「博士・・。やりましたね。実験は成功です。」
「うむ。まだ本当に成功なのか検証をする必要があるが、ひとまずは成功と言えそうだな。」
「これで、長年の苦労も報われたってもんです。今日は祝杯をあげにいきましょう。博士の好きなマッカランでもどうです。」
「うむ。」
「どうしたんです。博士は嬉しくないんですか。」
「いや、そういうわけではないのだが、本当に実験は上手くいっているのか確かめないと。」
「いやいや。絶対に実験は成功ですって。」
そういうとまだ30歳前後の年端も行かない助手は、ノートを掲げるようにF博士に見せた。
そこには、ありとあらゆる実験結果が詰まっていた。何年かけた集積が、そのノートには書かれていたのだ。確かに最後のページを見ると、実験成功と言わざるをえない。F博士はそのノートを助手から受け取るとパラパラとめくっていった。
客観的に見てもこれは本当に素晴らしい実験の積み重ねだと思う。みてくれだけでは分からない、研究の研鑽がつまった実験がこのノートには書かれていた。
エボラ熱に対する抗生物質や何十年前に発見されたIPS細胞を用いた脳機能の培養などといった小さな話ではない。
人類を揺るがすくらいの実験を私はしてきたのだ。そう改めて認識すると身震いを覚えた。ようやく先ほどの実験結果による感動が身体を駆け巡ったようだ。火照る興奮を抑えながら、F博士はつぶやいた。
「そうだな。Y君もよくやってくれた。いつ実験が成功になるかわからない恐怖と戦いながらよく向き合ってくれた。実験が成功したのも、君がいてくれたからだ。ありがとう。」
「そんな、博士。ミズクサイですよ。僕はあなたについていくと誓ったんです。覚悟はできていたつもりです。ただ僕には希望がありました。あなたについていけば、このような人類を揺るがすくらいの実験を成功させることができると。」
「ありがとう。そういってくれるのは君だけだった。研究所でも、そうやって私を後押ししてくれたね。」
「当然です。博士の研究は、誰にも思いつかないくらい秀逸なものでしたから。」
つくづく良い助手をもったと思う。10年前に博士のいた研究所で様々な議論がなされ、その都度、博士同士の衝突が起こった。モラルがどうとか、破壊がどうとか。時には、怒号まで飛ぶようなもはや話し合いでは解決がつかない状態までになってしまった。結局、結論が出ずに博士はその研究所を追われる形で、実験を続けることができなくなったのだ。博士はそれでも諦めなかった。人類のために。
こうして実験を成功することができたのもこのY助手のおかげだった。
研究所から去るあの日に、私を呼び止めて「実験を続けましょう。私がついていきます。」とその地位をなげうって私の研究に賭けてくれたのだから。
当時、研究所を出た私は実験機材をそろえる財力も無く何も手をつけることができない状況だった。
そんな時にY助手はあの手この手を使って、機材をそろえてくれた。時には危険を犯してまで研究所の機材を盗んできてくれた。あの機材がなかったら、きっと実験は成功しなかっただろう。
感慨深げに葉巻に手をやる。机の腹引き出しをあけると埃まみれになった葉巻が何本か残っていた。久しぶりだ。こういう気持ちで葉巻を楽しむのは。失敗を繰り返し、趣味の葉巻をすることもそっちのけになっていた。確かにY助手の言う通り、今日は祝杯をあげに街に出ても良いかもしれない。
なんて言ったって、実験は成功したのだから。
「そうだな。街に出て久しぶりにマッカランを飲んでみようか。」
「博士‥。」
重い腰をあげて、実験用のくたびれた白衣を脱ぎ近くにあったイスにかけた。その時だった。
「動くなっ!!」
後ろのドアがバーーン!と開き、警官らしき人間が銃口を向けながらドカドカと入ってきた。
先ほどまでの興奮が一気にさめ、身体が硬直した。思わず、手に持っていた葉巻を地面に落としてしまった。
「お前達は完全に包囲されている!!観念して例のモノを渡すんだ!!!」
先頭に入ってきたリーダーらしき人間が、銃口を私の脳天に突きつけながら叫んだ。
後に続いた人間もしっかりと博士に銃口を向けていることがわかる。こんなに早く見つかるとは。
博士は緊張しながらも、冷静に口を開いた。
「お前達にやるモノなどない。」
「嘘をつけ!!何年にも渡ってお前を観察してきたんだ。証拠は出そろっているんだ。この実験成功の機会を伺っていた。実験の成功こそ決定的な証拠だ!!渡さなければお前は犯罪者として牢獄行きだ。」
ふぅ。何をいってもう聞かないようだ。待てよ、どういうことだ。
まさか。実験は本当に…。
「僕ですよ。」
横にいたY助手が口を開いた。
「僕が通報したんですよ。博士。」
突然の出来事に博士の頭は真っ白になった。
「どうしだんだ。Y君!?」
「見苦しいですよ。博士。私は、研究所のスパイとしてあなたについていったんです。」
愕然とした。確かに、あの時どうすれば研究所の機材を盗んでこられるのだ。あまりにも簡単すぎやしないか。当時から研究所で研究されていたモノが人類を揺るがすものだったため、研究所のセキュリティは国で一番、いや世界で一番だったはずだ。盗んでこれたのは、向こう側の人間だったのだ。そう考えると、やはりY助手は研究所側のスパイだったのだ。
「‥…もう私が助かる道はないのか。」
「そうですよ。モノを渡さなければ、あなたは死ぬまで牢獄ゆきです。」
何と言う事だ。実験の成功もつかの間。これではもはや、醜い人間に復讐できなくなくなってしまうではないか。そうだ、こいつらに渡してたまるか。そう思った矢先、身体が反射的に動いた。持っていたノートの最後のページを破り、口から一気に飲み込んだのだ。
「あっ!!しまった!!」
Y助手と警官らしき一同は、一瞬のスキをつかれたようだ。
脳天に突きつけていた警官が、その瞬間銃口の引き金を引いた。音が鳴り響き、血しぶきが舞った。博士の頭を、一発の銃弾が貫いたのだった。Y助手が急いで駆け寄るが、博士は口をかすかに動かすだけで、もう助かりそうにない。ほどなくして、博士は絶命した。
「これで良かったんですか?」
引き金を引いた男が、Y助手に聞いた。
「はい。これでよかったんです。博士を死なせることが目的でしたから。」
Y助手は研究所のスパイだった。逐一、実験の報告と連絡をすることが任務だった。
F博士の研究していたものはモラルに関する薬だった。
薬を投与された対象者がモラルが良い行動を行えば、その薬が人間の脳に直接働きかけ、セロトニンを増やし気持ちがよい瞬間へと誘われる。そんな薬だった。つまりモラルが良いという行動をし続けていれば、幸福感で満ちあふれるといった人類のシステムを整える役目をおっていたのだった。
近年、地球ではモノに溢れ何をしても満たされなくなってしまった。何を食べようが、何を買おうが
もはや関係ない。脳が反応しなくなってしまったのだ。幸福感に満たされない人類は刺激を求めた。その衝動はすぐに大きくなり人類は他人を傷つけてみた。他人を傷つけることじゃ飽き足らず、他国を攻撃してみた。もはや人類は収集がつかなくなってしまったのだ。最初はナイフで切って殺し、銃で人を撃っては殺し、果てはミサイルを発射して国を滅ぼしてみた。
そんな中、ある国の大統領が叫んだ。
「薬によって脳が幸福感に満たされるように調節しようではないか。」
この一言に、各国の代表者達が賛同した。
各国の選りすぐりの研究者達が一つの研究所に集まり、薬を研究し議論を重ねた。
F博士の研究はその内のひとつだった。
「0107577番。ただいま戻りました。」
Y助手は研究所に戻ってきていた。
研究所の一番大きなホールには多くの博士達が集まって、Y助手の言葉を心待ちにしていた。
「おお、戻ったか。そして遂に実験は成功したんだろうな。」
「いえ、それが今回も失敗しました。」
Y助手は肩をすくめるようにそう答えた。
その言葉を聞くやいなや、博士達も肩を落とした。
「…そうか。今回も失敗に終わったか。また別のモラルの博士を用意するしかなさそうだな。」
「はい。そのようです。」
博士のうちの一人が声を上げた。
「そういえば、博士は何を飲み込んだんだ。報告書に一連の出来事が書かれていたが、死ぬ前に何かを飲み込んだのだろう?」
「それは、F博士のメモです。毎回実験するたびに、薬を投与した対象者がどんな条件を満たせば脳に働きかけるか確認するためです。ちなみにF博士は解剖され、国の死体検察医から現物は渡されています。」
「それには、何と書かれていたんだね?」
Y助手はノートの切れ端を持って読み上げた。
「薬を投与された対象者は、薬を投与した人間の命令を実行する。」
「なるほど。博士は実験の成功を願っていた。人類が痛ましい姿になる前に、この薬を絶対に開発してやると豪語してこの研究所を飛び出していったのだ。実験が成功したのであればモノを渡さないなんて言うはずが無い。人類の為に早急に渡していたはずだ。実験は失敗だ。」
そう納得した博士達は、憔悴した顔を下に向けそれぞれの研究室に戻っていった。
F博士の実験は成功していた。
ただF博士は悩んでいたのだ。国が指定する良い行いに反応して脳に作用する薬とは何なのか。
実験の最終地点は、命令を下された行為を行えば脳内のセロトニンを増やし幸福感で満たされる薬だ。
一体誰が、どんな命令を下して、どんな行いに反応するようにするのだろうか。
F博士はこの薬を投与することで、人類がまたモラルを壊していくだろうと知っていた。
この薬を利用して、他人を支配し傷つけていく者が現れたらどうなるのか。その都度、幸福感で満たされるなんて薬は麻薬以上の毒薬だ。今よりももっと恐ろしい社会が生まれてしまう。そうだ。この薬はあってはならないものだ。
F博士はこの実験に嫌気がさし、自分の命令をY助手に託したのだった。
薬を投与されたY助手は、薬の作用によってF博士を殺めてしまった。
F博士の命令を実行するように。
一人ホールに取り残されたY助手は、味わったことの無い幸福感で満たされていた。
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