「人魚の岩場」

 「人魚の岩場」



「晴れたね。昨日の雨が、嘘みたいだ。」

カーテンを開けて、彼方が言う。
窓の外は、眩しいくらいの朝日が降り注いでいた。
時刻は午前十時前。学校はとっくに始まっている。
どうせサボるつもりだったし、今日はわざと朝寝坊をした。

二人で一緒に一つのベッドで眠ったけれど、彼方は昨日も手を出してこなかった。
ただ、抱きしめ合って眠っただけ。抱きしめる以外は、何もしてこなかった。
彼方なりの誠意のつもりだろうか。なんだか拍子抜けだ。
別に恋人らしいことがしたかったなんて、言うつもりはないけれど。
せっかく、恥ずかしくても「好き」だと伝えたのに。
ちょっとだけ、ほんの少しだけ、期待していた。

「本当に行くんですか?」

「うん。天気もいいし、ちょうどいいでしょ?」

そう言って、彼方は微笑む。

今日は、彼方の「秘密の場所」へ行くらしい。
昨日の夜話してくれた、日向との思い出の場所。

京子も、話くらいでは聞いたことがある。
こんな田舎の唯一の観光名所、夫婦岩。
けれど、ただ大きな言岩が二つあるだけと聞いた。
そんなところの、何が楽しいのだろう。
日向との秘密の場所なら、どうして自分を連れて行こうと思ったのだろう。

―京子ちゃんは、特別だよ。

その言葉が、なんだかくすぐったい。
今までの彼氏にも、兄にも、言われたことがない言葉。
何故だろう。嬉しいような、恥ずかしいような、妙な気分になる。
ああ、本当に自分は、彼方のことが好きなのか。

そんな気持ちを悟られたくなくて、京子はキッチンへ入る。
素直になれたらいいのに、やっぱり自分は素直になれない。
トーストを焼いて、卵とベーコンを炒めて、簡単な朝食を作った。
それから、二人で少し遅めの朝食を取った。

けれど、やっぱり彼方の食は細く、半分も食べないうちに「ごちそうさま」と言った。
自分の料理の腕は、悪くはないと思う。
というより、トーストも卵もベーコンも、誰が焼いてもある程度美味しくなるはずだ。
でも、最近の彼方は食事を見るたび、憂鬱そうな顔をする。
口を付けてくれるだけ、マシなのだろうか。
夏バテだと言っていたが、本当にそうなのだろうか。
病気で食が細くなっているのだろうか。
その病気の話を聞いても、はぐらかされる。

シャワーを浴びている時、キッチンにいる時、自分が眠った後。
彼方が自分にバレないように、こっそりと薬を飲んでいることも知っている。
本人は気付かれていないと思っているようだが、自分は気付いてる。
どうして、話してくれないのか。
自分は、彼方の彼女のはずなのに。
本当のことを話せるのは、自分だけじゃなかったのか。
今更、気を遣うような関係じゃないのに。
京子は、やりきれない気持ちを溜息にして、吐き出した。


外に出ると、暑くもなく、寒くもなく、ちょうどいいくらいの気温だった。
京子のアパートから、海沿いの道路を歩いて十五分程度。
穏やかな日本海を眺めながら、クネクネとした坂を上る。
山と海しかない、田舎の風景。
吹き抜ける潮風が気持ちいい。
しばらく歩いて、その場所に辿り着いた。

「ほら、あそこだよ。」

そう言って、彼方は指を指す。
その先を見ると、観光名所らしく、開けた高台が見える。
彼方に手を引かれて、その高台に上ると、そこには、大きな岩が二つ、海に浮かんでいた。
十五メートルを超える巨大な岩と、その岩より少しだけ小さい岩。
少し大きさが違うのが、夫婦岩と言われる所以だろうか。
二つの岩を繋ぐように、太いしめ縄が架かっている。

「正式名称は機具岩って言うんだって。」

彼方は立札を見て、言う。
ご丁寧にフリガナがつけられている。
当然か。『機具岩』で『はたごいわ』だなんて、難しくて読めない。

「ちなみに、大きい方が女岩なんだよ。」

「逆じゃないんですか?」

「逆じゃないよ。ほら、女は強し、って言うじゃない。」

そう言って、彼方はクスクスと笑う。

古い木造のベンチに座って、その景色を眺めてみる。
この静かな高台は、視界を遮るものが何もなくて、遠くまで海が見渡せる。
大きい方の岩の上に、赤い社が見える。何かを祀ってあるのだろうか。
空も海も穏やかで、澄み渡るほどの青。
太陽の光を反射して、水面はキラキラと輝いていた。
雄大な自然。でも、どこか厳かな雰囲気がある場所だった。

腰の高さまでの柵に手を乗せて下を眺めてみる。
下に広がるのは、砂浜ではなく、ゴツゴツとした岩肌だった。

「こっちから下に降りれるんだよ。」

隅の方に、下へと続く小さな階段がある。
古い木材の欄干を伝って、少し歪な石の階段を降りた。

家を出る前に、「ヒールのある靴はやめた方がいいよ」といった理由がわかった。
地面はゴツゴツとした岩肌で、スニーカーを履いていても不安定だった。
小さな石が、じゃりじゃりと音を立てる。歪な石に、足を取られてしまう。
こんな岩場を歩きなれていない自分は、今にも転んでしまいそうだ。
彼方は慣れた様子で、そんな不安定な地面を軽々と歩く。

下に降りると、高台で見たよりも機具岩はずっと大きく見えた。
四階建ての学校と同じくらいの大きさに見える。

「昔さあ、幼稚園の時にね、この岩に登ってみたくなったんだよねえ。」

機具岩を見上げて、彼方が呟く。

「登ったんですか?こんなところに?」

断崖絶壁、というわけではないが、登れるように階段があるわけではない。
刺々しい歪な形は、ロッククライマーですら躊躇うだろう。
とても子供が登れるような岩ではない。

「登ったよ。日向が『危ないからダメだ』って言うんだけどさ、男の子って小っちゃい時ってやんちゃじゃない。
 『大丈夫大丈夫』って登ったんだけどさ、半分くらい登った時に…途中で手が滑って海に落ちちゃって。
 まあ、足がつく場所だったから、たいしたことないし、大丈夫だったんだけどね、背中打ったり、ちょっとだけ足切れたりして、すっごく痛かった。
 でもさ、男の子だから泣かなかったんだよ?偉いでしょ?」

冗談めかして、彼方は笑う。

「今は泣き虫なのに、よく言えますね。」

「そうだね。でも、その時は泣かなかったんだ。
 代わりに、日向の方が泣きそうな顔してた。
 いつもそうなんだ。僕が痛いと、日向が泣きそうな顔になる。
 まあ、日向は僕と違って、泣き虫なんかじゃないんだけどね。」

切なそうに、日向の名前を呟く。
最近の彼方は、思い出話をよくするようになった。
それも、昔の日向の話ばかり。
まるで、過去を懐かしんでいるみたいに。

そんな彼方の話を、京子は黙って聞いていた。

「その後は、散々だったなあ。
 おばあちゃんのお説教はすっごく長かったし、日向も『だから危ないって言っただろ』って怒って、しばらく口聞いてくれなかったよ。
 日向ったらね、怒ったらいつも無視するの。僕が謝るまで、ずーっと目も合わせようとしない。
 わかりやすくプイってそっぽ向いてさ。話しかけても、名前呼んでも、返事しないんだよ。
 岩から落ちても泣かなかったのに、日向に無視されるのが辛くて、泣きながら謝ったっけ。」

照れくさそうに、彼方ははにかむ。
その言葉の一つ一つから、日向への想いを感じる。
やっぱり彼方は、今でも日向のことを想っている。

なんだか面白くない。
やっぱり彼方の一番は、日向なんだ。
諦めたと言ったのに。自分を好きだと言ってくれたのに。
日向に嫉妬するのはお門違いだとは、わかっている。
けれど、チクリと胸が痛む。

無意識に、唇が尖る。
彼方のことが好きだと自覚した時、自分は彼方の一番にはなれないと思った。
彼方のことが好きだと言ってから、自分が彼方の一番になりたいと思った。
寂しがりなこの人の、居場所になりたいと思った。
けれど、口を開けば日向の名前ばかり呼ぶ。
その響きが切なくて、なんだかやりきれない気持ちになる。
自分は、日向には勝てない。勝てるわけがない。

唇を尖らせる京子の様子には気付きもせずに、彼方は岩場にしゃがみ込む。
そして、水面に手を遊ばせた。長い指先が海水に浸る。
波がその手を攫おうと、揺れる。
袖くらい捲ればいいのに。

「袖、濡れますよ。」

「平気だよ。」

静かに寄せては返す波。
穏やかに、ゆらゆらと揺れる。
岩場に当たり、跳ね返り、飛び散る。
一際大きい波に、彼方の白いジャケットの袖が濡れた。

「あー…。」

彼方は水面から手を出して、濡れた袖を見つめる。
手首の部分が、水を含んで変色していた。

「ほら、言ったじゃないですか。」

「このくらい平気だよ。すぐ乾く。」

平日の海は、静かだった。
辺りに人影はない。こんな田舎を走る車もない。
たまに、遠くで小さな漁船が見えるだけ。
まるで世界に二人きりになったようだった。

「ねえ、京子ちゃん。人魚姫って知ってる?」

ふいに、彼方がポツリと呟く。

「童話ですか?」

「うん。僕ね、昔から人魚姫の絵本が好きだった。」

そう言って、彼方は微笑む。
なんだか意外ではない気がする。
子供っぽいというか、無邪気というか、彼方は難しい本より、絵本の方が似合っていると思う。
それにしても人魚姫だなんて。
絵本の中では珍しいバッドエンドではないか。

「最後は、泡になって消えちゃうんですよね。」

「え?妖精になって、王子様を見守るんじゃないの?」

彼方は、驚いたように目を瞬かせる。
妖精だなんて、初めて聞いた。

「泡ですよ。」

「妖精だよ。」

むっとした表情で、彼方は言い返す。
負けず嫌いな京子も、ムキになって言い返す。

「泡ですって。」

「妖精だってば。」

「泡。」

「妖精。」

なんだかおかしくなって、二人は顔を見合わせて笑う。
不思議な感じだ。二人は、趣味や趣向が似ているわけでもない。
ただ、お互いに好きになってはいけない人を、好きになってしまっただけ。
それだけだったはずなのに、今は彼方の隣が心地いい。

「でも、どっちにしても、バッドエンドでしょう。」

人魚姫は、人間の王子様に恋をする。
大好きな王子様に近付きたくて、魔女に頼み込んで、声と引き換えに足を手に入れる。
人間になって陸に上がった人魚姫は、何も話せなくても、王子様の傍にいられた。
けれど、突然王子の結婚が決まる。
魔女は言う。「その想いが叶わなかったら、お前は泡となって消えてしまう。」
「王子を殺せば、消えなくて済む」そう姉たちに言われて、握りしめたナイフを、人魚姫は王子に突き刺すことはできなかった。
結局、想いも伝えることもないまま、人魚姫は消えてしまう。
悲しい、悲しいお話だ。

彼方は、静かに首を振る。

「そんなことないよ。
 ハッピーエンド…とは言えないかもしれないけど、人魚姫は幸せだったと思うよ。」

「どうしてそう思うんです?」

「好きになった人を、殺すことなんてできないでしょ?
 人魚姫は自分が犠牲になることで、王子様を守ったんだよ。
 王子様の幸せのために、死ぬことを自分で選んだんだよ。
 大好きな王子様を守るために死ねるなんて、それって、凄く素敵なことじゃない?」

そう言って、彼方は切なそうに微笑む。
美しい自己犠牲精神。
それが素敵だなんて、京子は思えない。
そんなものは、ただの自己満足だ。
押しつけがましい、偽善だと思う。

「私は、そうは思いませんけど。」

「じゃあ京子ちゃんが人魚姫だったら、優樹さんを殺す?」

物騒な言葉を、平然と口に出す彼方。
真っ直ぐな瞳が、自分を見つめる。
いつもの冗談なんかじゃない。彼方の目は真剣だ。

「それは…」

「無理だよね。…僕も、日向は殺せない。」

強い言葉で、彼方は言う。
口ごもって、京子は何も言えなかった。

「日向を殺すくらいなら、僕が死ぬよ。日向のためなら、僕は死ねる。」

彼方は、悲しい顔で笑った。

「…馬鹿なこと、言わないでください。」

「冗談だよ、冗談。ただの例え話。」

消えてしまいそうな、儚い微笑み。
まるで、彼方が波に攫われてしまいそうで、怖くなった。
この雄大の海が、彼方をどこか遠くへ連れ去ってしまいそうで、寒気がした。
彼方が本当に命を絶ちそうで、恐ろしかった。
だって、彼方は死にたがっている。
自ら命を絶つことを望んでいる。

無意識に、彼方の腕にしがみつく。
どこにも行かせない。遠くへなんて、行かせない。

「…貴方の彼女は私なんですから、勝手にいなくなったり…しないでくださいよ。」

「京子ちゃん…。」

そっと、彼方に抱き寄せられる。
まだ温かい彼方の体温が、ひどく愛おしく感じる。
生きている温度。その温度が欲しくなって、京子も彼方の背中に腕を回した。

「死んだりしたら、許しませんよ…。」

小さく呟くと、彼方の長い指が、頭を撫でて髪を梳いた。
けれど、彼方は何も言ってはくれなかった。
ただ静かに、宥めるように優しい手付きで自分を抱きしめて、頭を撫でた。

寂しい波音が聞こえる。遠くで鳥の開く声が聞こえる。
彼方の胸に顔を押し付けると、心臓の鼓動を感じた。
大丈夫、生きている。まだ、生きている。
自分を抱きしめて、命を紡いでいる。

「海が好きなんだ。」

彼方が、ポツリと呟く。

「どうせ死ぬなら、海に還りたいなあ。」

そう言って、彼方は一層強く自分を抱きしめた。
その寂しい響きに、涙が出そうになる。
彼方が自分に話してくれる思い出話も、自分を包み込む優しさも、全部が終わりを迎える準備な気がして、胸が震えた。

京子は、海に向かって祈った。
ああ、どうか、この人を連れて行かないで。
この人の弱さも、甘えも、寂しさも、全部自分が受け止めるから。
だから、だからどうか、この人の傍にいさせて。

「…今日も、仕事…休めないんですか…?」

躊躇いがちに、京子は口を開く。
甘えるような言葉なんて、普段は恥ずかしくて言えない。
けれど、今は、まだ彼方を帰したくなかった。
もっと一緒に、いてほしかった。

「え?…えーっと…。」

彼方は、戸惑ったような声を上げる。
自分らしくないことを言ったのは、わかっている。
笑われてもいい。からかわれてもいい。それでもいいから、傍にいたい。

けれど、彼方はもじもじと、言い辛そうに言った。

「実は…昨日サボっちゃったんだよね。」

「え?休みじゃなかったんですか?」

「うん…。」

叱られた子供のように、彼方は俯いて肩を落とす。

「優樹さん怒ってるかなあ。怒ってるよね?連絡してないもん。
 優樹さん怒ったら怖そうだなー…。あー怒られるの嫌だなー…。」

大袈裟に、彼方は溜息を吐く。
さっきまで大人びた儚さを持って、死や自殺を仄めかしていたのに、急に子供の顔になる。
小さい子供のように、うじうじと怒られることを憂うなんて。
いつもの、彼方だ。京子は少しだけ、安心した。

「…ちゃんと連絡しない貴方が悪いでしょう。思いっきり怒られてきてください。」

「ええー、京子ちゃん冷たーい。」

彼方は唇を尖らせて、不貞腐れる。
無邪気な、子供の表情。

「明日も…来てくれますよね?」

確かめるように、京子は問う。

「…うん。会いに行くよ。もうちょっとバイト減らしてくれたら嬉しいけど。」

そう言って、彼方は笑った。

少しでも、彼方と過ごせる時間がほしかった。
脆く、臆病な彼方を、守りたかった。
自殺だなんて、馬鹿なことを考えないように。
自分の傍に、置いておきたかった。

麻丸。
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麻丸。

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