「嫉妬の矛先」
「嫉妬の矛先」
放課後。今はもう使われていない一階の空き教室。
元は普通の教室として使われていたが、
過疎地域のこの学校では年々生徒の数が減り、すっかり倉庫のような状態になっていた。
夕日が窓から差し込み、外からは部活動の生徒たちの声が微かに響いていた。
そこに百合はいた。
いつもより念入りに髪を梳かして、ほのかに薄化粧。
ポケットから小さな鏡を取り出して、今の自分をチェックする。
‐おかしいところないかな。大丈夫かな。‐
鏡の中の自分に笑いかけて、笑顔の練習。
まるで恋する乙女のようだと思う。
実際その通りだが。
そうしているうちに教室の扉が開いた。
「おまたせ。…待ったか?」
現れたのは百合の想い人。
百合を見て、微かに口元を緩めて小さく笑った。
「いえっ!今来たところ…です。」
初めてデートをする初々しい恋人同士の会話の典型だ。
意識するたびに、百合の心臓はドキドキと音を立てた。
「ならよかった。」
-日向先輩って意外と笑うんだ。-
自分に向けられるいつもと違う優しい顔。
図書室ではクールな顔しか見ていない百合にとっては新鮮だった。
「あの、どこか…いきます?」
人気のない校内の隅。
こんな空き教室に来る人間などいないはずだ。
二人っきりのこの空間は、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになる。
「いや、誰かに見られると…恥ずかしいから、ここじゃダメか?」
恥ずかしげに顔を背ける彼。
彼も女性と付き合うのは初めてなのだろうか。
自分も誰かと付き合うのは初めてだが、
百合はそんな彼を少し可愛いと思ってしまう。
「いいですよ。私、たくさん日向先輩とお話したかったんです。」
ニッコリと嬉しそうに笑う百合。
考えてみれば図書室以外ではほとんど話したことはない。
まだまだお互いに知らないことの方が多いのだ。
-何から話そうかな-
と百合は考えていると、ふいに彼に抱きしめられる。
「え…。」
彼の胸に顔を押し付けられるように、すっぽりとその体に閉じ込められる。
自分よりはるかに大きな彼の腕の中は、ほんのり暖かい。
百合からは彼の顔が見えない。
抱きしめられるのは、二度目だ。
いきなりのことに百合が混乱していると、
「…嫌、か?」
と切なそうな彼の声が頭の上から聞こえる。
百合は震える指先で彼の背中に手をまわす。
「…嫌じゃ、ないです…。」
その答えを聞いて、片手で百合の頭を優しく撫でる。
抱きしめる力が緩まり、百合は顔を上げた。
瞬間、唇に暖かい感触。
―え…?
触れるだけの軽いキス。
一瞬何が起きたのかわからなかった。
でも今確かに百合は彼にキスをされた。
百合は驚いたように唇に手を当て、茫然と彼を見る。
「ずっと、こうしたかった。」
そう、静かに、柔らかく微笑む彼。
-日向先輩って意外とこういうの慣れてるのかな。-
「私…こういうの、初めてで…っ。」
絞り出した声に、彼は口角を上げてニヤリと笑う。
百合は変な違和感を感じた。
「そうか。…なんか嬉しいな。」
そのまま百合の頬に手を添え、二度目のキス。
二度目のキスは、暖かく、でもどこか冷たい気がした。
百合の体は緊張と戸惑いで固まっていた。
そんな百合の頬を、髪を、唇を、背中を、
彼は優しく撫でながら何度も何度もキスをした。
何度も繰り返される触れるだけのキスのあと、
百合の唇を彼の舌が這う。
そして耳元で、低い声で囁く。
「なあ。…キス以上のことも、していいか?」
不敵な笑みに、百合が驚いて彼から逃げようと後ずさると、
彼は百合の手首を掴んで引き寄せ、強引なキスをした。
触れるだけのキスじゃない。
唇の隙間から、彼の舌が割入ってくる。
「やっ…!」
そろそろ夕日も沈みそうな頃、
話も落ち着き亮太と将悟は帰ろうと学校の玄関にいた。
靴を履き替え、玄関をでようとするときに、
将悟は思いついたように口を開いた。
「あ!今日って月曜日…だよな?
俺、美化委員の花壇の水やり忘れてた…。」
将悟は美化委員だ。
主な仕事は放課後に裏庭と校舎前の花壇の手入れ、水やり。
「しゃーねーなー。手伝ってやるから早くおわらせるぞ。」
「さすが委員長サマ。」
亮太は呆れ気味にため息を吐く。
そして二人は水やりの道具が収められている裏庭の用具庫へと向かった。
裏庭はさほど広くはない。
そして部活動をする体育館やグラウンドから少し離れているため、静かだった。
用具庫の前で将悟はまた足を止めて口を開いた。
「っていうかさ、思ったんだけどさ。
今日雨降ったじゃん?水やりやらなくてもよかったんじゃ…。」
今日は朝から雨が降り続いていた。
よくみると花壇の土は湿っていて、水分補給の必要はなさそうだ。
「はああああ!?なんだよこんな人気のない裏庭まで来たのに!
早く気づけよ馬鹿!」
亮太は大げさに呆れてみせる。
気付かなかったのは二人とも同じだ。
「…すまん。」
将悟は素直に謝る。
「マージーかーよー…。」
肩を落としてため息を吐きながら、二人は校門の方に戻ろうとすると、
―やだ…っ!やめ…っ!!
静かな校舎から少女の叫び声が聞こえた気がした。
亮太のよく知っている凛とした声。
二人が辺りを見渡すと、校舎の一番隅、
今はもう使われていない教室に男女の影が見えた。
「高橋…?と女の子?」
「百合ちゃん…っ!」
「え?亮太…!?」
その姿を見て亮太は走り出す。
百合は男に抑え込まれ、服が肌蹴ているように見えた。
校舎の玄関までは遠い距離だ。
「おい!ちょっと待てよ!あの二人付き合ってるんだろ!?ほっとけよ!」
将悟も走りながらついてくる。
バスケ部の亮太の足は、陸上部の短距離選手に負けないくらい早い。
「お前はバカか!あれは彼方だっただろうが!」
「はあ!?見間違いだろ!高橋日向とその彼女じゃねえのかよ!」
「あれは日向じゃねえよ!!」
将悟はてっきり日向とその彼女だと思った。
ただの痴話喧嘩だろう。あるいはじゃれあっているだけだろうと思った。
あの距離で、教室の窓越しで、亮太にはそこまで鮮明に見えたのか。
つくづく亮太は野生の動物のようだ。
やっと校舎の玄関につく。
まだ折り返し地点だ。
亮太は靴を履き替えもせず、さらにペースを上げて廊下を疾走する。
将悟は息も絶え絶えで、亮太についていくのに精一杯だ。
一番奥の、空き教室。
亮太は息を切らしながら、乱暴に扉を開ける。
「なにやってんだよ!」
少し驚いた様子で振り返った彼は、
百合の背中に片手を回し、もう片方の手は百合のセーラー服の中だった。
「坂野…先輩…っ!」
彼の腕の力が弱まり、百合は亮太の方に逃げ出す。
瞳に涙をたくさん溜めて、頬は上気しているようだった。
「はぁっ…はぁっ…亮太、ちょっと待てって。…っ!」
やっと追いついた将悟は、肌蹴た百合を見て驚いた。
すぐに自分の学ランの上着を脱ぎ、百合に羽織らせる。
「百合、戻ってこい。」
彼は怯む様子もなく、静かに言う。
百合は力なく無言で首を振る。
「まあまあ高橋…。彼女も嫌がってるみたいだし、止めてやれよ。」
将悟は百合を自分の背に隠し、宥めるように言う。
亮太は敵意をむき出しにするように彼に向き合った。
「違うだろ。なにやってるんだよ。お前彼方だろ!」
―…一瞬空気が凍った。
「え…?」
百合のか細い声。
「は!?そんなわけないだろ!」
将悟の焦りが混じる声。
「…何を言ってるんだ?」
彼の静かな低い声。
「百合ちゃんが好きなのは日向だ!お前じゃないだろ!
俺にはお前らがどっちかなんて見ればすぐわかる!お前は、彼方だ!」
亮太の怒り交じりの声。
将悟と百合は、黙って二人を見守ることしかできなかった。
―数秒の沈黙。
「…っふふふ!あははは!もうバレちゃった!」
狂ったように笑う彼方。
教室内に彼方の笑い声だけが響く。
彼方以外の全員は言葉を失ってしまう。
「やっぱり亮太だけは騙せなかったかー。
―…その勘の良さが本当に目障りだよ。」
「…なんで…っ。」
唇を噛み、彼方を睨む亮太。
握った拳に、力が篭る。
「でもその子も相当馬鹿だねー。日向がそんな子供みたいな女を好きになるわけないのに!
ちょっと日向のフリして優しくしてやったらすぐ落ちるんだもん!
結局、日向じゃなくてもよかったんじゃん。誰でもよかったんじゃん!」
「…そんな…私…っ。」
「日向は僕のだよ。…誰にも、奪わせない。」
百合の事を蔑んだような目で見る彼方。
指を唇に添えて笑いながら語る。
「高橋…お前何言って…」
「お前…なんでこんなことしたんだよっ!!」
将悟の言葉を遮り、亮太が彼方の胸倉を掴む。
怒りに任せたその腕は血管が浮いていた。
「日向の周りをうろついてるのがウザかったからだよ。
この子は日向に似合わない。邪魔なんだよ。
うーんと優しくして日向のフリした僕に依存させてから、
二度と日向に近づかないように、こっぴどく捨ててやろうと思ったのに、
…案外早くバレちゃった。」
彼方はペロリと舌を出し、おどけて見せる。
亮太の手にさらに力が篭る。
将悟の後ろで、百合が耳を塞ぐ。
彼女にとっては、あまりにも辛い現実だろう。
「ねえ、百合ちゃん。僕とのキス、どうだった?」
「やっ…。」
「お前…っ!いい加減にしろよっ…!!」
百合の嗚咽とともに、亮太が彼方の左頬を殴る。
力任せの拳で、彼方は少し後ずさる。
そのまま亮太は彼方に馬乗りになる。
「おいやめろ!」
将悟の静止を振り切って、亮太は再び彼方の胸倉を掴む。
何故だか、亮太は目頭が熱くなるのを感じた。
「百合ちゃんは…っ!本当に純粋に日向のことを想ってたんだよ…っ!
本当に…っ。ずっと…っ日向のことばかり見ててっ、
日向の話ばっかりして…っ!
百合ちゃんが好きなのは…っ日向だったんだよ…っ!」
ポロポロと零れる涙が彼方に降り注ぐ。
「本当にそういうの…反吐がでるよ…。」
彼方は吐き捨てるように言った。