11
『秘境探検』の疲れもあったのだろう。茉莉は顔を洗い歯を磨いて、床に就くなり可愛らしい寝息を立て眠りに落ちた。
せっかく温泉旅館に来たのにこれでは意味がない。
かくいう俺も歩けないので同様だった。
オヤジに至っては、ブツブツと呟きながら、時折びくっと体を震わせながら、熟睡していた。なんの夢を見ているのか。俺は気にしないことにした。
母はというと、そんなオヤジを眺め、ため息をつきつつ、部屋の照明を落とした。最後に鈍い音がしたが、それも俺は気にしないことにした。どうせ母がオヤジをどうにかしたのだろう。
部屋は、あっという間に静寂に支配された。
照明は、月の明かりのみ。
時折鳴く虫の声が、秋の訪れを感じさせた。
俺は全然寝付けなかった。
寝返りを打つたびに右足が痛む。
じっとしていればいいのだが、人間じっとして眠ることは出来ないのだ。
喉が渇いたが、冷蔵庫までの距離を考え諦めた。
――明日になればちょっとは良くなってるだろう。
そう思った時だった。
ぎしぃ。
部屋と廊下を隔てる薄いドアから、板の軋む音がした。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
その音は同じ間隔で鳴る。
廊下を誰かが歩いている。しかも忍び足で。そんな音に聞こえた。
――女将さんかな?
確かめようにも俺は動けない。
まぁ気にしても仕方ない。
俺は痛む右足に「我慢しろ」と言い聞かせ、寝返りを打った。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
それも、廊下からは足音と思しき軋む音が繰り返される。
俺は顔だけ起こして、部屋を見た。その音に気づいている人間はいないようだ。
――仕方ない。
俺は、右足を使わないようにして慎重に立ち上がり、ドアに向かった。
途中何かに躓き「ぐぇっ」とカエルを踏んだような声がしたが無視した。
そして俺はドアを開けた。
そこには誰もいなかった。
少なくとも、ドアから漏れる月明かりが照らす範囲には誰もいない。
遥か彼方の、深淵な闇まで続く廊下。
でもあの音の重みは、確かに人間のものだった。
――気のせい、なのか?
俺はしばらくドアに寄りかって廊下を眺めていたが、先ほどの音はしなかった。
きっと気のせいだ。
俺はそう思うことにし、ドアを閉め、念のため内鍵をかけて寝床に戻った。右足の痛みは吹き飛んでいた。
嫌な予感が俺の頭の中で渦巻き、痛みを感じるどころではなかったのだ。
とにかく寝よう。
俺はゆっくりと布団に潜り込んだ。
途端。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
再び、廊下から音がした。
俺は飛び起き、内鍵を外し、ドアを勢い良く開けた。
だが、そこには誰もいない。何もいない。
一気に気温が下がったような感触があり、全身に鳥肌が立った。
そして昼間の源さんの態度を思い出した。
まるでここから逃げ出すような言い分。そして実際に源さんは日が落ちる前に宿を去っていた。
そして脳裏に浮かんだのは、あの『祠』の一件。
何を祀っていたのか分からない、『祠』。
それを俺は土砂に埋めてしまった。
――まさか、ね。
俺は、ゆっくりと静かに誰にも気付かれないようにドアを閉めた。
そしてそのままドアを見つめる。
また音が鳴るのか。
もう鳴らないのか。
五分ほどそうしていただろうか。
音は聞こえてこなかった。
俺は何かに引っかかりつつ、床に戻り、布団に潜り込んだ。
そして。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
またあの音だ。
俺は頭から布団をすっぽりと被った。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
それでも聞こえてくる、廊下が軋む音。廊下を『彼か』が歩く音。
俺は体を縮こませ、その音が止むのを待った。
ぎしぃ。
音が止んだ。
音の反響具合から、多分ドアの前だ。そこに『何か』がいる。
それは一体なんだ?
俺は歯を食いしばった。
気持ちの悪い汗が体中からにじみ出た。
早く行け、いなくなれ。俺が何をしたってんだ。
俺は古今東西、あらゆる神に祈った。作法なんて知らないが、とにかく祈った。
そして――
ガリガリ。
ガリガリ。
何かがドアを引っ掻いたような音がした。
もう限界だった。
「お、お袋っ!」
そう叫んだはずだった。
だが、体が動かない。
声も出せない。
その間にもドアから獣が爪を立てて引っ掻くような音が鳴り響く。
ガリガリ。
ガリガリ。
ガリガリ。
ガリガリ。
俺が何をした? 古い『祠』ごと瓦礫に埋まったのは俺だ。何もしていない。怪我もしている。俺が悪いわけがない。なのになんだこの仕打ちは? 罰? 罪? そんなことをした覚えはない。それに一体何を償うんだ? 赦しを請う? なぜ? 俺が誰に赦しを請うんだ? どうやって?
思考は混乱を極め、収束しない。
体も動かない。
声も出せない。
――このやろーーーっ!!
俺は全身の力を振り絞って、緊縛を解いた。そしてドアを勢い良く開けた。
そこには。
誰も、何もいなかった。
俺はいつの間にか気を失っていた。
*
結局あの『祠』が何を祀っていたのかも謎のままだった。女将さんが固く口を閉ざし最後まで教えてくれなかった。
*
それが原因ではないが、この旅行以降、家族で旅行することはなくなった。
元々俺はこの旅行を最後にするつもりだったし、オヤジも察していたようだ。
オヤジとお袋はたまに出かけているようだが、俺が体験したような話を聞くことはなかった。
あの夜。
俺は確かに何かを体験した。
そして。
それでも、どこにいても夜はやってくる。
そして俺には聞こえる。
廊下が軋む音。
ぎしぃ。
ほら、また聞こえた。
そして――
ガリガリ、ガリガリ――
了