2
とうに日が落ち、窓の外はすっかり暗くなっている。
絵の制作に熱中する余り、今日は部活の終了時刻を一時間以上も超過していたのだ。当然、他の部員は引き上げてしまっている。
(彼女を1人で帰すのは危ない)
そう思った僕は慌てて自分の荷物を鞄に詰め込んだ。
こんな田舎町でも近頃は物騒だ。
特にここ一年くらいの間、僕らと同じ年頃の若者が行方不明になる事件が立て続けに起こっている。変質者の仕業か、それとも集団家出か――警察の方でも、未だに真相は判っていないようだった。
希は美術部員でもないのに、こんな遅い時間まで文句一ついわずにつき合ってくれたのだ。
たとえ迷惑な顔をされようと、とにかく家の近くまでは送っていこう――そう心に決め、僕は自転車を停めてある校舎裏の駐輪場へと急いだ。
学校の近くには私鉄のローカル線が走り、その線路沿いに延びる道路が駅までの最短コースなのだが、それでも徒歩で十分ばかりかかる。
田舎らしく右側に線路の土手、左側には畑や田んぼが一面に広がり、コンビニの一軒さえない狭い道は車もめったに通らない。
朝夕は登下校の生徒が往来するこの通学路も、夜の七時を過ぎれば急に人気がなくなりひっそり静まりかえる。特に日没が早いこの季節、真っ暗な道を独りで帰るのは、男の僕だってちょっと怖いくらいだ。
幸い希は徒歩なので、すぐに追いつくことができた。
青白い街灯の明りの下に、ショルダーバッグを提げた小柄な背中がぼんやりと浮かんでいる。
やや俯き加減で足早に歩いていた希は、僕が自転車のベルを鳴らすと立ち止まり、少し驚いたように振り返った。
「……浩(ひろし)くん? どうしたの、そんなに慌てて」
「いやあの――ほら、この道って夜は寂しいだろ? 一人で帰すのも何だと思って」
「別に……あたしはそーゆーの、気にしないから」
「何だよそれ。ちぇっ、心配して損した」
「心配って、あたしを? へぇ~、意外とフェミニストなんだぁ、浩くんって」
「そんなんじゃないって! ついでだよ、ついで。帰る方向が一緒だからさ」
と、ぶっきらぼうに答えたものの、彼女が別に怒っている様子もなかったので、僕は内心でほっとした。
自転車を押しながら、僕は希と並んで歩き始めた。
この二週間、同じアトリエで放課後を過ごしていたくせに、こうして彼女と一緒に帰るのは、実は今夜が初めてのことだった。
モデルの役目が終わればさっさと引き上げる希に対して、僕の方は後かたづけや何やらで三十分ばかり遅くなるのが常だったからだ。
「そういや、初めてだよな? 一緒に帰るのは」
「そうだね」
「希んちって、どのあたり? 駅の近く?」
「ん……ちょっと離れてる」
田んぼの方に視線を逸らし、あいまいな口調で答える希。
わずかの間、気まずい沈黙が二人の間に漂った。
この時になって、僕は彼女自身についてほとんど何も知らないことに気がついた。
アトリエにいる間、結構会話は交わしていた。
いったん打ち解けると希は意外なほど好奇心旺盛で、僕が描いている油絵のこととか、転校して来て間もないこの学校や町のことなどについて、モデルを務めながら盛んに尋ねてきたものだ。
互いに名前で呼び合うのも彼女の提案だ。
「佐藤」という自分の名字が平凡すぎて好きじゃない、というのがその理由だった。
しかし今思えば、僕に色々と訊いてくる割に、彼女自身は自分の家族のことや、前の学校のことなどについてほとんど語らない――というか、そうした話題に触れられるのを避けるため、先手を打ってあれこれ話しかけていたような気さえする。
(まあ、話したくないなら、無理にとはいわないけど……)
東京からわざわざこんな田舎町に越してきたのには、ひょっとしたら学校でのいじめとか両親の離婚とか、あまり人に話したくない事情があったのかもしれない。
そんな詮索より、今の僕にはもっと気がかりな問題があった。
「下絵のことだけどさ……気に入らないようなら、描き直したっていいんだよ? まだ時間はたっぷりあるし」
それを聞いて、希は意外そうな顔で瞬きした。
「何で? 直す必要なんかないよー。あの絵、すっごくイイよ。早く完成したのが見たいな」
「でも、さっきは……」
「ああ、あれは――あはは、ちょっと妬いちゃったの。絵の中のあたしの方が、ずっと素敵だったから。ごめんね、せっかく美人に描いてくれたのに」
誉めてくれたのだろうが、それは僕にとって甚だ心外な言葉だった。
「誤解だよ! モデルになってくれたことは感謝してるけど、別に美化して描いたわけじゃない。もちろん写真じゃないから、何もかも生き写しってわけにはいかないけど――少なくとも僕は、自分の目に映った君の姿を、ありのままに描いたつもりだ」
「ふうん。浩くんの目には、あたしがあんな風に映ってるんだ?」
「ああ」
「ふふふ……何だか嬉しいな。ありがと」
そういってニコっと笑った希の表情が妙に魅力的だったので、なぜだか急に照れくさくなり、今度は僕の方が視線を逸らす番だった。
それまで単なるクラスメイト、そして油絵のモデルとしか見ていなかった女の子が、急により身近な存在になったような気がした。
勝手なもので、僕は何とかして彼女のことをもっと知りたいと思い始めていた。
だがその時、舞い上がりかけた僕の耳に、独り言のようにポツリとつぶやく希の声が飛び込んだ。
「でも、やっぱり違う……あれは、あたしじゃない」
(……!?)
「浩くんって、将来はやっぱり画家さんになるの?」
慌てて聞き返そうとした僕をあしらうように、彼女は唐突に話題を変えてきた。
「え? いや、そんな……画家だなんて。そりゃ、将来はイラストかデザイン関係で食っていければいいな、とは思うけどさ」
「いいなあ。油絵って面白そう……ホントはちょっと興味あったんだ、あたしも。一度描いてみたかったなあ」
「描けばいいじゃないか。よければ、美術部に来いよ」
「でも、今さら入部したって……」
「遅かないって! 僕でよければ、一から教えてあげるよ」
「ありがと。でも、やっぱりいいや……たぶん、もう時間がないから」
その時の僕には、希の言葉の本当の意味が判っていなかった。
高二の二学期といえば、そろそろ将来の進路を考えなければならない時期だ。彼女もまた、受験に備えて勉強に専念するつもりなのだろうと、その程度に受け止めていた。
「でもさ、せっかく興味持ったんだろ? これで終わらせたらもったいないよ。ほら『明日世界が滅びようとも、我々は今日種を播く』って外国の格言にもあるじゃん」
「あははー。オーバーだよ、世界だなんて」
希はぷっと吹き出したが、僕の誘いにまんざらでもなかったらしい。
「……でも好きだな、そういう考え方。どうしよう……ちょっとだけ、教えてもらおっかな?」
彼女がだいぶ傾いてきたので、僕はここぞとばかり力を入れて勧誘した。
モデルとしての希の役目は絵が完成してしまえば終わりだが、彼女が美術部に入ってくれればこれからもずっと一緒にいられる――いささか動機は不純だが、異性に対してこうまで積極的に話ができるのが自分でも意外だった。
その時だった。希が「しっ!」と片手を上げて僕の言葉を遮ったのは。
足を止め、土手の方に目を凝らしている。眉をつり上げ、きっと唇を噛んだ険しい表情は、普段のおとなしい彼女からは想像もつかないものだった。
「ウソでしょ。まさか……奴ら、こんな所にまで!」
「どうしたの?」
「浩くん……一生のお願い。何も聞かないで、このまま先に帰って」
「はあ?」
自転車を止めて聞き返した僕の姿は、きっと彼女の目に恐ろしく間抜けな男として映ったに違いない。
「いいから、さっさと行ってよ!」
ほとんど怒鳴るようにいうと、希は僕の背中に手を当て強引に押し出した。
その力ときたら、危うく自転車もろとも田んぼの中に転げ落ちるかと思ったほどだ。
だが残念ながら、時間は僕らを待ってはくれなかった。