「知らない顔」

 「知らない顔」



日曜日の夕方。
目が覚めて窓を覗くと、雨が降りそうな空だった。
灰色の雲が、重たそうに犇めき合っている。
心なしか頭が痛い。二日酔いか、偏頭痛か。
天気が悪い日は、いつもこうだ。何の理由もないのに、憂鬱になる。
パーマをかけた髪も、湿気を纏って重たそうに垂れているし、いつもよりうねりが酷い気がする。

最後に美容室へ行ったのはいつだっけ。一ヶ月くらい前か。
そろそろまた美容室へ行って、パーマを掛け直さないといけない。
ついでに少し髪を鋤かしてもらおう。もっさりしすぎている。
そうだ、彼方も連れて行こうか。すっかり髪が伸びて、根本が黒くなっていた。
ちゃんと身なりは整えろと言っているのに。
だらしないプリン髪じゃ、せっかくの男前が台無しじゃないか。
そんなことを思いながら、優樹は自室を出た。

リビングに行くと、彼方がソファーでくつろいでいた。

「おはよ。」

「あ、優樹さん。おはようございます。」

いつも彼方はこの時間は外出していて、出勤ギリギリまで帰って来ないのに。珍しい。
昨日は彼方に休みを与えた。彼方は、自分から休みがほしいと言わないから、優樹なりの配慮だった。
仕事が終わってそのまま出掛けたのか、どこかに泊まったのか、昨日は一度も彼方の顔を見ていない。
まあ、彼方が休日を楽しく過ごせたのなら、いいだろう。

「なんだそれ。チュッパチャプス?懐かしいの食ってんな。」

彼方は携帯電話を弄りながら、棒の付いた飴を舐めていた。
甘いものはそれほど好きじゃないと聞いていたのに、珍しい。

「優樹さんも食べます?」

そう言って、彼方はコンビニの袋を差し出す。
中身はチュッパチャプスばかりで、十個…いや二十個以上入っていた。
オレンジ、グレープ、コーヒー&ミルク、チョコバナナと、味は色々とあるようだ。
それにしても、買いすぎではないだろうか。

「いや、いい。なんか飴って虫歯になりそうだし。俺、歯医者怖いし。」

「そんな情けないこと言わないでくださいよ。」

彼方はクスクスと笑う。
飴を舐めながら笑う姿は、本当に子供のようだ。
当然か。彼方はまだ高校生なのだから。

「つーか、どんだけ買ってきてんだよ。」

そう言ってコンビニ袋を逆さまにすると、ジャラジャラと音を立てて大量の飴が机に落ちる。
机にぶちまけられた飴は、思った以上にあった。三十個近くくらいか。
どうして、こんなに飴を買ってきたのだろう。

「禁煙しようと思って。」

飴を舐めながら、彼方はポツリと呟く。
そういえば、今日は彼方の煙草の甘い匂いがしない。
いつもはリビングを開けたら、残り香が香ってくるのに。
机の上に置かれた灰皿も空っぽで、使われた形跡がなかった。

「禁煙?お前、一ヶ月くらいしか煙草吸ってねえだろ?そんなモンなくても、すぐ辞められるんじゃねーの?」

「辞められないから、飴舐めてるんですよ…。」

「ふーん。そんなもんか?」

「そんなもんなんです。はあ…煙草吸いたい…。」

そう言って、彼方は溜息を吐いた。
そして、また飴を口に含んで、飴の棒を噛む。
煙草が吸えないことに、ストレスを感じているのだろうか。
当然か。ここ最近、彼方は自分と同じく、ヘビースモーカーになっていたのだから。
でも、いきなり禁煙すると言い出すなんて、どんな心境の変化だろう。
誰かに、「禁煙しろ」とでも言われたのだろうか。

「ああ、新しい女に煙草辞めろとでも言われたか?」

優樹が茶化すようにそう言うと、彼方はわかりやすく目を逸らした。

「…ノーコメントで。」

「なんだよ、図星かよ。」

顔に出るなんて、珍しい。
嘘を吐いたり、適当に誤魔化したりするのは、彼方の特技だと思っていたのに。

「まあ、彼方には、煙草なんかより、そっちの方がよっぽど似合ってるわ。」

「もー、子供扱いしないでくださいよ。」

「俺はみんなのお父さんだからな。」

優樹が笑うと、彼方は拗ねるように唇を尖らせた。
そういう仕草は、本当に子供っぽい。

最初は、一ヶ月と少しだけの短期バイトだった。
けれど、もう二ヶ月も彼方と暮らしている。
彼方がここにいるのは、行く場所がないから。居場所を無くしたから。
彼方は、帰る家がないのだという。
理由は知らない。知らないと言うより、聞かない。
彼方も詳しいことは話そうとしない。きっと、話せない理由があるのだろう。
誰だって言いたくないことはあるし、無理に聞き出すのはよくないと思って、優樹からも聞くことはなかった。

彼方は、男前だし、懐っこくて、可愛くていい奴だ
なのに、どうして彼方は居場所を無くしたのだろう。
そういえば、彼方の口から家族の話を聞いたことがない気がする。
それはただの偶然か。それとも、意図して話題に出そうとしないのか。
どちらにせよ、家庭に何か問題があるのだろう。
じゃなきゃ、きっと、こんな仕事をしようだなんて思わない。

彼方は、あまり自分の話をしようとはしない。
それは、吐いた嘘のボロを出さないようにしているのか。
それとも、まだ自分が信頼されていないからか。
自分は、彼方の味方になってやるつもりなのに。

隠し事や嘘ばかりでは、人間は疲れてしまう。
強がりや虚勢を張ってばかりでは、人間は壊れてしまう。
いつか彼方が、本当のことを話してくれる日が来るだろうか。
それまでは、彼方が頼りにしてくれるような「みんなのお兄ちゃん」でい続けよう。
そして、行き場のない彼方の、親代わりでいよう。
そう、心に決めた。

「彼方、今週一緒に美容室いかねえ?そろそろプリンやばいだろ?染め直そうぜ。」

「美容室…ですか?」

彼方は不思議そうに首を傾げた。
伸びた髪が、ふわりと揺れる。

「なんだよ、不満か?」

「え、いや…僕、実は美容室って行ったことなくて…。」

「は?マジで?今までどうしてたんだよ。床屋?」

「いや…身近に切ってくれる人がいたから…。」

そう言って、彼方は自分の髪を摘まんで、傷んだ髪をくるりと指先で遊ばせた。
伸びた髪を上目で見つめて、何かを考えているようだった。

「ふーん…。まあとにかく、プリンはカッコ悪いから、時間ある時に染め直しに行くぞ。」

「…はーい。」

素直に返事をしたが、彼方は髪を弄び、ぼーっとしていた。
今まで誰に髪を切ってもらっていたのだろう。
家族か、友人か、恋人か。その人は、彼方の大切な人だろうか。
その人に切ってもらっていた髪に、何か思い入れがあるのだろうか。

ふいに、けたたましい着信音が鳴り響く。

「あ、電話だ。」

彼方は、ごそごそとポケットから携帯電話を取り出す。
どうやら彼方の携帯電話に、着信が入ったらしい。
白い携帯電話が、チカチカとランプを照らして震えている。
初期設定のままの無機質な着信音が、部屋に響く。

けれど、彼方は画面を見つめたまま、電話に出ようとはしない。

「出ねえの?」

「あー…ちょっと、部屋で電話してきます。」

彼方は少し困ったような顔をして、席を立った。
そのまま鳴り響く携帯電話を持って、リビングを出ていく。

誰からの電話だろうか。
客からの電話なら、彼方はリビングで取ることが多い。
画面を見つめて、困った顔をすることなんてない。

自分に聞かれたくない相手だったのだろうか。
それは一体誰だろう。恋人か、家族か。
恋人だったのなら、自分に聞かれたくない気持ちはわかる。
誰だって、恋人との親密な電話は、他人に聞かれると恥ずかしいものだ。

そういえば、彼方に友人はいるのだろうか。
彼方から親しい人の話を聞いたことがない。

自分が彼方に与えた携帯電話。
優樹の名義で契約し、料金は振込用紙を渡して、彼方が自分で支払っている。
確か赤と白の二台を与えたはずだが、赤い携帯電話を使っているところしか見たことがない。
しかし、二台分の料金を支払っている様子だし、仕事用とプライベート用で分けているのだろうか。

そういえば、彼方が初めて空けたピアスの色も赤だったな。
彼方は赤い色が好きなのだろうか。なんだか意外だ。
もっと大人しい色が似合いそうなのに。

二ヶ月も一緒に暮らしたけれど、まだ知らないことだらけだ。
自分は彼方のことを理解してやってるつもりでも、実際はそうでもないのかもしれない。
もっと彼方のことを理解してやりたいのに。

優樹はやりきれない気持ちを溜息にして、煙草に火を点けた。






緊急事態だ。
まさか誠と日向が知り合いだったなんて。
あの後、誠を目が合って、京子は逃げるように厨房に隠れた。
隠れても意味がないことはわかっていたが、隠れずにはいられなかった。
誠のあの目は、全てを知っている目だった。
全てを知っていて、自分に微笑みかけたのだ。

二人の会話の内容は、知らない。怖くて、途中から聞けなくなった。
余計なことを言っていなければいいが。
彼方のことを、バラしていなければいいが。

ホールから厨房へ戻ってきた日向は、いつも通りだった。
金髪の方は同級生だと、派手だけどいい奴だと、そう言って笑った。
そんなことはどうでもいい。聞きたいのは誠のことだ。
誠とはどういう関係なのか、誠とは何を話したのか。
そう聞きたくても、自分が怪しまれることを考えたら、聞けなかった。


心に焦りを抱えて、バイトを終えた京子は、真っ直ぐに家に帰った。
そして、携帯電話を操作して、掛け慣れた彼方の番号を押す。
機械的な呼び出し音が、耳に鳴り響く。
コール音がもどかしい。早く電話に出てくれ。
しかし、京子の願いも虚しく、電話は長いコール音の後、切れた。
この時間はいつも起きているはずなのに。何かしているのだろうか。こっちは緊急事態なのに、何をしてるんだ。
すぐさまもう一度彼方の番号を押そうとすると、携帯電話が着信を知らせた。
彼方が掛け直してきたのだ。京子はすぐに通話ボタンを押した。

『もしもし?どうしたの?』

電話の向こうの彼方は、暢気な声だった。
―こちらの気も知らないで。
京子は、少し苛立った。

「なんで、すぐに電話出てくれないんですか。」

無意識に刺々しい言葉が口から出る。
ああ、まただ。こんなことを言うつもりで、電話をしたんじゃないのに。
けれど、彼方は気にする様子もなく、宥めるような優しい口調で言った。

『リビングにいたからだよ。優樹さんの前じゃ、京子ちゃんと電話できないでしょー?』

「それは…そうですけど。」

彼方の言うことは正論だ。
優樹は自分たちが付き合っていることも知らないし、この会話を聞かれるわけにはいかない。
何も言えなくて、京子は押し黙ってしまう。

『今は自分の部屋に移動したけど…どうしたの?なんかあった?』

「今日…誠さんが、私のバイト先に来たんです。」

『うん?…それが、どうかしたの?』

彼方は驚いた様子もなく、不思議そうな声を上げる。

「驚かないんですか?」

『だって、誠さんは京子ちゃんに会いにきたんでしょ?』

さも当然かのように、彼方は言う。
違うんだ。そうじゃないんだ。
自分に会いに来ただけなら、どれだけよかっただろう。

「違いますよ。…私じゃなくて、日向さんに会いに来たんです。」

『え…なんで?』

「知りませんよ。けど、なんか凄く親しそうで、元から知り合いだったっぽい雰囲気…だったんです。
 誠さんと一緒に、日向さんの同級生だっていう、ちょっとやんちゃそうな金髪の人もいました。」

『金髪…ああ、中村君か。そういえば、誠さんもバンドしてるって言ってたっけ。』

そう言って、彼方は一人で納得したように呟いた。
そして何かを考えるようにうーんと低く唸った後、

『まあ、別にいいんじゃない?日向と誠さんが知り合いでも。』

意外にも、彼方はあっけらかんと言った。

「どうしてですか!誠さんが日向さんと知り合いってことは、双子だってこともバレるかも…いいえ、もうバレてるかもしれませんよ!?」

『だから大丈夫だって。京子ちゃん焦りすぎ。』

京子が声を荒げると、彼方は冷静に窘めるように、優しく言う。
どうして平静を保てるのか。焦りや不安はないのか。
全てが、バレてしまっているかもしれないのに。

「なんで…そんなに冷静でいられるんですか。」

彼方は、大きな溜息を一つ吐いた。

『…誠さんさ、ずっと店来てないんだよ。今月入ってからずっとだから…二週間、いや三週間くらい?
 優樹さんも連絡取ってないって言ってるし、もう辞めたんじゃない?』

「え?なんで…。」

『さあ?僕、あの人に嫌われてるみたいだから、わかんない。』

わかんない、そう子供のように言った。
気にした様子もなく、ただ自然に呟いた。

「嫌われてるって…何かしたんですか?」

『うーん、身に覚えはないなあ。元々僕は、女の子には好かれても、男の人には嫌われるタイプだし。何が気に入らないんだろうねえ?嫌になっちゃう。』

冗談めかして彼方は、ふふっ、と軽く笑う。
笑っている場合ではないのに。
誠が兄の店を辞めたとしても、優樹や日向に全てを話さないと限らない。
辞めたからこそ、全てを話してしまうかもしれない。あるいは、既に。

「…お兄ちゃんは、知らないんですよね?」

『知らないと思うよ。知ってたら、ここにいさせてもらえないだろうし。』

優樹の性格は自分が一番良く知っている。
優樹はおちゃらけているように見えて、根は真面目だ。
夜の仕事をしているといっても、ルール違反や法を犯すということを極端に嫌う人間だ。
彼方がまだ優樹の店で働いているのなら、優樹は何も知らないと思っていいだろう。

「…誠さん、日向さんに貴方の居場所バラしたりしないですかね…?」

『どうだろ。でも、誠さんが僕の居場所バラしたとしても、日向は探さないと思うよ。たぶん。』

「そんなの、わかんないじゃないですか。」

『わかるよ。日向には、もう僕は必要ないから。…いない方がいいんだ、僕なんて。』

悲しげな声で、彼方は呟く。

「それってどういう…。」

必要ないだなんて。いない方がいいだなんて。
ふいに、幸せそうに彼女の話をする日向の笑顔が思い浮かんだ。
二人のデートを目撃したあの日も、日向は幸せそうに笑っていたのだ。
誰も二人を邪魔できない、そんな雰囲気を持っていた。
他の誰かなんて入る隙のないような、そんな雰囲気だった。
それが例え、彼方であったとしても―。

『ねえ、京子ちゃん。…会いたくなっちゃった。』


電話口で小さく呟いた彼方の言葉は、甘く、切ない響きだった。

麻丸。
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麻丸。

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