「わるい。別れよう」
洋平が真っ直ぐな瞳で彩乃を見ながら告げた。
「…」
静かな部屋に、強まってきた雨音だけが響く。

6年付き合ってきて、最後の半年は同棲。このまま結婚するものだと、彩乃は思い込んでいた。
洋平だって、それが当たり前みたいな顔をしていたのに。
最近あんまり触れ合うこともなかったのは、夫婦みたいに心地よい距離感が出来てきたからだと思っていたのに。

「もう、決めたって目だね」
何を言っても無駄。洋平が一度決意したら考えを変えない男なのは、十分すぎるほど知っている。
「ああ。もう、決めた。今までありがとう。幸せになってくれ」

彩乃は唇を震わせて、声を絞り出した。
「何が幸せによ。突然別れ切り出して。私を1人にして。30過ぎるまで引っ張っておいて、勝手なこと言わないでよ!」
耐えきれず泣き崩れる彩乃に、洋平は憐れむように言う。
「1人が嫌なら、アメは連れて行っていい」
アゴで指し示された、アメリカンショートヘアのアメ。
何かを感じ取ったように、警戒して2人を見ている。
一緒に住み始めた春。暖かく降り注ぐ雨の日にペットショップから連れ帰った、2人の家族。ずっとずっと2人と1匹で一緒にいられると思ってた。

「嫌よ。アメを見るたびに、洋ちゃんとの事を思い出しちゃうもん。アメとも別れるのは寂しいけど。一緒にいるのはもっと辛いよ」
「そうか」

「別れるなら別れるで、理由を教えて。私には聞く権利があるはずだわ」
「そんな事、聞いてどうする」
「どうするかは、聞いてから考える」

ふー
洋平はため息をついてから、口を開いた。

「好きな奴がいる。ずっと気持ちを押し殺してたけど、もう、これ以上お前を騙しながら一緒にいることは出来ない」
「それって…ずっと、私よりその人が好きだったってこと?」
「そうかもしれない」
洋平は静かに頷いた。

「6年も?」
「…アイツとは20年以上前から一緒にいるから」
「は?」
驚きと怒りと悲しみと、彩乃はグチャグチャになった感情で流れる涙を止められなかった。

「付き合ってたわけではない。これからも付き合う事は出来ないだろうし、俺は気持ちを打ち明けるつもりもない」
「何それ」
「打ち明けたら、きっとアイツは離れてしまうから。俺は言わない」
決意の視線。洋平は、固く心に誓っているようだ。

「ひどい」
「ひどい?」
「私の事騙し続けてきて、捨てて、それなのに、自分は傷つきたくないってことでしょ?」
「!」
「意気地なし!最低!当たって砕けてきなさいよ!それが私へのせめてもの礼儀じゃないの?」
「…」
「それに…洋ちゃんなら…洋ちゃんに好きって言われて落ちない女なんていないよ。私、本当に…洋ちゃんの事…本当に…大好きだったんだから…」

もう、抱きしめてくれることはないんだね。
頭を撫でてくれることも、涙を拭ってくれることも。

「今夜は家空けるから、荷物整理して出て行ってくれ」
洋平がそう言ってドアを出ていく。

優しくない。優しくない。優しくない。
ここでヘタに優しくされても、惨めでしかないけれど。

バタン

冷たい音で閉まったドア。
彩乃は子供のように大きな声で泣きじゃくった。
アメが心配そうに遠巻きに見つめている。

「ごめんねアメ。もう、一緒にいられないんだって」



「女、だったらマシだったよ」
閉まったドアの向こうで、洋平が小さく呟いた。
相手が女だったら、どんなに簡単だっただろう。
うまくいくにしても、いかないにしても。告白することは容易かったはずだ。

洋平は傘もささずに、行くあてもなく歩き続けた。
自分勝手なのは痛いほどわかっている。
優しい振りはもう出来なかった。

彩乃の言う通りだ。
自分は告白する勇気もない、意気地なしだ。



「洋平?」
声を掛けられて、足を止める。
「広志!」
今、一番会いたかった、友達。
今、一番会いたくなかった、アイツ。

「どうした、洋平。ビショビショじゃねえか」
「ああ…ちょっとな…」
「うちでシャワー浴びてけ」
無意識に広志の家のそばまで来ていた自分に苦笑する洋平。
コンビニに寄って下着と缶ビールを買う。濡れた体が芯まで冷えた。

広志の家に着くとすぐ、シャワーを浴びた。

借りたTシャツに染みこんだ広志の匂い。
深呼吸してから、洋平は自ら切り出した。
「彩乃と別れたんだ」
突然告げられた広志は、一瞬驚いた顔をしたてから「そっか」と頷いた。

「ふーん。てっきり結婚するのかと思ってたよ」
「彩乃もそう思ってたみたいだけどな」
「じゃ、お前から別れ切り出したのか」
「ああ。好きな奴がいるんだ。ずっとそいつが好きだった。もう、隠しながら彩乃と付き合っていくのは限界だった」
「そっか。そっちにはもう告白したのか?」
「いや。言う気はない。言っても受け入れてもらえないの、わかりきってるし」
「ふーん…」

沈黙が続く。

「広志は彼女とどうなんだ?」
「ああ、ま、普通にうまくやってるよ」
「結婚すんの?」
「そうだなあ。たぶん、このままだとするんだろうな」
他人事のように広志が笑った。

「好きなのか」
「どうだろうな。一生添い遂げたい、って程強く思ってるわけでもないけどな。別に結婚したいって気持ちもないし。1人の方が楽だし」
「ふーん」
「あ、でも洋平とは一生仲良くしてたいって思ってるぜ」
「!」
洋平が耳を真っ赤に染めて、うつむく。

「あれ?反応おかしくね?」
「いや、お前が急に変な事言うから」
「変か?俺は、お前を親友だと思ってるんだけど」
広志が不思議そうに見つめてくる。

「お、俺もそう思ってるよ」
洋平は真っ赤な顔を見られまいと、広志の顔を押しのける。

カンパーイと、何に対してなのかわからない乾杯をして2人は缶ビールを口に運んだ。

ザーザーと降りしきる雨の音。

「雨止みそうにないな」
「今日、泊めてくれないか」
「別に構わないけど」
「サンキュ」
洋平はグイとビールをあおった。

きっと、眠ることなんてできないだろうけど。

「雨がうるさくて寝付けないかもな」

洋平は言いかけた言葉と本心をビールと一緒に飲み込んだ。

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