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最初、それは土手の上にむっくりと起きあがった黒い影として姿を現した。
線路工事の作業員かと思ったが、影の輪郭は明らかに人間とは異質で、そして遙かに大きなものだった。車でいえば3000CCクラスのランドクルーザーほどはあったろうか。
あんな馬鹿でかい障害物が線路を塞げば、すぐに電車が止まり大騒ぎになるはずなのだが、つい五分ほど前に通過した電車には何の異常もなかった。つまり「奴」は、この五分間に魔法のごとく線路上に出現したことになる。
蟹のような八本の足を巧みに動かしながら、奴は土手の斜面を半ば滑り落ちるように降りてきた。
「何だよ、あれ……ロボット?」
僕は思わずつぶやいていた。
丸みを帯びた胴体の至る所から長く伸びたフレキシブルパイプをゴカイのように蠢かせ、むき出しの関節を持つ長い足でぎくしゃくと歩くそいつは、確かに「ロボット」と呼びたくなるほど機械的な存在だった。
きっと線路保守か何かのために導入された新型の作業ロボットだろう――と半ば無理やり理屈をつけ、僕は自分を安心させようと試みた。だが奴がこちらに近づき、街灯の明りで徐々にそのディテールが明らかになっていくにつれ、そんな脳天気な考えはどこかに吹き飛んでいた。
「奴」は確かに機械的だが、「ロボット」という単語から連想される合理性や機能美とはおよそ無縁の存在だった。
その巨体を構成する「機械部品」は一つ一つが微妙に歪み、表面が透明な粘液で覆われた上にぶよぶよとした有機的な質感を持ち、近づけば近づくほど、それが機械なのか生き物なのか判断に苦しむシロモノだった。
僕は半歩後ずさり、傍らの希に振り向いた。
「に、逃げ……」
(逃げろ!)と叫んだつもりだったが、実際には舌がもつれ、何を口走ったのか自分でも良く判らなかった。
二人一緒に逃げるべきか。あるいは身を挺して怪物に立ち向かい、彼女を逃がす時間を稼ぐべきか――究極の選択を迫られ、一瞬僕の思考が空転する。
迷う必要などなかった。
考えるまでもなく、怪物は真っ先に僕を狙って襲いかかってきたのだから。
「うわああああ!?」
頭上からぬっと延びてきた二本のフレキシブルパイプ――その先端は数本に分岐し、マニピュレータの役目も兼ねているらしい――に両腕を捕まれ、軽々と宙に持ち上げられた僕は、恥も外聞も忘れて悲鳴を上げた。
「奴」の胴体の中程がスライドし、内部からビール缶ほどの太さのある新たなパイプが現れ、鎌首をもたげる蛇のごとく僕の方に伸びてきた。
パイプの先端から不気味に生えた太く鋭い針を見て、注射嫌いな僕の全身が総毛立った。
身体のどこであれ、あんなものを打ち込まれたらただでは済むまい。
「た、助けて! 誰かぁーっ!!」
情けない話だが、この時の僕は野犬に襲われた幼児も同然の有様だった。
宙に浮いた両足をじたばたさせ、為す術もなく泣き叫ぶことしかできなかった。
――ガッシャーン!
すぐ耳許で金属的な衝突音が響き、目前に迫っていた注射針(?)付きパイプが泡を食ったように引っ込んだ。一瞬遅れて、僕の身体も地面の上に放り出されていた。
したたかに腰を打ち、痛みに息を詰まらせながら辛うじて上半身を起こした僕の目に、見慣れた制服姿の少女が映った。
(……希?)
彼女は僕の方に目もくれなかった。
両手の拳を握りしめ、怒りに顔を歪めて前方を睨んでいる。
その視線の先には、ぐしゃぐしゃに潰れた自転車を胴体にめり込ませた怪物の姿があった。
奴の体からは白煙が立ちのぼり、壊れた部分から内蔵のように飛び出したケーブル束の端っこがチカチカせわしなく点滅している。
それが僕の自転車であること。希が怪物を狙って投げつけたらしいこと――それらの事実を理解するのに、たっぷり五秒ほどの時間が必要だった。
あの小さな身体の、どこにそんな腕力が秘められていたのか? 僕は腰の痛みも、通学用の自転車が台無しになったことも忘れて目前の光景に見入った。
「今さら何の用? あたしのことならほっといてよ――頼まれたって、おまえたちの仲間になんかなる気はないんだから!」
怒りも露わに叫ぶ彼女の言葉は、僕にとってほとんど理解できないものだった。
怪物の方は、彼女に対してこれといったリアクションも示さない。
「ふうん……そーゆうことか。今日のお誘いは、あたしじゃないんだ」
皮肉な口調でいいながら、希が僕の方を横目でちらりと見る。
「ふざけないでよっ――これ以上、おまえたちの好きにさせるもんか!」
闇の中で制服のスカートが翻り、少女の白い足が僕の視界を横切った。
何を思ったのか、彼女は怪物に向かって一直線に駆けだしていったのだ。
「――よせっ!」
僕は引き留めようとしたが、痛みで足腰が立たず、再び地面にへたりこんだ。
怪物は二本のパイプを触手のように伸ばし、僕の時と同様に希を捕えようとした。
が――その一本を彼女は両手で受け止め、何と力任せにねじ切ってしまったのだ。
火花が飛び散り、怪物が甲高い電子音の悲鳴(?)を上げる。
希はそのまま奴の胴体部分に飛び乗り、素手のまま殴りかかっていった。
それはある意味で、怪物の出現以上に現実離れした光景だった。
あそこで戦っている彼女は、本当にクラスメイトの希なのか?
放課後のアトリエで、はにかみながら絵のモデルになってくれた女の子なのか?
そんな僕の困惑にはお構いなしに、希は怪物の体表面を覆うカバーをはぎ取り、むき出しになったボディに容赦なく拳の連打を打ち込んでいる。放っておけば、そのまま奴を解体してしまいそうな勢いだ。
だが、敵もやはり化け物だった。新手の「触手」を伸ばしたかと思うと、希の両手両足に背後から巻き付き、引き剥がすようにして宙につり上げたのだ。
そして奴は初めて自分の「武器」を使った。
「棘」といえばいいのか――全身至るところから、先端部が鋭く尖った円錐状の突起物を突き出してきたのだ。
「きゃあああぁーっ!」
甲高い悲鳴が夜空に響き渡った。
放射状に伸びた「棘」の一本が希の鳩尾あたりに突き刺さり、一気に背中まで貫いたのを見て、僕は思わず吐きそうになった。
串刺しにされた少女は大きく顔を仰け反らせ、百舌のハヤニエのような姿で全身を痙攣させたが、すぐにぐったりと動かなくなった。
怪物の触手が希の身体を棘から外し、無造作に僕の方に投げて寄越した。
「のっ……希!?」
僕は腰の痛みを堪えつつ、仰向けに倒れた彼女の傍らまで必死に這い寄った。
まだ息はある。希は力無く手足を伸ばしたまま、半ば白目を剥き、ぜえぜえ苦しげな吐息を漏していた。
ブレザーとブラウスが裂け、年相応に膨らみを帯びた胸が露わになっている。だが僕の視線を釘付けにしたのは、そのすぐ下に開いた無惨な傷口だった。
これほどの重傷だというのに、なぜか一滴の出血もない。
いや、血など出るはずもなかった。
傷の内部は――あるべき肺や心臓の代わりに――得体の知れない機械部品やケーブル類でぎっしりと満たされていたのだから。
千切れたケーブルの断面から光が漏れ、赤い血の代わりに潤滑油らしき透明な液体が溢れ出してゆっくり地面に広がっていった。
金属やプラスチックのようでありながら、どこか有機的な生々しさを兼ね備えた機械の内蔵は――僕らの目の前にいる、あの怪物の姿と酷似していた。
(……仲間?)
僕の心を恐ろしい疑念がかすめた。
希の正体があの怪物の同類だとすれば、少なくとも彼女が人間離れした力で怪物と渡り合った事実には説明がつく。
同時にそれは、僕にとってあまりにもおぞましい想像だった。
「奴ら」は、今夜いきなり僕の前に現れたわけではない。
ひと月も前から、僕らの日常の中に何食わぬ顔で侵入していたのだ。
転校生の少女という姿を借りて――。