間を縮めた時と違う感覚。あれだけ早いはずの切り払いがいきなりスローモーションに見えたのはどーゆー奇跡なのか、自分でもよく分からない。
  別にどうでもいいけど。
 続く斬撃。
 当たりそうになる度にその動きはスローになって―――刀が当たる気配は全くなかった。
 試しに男が斬り下ろし終えたのを確認して精密ドライバー×3を一気に投げつける―――

 カッコつけた投げ方。投げ始める寸前、時間が一瞬止まった。後、投げ終える寸前にもう一度時間が止まる。

  その様子を、あたしは確実に認識する。

 ―――――右肩、右肘、右手首に命中。

 こんなに思い通り刺さるとは。こんな事ならもっと持ってくればよかったかもしれない。
 だらだらと血を流し、男は痛みで刀を落とした。
 ただ、尚も男の笑い声は続く。
  なんだこいつは。
 距離をとりながら溜め息と嘲りを少々。
「死ぬ前に死ぬ程笑っとけ」
 右のニーソから左手に、新たなプラスドライバー。
 次スローになったタイミングで動けなくさして、それから色々聞き出してやる。
「君は私と同じ人間だ! 私と同じ! 何も違わない! 君がただおかしいだけだ!」
 甲高い笑い声だ。何言ってんのかよく分かんねー。
 男は麻痺した右手を無視して、左手で取り落とした刀を拾う。
「異常者は殺すに限る!」
  やってみろっつーの。
「はぁっははははははははははは!」

 縦に――横に――斜めに刀が振り回される。雑な軌道。呆れるほどの難易度だ。

  はいはい無駄無駄。

 全然当たらない。全然余裕。こんな速度じゃ楽しくも何ともない。
思考だけが高速に働く―――。コイツ実は超ザコいのかもしれない。

 鈍く光を放つ刃が下から接近。

 右手のドライバーで斬り上げを受けた―――。

 刀を弾き、一撃をぶち込むべく男の左肩へと切っ先の狙いを定め―――――

 高速化していた思考が停止する。
  このドライバー、こんなに短かったか―――?

  視線を左寄りに移動。視界の端をゆったりと回転しながら宙に浮いている金属の棒を発見――――――切断されたドライバーの金属部分。感触はなかった。

 ―――伝わってきていなかった。

 時間の流れは足早に通常速度へと戻る。
「っ……あ…………!」
  目を見開く。
 腰から胸にかけて斜めの線が走っていくのは理解できた。
  口はだらしなく開いていて。
 一拍置いて、景気の良い鮮血の噴射が眼下に現れた。
 刀の通った感覚もなければ痛みもなく。脱力して、その場に倒れこむ。
 両手にあったドライバーは、乾いた音を立ててアスファルトを転がった。
「っくぅ…………」
 日本刀の切れ味舐めてたわ。
 どんぶらこーどんぶらこーとでも言いたげなリズム―――――――心臓が切羽詰ったように激震する鼓動。
「ははハァぁっ!」
 耳の中に水でも入ったかのような聞こえ具合。
 目をがっちり開いたままの男は倒れこんだあたしを力任せに蹴り付けた。
  痛みが全身に拡散する。
 うつ伏せだった状態が仰向けに変わり、男と目が合った。
  ―――気持ちの悪い笑みだ。
「この世界に疑問を持ったことは?」
 身体はまだ言う事を聞かない。何なんだよ。傷とかすぐに治るんじゃねーのかよ。
 男は引きつった笑顔のまま、刀を逆手に持ち直す。
「君が正常じゃないならこの世界は任せて置けない。一度死んで、やり直すんだ」
「ぁ……………に………………?」

 口は動くが声は出なかった。

 男は刀であたしを一突きする。もう一回、もう一回。駄目押しにもう一回。
 散々あたしを刺しまくってから、心臓に刀が突き立てられた。
「がっあ、は………ぁ…………は…………!」
「異常! 異常者! 精神異常者! 早く死ね! 早く死ぬんだ!」
 横腹に衝撃を感じる。また蹴られてんのか、あたしは。
 振動を感じた鼓膜が震える。視界が霞んで、考えがまとまらない。
 頭に酸素が届いていない。―――そうか。血が足りないらしい。
 薄れていく意識。それは雪が溶けていくように儚い。
 確かにそこに居たはずの〝あたし〟がいなくなっていくような、そんな、そんなん。


―――――――――――――――――――――――――――――――――。
  そこは灰色の部屋。閉鎖された空間。その時はまだ、あった。
  そうだ。世界を創ろう。その閃きは運命だと信じた。
  消えていく温もり。人の気配はとうに消え、自分だけが残された。
  大丈夫。「また会えるから」。
  そう呟いて、あたしは眠りについたんだ。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――。


 何かが閃いていた。


「―――――――――――――――――――――――殺してやるよ」


 脳内。響く囁き。命令は実行される。
 肉体は消え、突き立てられていた日本刀だけがその場に取り残されて、その少しズレた位置に無傷の“あたし”が赤い閃光とともに出現。
 笑い声がぴたりと止み、引き攣り、凍りついた笑顔が“あたし”を凝視した。

「よぉ。精神異常者」

  両の手を開く。

 僅かに赤い光の筋を伴って現れた得物を右手に左手に携えた。
 どちらも逆手持ち。目を瞑り、静かに空を仰いだ。
 いつぞやの時みたいに空間が歪み、知覚し、その世界で“唯一絶対”を自覚。

  まずはその間の抜けた表情を恐怖で塗りつぶしてやろうか。

 一瞬で男の背後に移動。振り返り際、二本のドライバーを容赦なく右肩へと突き刺す。
 大きな呻き声。苦しそうな男のその声を聞く耳などはない。

 新たなドライバーが手の内に出現。しっかりと握り、右手のそれをくるりと持ち替えた。
 苦痛に歪み、嫌な汗を滴らせた表情が一歩遅れて少女を捉える。――――無視。

 左手の得物を男の脇腹に。足で腹を蹴り倒し、右手の照準を男の左目に絞り込んだ。
「っやめろぉぉおぉ!」

 右手のドライバーが加速度を持つ。

 再びスローになっていく世界―――――。あたしは自然に呟いた。


「あははっ。もっと笑えよ!」


 ドライバーの先が左目の水晶体を突貫―――網膜に到達。頭蓋骨の眼底に沿って抉るように掻き回す。
 笑えるほど気持ちの悪い感触。黒い血が、遅れた時の中で右腕を少しずつ濡らしていく。

 世界は通常の速度に、収束する。

 とても文字では置き換えられないような意味不明の叫び声が、鼓膜と血塗れの衝動を力の限り揺さぶった。
「はははっ。あははははははっ!!」
 なーんだあれ。左目になんか刺さった奴がみっともなく呻いてやがる。
のたうち回って、ガクガクと手足を震わせて、無意味にもがいて。飽きないのかってぐらい叫び声が続いている。
  一方のあたしは、笑みが無意識にこぼれていて。
 男はゆっくりと少しずつ、“地面に突き立てられたまま”の刀を目指して這って行く。
 両手には新たなドライバー。閃光が残像を作った。
「ふ、ぅっ……………はっ…………………」
 男が日本刀を掴む。
 おぼつかない足取りで立ち上がり、左手でそれを構え直す。
  あたしは顔に付いた男の血を、優雅に笑いながら拭う。
「お前はさ。この世界に疑問を持ったことねーの?」
 ぐらぐらと揺れる刀。左上半身を自分の血で濡らした男。
 荒い息遣い。またも不気味に引きつった笑顔が形作られた。
「答えろよ」
 心の隅に浮かんだわずかな怒気。答えは返ってきそうにないという事への苛立ち。
「ふはっ……………ははひ………ひひはははぁっ!」
 笑い声が空を切り、瞬発的に飛び掛ってくる男が、振りかざした刀の先に標的を真っ直ぐと捉えた。

  光景は、意識したその瞬間からスロー。

 左手に、順手で握られたドライバーの先端が刀の腹に接触――――――――粉砕。
 バラバラに、粉々に砕けていく日本刀。そうとも知らぬ男は遅延した時の中で必死にそれを振り下ろしていく―――――――

「ばーか」

 今度は右手のドライバーが男の右目を鋭く突いた。

「あああっ! あああぁぁっあぁあぁぁぁ!」
 新しい血が男の上半身へと供給される。
 無残にも男の両目は犠牲となった。
「ふぅぅっ………ふ、う……はぁっ……………」
 よく生きているなと感心する。小太りの男とはえらい違いだが、あらゆる点で大差ない。
「じゃ、最後にお前が知ってることを全部吐いて貰おうか」
 男は深く長く、悟りを開いたかのような息を吐いた。
「……………最高傑作は独り歩きをしない」
「は?」
 男は両手を地面に着き、取り落とした刀を手探りする。
「ダ・ヴィンチの壁画も、その日一番の出来栄えをした手料理も、世界中のどこにでもあるような草木や花々も独り歩きはしない! どの世界でも、独り歩きをする最高傑作はこの世界と人間だけだ!」

 男は見えないはずの目で目の前の少女と視線を合わせ、不気味に口の端を吊り上げた。

「君はこの世界と人間、どっちを取る気だ?」

 そう言うと、男は折れて短くなった刀で自分の首筋を素早くなぞった。
 笑顔に狂気と鮮血とが混じる。
 男は最後に一際大きく笑って、動かなくなった。

「………なに言ってんだこいつ」

               ―――――――+



「あと五分」
 誰も眠気には勝てない。
 寝覚め直後の冴えない頭が持ち上がる。開いた窓から涼しい風が首筋を通過。黒髪のショートがそよそよと揺れた。
 昼食が終わった後の、午後の時間割はどうしても眠い。眠くて仕方がない。
 目の前で組んだ両腕に頭を乗せて、身を縮める。――再び寝る体勢。
 小テストなんかに興味はない。頭の中で呆れるポーズを描いてみた。
 名前を書く欄には何も書かれていない。書く気力など持ち合わせていないからだ。
 そのくせ答案は挑戦的なまでに完璧に回答されていて、余分なコメントを書くぐらいの心の余裕がそこにはあった。

『バカらしいテストですね』

 子供じみた抗い方だ。しかしそれをわかっていても実行してしまうことが、若気の至りというやつなのだろう。
 ……無意味なことはしない主義なんだけどなぁ。
 まーいっか。そんなの誰も気にしない。

 ―――――『これが日常(いつものこと)だから』―――――

 誰も何も気付くことなく太陽が頭上を通り過ぎていき、そしてまた〝新しい朝〟が来る。
〝新しい〟? バカか。また同じ朝が来てんだよ。似ても似つかない〝日常〟が。
 誰も一日を1440分だとか86400秒だとか言い直したりはしない。

 それは長く感じるから。

 一日は長いようで短く感じられる? そんなのは錯覚だ。
 人間は確実に一秒一秒を踏んで朝から夜までを歩く。短く感じるのは、その日その時その瞬間に起こりうる全ての出来事を受け流して進んでいるから。
 丁度あたしが今こうやって小テストをスルーしているように、人は全ての時間を真に受け入れられる程寛容じゃあない。

 なかなか寝付けないので、頬杖をつき、外の景色を眺めることにした。
こうして今日もまた一日が過ぎ去ると思うと、安心しては眠れない。
 唐突に終わりを迎えたあたしの日常。常識。そして――、安眠、快眠、レム睡眠。
 あたしはこの、今まで過ごしてきた日常を嫌っていた。つまらない、当たり前だけが絶対の支配をする日常。変化を嫌い、常に人は一定の距離を保って自己を形成し、保護する。
 そうでもしないと壊れてしまいそうで、誰もお互いに近づけないのだ―――――って、何かの評論文の一節かよ。
 日常はいつだって変化を嫌い、人間はいつだって〝急用〟を嫌う。
 自分ですら、このくだらない、平凡な日常生活に安心しきっていた。
 何も起こらない、何も起こせない。そんな、心の底から憎らしく思っていた日常が、

  『今は恋しい』≒『錯覚に過ぎなかった』。

 踏み越えてはいけない一線を越えたんじゃないか――――いや、それでもいいか。
 線引きのできない、二分した意見。ごちゃごちゃしていてそれはよく分からない。
 一体何から整理していけばいいのか。一体何を言葉にするべきなのか。
 まとめられるなら誰でもいい。いらない雑誌みたいに、まとめて紐で縛って焼却炉にでも捨てて頂きたい。

  少女は二人目を殺してから、得たモノがある。

 得体のしれない快感。胸の高鳴り。殺戮衝動。謎の不安。
 気付いたら当たり前のように死んだ肉の塊を蹴っている自分がそこにいた。
 とてもつまらなそうに、落胆を怒りに変えて当たっている自分が。

  少女は悔しそうに歯を食いしばっていたのを覚えている。

 無意識にドライバーを両手に出す事だって、空間を好きなように縮めたり伸ばしたりする事だって、時間を遅くしたり何の前触れもなく自分の肉体が完全に蘇る事だって不自然じゃなかったと、“サネ”という少女は確かに“自覚していた”。

  怖いのかって聞かれたら、どうしようか。

 今のところ返す言葉は見つかりそうにない。
「………」
 そうされたら、殺すまでだ。
 新しい日常が無慈悲にそれをするように。
 ――のどが渇いたら水を飲めばいい。
        では心が乾いたらどうすればいい?――
 面白くもない、どこにでもありそうなキャッチ。耳を空回りして、消えた。
 試験終了のチャイム。テスト用紙を回収する合図が教室内を響く。
 これまでの日常は死んだ(終了した)。とても唐突に。
 ようこそ。新しい日常。新しい住処。心の拠り所。そして砕け散った常識。
 夢の中の男は言った―――――――。『おめでとう』、と。
「…………………………くそっ」
 やりきれない、制御しきれないモヤモヤした何かが小声となって出て行った。

  ―――――殺してやりたい。

 サネは口の開いた鞄に筆箱と筆記用具を放り投げた。
 やさぐれた心の内側を閉じる気はない。そう思いながら、鞄の口を閉じた。
「どうだった? さっきのテスト」
  顔を上げる。
「ん…、ケンゴか」
 てっきり、すぐさまアキラの元へ飛んでいくのかと思ってたが。
 ―――ついさっきの英単語試験の出来栄えを予想させるかのような表情で〝アイツ〟は英単語帳をすばやくめくっている。
「駄目だったっぽいよ? アキラは」
 なるほど。見ての通りって訳か。
 ケンゴはアキラを見て、『そういうこと』といった表情を見せた。
  軽い溜め息と返答を一つ。
「あたしは場合によっちゃいつもの通り。下手したら指導室行き確定」
「あぁ、なるほどね」
 先ほどの表情はどうやら察したらしい苦笑いへと変わった。
「伊吹さんは何でもできるんだから、ちゃんとやることやっときなよ? そうじゃないと後がめんどくさいだろうし、ね」
「まぁ、な」
 仮にも彼らしいマトモなアドバイスだ。
 そう言われると思っていたし、ケンゴも十中八九これを言いに来たのだろう。
 それ以上の詮索をしない、ベストな距離の保ち方だ。
「あっ、そうだ。今夢中になってる事って、ある?」
「え…」
 唐突な質問。さらに思いがけない出来事その2の勃発。
 気付けば真剣な眼差しが見下ろしている。
 少しだけ、視界の右下の方を眺めて考えてみる。
「ない」
「じゃあ悩んでるっていう意味で夢中になってる事は、あるかな」
 …日本刀の男を思い出すような質問の仕方だな。
「別に、ない」
「本当に?」
「まぁ……」
 ほとんど間を置かずに言葉が返ってきた。
 ここまでケンゴが食いつくのは珍しい。ましてやこんなに他人のことを聞いてくるのは尚珍しいことだ。
  顔に、出てたのかな。
 表情が緩んで、再び笑みがいつものケンゴの表情をかたどる。
「アキラが心配してたよ。あいつ元気ねぇなーって」
「アキラが?」
 意外と言えば意外。そういえばそんなこと、はっきりと意識したことはなかった。
「うん。昨日からずっと気になってたみたい」
 何でアイツがそうも深刻に――――――
「って、そのせいで今日の英単語ヤバいって訳じゃねーよな?」
 ――当の本人は想像以上に出来が悪かったらしく、机の上で泥のように沈み込んでいる。
「どうだかねぇ」
「自分に余裕が出来てから人のこと構えっつーの……」
 教室内の他の男子やら女子やらの話し声で消えるように、溜め息と小言が漏れた。
 それでもケンゴはしっかりと聞き取っていて、『まぁまぁ』と笑いながら会話を濁した。
「いいんだって。あれがアキラなりの優しさなんだから」
「………不器用な奴」
 想像以上のヘタレか、コミュニケーション不足か。不良みたいな見た目だからまともに人と接することができなかった訳なのかといったところか。
 思い当たる節はあったが、下手な勘繰りはしないでおくことにした。
「……」

 人は思い込みで壁を作る。でもそれは幻で、そこには壁なんてない。仮定に意味はなく、それが曖昧な常識を作り出す。
 煙みたいなものだ。吸い込めはするが吐き出すのは困難。実体なんてなくて、掻き消せない。

「ケンゴは、どう思う?」
「ん、何が?」
「自分がもし、不死身になったら。いや不死身じゃなくてもいい。超能力が使えたり、とにかく普通の人間じゃできないようなことが出来るようになったとしたら」
 とても普通の高校生がする日常会話の一切れとは思えない謎の問いかけ。
 もしかしたらただの時間稼ぎにしかならないフリ。
 さてケンゴは、どう答えるのか。それが見ものだ。
 目の前の顔は『なにそれ』と言った表情。ケンゴは視線と首を傾けて喋りだす。
「んー……。伊吹さんは『次元の檻』って信じてる?」
「次元の檻?」
「そう。例えば僕達は三次元に住んでるけど、絵の中のものとかは二次元だと見るでしょ? 簡単に言えば、そういった固定概念のこと」
 信じる信じない以前の問題な気もするが、それも常識の範疇に思える。
「それが常識なんじゃねーの?」
「そうそうそれそれ。そういうことだよ」
 ケンゴはその言葉を待ち構えていたかのようにあたしを指差す。
 その後にひとつ、わざとらしい咳払いをした。
「僕達は三次元の檻に閉じ込められているから立体を単に三次元としか見ないし、平面を二次元としか見ないんだ。だから立体を切った断面=平面ってすんなり納得がいく。でも四次元の図形を切ったら断面が立体・・・・なんて一筋縄じゃ納得できないでしょ? それが次元の檻が生み出した『偏見』ってわけ」
 ケンゴは得意気にふふんと笑ってみせる。
「つまり僕達は普通、その次元の檻を常識として信じてる。でもその常識がいきなり信じられなくなったら…。だから人間は次元の檻から出ることが出来ない。普通じゃなくなるって、きっとそれくらい大変なことだよね」
 そう言われると確かに、大変な事だろう。
 今まで気にしてなかった常識が、世界が、何もかもが疑問に変わっていって、終いには何もかもが理解できなくなって。もしかしたら、もしかしなくても頭がおかしくなるに決まっている。
 『慣れ』は『油断』だと言って警戒する訳にはいかない。そんな事していつまでも怯えていたら、いつか過労死するに違いはない。

 HR開始前の予鈴が鳴って、教室内をゆるやかに生徒達が流動し始める。

「ともかく、難しいことは抜きにしようよ。伊吹さん、一人で考え込む癖、あるからさ」
 最後の言葉を手短に告げて、ケンゴは教室を出て行った。
「…常識、ねぇ」
 少し慌しげな教室内で、密かに孤独を感じた。アキラやケンゴの住む世界から切り離されたような被害妄想。ないしは現実。
 犯人が突きつけられる礼状よりはるかに強力なそれはいたいけな少女を完膚なきまでにぶちのめし――――――

 っていう訳でもなく。

「つまり殻に閉じこもってろ、っていうようなもんだよなぁ。それ」

 皮肉みたいな、負け惜しみみたいな言葉が溜め息として漏れただけ。
 常識という名の藁にしがみつかなくても、生きていける訳であって。

 窓の外から流れるわずかな空気にも押し流されるくらいの声量で、
 気に食わない新しい日常を正当化するみたいな発言で、
 あたしは煙たそうにケンゴの話を濁すのが精いっぱいだった。



 帰り道。やや距離を置いたアキラが、まるで後悔でもしたかのように目を伏せて歩く。
 並行して歩きながら。少し前に進んで、アキラの顔を覗き見る。
「いいか?! 勘違いはすんなよ!」
 いきなり ばっ、と顔を上げ、声を上げた。
「まだあたしは何も言ってねーけど…」
 釘を刺したつもりなんだろうが、肝心の刺す場所が定められてないぞー少年。
「いーや違う。ぜっっってー伊吹お前俺を馬鹿にしてるだろ! 心の中で!」
それはいつもの事だ。
「早とちりして地雷踏むタイプだよな。アキラって」
「あ"ぁっ!?」
 濁り気味の返事。今にも噛み付きそうだ。
 イメージは犬。おまけに感情の起伏が激しいことを含めたら。なつくとかなつかないとかは置いとくとしても、バッチリだ。
「犬種は何がいい?」
「…何の話だ」
 愛らしいとはかけ離れた目付きをする犬もよくいたものだ。
「アキラはあたしの心配してただけなんだろ? じゃあ別に勘違いも何もねーじゃねぇか」
「それだけだよな! ケンゴがまたお前に変な事吹き込んだ訳じゃないんだよな?!」
「…それだけだけど」
「よし。ならいい。それでいい」
「まぁお前が心配し過ぎてテストが悲惨な結果に終わったっていうのも知ってるけど」
「あいつ………っ!」
 引き攣った笑顔のような怒りのような顔をしたアキラは拳に力を込める。
 そこにすかさず横槍を入れてみたくなるのも仕方のないことだ。

「あー。それマジだったのか」

 完全に、アキラは停止した。
 歩調はゼロとなり、…要するに足も止まった。
「いや………違う。 違う違うそんなんじゃない! ただ俺は日曜にどこ行こうか悩んでただけであって――――」
「あたしと?」
 一言が言い訳を遮る。ふかーく息を吸って、
「……………っまぁ…そう、だな」
 アキラはついに観念した。
  溜め息が一つ漏れた。
「せっかちもいいとこだろ。まだ行くとも決まってないのにお前は何をそんな焦ってんだ」
 ふてくされたようにアキラは黙っている。
「妄想してるヒマがあんなら勉強しときゃよかったじゃねーか」
「……………悪ぃかよ」
「?」
 小声。サネはかすかにアキラが喋ったのを聞き取った気がした。
「今日も、昨日もその前だって変だったじゃねぇか。お前」
 …何を言うのかと思ったら。
「何か考え込んでるみたいだったし、俺はそれが気になってしょうがなかったから、今度の日曜どっか連れてって少しでもお前が気分転換できたらいいなって…思ったんだよ」
 そう言って、アキラは顔を背けた。

「……………」

 ふーん。アキラにしては………まぁ気が利くじゃねーか。

「…………………………」

 両者の沈黙は続く。それは長く感じられた訳だけども、実際はそんなに長くはなかった。
 えー、つまり、それって言うのは……
 ………あたしのため、ってこと…だよな。

「うっわ恥ずかしっ!」
「うるせぇっ!」

 顔を赤らめて全力否定する忠犬。
 その様は、いやギャップは、如何とも表現しがたい。
「お、俺は俺なりにお前の事を思ってだな………っ!」
 ぜひお断り願いたい。その不器用すぎる愛情表現的な何かを言葉にしようとするのを。
 嬉しさというか恥ずかしさというか、ある種見るに堪えない羞恥が渦巻いてるんじゃないかと錯覚しそうになる。
「わかったわかった」
  まだ顔のニヤけが納まらないのに気を取られつつ歩き出す。
 後方での必死な弁解。それでも尚速度を落とさない歩調。
 要するに男子中学生のデート前みたいな心境で一夜を過ごしたということだ。

 あ の ア キ ラ が 。

 それを考えるなり、その姿を想像するなり、もう笑いがこみ上げてきてしょうがない。
「お前笑ってるだろ! やっぱぜってー馬鹿にしてるだろ!」
「してないしてない」
 口の端から漏れ出る笑い。
 これ全部を我慢したら相当腹筋鍛えられるんじゃないだろうか。
 後ろからはまだ相変わらずのわめき声が聞こえる。『だから俺はそんなんじゃなくて……っ!』とか。

 やっぱコイツは、コイツなんだな。

「……………ありがと」
「…え?」
 一時停止。サネはこれでも聞こえないように言ったつもりだ。
「な、ちょ、今何て言った?」
「別に? 何も言ってねーし」
  知らないフリ。意地の悪い返答。
  表情に優越感を乗せて、言ってやった。
 あたしがこんな奴ごときに、敬意も感謝の意も表明してやる気なんてさらさらない。
 だけど今はただ、コイツの不器用な思いやりを大事に取っておこうと密かに思う。
 失わないよう、大事に。
 歩調はいつの間にか速くなっていて、気持ちも何故か弾んでいて。
「じゃあアキラ、十時な」
「十時?」
「そ。十時集合。遅れんなよ?」
 それは色を失ったかのような表情。だけどすぐに色を取り戻して、柔らかく動き出す。
「…まだ場所も決めてないのにかよ」
 言って笑うアキラの表情。
 何かとてつもなく久しぶりに見た気がして、思わず肩を竦みたくなった。
 こうしていつもの歩調を取り戻す。
  歩き疲れる事のない間隔(ペース)。時計みたいに刻むだけでもいい。
  今の自分にとっては、これだけが心地いいんだ。

 その後色々話をしてから、いつもの看板のところで別れた。

 “あいつら”にも休業日とかがあるらしい。
 今日は珍しく、サネは“いつもの”おばちゃんにしか会わなかった。



               ―――――――+



 朝起きて早々に支度を終え、サネは家を出た。
 大規模な学校行事でもないのにわざわざ忘れ物チェックとかをして。前日の夜に、何着てこうか珍しく悩んでたりして。
 そんな自分に違和感を感じて首を振っても、気が付いたら前髪を少し直したりとかしてて。気付けば自分の知らない自分のようなものが表に出ているようで、もどかしくなる。

  あーもう。ちくしょー。

 現在九時三十分。まだ予定の時間よりも三十分早い。
 『今日のあたしは可愛いのよ』なんて。馬鹿らしい。
  ほんっとバカ。もう、うっさい死ね!
 間の抜けた風船のように気持ちだけが浮き沈みをしていた。
 抜けるのは空気だけで十分だっつーの。

 待ち合わせ場所に着く。しかしそこには時計ばかり気にしている自分が立っている。だがイライラが、フラストレーションが時間とともに加速していくのを見て見ぬフリをする。
 アキラはまだ到着していない。ふつーあたしよりアイツの方が先に来んじゃねーのかよ。
 一人浮かれたようにふてくされるが、何の意味もなく。さして意味など無く。
 やはりそれは溜息となって吐き出された。

 昨日のある瞬間まで、次の日の朝なんて迎えたくなかったのに。
 迎えられるかどうかなんてのも分からなかったのに。
 朝霧を肺活量いっぱいに吸い込みながらベランダで朝日をぼんやりと眺めていたことを思い出す。
 ――――はぁ。
 煙ったい話は溜め息と一緒に吐き出せばいい。
 今そんな事考えたってしょうがない事ぐらい、自分が一番分かってるんだ。
 思考をリセット。後、今日のスケジュール確認で脳内の隙間を完璧に埋め尽くす。

『待ち合わせ場所は駅の改札をでたところ。十時集合』

 アキラ曰く、今日は駅の中の店を回るつもりらしい。どうせ一日中遊ぶなら遠出しない方がいいだろうし、遠く歩きまくるのもどうかと思うし。あたしはそれを否定しなかった。
 どうせなら近場がいいというのもあった。
 全力でスケジュールを肯定する。否定の要素など微塵もなく、期待だけを純粋に膨らます。今はそれで十分。それが最も賢明な判断だろう。
 それにしてもこの場所は混む。どんだけ待ち合わせしてる奴いんだよってぐらい混んでいる。
 もしかしたらいないかなーなんて視線を泳がすけれど、それを見られるのは嫌だから自分のケータイに視線を落とした。
 …………………………本当にもう、あたしは何を焦ってんだか。

「……」

 かちかちと無言で文字盤を操作。
別に何かを期待している訳じゃなくて、ただ手元が落ち着かなくて動かしているだけ。
 つまりそれは決して何かを期待している訳じゃ無い。
 しばらくして、今日何度か目にした画面が映し出された。

『新着メール問い合わせ中・・・・・メールはありません』

 クソが。
 バチンと勢いよくケータイを折り畳んだ。無意味に悔しさを覚えるということは、今日は珍しくカルシウムが足りてないって事。そういうことにしておこう。
「…ったく」
 後ろへと寄りかかろうとして、誰かの背中にぶつかった。
「あ、すいませ―――――」

 振り返る―――自分よりわずかに背の高い男性。同じタイミングに振り返
ったので目が合った。
 それは見慣れた顔。見たことのある表情。けれど少し新鮮な雰囲気――――
 理解するのにはあまり時間を要さなかった。

「ぐあっ!」
 大振りのグーパンチが無意識に炸裂。綺麗な弧を描いて標的に命中した。
「おせーんだよこのッ…、バカ!」
 自分の後ろに立っていたのはほかでもない、私服姿のアキラだった。
 向かいの改札をくぐってきていたのか、それを理解するなり怒りに似た感情が湧き上がってきた。
「誰が馬鹿だ! ってか、出会い頭にアッパーカット決める方がよっぽど馬鹿だろ!」
「いいから気付け! 何で真後ろにいるのに気付かねぇんだよ!」
「知るか! まだ集合時間になってないから来てないかと思ったんだよ!」
「なっ………!」
 言って、ハッとした。
 ここは駅の中。改札の出口。不特定多数の視線が微笑ましくもニヤニヤとした顔をしている。『アキラのせいだ』―――決めつける暇もなく足が動いた。
「い、いいから行くぞ!」
  顔が熱い。体温と心拍数が比例していく。
「ちょ、おい! 何なんだよ全く…」
 どこへ行くとも決めてないが、足は勝手に進んだ。何はともあれ今はあの空間から逃げ出したかった。周囲の目とかじゃなくて、きっと、よく分からない自分がいた空間から。
 とりあえず、しばらくはこの顔の熱が冷めるまで涼しい風を切っていたい。
「…………そんなんだから不良モドキなんだよ、ばーか」
「…何か言ったか」
 ぼそりと呟いた小言は聞こえていたらしい。
 仮にも本気で言ったわけじゃないし、そこは「別に」と流しておいた。
「で、どっから寄ることにすんだ? 一応時間はあるし、何も案がなければ俺が引っ張ってくけど」
 行きたい場所は―――特にはない。この駅内をよく知っている訳ではなかったし、明確にどこに行くと決めて来ている訳でもなかった。
けれども。今のサネにはこんな奴に主導権を渡すものかという変な意地があって、何故かアキラには行先を決めつけられたくはなかった。
「……………アイス」
「ん?」
 小声で抵抗。理由はわからないが、ぶすっとした表情をしている自分がそこにいた。
「あたしは………………アイス食べたい」
「――――あぁ。わかった。じゃあまずはそっから回ってくか!」
 アキラは少しだけ沈黙した後、安心したように言葉をかけた。

 それからサネは、基本的にアキラについていくことしかしなかった。一緒に服を見にいって服を探してみたり、小物屋の展示品を眺めながら話をしたり、カラオケで久しぶりに熱唱したり。昼食を一緒に食べている間にも、話を聞いたり聞かされたりしていた。
 たまにサネが無理やり引っ張って行っても、しょうがないと言わんばかりにアキラはついてきたし、知らずうちにサネも普段出ないような行動が出ていたりもした。
 常日頃顔を合わせているのに共有できている部分とは意外にも少なくて、知っているようで知らない部分なんかもたくさんあった。知ったかぶって、仮定して。それを決めつけていたのは自分だったかもしれないと思うほどに。
 結局、そんな誤った常識を作り出していたのは自分かもしれないとも思う。それがケンゴの言った偏見で、“檻”というやつなのだろう。
 知らぬ間に自分が自分の外壁を勝手に作り上げていた訳だ。

 カプチーノの缶を傾けながら、遠くに夕日を眺める。駅の屋上は意外と高く、付近の様子をある程度見渡すことができた。
 設けられたベンチに二人で座り、柵越しに少し冷たい風を肌に受ける。
「なぁ、あのさ」
 どことなく静まっていた空気を、アキラの声が震わせた。
 缶を静かに横へ置き、少し考えながら、複雑な表情でサネと顔を合わす。
「…悩んでることとかあったら、言えよ。俺たちに」
「何改まってんだよ。そういうのほんとこそばゆいから――――」
「いや! ……この際だから言っとく。ってか、言っておかなきゃ今日こうやって過ごした意味がなくなんだよ」
 アキラは真剣な面持ちでサネの言葉を遮った。
「多分ケンゴにも言われてると思うけどさ。お前、考え込む癖、あるだろ。一人で考えて、答えが出なくなったら諦めて、どうでもよくなるまで耐え忍んでさ」
「………だったらなんだよ。そんなんあたしの勝手だろ?」
「それじゃ意味ねぇんだよ! 別にぼっちな訳じゃねぇのにさ、何で一人で悩む必要があるんだって。……そう思えなきゃ駄目なんだよ」
「………」
 飲みかけのカプチーノは冷たくなっていた。視線を横へ流すと夕焼けが眩しく、直視できない。うつむいたまま、サネは両手でその缶を握っていた。
 迎えた新しい日常はあまりに非現実的で。不条理なまでにこれまでの常識と自分を引き離した。その壁は越えられない壁でできていて、かといって一線を越えたらもう後戻りはできない。そんなところには、連れてこれない。巻き添えになんてできない。無意識に、サネはそう思っていたのかもしれない。

 自分が好きだった日常は、いなくなったと仮定していたのだ。

「もっと頼ってくれていいって。俺らは他のやつらとは違うから。伊吹のこと、大切に思ってるから! 独りでどこかに行くなんてことはやめろよって、言いたかったんだ。だから―――っ!」

「もういいっ!」

 思いのたけは声となって、自然と出てしまっていた。
「分かってる。……分かってるから…もう言うなよ」
 両手に力がこもる。缶は固く、とても変形しそうにはない。
  そんなこと、分かっていた。
「分かってるフリとか、やめろって。見てるこっちが苦しくなる」
「そんなんじゃない。ほんとに、それは分かったから……」

 サネは口をつぐんだ。言葉を口にしようとすると、息が詰まる。
 口にしたら壊れてしまいそうで、それを自分自身が拒否していた。

 やりきれなくて、缶をゴミ箱に向かって投げる。僅かな弧を描いていく缶は都合よくゴミ箱に入るはずもなく、淵に当たって地面に転がった。
 アキラはそれを見てゆっくり立ち上がり、横倒しになって放置された缶を拾って、自分の缶と一緒にゴミ箱に捨てた。
「そんな距離も入らないなんて、伊吹らしくねぇぞ」
「…………うるさい」
 その席から立ち上がると返す言葉も思いつかず、サネは何も知らない子供みたいな抵抗力で毒づいた。
 もう陽も沈んで、辺りは暗くなっている。遠くまで見渡すことができれば色々と景色が見えたかも知れない。しかしそれには視界が狭すぎて、結局そ こでお互い立ち尽くしている他にできることはなかった。
「…これまで言わなかったし、どうせこれからも言わないと思うから一言だけ言っとく」
 アキラに背を向けて、歩き出す。アキラはそれを追うが、まだ追いつかない。
「ほんとに分かってるから。お前らの気持ち。………取り乱したりして…………………ごめん」

 サネは小走りに、誰もいない閉まりかけのエレベーターに乗った。



 すっかり暗くなって、町には街灯もつき始めた。今夜は特に冷え込むという予報は人の気を無くし、車や電車でさえも例外でなく。一夜限りの劇場を演出していた。
 舞台は広場。見上げるとそこにはビルが立ち尽くしている。
「―――はいはい。今日もお勤めご苦労様だな」
 服装はそれぞれ。おそらく目標目的は一緒と思しき集団はたった一人の少女を視界に捉えるや否や、足並み揃えて各々の武器を懐から取り出した。
 先頭に立つのはおよそ秘書風の女。特徴のないリクルートスーツに身を包み、皮の手袋と眼鏡をしている。
 他の、十人ぐらいの連れも一緒に、銃を構えながらサネとの距離を詰めていく。
「それで。今日はどんな話が――――」

 あばら骨に軽い衝撃―――敵一人の発砲。血が、体を伝って静かに流れだ
した。

「……この野郎」
 秘書風の女は左手を小さく上げ、下した。
 幾度となく火を噴く銃口。飛来する無数の弾丸。
 何発が、とか。どこに、とか。認識する間もなく体の各箇所にめり込んでいく。
 衝撃で痙攣したように揺れる体が重い。
 断続的に続いた銃声はやがて止み、最後の一発が片目のどちらかを弾いてサネは力なくその場に崩れた。
「削除完了。確認しろ」
 死んだように開いた片目に映るのは虚ろな視界。頬には生暖かい液体の感触。
「念のため弾を込め直せ」
  好き勝手やりやがって。いきなり傷モノにするとは、やってくれるじゃねーか。
 仰向けの姿勢。だらんとした首を九十度曲げて、真上を向いた。
 うろたえる敵。銃口を再び標的へと向ける。
「今度こそ、あたしを楽しませてみろよ」
「撃てぇっ!」

 世界は硬直し、反転。少女だけをその場に取り残した。

 銃弾だけが静止。その軌道は次第に折れ曲がり、遥かかなたの後方へと散る。
 高速で収束していく光景。敵の一人を二本のプラスドライバーが葬り去った。
 その近くにいる敵は、隣で仲間が死んだことをまだ理解していない。
 ――――――――――理解するにはまだ、時間がなさすぎた。

「左にいるぞ! 撃ち直せ!」

 早送りに時間は戻って、敵はそれに合わせて一拍遅れた照準を合わせ直した。
 が、それよりも早くサネは敵の頭上に姿を現す。
 空間を手に取るように紡いで、着地と同時に敵二体に狙いを定めた。
 ―――時間が再び遅くなり、狂気はゆっくりと二つの脳幹を貫いていった。

「くそっ―――――」

 そして投げられたドライバーがもう一体の敵を永遠に黙らせた。
 立ち止まる敵。赤い光の筋が明滅し、新たなドライバーがサネの両手に出現する。
「今のうちに退いとけよ。無駄死にするだけだってことがわかんねーのか?」
 構えた手は動かない。敵は怯むことない視線をサネに向けた。
「………バカが」

 ―――重々しい貫通力。鋭い衝撃が胸よりも上、正面から肩の付け根に突き刺さった。

 体勢が崩れる――――

 反射的に時間を遅らせていく。急激に落ちた速度。世界は再び静寂に包まれる。

 サネの意識ははっきりとしていた。前面にいた敵が発砲した無数の銃弾。自分の体勢を崩させた銃弾。どちらもしっかりと視界に捉えていた。

  体は浮いているような感覚で、うっすら眠気さえ伴う。
 ゆっくりと倒れていく体。意識は自分の体だけを知覚していた。
 早まっていく速度。思考と、自分の体だけが高速化する。

「―――――なんだ。普通に動けるじゃねーか」

 サネは通常の速度で片足を後ろに着いて重心を戻し、体勢を立て直した。

 ほとんど停止した、この時の中で。

「とうとう話もできなくなったんだな。コイツら」
 傷は素早く癒えていく。残念そうに肩を落とした。
 跳躍―――。空間が一気に収縮し、足元より少し下に屋上の地面が出現した。
 着地の軽い衝撃を感じつつ、一息をついた。
 場所は一際高いビルの屋上。ここなら奴らも追ってはこれないだろうという地点。
 鉄柵に寄りかかって、見渡す限りの景色を眺める。
 今日は夜景がきれいに見える。とても見事に透き通った夜空だ。
 白く暗い雲と黒く明るい空が視界上空を広々と覆う。凛とした十六夜の月が静かに外下界を見下ろしていた。
 ――――「ここ、どこだろ」、なんて。そう一瞬でも思った自分がバカらしく感じられた。
 そんな滅多に見ない光景を目の当たりにしているうちに、サネはその月めがけて自然と手を伸ばしていた。
 ほんの少しだけ何もかも忘れて。届かないモノだけをまっすぐに見つめて。

「………………………………………っ」

  その後すぐに手を降ろした。

「理想は―――……、手に届かないから綺麗に見えるんだよな」
  負け惜しみに似た戯言。溜息混じりに振り返る。
 屋上のドアはその口を開いており、そこには一人の女が立っていた。
 眼鏡をかけた秘書風の女。懐からタバコを取り出し、口に咥えて火を付けた。
 しばらくして、じっとサネを見ながら煙を吐き出す。
「こんばんは伊吹サネ。気分はどうだ?」
 吐き気のする副流煙の匂い。辺り一面に霧散し、消える。
「最高に最悪。死ねクソが」
 中指を立てて挑発(ファックサイン)。女は気に留めた様子もなく、また煙を吸っては吐いた。

 何故名前を知っているのか―――。まぁそれはこの際どうでもいい。
 女とサネには十分な距離が空いている。
 女は指に挟んだタバコを軽く弾いて投げ捨てた。

「それでいい。それでこそ管理者たる者の心構えだ」
 それは一切の不純物も混ざっていない満足げな表情。
  管理者―――日本刀の男が呟いていた言葉。
「私たちは皆、管理者だった者だ。今は守護者を務めている。君は私たちを知っているか?」
 つい最近の記憶が蘇る。
  守護者―――小太りな男が名乗っていた言葉。
「知るかそんなもん。仮に知っててもあたしは得しない」
「なら君は何を思って行動している? 君の日常はどうした」

 純粋な疑問が頭に浮かぶ。――――「何が言いたいんだコイツ」。

「どうせあいつらはお前の仲間だろ? あいつらが先にちょっかい出してきたんだ。あたしのせいじゃない」
「君が当たり前だと思っていたものはどうした?」
「常識なんて信じない。当たり前なんて初めからなかった」
「気付いたことは? 君がこの世界の規律から外れてから見えたものとは?」
「何にもねーよ。血しぶきと死体の山で何も見えねぇっつーの」
 自身の言葉に含んだ確かな皮肉と含み笑い。

 女は銃を手に取った。

 空になった弾倉を捨て、新しい弾倉をしなやかに押し込める。
 その様子を、サネは見ているだけ。

「規律とは何か。君は分かるか?」
「知らね。確か小太りのおっちゃんも規律がどうとか言ってたな」
 はは、と嘲笑。
「あたしが殺したけど」
 女は黙って眼鏡をかけ直した。
「この世界の規律とは法律ではない。管理者そのものであり、管理者が守り通さなければならない大切な義務のことだ」
「へぇ」
「君は今まで結構な人数を殺したな。だがそれもこの世界にとって正しいことではない。そして君も、正しい存在ではない」
「あたしは殺されたから殺し返しただけ。正当防衛ってやつ」
「なら君は殺したいとは思わないのか? 君は殺すことをある種の義務と錯覚しているのではないのか?」
 それこそ錯覚だ。そんなことはない。サネは当然のように心の中で否定する。
「そーかもな。理不尽な暴力にはあたしみたいなチート臭い強さが必要だろうし」
 屋上には強めの風が吹く。明らかな違和感を舐め取るように足元を抜けて、もう一度風は吹いた。
 殺しの前の孤独を助長するかのような感覚が目を覚ますみたいで、サネはそれに麻薬に似た快感と魅力を覚える。そんな気がした。
「強さ? それが強さなものか」

 女はひとつ、不敵に笑う。

「それは弱さだ。君がすがるただ一つの希望に他ならない。今の君に残された最後の手段と言い換えてもいい。果たしてそれで、何を守れるかな?」
 何もかも知った風な物言い。勝利を確信した被告人じみた油断は見当たらない。
「君は操り人形だ。手にした剣は大きい。しかしそれに振り回されてしまう」
  結局はそれがなんなのか。この女が何を言いたいのか。
 知りたくもないが知る由もない。黙らせることは一瞬でできる。だが今は単純な苛立ちしか芽生えてはこない。
「聞いてやるよ。お前の言い分。喋り終わるまでは殺さないでやる」
 眼前の敵は鼻で笑った。
「規律とは正義。正義とは刃だ。不条理が愚行だと思うか? 道徳が賢明だと言うのか。確かに暴力を目的とする者はやがて身を滅ぼす。だが手段とする者はその限りでない。その先に何があるのか。その後に何が待っているのか。知る者は幸いであり、知らぬものは不幸と嘆く」
 切れ味を持った笑み。哀れみをたっぷりと含んで、歪んだ口の端が大胆に囁く。
「準備はできてるな? 伊吹サネ」
 両腕が広がる。暗く、雲一つ見えなくなった闇夜を見上げて、女は続けた。
「さぁ、武器を取れ。眼前に構え、敵を見据えろ。殺したいのならよく狙え。平和な日常を殺すのは君自身だ」
 なるほど。言わせておけば調子に乗りやがる。
 無防備な体勢――女が何を楽しんで笑っているのかは知れたことではない。
 ただ、そこで一つ確実に言えることがある。

「よっぽど死にたいらしいな」

 高揚感。待ちわびていた笑みが零れた。

「あぁ。あたしだって待ってたんだ」

 胸が躍り、血が騒ぐ感覚。抑えきれない刺激が、サネの脳と体とを一気に貫いて。

「殺してやるよ」

 虚空から取り出したプラスドライバーを握りしめ、一筋の赤い光をその場に残す。

  何か楽しくなってきた。

 ―――――風圧を感じて、かばうようにだした腕が視界を覆う。
「ならばこの終末を楽しめ! これが最後の晩餐だ!」
 上空に現れた戦闘ヘリ。両脇に携えた機関銃が、唸った。
 一瞬にしてガタガタにされていく地面―――砕けた鉄筋コンクリートと鉄塊が目の前を高速で通り過ぎる――――。

 ―――銃弾は当たらない。その寸前に時間は遅延し、世界は少女唯一人に味方した。

 走り、走って、駆ける―――。
 一体、今どれだけの速度で動いているのだろう。ふと浮かんだ疑問は優越に変わり、銃弾よりもはるかに速い移動は思考速度を凌駕していた。
 ――いや、足りない。詰まらない。まだいける。限界なんてまるで感じられなかった。
 銃弾が一瞬止み、サネは止まる。
 勢いよく開く屋上の扉。一斉に新たな敵がなだれ込んだかと思うと、それらは素早く標的へと銃口を向けて射撃準備を完了させた。
 敵は多い。軽く十人以上は確認できる。
「懲りねー奴らだな」

 背伸びをするように、心が安堵した。

「やれ。削除再開だ」

 前から横から銃弾の嵐。時間を遅くしてもかわしようのない密度が標的を檻のように閉じ込める。

 口径が大きい。弾速も以前よりずっと早い。

 目と鼻の先にまで訪れた恐怖。それは鈍く重厚に空気を切り裂いて、低い旋律を奏でる。

 “殺す”。その思念は力となり、確実に伝達する――――――――――

 ことなくストップ。

 今度は大きく、盛大に時間が静止した。
 ふぅ、と一つ。
「こんなもんか」
 銃弾が微動だにしている以外全ての速度はサネを除いて停止。銃口が噴く爆炎も、地面を跳ねる薬莢も、銃弾が生む空気のブレも、人間だけに限らず全ての光景が、ある瞬間に張り付いて動かなくなったかのように停滞してしまった。
 サネは面白半分に、目の前の銃弾を触った。

 ―――熱い。

 固定されている訳でもないのに、いくら力を加えても銃弾はその場から離れてくれない。
 その様をゆっくりと観察し、ふと自分の手が火傷していることに気が付いた。

 これが、この世界が、あたしの“権力(ちから)”。

 ほぼ無音。とても低く、単調で鈍い音が耳を通過して。
 まさに圧倒的。何者も寄せ付けない。近づけない。呆れる程強力で、虚しい程に手の付けようがない、言わば『絶対』。
 サネは無意識に優越感を味わいながら静かに波打つ快感に身を任せる―――――。

 準備は、出来ていた。

「まず誰から殺してやろうか」
 一気に殺しても芸がない。どうせ相手方にとっては一瞬の出来事。もっと楽しむ時間くらいあった方がいいだろ、と判断。
 横から来ている大口径の銃弾の向き確認――――その方向の、一点だけに意識を向ける。
「…………こっからいくか」
 伸ばした手はヘリを捉える。遠くにあるフロントガラスを撫で回すように手を動かし、触れてもいないのにその冷たさを指先でなぞるように弄ぶ。
 今からこれが―――、ただのガラクタになることを名残惜しみながら。

 空間は収束し、その一点は特異点となる。

 あっという間もなく縮みきった景色。サネの片腕が戦闘ヘリのガラスを突き破った。

 上空。移動したのはサネ自身。
  紅潮する頬。吊り上っていく口の端。
『束ねられた空間と時間を一気に手放すとどうなる―――?』
  血なまぐさい好奇心が語りかけた。
 サネは一人、どこかの芸術家が言っていた気がしなくもない言葉を思い出していた。

「〝芸術とは、破壊である〟」

 トリガーを引くように、そこに意識は傾いた。
 早送りのように空間が遠ざかる。ヘリから引っ張り出された“物体”―――ゴムのように伸びて―――変形して―――粉々に千切れて爆散して―――時間、空間は通常と同じ流れに成り代わる―――。

「―――――――!?」

 凄まじい衝撃――――忘れていた鼓膜の感覚。上空からは鮮血が降り注ぐ。
「あっはははははは!」
 敵は何を理解できただろうか。
 銃弾を避けながら、自分だけが高速化した世界で。血の霧を浴びながらまた一人を“先端”の餌食にする。

「後ろ―――!」
 誰かの声―――理解される間もなく強制終了。

「誤射に注意しろ! 標的を補足してから狙え!」
 あれだけの弾が何の意味を成すのか。この“絶対”の前では何ができるというのか。

 徐々に感覚と何かがなくなっていく肉体―――ブリリアントカットのように美しいスリルを純粋に求める、野獣に似た獰猛さがサネを突き動かす。
 ふと、女の前でその野獣は立ち止まった。

「…呆れる程の終末感だな。管理者」
 放たれた銃弾は頬をかすめて通り過ぎる。
「この終末感がいいんじゃねーか」
 心底おかしい。あまりに楽しい。このたまらなさをあの女におすそ分けしてやりたいぐらいだ。
「どうやら本気で終わらせる気のようだな」
 まだ十二分にいる敵。銃声は絶えず続く。女の声はかき消され、よく聞こえない。
 ―――構うものか。また一人、首の両側にドライバーが刺さって死んだ敵。蹴り飛ばし、宙返りをして、ドライバーを空中で展開。
「気ぃ抜いてる暇なんてねーぞ」
 眼球から脳へ、金属の棒が突き刺さってまた一人が死んだ。
 しかしなかなか数は減らず、敵十数名にドライバー二本は少なく感じた。

『――――なら何本あれば足りる?』

 思考は加速していて、時間は要さない。
「百本だ!」
 答えと同時に声が出て、声と同時に強烈な赤い光が辺りをまばゆく照らす。
 サネの周囲空中に出現した無数のプラスドライバー。その全てが敵の方へと先端を向け、その場で静止している。
「何だと?!」
 ついでに両手に握っていた得物も空中に“置いて”おく。
「よーく見てろよ。瞬きしたらお前以外全員死ぬからな」

 敵は静まり返って、全員がその場で凍りついた。

 誰一人と動かず、女は目を見開いたまま。
「何故だ?! “操り人形”の君にそんな権利はないはずだ!」
 ――訳のわからない戯言。聞くに無駄な文句だ。
「あたしはお前らに殺されたから殺し返してんだ。何かそれ以上に理由があんのかよ」
 満たされない心。埋めることのできない隙間。そこに詰め物でもするかのように今まで死体を積み上げてきた。それはこれからも増えるだろうし、どうせ満たされはしないだろう。

 女は張り裂けそうな声をあげた。
「君はおかしい! 普通ではない! 君は―――!」

 ―――――プラスドライバーが一斉に敵を貫いていく。

 気付かない女のすぐ横を通り過ぎて――――両目を潰し、眉間を貫き、心臓を射抜いても四肢に突き刺さってもそれは止まらず。
 秘書風の女を除いた全ての肉体が抵抗力を失ったのを理解して、女はやっと言葉を呑み込んだ。

 死体が倒れこむ音―――力を失ってただの肉塊となったモノと地面との永遠の抱擁―――が虚しく夜空を震わせた。
「ほーら。瞬きしてる間に十二人も死んだ」
 一拍遅れた反応―――抜けた力を再び入れて、眼前の“守護者”は銃を構え直す。

「…っ削除だ!」

 照準がサネを指さす―――。
 瞬間移動にも等しい速度。急接近する少女と空間の歪みを女は知覚することもできず、自分のすぐ目の前に標的が現れたことを遅れて認識。
 その間に弾かれた銃は放物線を描き、屋上から姿を消した。
 サネは女の首筋にドライバーを突きつける。

「で。お前は何を守れるんだよ」

 両者硬直。
 左手にもう一本のドライバー。赤い光が宙を駆けた。
「……私はこの世界を護る。それが私たちに与えられた、唯一の役目だ!」
 ―――女の手にはコンバットナイフ。突きつけていたドライバーを弾いて、大振りに横へ薙ぐ。刃が肉を斬りつける直前、遅すぎる時間がサネを回避させた。
 すかさず左手に補充しておいたドライバーがナイフを捉えて、火花を散らす。

「その守護者達もついさっきあたしが殺した。もうお前しかいねーよ」

「守護者に死はない! あるのは使命だけだ!」

 安っぽい金属音が目の前でリズミカルに跳ねる。
 刃が空を切り裂く度に銀色の残像が目を惹いて。ギリギリをかわしていく興奮が殺戮衝動にアドレナリンをぶっかける。
 時間を遅くする必要なんてない。脳内だけが高速化して、考えが飛躍――飛翔――――羽ばたいていく―――――――!

「守ってんじゃねぇ! もっと攻めてみろよ守護者ぁ!」

 女の目つき、集中力とナイフの切れ味が鋭さを増して―――思い切り突き出したドライバーと不意を衝いて投げられたナイフが交差した―――

「――――!」

 先端が女の右肩に突き刺さり、切っ先が丁度よくサネの手首を切った。

「あ、っく………」

 女は膝をついて肩を押さえた。
 背後でナイフが地面を跳ねる音。温い温度が手のひらを伝う。
「ふふ……あははっ………………」
  無意識に笑顔が形作られていた。
 傷ついた人間を見下ろして、サネには何が楽しいのか分からなかった。けれども表情は嗤っていて、確かな満足感が心を満たしていた。

 ―――――――なのに。手首が、……………痛い?

  ズキズキと響く痛み。手に嫌な汗が滲む。

  『嘘だろ?』――――どこからか聞こえてきた疑問符。

 羽を広げて大空を舞っていたはずの意識は突然地面へと叩きつけられた。
 息が荒い。それはお互い様か。

 サネはバランスを失って仰向けに倒れかけて、ぐらりとその場に座り込んだ。

  ―――痛すぎる。

 手首を押さえる―――痛い。
 脈打って溢れる自分の温もり―――痛ぇ。

「伊吹サネ……。私たちは、君を甘く……見ていたようだ………」
 途切れ途切れに声が聞こえる。それは閉じこもりそうだったサネの意識を冴えわたらせる。

 痛覚さえ忘れかけていた。何か大事なモノと一緒に置いてきていた気がしていた。
 脳内が再起動して、普段の意識が蘇る。

  あたしは、今まで何の為に、何をしていた――――――――?

 その内に、女の息が整った。
「やはり君は運命に操られている人形に過ぎない。いずれ必ず、私たちは君を削除する。そして君が関わってきた全てを無かったことにする。君はこの世界に長く居過ぎたのだ」
 何をべらべらと。口が達者で何よりだ。
  傷口が癒えていく。流れ出た温もりも忘れて、握りこぶしが力を取り戻す。

  削除する? やってみろ。関わった全てを? やってみろ!
「あたしがそうはさせない!あたしがお前らを全員殺す!」

 それだけが、今手にしている唯一の平和。穏やかだった日常から隔離された手段。
 好きだから。居場所だけは守りたかったんだ。
  だから――――
  “殺してやる――”
 これでもまだ足りないならもっと殺せばいい。サネが殺しをしていたのは心の隙間を埋めるためだけじゃない。
「絶対にだ!」

 大切にしていた日常を、そっと心にしまっておく為に。

「人は殺せても自分は殺せない。君はもう、詰んでいるんだよ」
 サネは女のネクタイを掴む。
 無理やり引っ張りながら、目一杯空間を縮めて。
「―――――」

 慣性と重力を感じる――――空中。何メートルあるかもわからないビルの屋上から、二人分の肉体が飛び出した。

 ――――――――目を覚ますには少し冷たすぎる夜風を切りながら、増加する加速度を抱いて二人は落下していく。

 女は微笑みながら口を動かしていた。


「―――――――――おめでとう。君の日常は唐突に終わりを告


               ―――――――+



「――――――んっ」
  眩しい。
 うっすらと開いた目には過度な光量―――カーテンの閉め忘れがその原因。
 サネの意識は徐々に覚醒し、はっきりと現状を理解する。
 気付いたらそこは自室のベッド。布団もかけないままに、倒れこんでいた。
 体を起こそうという気は全く起きない。まさか夢オチという訳でもないだろう。
 あのビル――、屋上から落ちた後、這ってここまで来たのか、それこそ瞬間移動でもしてきたのか。

  ――――『どーでもいい』。
 仰向けの姿勢。視界を二の腕で覆った。

 サネの本心は今日も“いつも通り”のテンションで物事を蔑む訳でもなく、無関心を貫く。
 敵わないモノには抗うだけ無駄。サネは無意味なことはしない主義だ。

 手にした剣は大きい。切れ味はとても鋭かった。しかし振り回されたのは自分。それをしまうはずの鞘はどこにも見当たらない。
 現実はいつだって残酷で、“手にしてしまった”時にはもう遅いことがよくわかる。
 まぶたを深く下し、意識を無重力の世界に預ける―――。
  ―――体が――、重い―――――。
 きっと、そんな日もたまにはあるのだろう。
 自然は変化を嫌い、人間は“急用”を嫌う。
「…………」
 つまりは、少し早すぎたということだ。
「………きっと、そうだ」
 空気を胸いっぱいに吸うも、気分は晴れない。その頭で今日のスケジュールを確認。
 睡眠学習という名のサボタージュで埋まった今日一日。脳内を満たして、埋め尽くした。
 何か大事な予定があったような―――。そんな気も霞のように静かに散っていく。

 ある晴れた日の朝。サネはいつものようにその日を謳歌した。始まりは定かでなく、終わりは黙秘を貫く。何があったかは重要じゃない。何故始まったのかも重要じゃあない。

 『いつ終わるのか』

 この悪夢はいつ覚めるのかが全て。
 ゆったりと起き上った後、サネは生気の感じられない足取りで階段を下りていく。
 裸足で歩く廊下は冷たく、静かだ。そんな考えをぼんやりと巡らせながら、日課でもないのにテレビをつけた。
 映し出されたのは今朝一番のニュース。『転落事故か? 死亡推定時刻と死体身元の謎』と謳うキャスターの表情が日常の範疇を超えることはない。
 彼はただ喋っているだけ。口を動かしているだけに過ぎない。
 世間一般の表情はとても豊かで、かつ非情なほどの寛容さを持ち合わせている。
 誰が死に、何があったのかは歴史にのみ反映されるのだから。

「―――――っ!?」

 ノイズ。

「く、ぁあっ……!?」
 ふと、大きなノイズが脳内をかき乱した。
 テレビの画面を砂嵐が満たすのと同じ感覚。とても大きな障害(ノイズ)。

 咄嗟にサネは口を押えた。

 強烈な吐き気と寒気。嫌な汗が手と顔から滲んで、体を丸める。
 感じるのは食道の焼けるような痛みや体の震え。この世界に対する絶望的な孤独感。
  今、ロクに呼吸もできないようなやつが、一体何を得たっていうんだ?

 固く閉ざされた小さな唇が、弱弱しく小刻みに震えた。

「答えろ! 教えろよぉ! あたしに説明をよこせぇっ!」
 荒い深呼吸。憎しみを含んだリズム。

 時計の針が廻り始めた。
 鎖を千切ったように解き放たれていく自分の感覚。
 一方で体は重くなって、時間だけが急激に加速していく。
 学校も、バスも、喫茶店も、下り坂も、全てが日常に支配された箱庭。
 加速された時の中で、それらはひとつの系となって蠢き、人の流れが地上を這いずる。

「午後、五時四十五分………」

 時計の長針と短針は動きを止め、秋曇り空が素知らぬ顔で上空をゆったりと泳ぎ始めた。

  そう。この時間。この時間だ。
 立ち上がり、椅子に掛けてあった制服を取った。

「………………………………………行かなきゃ」



 文化祭も終わり、生徒たちが後片付けをする頃。夕焼けを厚い雲が覆っていた。
 遠くからじっと校舎を眺めるのは入学式以来ではないだろうか。
 そんな気もしてくるが、きっとそんなことは無いような気もする。
 サネはふらつく足で走り寄り、心臓を拍動させながら母校の表札に手を着いた。
「はぁっ……はぁっ……」
 この時間なら人目も付きにくい。だから、“あいつら”がアキラを殺しにかかるならこの時間のはずだ。
「……………」
 もっとも、昨日のうちに殺されていなければの話になるが。
 冷えているというのにこの汗だ。サネは息を少し整えた後に制服のネクタイを緩める。
「あっ、伊吹さん?」
「あ………?」
 後ろから現れたのは自転車を引くケンゴの姿。帰宅途中だったのか、身支度が整っている。
「遅いよー。アキラならまだ教室に残って後片付けしてると思うけど?」
 相も変わらない笑顔。その雰囲気にそっと胸を撫で下ろす。
 アキラは無事で、“いつも通り”らしい。
「あぁ、そっか。よかった。ちょっと色々あって、今行くとこだったんだ」
「アキラ、伊吹さんがいつ来てもいいようにって、ずっと端っこの席をひとつキープしてたみたいだからさ。早く行ってあげて」
「ずっと……?」
 ケンゴは腕時計を確認し、うん、とひとつだけ頷く。
「まぁ、アキラだからね」
「…………バカかっつーの」
 何も知らず、平和ボケしている―――――それでいい。
 足は再び動きだす。自然と心も地に足を付けて走り出していく。
「あっ…!」
「ありがと。じゃああたし、急ぐから!」
 走りながら一度振り返ってみたが、伝わったかどうか。とにかく立ち止まることなく、前だけを目指して走った。

 アキラのいる教室は五階校舎の三階。二つ階段があるうちの、手前側の近く。
 靴を履きかえる暇はない。
 普段見慣れた教室が様々に装飾された光景を後目に、長く続く廊下と階段をかけた。

 ―――ここか。

 手前の扉は内側から鍵がかかっている。
 肩で息をしながら、喫茶の看板が立てかけられた奥の扉に手をかけた。

「アキラっ!」

 やかましく開かれた扉が薄暗い教室の雰囲気をぶち壊す。
 中にはよくできた喫茶店の風景。照明は文化祭のためだけに取り付けられた間接照明のみで、鍵のかけられていた扉側をカウンター席のように形作っている。
「………閉店時間はとっくに過ぎてんぞ」
 作業台でマグカップを拭いている人物が一人。呆れた表情はうっすらとサネの顔を認識したようだった。
 その様子に、サネも頬が緩んでしまう。
「…うっせー。あたしは客だぞ」
 アキラの真正面。サネは一番端のカウンター席を陣取った。
 アキラは拭いていたマグを作業台の上に置く。
「カプチーノか?」
 並べられた白い陶器のコースターをひとつ取り出し、別の作業台へ。
 返事は返されないままで、作業は流れる様に移行する。
 サネは両手を合わせて肘をついた。
「分かってんじゃねーか」
 未だ空調の利いた教室内には何故かヴァイオリンのBGM。心地よいテンポとテンションが並走する。
「もっと早くくればヴァイオリンの生演奏があったのに、遅ぇんだよ。お前」

 すぅっと湯気をたてるカプチーノが目の前のテーブルに置かれる。際立つのは甘い匂い。
 誘われて手に取り味を確かめると、甘さより確かなほろ苦さが感じられた。

「別にあたしは生演奏とかどーでもいい。喫茶店ってのは時間と空間を買う場所であって、もともと音楽なんてのは余計なもんなんだよ」
「んなこと言っても時間はとっくに売り切れてんだ。雰囲気を大事にしろ雰囲気を」
 アキラはエプロンを外しながら付け加えた。
  ただそこにいればいい。そういったものだってある。
 本当に大事な雰囲気ってものは、そういうものなのかもしれない。
「わかってるよ」
 わかっているだけかもしれないけど、と心の中で付け加えておいた。

 何秒ぶりだろう。アキラの顔を見たのは。
 とても長く感じられた。一刹那の時間の経過が遅すぎて、日常を忘れていた。
 見慣れた顔に飽きが来るのかと思えば、そんなこともないらしい。

「………よかった」
 聞こえないくらいの小さな声で、こっそりと呟いた。
 辺りは静まり、時計の針の音が響く。気付いたらヴァイオリンのBGMは止まっていたようで、しかしそのことにお互い気付かなくて、何でもない時間がその場を通り過ぎた。

 ―――今のうちに、逃げてしまおう。

 サネはマグカップを静かに置いた。
「アキラ――――」
 声に出した途端、言葉を遮るようにドアがノックされる。
 奥から聞こえた声。ノックされたのはカウンターと逆の扉。

 アキラが返事を返す。

 扉を開けたのは若い教師。
「下校時間になったので下校して下さい」
 見たことのある顔。―――――確か職員室で橋本の代わりに出てきた教師だ。
 そういえばこんな奴もいたなと思考がよぎる。
 本格的な後片付けが後日に設定されているのは生徒を早いうちに返すためらしい。
「今片づけてる途中なんでもうちょっと………」
  ―――――――いや、本当か?

 思考は無意識に跳躍する。

「下校時間を守れないようじゃ――――、」
 何でコイツはこの教室に来たんだ―――?
 ―――――下校時間が来たことを知らせる放送はかかっていない。

「――――――――この世界の規律を守れる訳もないか」
 教師は懐へと手を伸ばした。

  まずい―――。

 サネは咄嗟にカウンターを飛び越えて、アキラを頭から伏せさせた。

 銃声が一つ頭上を走り、並べてあったコップが砕け散った。
「なっ!?」

 断続的に繰り返される銃声。机の脚に跳ね返ったものは音を変えて鳴り響く。
 ヴァイオリンのBGMは最初の曲へと戻り、再び流れ始めた。

「早くその鍵開けろ!」
 アキラはスイッチが切り替わったように動き、すばやく鍵を開ける。ドアを勢いよく開けたのはサネ。走りだし、アキラの手を引いてさっき上ってきた階段の方へ。
「何だあいつ!?」
 来やがった―――。サネの脳裏に一つの思考。冷や汗が額に浮かぶ。
 近くには階段―――下は安全なのか、上は危険なのか、判断の余地はない。
 二人が咄嗟に足を向けていたのは下り階段。下の教室にはまだほかの生徒が多数いたはず。
 手すりを掴み、腕力で体を引き寄せる。遠心力を感じながら下る先には階段の踊り場―――――一人の人物が上ってくる姿を確認する。そこにいたのは生徒ではなく、大学生ぐらいの人物。背後に回した右手が、銃を取り出していた。

「どけっ!」

 サネはアキラを強引に押しのける――――踊り場へ着地すると同時に体勢を斜めに傾けて、右手を素早く後ろへ回す。

 その手は大きく弧を描いて、ドライバーを“掴んだ”。

 高速化した視界――――――サネの視覚は瞬間的に研ぎ澄まされていく。
レントゲン写真のように透過されて視える男。視えているのは骨格ではなく、赤い光点。―――――――男の急所。
 右手を喉の辺りに突き出して。サネしか知覚できない時間の中を、血が飛び散るより早く死体を階段の下へと蹴り落とした。

 時間の流れが元に戻るとともに、全身から生気を失った体が階段を転げ落ちていく。

「伊吹っ、……………?!」

 アキラは唾を飲む。その光景に現実感は欠落していたようで、理解を苦しませる。

 気を付けていたのにも関わらず、サネの制服には血がついていた。
サネはそのことに少し視線を逸らすが、すぐに名も知れぬ人物が落としていった銃をアキラに蹴ってよこした。

「アキラは関係ない。こいつらとは何も、関係ない。だからそれ持って早く屋上に逃げろ」
 そこには怯えたような表情。恐怖ではない何かに支配された震えが少女を捉える。

「…………何だよ、これ。何が、どういうことだよ…? 何があったんだよ……!」

 少女は答えない。俯いて沈黙し、感情を押し殺しているのみ。
「あたしだって、分かんねーよ」
 理由(ワケ)を探しているのはサネの方だ。ただそれは見つからない。
 暗く沈んだ心は何をひねり出すこともできず、震える手を握りしめることしかできない。

「何なんだよおい………!」

 アキラはサネの両肩を掴んだ。

「何かしらの理由があるんだろ?! 言ってみろよ! 何だっていい! 俺は伊吹の味方だから……っ! 何でもいいから何か言えって………っ!」
「分からないんだよ!」
 目を伏せて耐えても、想いは溢れた。怒りのような悲しみのような、痛みの伴う衝動に駆られる感情が、無意識にサネの口を動かしていた。

 その時突如として空間は歪み、すぐ後ろに迫ってきていた“守護者”の眉間にドライバーが突き刺さった。

「あたしだって…何があたし自身をこうさせてんのか、分からないんだよ」
 理由なんてものはなんだって構わない。今はこれがいつ終わるのかが重要だ。
 サネはさっきまで握りしめていた血まみれのドライバーを階段下へ投げ捨てた。

「………早く取れよ。銃(それ)」

 諦めたような目がアキラを促す。その眼は何を映すこともない。

 アキラはゆっくりと足元にある銃を手に取って、感触を確かめた。
 ずしりと感じる金属材質。大部分が鉄の部品でできたそれは頑丈で、そして冷たい。

「俺は、どうすればいいんだ…………?」
 下の階からは未だ足音が聞こえてくる。
 生徒たちはおそらくいなくなってしまったのだろう。サネはそう直感していた。

 思えば“奴ら”が現れるときはいつもこうだった。直感は確信へと変わり、新しい日常は何事もなかったかのようにサネを塗り潰した。今日だって例外ではない。

 そこへ、静まっていた空気をいきなり大量の銃声が掻き乱した。
 教室のガラスは何の抵抗もなく立て続けに割られていく。
「まずは屋上に逃げろ。絶対に振り向かずに全力で走れ。あたしも必ず追いつくから。あたしがあいつらをどうにかするから―――――」

 言い放った直後、サネは右手に温もりを感じていた。
「ふざけんな! 一緒に逃げるぞ!」

 無意識に傾く意識――サネは手を引かれて階段を駆け上がる。拒む気配もなく受け入れるのみで、ただひたすらに彼の後ろ姿を追いかけた。迫るように廊下の窓ガラスが砕けていっても足は止まることを知らず、走った。
 項垂れるように開いた視線は流れていく教室を見ていたが、そこには誰の姿もなかった。

 いつも見ていた光景はそこにはなかった。

 アキラは屋上へと続く扉で立ち止まり、その取っ手に手をかける。
「くそっ! 鍵がっ……!」
 サネは後ろへと振り返り、遠くに何人かの人影を確認する。
「っ伏せろ!」
 反射的に伸ばした右腕が時間を遅延させる。指示――――予定された直線軌道は人影の方を指さした。

 ――――が、サネは自分の体勢が崩れていることを遅れて認識する。

 倒れていく自分の体。すぐ左には丸い何かを握ったアキラの姿。投げ返すような身振り。

 ――――――――――――手榴弾。安全装置が外れている。

 押されていた自身―――サネの体はゆっくりと地面へと接触し、同時にサネの意識と緊張は乱れた。

「危ねえ!」

 力強く投げ返された手榴弾は地に着くより先に爆発し、廊下にいた守護者たちを吹き飛ばした。
「アキラ…………」
 殺したのはその腕。手にかけたのは少年。立ち尽くす彼は置いていた銃を取った。
「……………鍵………、外せるか?」
 ついに壁は、超えられた。越えられない壁は打ち砕かれ、そして帰り道は失われた。蜘蛛の糸一本届くことなく、その退路は断たれたのだ。それはとてもあっけなく。一瞬にして。
 サネの開いた口はなかなか塞がらなかった。それでもなんとか呑み込んで、小さく頷き、鍵を“取り出した”。
 錠の外れる音がしたのを確認して、扉に手をかける。
 重たい扉を二人で開けて、また鍵を閉めた。

 目の前いっぱいに広がるのは曇天。学校に着いた時と変わらない、赤い曇り空が二人を迎える。
「ここまでくれば…、一応安全だよな」
 アキラは少し小高くなっている場所まで歩いていく。
 しばらくしたところで腰を下ろし、手を着いた。
「…ほら。お前も座れよ」
 何を握ってもいない拳に力をいれて、サネはその場に立っている。

 その足は途中までも動かない。

「……あたしはいい。大丈夫だから」
 アキラは銃を置いて、両手を後ろについて背筋の力を抜いた。
 軽い溜息。それは少し笑みを含んでいたようにも見えた。
「いいから。座れって」
 沈黙の後、サネ恐る恐る歩を進めていく。アキラの隣までくると、黙って腰をかけた。
 落ち着いているのは重たい空気。サネはこんな空気を作ったのは誰かと自問するが、答えは出せない。少なくとも自分ではないと信じたかった。

 いや、認められなかったの間違いかもしれない。

「………だからあんなに暗い顔してたりしたんだな」
 先に口を開いたのはアキラだった。日常を振り返る表情で、過去を思い出すように。
 昨日だろうが一昨日だろうが、関係はない。サネにとっては、普段通りだった。
「別にあたしは……顔になんか出てなかった」
 何かあったとして、それは新しい日常の範疇。何がおかしい訳でもない。この表情も以前の表情も、いつも通りだっただろう。そこに何の違いが判るのか。
「出てたか出てなかったかを決めるのは俺だ。そんなん、鏡見てから言えよ」

 サネは分からない。煮え切らない感情が爆発しそうだった。

 少女は新しい日常を受け入れたのだ。確かに、不確かな瞬間にそれを受け入れて、謳歌した。以前の日常の為にこれまでの常識を軽々しく捨てた。それを見透かされていたかのように思われるのは不快で、他人にはわかる訳がないという一種の自信が憤りを感じさせる。
 緊張と陰りは段々と滞っていく。圧縮されたバネのように、姿を隠していた感情は、すぐ喉元まで出かかっていた。

「じゃあ、なんだよ。アキラはどう思うんだよ! アキラだったらどうしたって言うんだよ! 何が起こったか分からない! 何をすればいいのかも分からない! 何が何だか全く理解できない! 分かることが一つも無いのに、答えなんか出せるかよ!」

 何もかもが未知。現実に存在する未知数は無限だ。しかしそれがいくつあろうが導かれる方程式は解かれることを許さない。法則もなければ定理もない。
 常識とはとても曖昧で、丈夫に見えるだけの穴だらけな網に過ぎない。
  その網で何がすくえるのか。
  その網が人を救えるのか?
 そんな問いに、常識は全うな答えを提示するだろうか。

 好奇心は人を殺す。踏み出した人間を一人残らず、残酷に破壊する。

「どうしようも、ないんだよこんなの…………」
 閉ざされたサネの視界は何も写しはしない。
 広大な光景を相手に人間は何もできない。押し寄せる暗闇の前に、人間はどうすることも。

 お互いの沈黙が赤く暗い世界に溶けていった。

「……………………そうか」
 アキラの声は低く、静かに鼓膜を揺らす。
「俺、絶対お前のこと忘れねぇ。死んでも幽霊になって、ずっと側に付き纏ってやるよ」

 冗談交じりの明るい笑顔は何故か少し砕けていて。

 真意はサネの知る限りでなく、彼は歯を見せて笑っていた。
「……………なんだよ、それ。諦めたってことかよ。それともこんなことに巻き込んだあたしを――――」

「なぁ、サネ」

 ―――――初めて、名前で呼ばれた。

「俺はお前のこと恨んではないし、かといって諦めるとしたら未練は残したくない。つーかむしろ俺が死ぬかどうかってのはどうでもよくて、今はお前のことを話したいんだ」
「……………」
 アキラはしょうがなさそうに肩を竦ませ、首を振る。
「じゃあこうするか。ここを逃げ切って生き残れたら、何したい? それとももう諦めたのか?」

 手に込めた力は虚しいほどに空回って、何も掴んではいない。

「俺は諦めてない。今までしなかったこと、できなかったこと、これからやりたいことがある。だから俺は、諦めたくない」

「…あたしは……………」

  常識なんて弱い人間が作り出した心の拠り所だと思っていた。
  ありとあらゆるものが壊れた。おびただしい量の処理できない情報が波となって押し寄せてきた。それを前にして『諦めない』? 『諦めきれない』の聞き間違いかとも思える。
  弱い人間の悪あがき。それは抗えない現実を前にした人間の逃避。言い訳だ。

「あたしは…………………」

  無駄だと分かっているなら悪あがきはしない。
  非常識を受け止めて、非現実を受け入れる。
  前だけをみて、後ろは振り返らない。
  できないことはしない。

「………………………………………、今できることをできるだけ、やる。だからあたしは………………………っ! 今に絶望しないで、未来を信じたい! 可能性があるならそれにかけたいっ………! これまでの日常をっ、取り戻したいっ…………!」

 目頭は熱く、声は無意識に震える。必死に紡いだ言葉は喉で潰れて、なかなか先へ進まなくなってしまう。口にしたそれは“あたし”を壊してしまいそうで、胸を強く締め付ける。

「だから……っ! だから――――――――っ!」


 ―――――目の前の光景が、一気にぼやけた。


「んむっ――――――――、っ………………………………………………?!」

 その行為が何なのか、理解するのに時間はかからなかった。が、それそのものを理解することはできない。気付けばサネは抱き寄せられていて、目の焦点が合わせられなくて、唇に暖かな感触があって。

 ……………………………キス、された………………………………………?

 何回転も空回りする思考。混乱しているうち、自分だけが振り回されているような気がして、悔しくなって、目を瞑った。
 心臓の音はいつにも増して大きい。負けてたまるかという必死の抵抗は体を変に力ませるだけで。ただ、それだけの時間が過ぎていくのを感じていた。

 お互いの唇が離れ――――アキラは勝ち誇ったように一際明るく笑った。
「よかった。俺、サネのこと好きだ。だからずっと側にいて守りたいし、絶対に諦めたくないんだ」

 これまでにない距離。顔が熱かった。
 遅れて回り始めてきた思考は返す言葉を必死に探す。

「………こんなとこで告るとか、雰囲気大事にしろって言ったの、誰だよ」
「わりぃ」
「あたしがフったら、どーすんだよ」
「さぁ」
「死んだら元も子もねーじゃんか」
「死ぬまで一緒にいる。死んでもずっと側にいるって、さっき言っただろ」
 悪態をつく口はきっとただの照れ隠しで、奥に眠る本心を知られまいとする悪あがきだとサネは自覚していて、それでもそんな無駄なことをやめられる訳もなく。
「今更っ………………………遅ぇんだよバカ……………」
「お互い様だろ。いつもと違って」
 安心しきったように、サネは無意識に頬が緩んでいて、弱弱しい笑顔をアキラへと向けていたのだった。

 鉄柵の向こうでは沈みかけた太陽が黄昏を演出している。綺麗な夕日を屋上から眺めるのは二度目。以前と変わり映えしない高さで見る夕日は、何の変哲もない、それ。
 つい先ほどまでに見ていた光景はサネにとっての日常で、違和感を微塵も含まない。逆に、今展開されている時間の経過はサネに不信感を抱かせるほど穏やかで、落ち着いていた。

「俺さ。前、サネが変な親父ぶっ殺してるのを見たんだよ」
 アキラが遠くを眺めながら呟いた。
「は…っ?!」
「ちょっと寄ってみた何でもない普通の道でさ。意味が分からなかった。周りには誰も人がいないし、何が起こってんのか理解できなかった。初めはあれがサネじゃないんじゃないかって思ったりもしたけど、案の定次の日のお前は調子が変だった」
「ちょっと待てよ! それじゃ今まで……っ」
 言って、口をつぐむ。
「…………………………何でアキラはあたしを信じたんだよ」
 一方でアキラは得意気な表情。ヘラヘラと肩をすくめて見せる。
「俺が何年お前と接してきたと思ってんだ」
 脱力感。視線は落ち込み、サネは溜息をつくように悪態をつく。
「………………………………………ヘタレのくせに」
  少しは頼れるところもあるじゃねーか。
 アキラはうっせー、と苦笑いをする。それからサネをまっすぐと見つめ直した。

「俺がついてる。俺は裏切らないから。俺にはサネが今まで何と闘ってきたのかは分からないけど、出来る限りのことはするからさ。俺は、ずっと隣にいるよ」

 夕焼けの空の下。秋季はまだ遠く、夏の暖かさはしぶとく根付いている。
サネは意識していなかった火照りを頬に感じて、急いで目を逸らした。

  熱い。今日もまだ、秋は来ていないらしい。

「わ、わかったからっ。だからその、……………………………………………………こっちみんな恥ずかしい」
「何だよ。サネらしくねぇな。もっとはっきり言えよ」
 わざとらしいフリ。アキラの顔がニヤけているのがよく分かった。
「うっさいバカ! 死ね!」
 どうせ無駄だと知っていても珍しく、今のサネは大きく目の前から体を背けた。
  困ったもんだ。こういうのは苦手なんだ。

 『これから先はどうなる?』

 どこから湧いて出たのかも分からない疑問がよぎる。
 生憎それらしい回答はない。むしろこっちが教えて貰いたいぐらいだとサネは愚痴を吐く。
 時々刻々と傾いていく太陽は何も語らない。教えてはくれない。沈みかけの太陽はただ、無情に夜の闇へと逃げるのみ。
 次第に暗くなっていく空。その雲は厚く、恵まれない滴を落とし始める。
(雨・・・・・・?)
 今の時期には珍しい夕立。ぽつりぽつりと牽制した後、雨脚は段々と強くなっていく。
 お互い雨から身を守ろうとは思っていないらしい。

 雨が無機質なリズムを奏でていく中、アキラは鉄柵に寄っかかって明るい雨天を遠くに眺めた。

 もう戻れない。もう帰れない。振り返ることも立ち止まることも許されない。
 変化とは突然だ。それ故に人は戸惑いを隠せず、受け入れることができない。
 だから何も見ずに進むしかない。迷ってる時間なんて余裕を、人間は持ち得ていないのだ。
 雨に濡れて肌に張り付いた髪がサネの視界を遮る。

 夕立の時のあの、変な匂いが鼻をかすめた。

「…あぁ、来たぞ」

 屋上の扉は爆風を伴って吹き飛ぶ。
 二人は身をかがめ、各々の武器を構える。
 ひしゃげた扉から出てきたのはスーツ姿の男たち四人と一人の少年。
「ケンゴ……………?」
「しぶといんだね。伊吹さん」
 傾げた首。両手には何も持っていない。その視線は滑るように隣へと移る。
「アキラ。君も同罪だよ。言い訳なんて聞けない。やり直しは利くけど、訂正は効かないからね」
「訳わかんねぇこと言ってんじゃねぇぞケンゴ! 何がしたいんだお前!」
言葉を迎えたのは嘲笑に似た笑み。心の底から湧き上がる疑問を表面化したような表情。
「君の知るケンゴはもういないよ? さっき消えたんだ」
「消えた………っ?!」
 当たり前とでも言いたいのか。遮るものもなく、友人の口は動いていた。
 まさか死んだ? ケンゴが?
 だが思考はすぐに納得のいく結論を導く―――――ケンゴは無関係もいいところだ。
 冷静さを立ち返らせ、余裕を崩さないように思考を立て直す。
「どういうことだよ。まさかケンゴまで守護者がどうとか言い出すんじゃねーよな?」
 返答はなく、沈黙。目の前の五人は何も言わずに銃を取り出した。
「管理者が規律を乱している以上、守護者はどこにでも現れて君を排除する。ここまで地形被害が出てしまったんだ。もう止むを得ないよ」
 相変わらず向こう方の言い分は理解できそうにない。
 五人の持つ拳銃は少しずつ形状が違い、服装こそ揃っているものの、奇妙な統一感のなさが浮かばれる。
 ケンゴをはじめとし、四人もゆっくりと銃口を前に向けた。
 すかさずアキラも自分の銃を構え返す。
「くっ……っ!」

 緊張状態であることは確かだ。が、何故撃たないのか。

 些細な疑問に果てしなく何かが引っかかる―――――有無を言わさず撃ってくるんじゃないのか? 五人とも、照準はあたしに向けているのに?

「伊吹さん」
 ケンゴは構えた銃越しの視線を外さず、静かに歩き出す。

「伊吹さんはまだ檻を信じてるの?」

 何…………?

「それ以上くるなケンゴ! …………っ……………いくらお前でも、撃たない保障はねぇぞ」

 視線は依然として外れず。歩みも止まらない。

「ここから出ようと思ってる? 君はこの世界をどうしたいの?」

「おいケンゴ!」

 歩調は少しも乱れることを知らない。確実に距離は短くなっていき、ついにそれは目と鼻の先に――――


 「君は、この世界の人間なんだよね?」


 ―――――――――――――――――――――発砲。

「―――――――――」

 アキラが―――――――――引き金を引いた。

「―――――――――――――えっ」

 力が抜け、ぐらつき始める四肢―――――――

 スーツ姿の男たちは標的を変え照準を新たな敵へと向けていく―――――――――――

「―――――!」

 瞬間移動―――放たれていた銃弾を弾き、前方の二人の心臓にドライバーを突き刺した―――――取り落とされた銃はまだ地面には着かない――――――――

喉、首、心臓――――確実に、精密に、流れる様に力強くドライバーを突き立てた―――

「―――――――っ」

 駄目だ――――――――遠い。誰かが遠くから放った弾丸が視界を流れる――――――

 速い―――多い―――まずい――――瞬時にアキラの背中へと移動する――――――

 次の瞬間、目の前に現れた光景―――あたしは後ろを振り返った――――――。

「ぅ、あぁあっ!」
「!」

 数えきれない数の弾丸が命中した。零れた弾は跳弾し、次には五人の肉体が死体へと変わって地面に辿り着いた音が響いた。
「サネ!」
 傷は問題ない。サネはよろけながらも周囲を確認する。
「大丈夫……すぐに治るから」
 辺りは一瞬にして赤く染まった。残された二人の足元に広がっていく血。

 いまだ滴り落ちる音が耳に届く。

「本当に大丈夫か………」

 血の、滴り落ちる音――――。

 アキラは視線を一度落として顔を上げた。

「っ――――――、あ……………………………………………………?」

 血だまりに夕焼けが綺麗に反射する。
 アキラの膝が力を失った。

「―――――マジかよ」

 六人目の体が倒れる音が、感覚が、足元から伝わった。
「アキラっ!」

 撃たれていた。

「そんなっ、何で――――っ!?」
 溢れていく。氷から溶けだした水のように地面を這って広がっていく。
  頭の中では数字が踊り狂う。

「わりぃ…………何発か、弾が……………」

 さっきの銃弾が体を貫通した――――――?
 冷や汗。上がる心拍数。視線がグラグラと宙を泳ぐ。
「そんな、訳…………っ!」

 首を横へ振った。

「大丈夫だよな?! 動けない程じゃないよな!」
「動くのは、ちょっと…キツいな……」
 背中へ回した手は異様に暖かい。呼吸が荒くなっている。
「ふざけんなっ!」

 どうする? どうすればいい? 何ができる?
(分からない―――――――――――――)

あたしは――――

「……はっ、あっ……………」
 振り返る。背後にはよろけながら銃を構える人物が一人。
「終わりだね…。君は目的を失った」
 友人の形をした人形がひとりでに呟く。
「どうする? 僕は君を殺せば任務終了……そいつが死んでも任務終了…………。管理者はついに目的を失ったんだ」

 人形は銃を構えている。

「まだ……っ、まだだ………! あたしはまだ、何も失ってない…っ!」

 二十秒。

「決着を付けようか。管理者」

 十六秒。

「寝るなっ! 起きろよぉっ!」

 十三秒。

「…もっと…………」

 十秒。

「さぁ」

 九秒。

「時間を―――――――――――――っ!」


  時間の感覚が延長される。秒間隔が延びて、膨らんでいく。
 落ちていく瞼――――意識。すぐ隣に感じていたはずの日常がゆっくりとまどろんでいく。

  命令は実行され、延長はさらに変換される。
  キリキリと軋む音―――――空間が歪んでいく音。
  ビキビキと割れる音―――――空間が強張っていく音。

 発射されていた銃弾が眉間をゆっくりと狙っていく。

  命令を変更。感覚は消え去る。

 限りなく時間の遅くなった世界。暗い。何も聞こえない。何も分からない。


 何も、感じ取れなくなった。


「ああ、あ、ぅあ、あ・・・」

 頭を押さえる。

  ここは―――――、あたしの住んでいた世界じゃない。


「ああああああああぁぁあぁあああああああああああっ!」


 気付いた時には声が出ていた。叫び声が漏れていた。
 自分を取り巻く世界を全否定するかのように全身がそれを拒絶していた。
 ただ、腕の中に“いた”日常を決して離さないよう、固く身を縮こまらせていた。


 ―――――――――――――――――――――――――――なんだこれ。





 国家間の均衡が破られてから半年。突如として戦争が勃発したことが時間の問題というのは言うまでもない。今までに押さえつけられてきた過激派思想が爆発し、偏見や侮蔑が世界中を飛び回った。
 普段あまり意識していなかった感情に火がついたとでも言われようか。
 当然焦る国家共同体。戦火が治まるまでひとまず耐え忍ぼうといった主張。慌てて最高級精度のシェルターを各国に研究させた。
 命令を受けた国のひとつ、日本は元々戦争にはあまり関与していなかった。
 日本には少ないながらも資源があり、技術があり、そして冷静さを持った眼があった。
 政府は早急にあらゆる耐性を持つシェルターを技術者たちに造らせる。すぐ隣ではいつ何が起きてもおかしくない環境だったためか、巨大シェルターの建造はどの国よりも早かった。
 しかしその間も戦争の勢いは止まず、被害は日本にも少なからず及んでいた。
 時すでに核よりはるかに安値で造りやすい生物兵器や汚染物質が各地を覆っていた後。シェルター完成とともに多くの人がそこへ逃げ込んだ。今後必要になるだろうと、多くの機材と食料が収納される一方、限られた空間は想像以上に狭かった。
 シェルターは外部との接続の一切を断った、独立した空間。
 しかも、汚染されたにも関わらずシェルターへと入ってしまった人たちと、それ以外の健康な人たちとが接触することのないように部屋はひとつずつ与えられた。
 こうして日本のごく一部の人々は、表面的に生き延びたという訳だ。
 他の国のことなど構う暇はない。どの国も必死だったし、前しか見えていなかった。
 一週間が経ち、一ヶ月が経つ。限られた食料と残された資源をじっと見て、ある技術者は言った。
 「このままではみな死んでしまう。私たちは生ける屍などではない。この狭く閉ざされた空間に、新しい世界を創ろう」。

 こうして生まれたのが仮想現実『クロノスバベル』。

 シェルター内での通達。
 「私たちは死ぬために生き延びたのではない。私たちは再び私たちの生活を送り、私たちが好んだ日常を手に入れることを願ってこの暗い現実を逃げてきた。私たちは人間だ」。

 滝のような荘厳な声。最後に一言付け加えて、スピーカーは黙りこくった。

 「私たちは自由の動物である」。

 一度眠ればその仮想現実から出ることはない。クロノスバベルは普段自分たちが見ている夢の延長線に過ぎない完璧なシステム。穴などはなかった。
 第三次を彷彿とさせる全ての記憶を抹消し、その人がそれ以前に営んでいた生活を、記憶を元に忠実に再現。その人がその世界で過ごすための『現実と微塵も変わらない肉体=アバター』を与える。仮にそこでケガをしたり、死んでしまっても何ら問題はない。夢は夢。新たな設定とアバターを与えられて新しい人生がスタートするのだ。
 人々の数や国のあらゆる部分でさえ完全に再現された世界。〝本物〟の人間以外はクロノスバベルがランダムに生み出す自立起動型のプログラムを持つアバターデータがカバーした。
 仮死に近い状態で眠りについている人々に食料などほとんど必要はない。 つまりいつなくなるか分からない食料に不安を覚える必要もなくなったし、寝覚めの悪い悪夢にうなされることさえなくなった。

 人々はユメをみることになったのだから。

 ただ一人の犠牲によって、システムは順調に動いていた。
 ブートストラップ問題―――――――――例えば自分の履いている靴両方を一気に持ち上げることができないように、クロノスバベル本体が自身のシステム内部を解析することはできない。したがってクロノスバベルは『外部の、かつ学習するオペレーター』を必要とした。それが通称〝管理者〟だった。
 クロノスバベルスネットワークが張り巡らされたシェルターの中に逃げ込んだ人間はおよそ四万六千人。その中からたった一人をクロノスバベルが選出してシステムを外部から管理させる。それが管理者の役目であり、存在意義。そしてこれが『ただ〝独り〟の犠牲』。

 管理者の立場は絶対だった。

 クロノスバベル内の天候を始めとする内部環境や、仮想空間内での国家間均衡シミュレーション設定、特定の人間に対する幸運操作等、システム外部に関しては厳密に区切られた各個室への自由な出入り、感染者と判断した人間のいる部屋の破棄、等々。実行したい操作を脳内で念じるだけでクロノスバベル外の独立した別途操作プログラムが脳波を受信しそれに準じた操作をシステム内外にて再現する―――。選ばれた者はクロノスバベルにおけるというか、シェルターそのものの支配者であるといった方が表現は正しいかもしれなかった。

 外部となる現実世界では管理者本人が、内部となるクロノスバベルでは管理者のアバターデータが、日々生まれ出るバグなどの想定外事項を排除していく。

 四万六千人分の食料は管理者ひとりには十分過ぎた。管理者自体も同様。現管理者が死んでもシステムがすぐにそれを認識し、すぐに別の管理者を選別、仮想空間より現実へと引き戻す。単純に考えて46000-1。かすり傷にもならない。
 内部でも同じ。管理者のアバターデータが使えなくなっても、前管理者のアバターデータが瞬時に再現され、〝守護者〟として内部の規律を保護する。

 システムは全く、順調に廻っていた。

 現実世界で、選ばれた管理者が事実を知って発狂することも、
 約束された一生の孤独に絶望して自殺することも、
 現実世界で〝生きている〟のは自分だけということを自覚して汚染物質や細菌兵器で満たされたシェルター外へと出て行くことも、
 そもそも管理者自身が感染者だった場合の死亡も。結局食料が足りなくなって餓死することも。

 全ては計算通り。

『死に行く運命から目を逸らし、散々楽しんで気付いた時に一瞬で死ぬ』。それが技術者たちの本当の狙い。残された人間たちの最後の悪あがきは成功していったって訳だ。


「―――――――――――――」

 気が付くと、ひどく殺風景な部屋にいた。
 ベッドのような場所から半身を起こし、私は辺りを見渡す。
「ここは…………………………」
 いつだったか、夢の中で見た部屋。
 足元には―――――――――血まみれになった男の死体が転がっている。

 その時、激しい頭痛が突如として現れた。私はその痛みに当然頭を押さえ、うずくまる。

「―――あぁっ!」

 ……………そう。そうだ。完全に思い出した。
 頭痛は霧のように晴れていき、クリアな思考がハッと我に返させる。
 私は科学者だった。この狭い灰色の世界に招待された一人。“ユメ”のような素晴らしき世界を創った人間のうちの一人だった。
 足元に転がる死体は誰だか分からない。だが最後に言った言葉ははっきりと耳にしていた。

『再び冷たい世界に来てしまったか。残念だがもう君は眠りにつくことは無いだろう。壁の外は死の世界。人間は君と私だけになってしまった。あぁ、私は気が狂いそうだよ。でも、安心しなさい。君は死ぬ。生きたくても死ぬ。チャンスは無い。おめでとう。君の日常は唐突に終わりを告げた』

 私の両手は黒い血に塗れていた。

 何故殺してしまったのだろう。夢と勘違いしていたのだろうか。
 だとしたら、今までどれだけ夢を見てきたのだろう。気付けば時間感覚などとうに何処かへ置いてきてしまっていて、虚しさだけが四肢を脱力させる。それを実感して、私は後悔せざるを得なくなった。

 私はユメを見過ぎていた訳だ。

「…………モニターを出せ」
 手元に現れる画面(ホログラム)。映し出されているのはシステムの稼働状況と生存者の残数。
 クロノスバベルは現在も順調に動いているようだ。外部管理者である私と、内部管理者である私のアバタ―。点滅する生存者の残数は「1/46000」を示していた。
 生存者は一人。伊吹実のみ。二番目の生存者は私が殺した。この、伊吹実が。

「…………………………………ははっ」

 狂った話だ。思わず笑みが零れてしまう。シェルター外にはもう誰も生き残っていないのに、それでいて貴重な話し相手を殺したのだから。
 腰の向きを変えて、ベッドから足を降ろす。
 今の私に与えられた選択肢は二つ。もう一度夢の中に入り、管理者として好き勝手生きて夢の中で死ぬか、このまま現実世界に残ってもう長くないであろう人生を絶望に包まれながら孤独死するか。
 幸い、今の私はクロノスバベル内では無敵だ。外部を自覚したことで、本来内部管理者にはできないこともできる。そのバグを検知しても、クロノスバベルの守護者達は私を削除することなど不可能だろう。管理者にしかシステムを操る権利はないのだから。

 私は辺りを見回した。

 後ろには寝心地の良さそうなベッドがひとつ。
 部屋の中央には粗末なテーブルとイスがひとつずつ。
 部屋の奥には錆びれたドアがひとつ。冷たく、固くなった死体が足元ににひとつ。
 現管理者はこの私。邪魔をする物は無く、止められる者もいない。他の人間はもういなくなった。
 こんな狭くて息苦しい世界に残るなんて、御免だ。私は私の思うままに生きる。
 そして、死ぬ。

 初めから決まっていた。私の決断は断固として揺らがない。

「ドアを開けろ」

 システムが私の思念を認識し、ドアが一人でに開く。
 そこを出てみると、長い長い廊下が続いていた。

 私の決断――――。

「私を出口まで案内しろ」

 この廃れた世界を見下すこと。この死んだ世界を自分の目に焼き付けて、死ぬこと。

 廊下の壁には赤い矢印が表示される。延々と遠くを指さし、警報音(アラーム)を鳴らす。

 この、全てが滅び去った世界を私自身の目で見てみたい。もう夢は飽きた。見飽きたんだ。

 私の好んだ日常は初めから無かった。守ろうと躍起になっていた想いは、全て虚構。
 弱い心が見せた幻。あれは心の拠り所だった。常識なんて初めから無かった。

 私はそのことを初めから知っていたんだ。

 弱い心は常に常識という檻を作り出す。それが殻となり、その人間を覆い、保護する。
 その中で育まれる偏見は推測の域を出ず、現実を直視しない。
 直視できないよう、その人間自身が壁を作るのだ。それが仮想現実(クロノスバベル)を創りだす原動力となる。

 どれくらい歩いたのかも分からないくらい歩いて、やっと大きな扉の前に辿り着いた。
 ギスギスと軋む間接が痛む―――“久しぶりに”歩いたせいで足が棒みたいに感じられた。
 忘れていたはずの空腹感も大きく、フラフラと足元もおぼつかない。

 ドアに手をついて――――私はその感触をしっかりと確かめた。

 冷たい。ひんやりとしていて、その心地は気持ち良い。

 それからドアから離れて、真っ直ぐと見つめた。
 終わりだ。後ろは振り返らず、このシェルターの全てに別れを告げて。

「開けろ」

 重々しい金属音とともに扉が可動する。何重にもなっている扉のひとつひとつが開いていき、ついには最後の扉が動き始めた。

 ドアの外はもうすぐ。
 汚染物質と細菌兵器が蔓延する、
 ここと変わらない灰色の世界が、
 開きかけの扉から次第に顔を覗かせた―――――――――――――――。



 吹き抜けるのは金色の風。前方には緑色の大地が広がり、花々が咲き乱れる。
 眩しそうに開けた瞳には想像以上に青い空が映りこむ。
 すっかり色の抜けたロングが、ふわふわと揺れていた。
 私はよろよろと歩いて、地面に手を着いてしまった。そこから伝わる感触は暖かく、柔らかい土が手先の触覚を満たしていく。
 生態系は破壊されたと聞いていた。地球環境が自己修復できないレベルにまで崩壊したと知らされていた。

 なのに、なんだ、これは。

 倒壊した建造物の表面を覆う植物。風を受けて揺らぎ、綿毛のような種が宙を流れた。
 確かに人間はいなかった。動物は一匹といなかった。けど、何かが違っていた。
 なんて美しいんだろう、とか。
 なんて綺麗なんだろう、とか。
 まさか本当に心の底から思う日がくるとは思わなかった。

 私は、私は―――――――――――涙なんて出ないと思っていた。

 目頭が急に熱くなり、涙腺が震えるのが分かった。

 嘘だ。うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだウソだ。

「嘘…………………だろ……………」

 嗚咽がしゃっくりのように止まらなくなり、私は固く目を閉ざす。溢れる感情は嘘じゃない。この世界で本当なのは私だけなんだ。
 そうやって、心が世界を否定せずにはいられなかった。

 その後のことはよく覚えていない。ただ、ひたすらに声を上げて泣いていた。
 周りなんて気にしない。私以外、誰もいないのだから。

 ――――――私の意識はそこで途切れた。



 気が付くと、あたしは天井を見ていた。
 ぼんやりとした視界。傍らには女の人が座っている。
 女の人はあたしが目を覚ますのを見るなり、泣きながら抱きついてきた。
「心配したのよ! あの時からなかなか目を覚まさなかったからっ…!」
 この人は誰だろう。よく覚えてはいない。記憶の片隅に問いかけても答えは出ず、女の人はただ泣いて謝るばかりだった。
「ごめんね…もう独りにしないからね……」
 視界を覆い隠すように抱きしめる女の人。
 隙間から覗く場所に、一本のプラスドライバーが見えた。
 ―――――あぁ。そうだったのか。結局あたし自身も“本当”じゃなかったのか。
 ユメは夢。所詮はその程度。全部“ウソ”という“ユメ”。
  なんだこれ。夢か。
 あたしは久しぶりに動かす身体(アバター)に力を込めて、上半身を起き上らせた。
 ちょっとフラつくけど、問題はない。すぐに慣れる。

「――――――ねぇ」

 口の端から、笑みが零れた。


「そのドライバー、取ってくれない?」


 規律とはルールのこと。それすなわち――――――あたし。
 あたしはこれからも生き続ける。このユメの中の管理者(ドライバー)として。


 独り取り残された部屋。それは心なしか、あの時の風景に似ていた。









                                  終わり

ななん
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