「僕の神様」

 「僕の神様」



「最近なんか上の空じゃない?」

下着姿でベッドに腰掛ける智美が言った。
情事の後も熱も消え、携帯電話を弄りながら紫煙を燻らせている。

「そう?ごめんね。ちょっと酔ってたのかも。」

その柔らかい肩を後ろから抱き、甘えるように彼方は言う。
抱きしめられた智美は携帯電話を伏せて、嬉しそうに笑った。

「もー、そうやってご機嫌取ればいいと思ってるでしょ。」

その通りだ。女が機嫌を損ねると面倒だ。
適当に取り繕って、機嫌を取らないと。

「そんなことないよ。こうしたい気分なの。」

「ふふっ、なにそれ。」

耳元で低く囁くと、智美は満足そうに笑う。
単純だな、と彼方は思った。

「なあに?最近、彼女でもできた?」

智美は彼方の腕の中で身をよじって、振り向く。
腕を解いて、自分を見つめる瞳に、彼方は微笑みを返した。

「ううん、彼女はいないよ。」

「本当かなあ。彼方君、モテるじゃない。」

そう言って、智美は指で彼方の唇をなぞる。
器用に、長い爪が当たらないように、そっと。

「ホントだよ。…僕を愛してくれる人なんて、いないもん。」

彼方は自分の唇で遊ぶ智美の手を取り、そう小さく呟いた。
そして、その手の甲にキスを落とす。

まるでお姫様と王子様のような、キザな仕草。
女はいくつになっても、お姫様扱いをされたがる。
お姫様だなんて、風貌でも、歳でも、ないのに。馬鹿みたいだ。
けれど、こんなことでご機嫌になるなら、安いものだろう。
まだまだ智美には、金を落としてもらわないと。

そんなことを考えながら視線を上げると、智美の視線がある一点を見つめていることに気付いた。
その視線の先は、自分の左手首。

「ねえ、これ…」

智美はその傷を指さす。
一直線の、真っ赤な傷跡。

「別になんでもないよ。…猫と、遊んでたんだ。」

彼方は笑みを作り、その傷を隠すように左手を引いた。
けれど、智美はその左手を掴み、その傷を凝視する。

「そんなわけないでしょ?どうしたの、これ…。なんでこんなことしたの?」

責めるような口調で、智美は彼方を見つめる。

「だから…なんでもないってば。
 マンションの近くに、可愛い野良猫がいるんだ。
 その子と遊んでて、ちょっと引っ掻かれちゃっただけだよ。」

「こんなところ、引っ掻かれるわけないでしょ?」

「本当だって。引っ掻かれたんだもん。仕方ないじゃない。」

「馬鹿なこと言わないで。」

面倒だな。
手首を切ったからといって、なんなんだ。
別に死ねやしないのに。

さて、どう誤魔化すか。
キスの一つでもして、黙らせるか。
そう思って智美の顎を掬おうとすると、その手は振り払われた。

「…ちゃんとした病院紹介しようか?」

心配そうに、知美は自分を見つめる。
ちゃんとした病院だって?
精神病院にでも自分を連れていくつもりか。

「…智美さん、僕を変人扱いするの?」

わざと悲しい顔を作って見せる。

「そういうわけじゃ…ないけど…。」

その言葉に、智美はたじろいだ。
このままもう一度抱いて、余計なことを言う口を塞いでしまおう。
同情なんて、余計に惨めになるだけだ。

彼方は智美を押し倒した。
組み敷いて、無理矢理に唇を奪う。

「あっ…駄目!」

智美は身をよじって、キスを拒んだ。
顔を背けて、抵抗する。いつもだったら、喜んで受け入れるくせに。

「…駄目よ。もう…こういうことするのはやめよう。」

「僕じゃ満足できないの?」

苛立ち交じりに彼方が言うと、知美は首を振った。

「そうじゃなくて…彼方君、おかしいわ。最近おかしい。もっと自分を大事にしなよ。」

自分を大事にしろだって?
金を払って自分と寝てる女が、何馬鹿なことを言ってるんだ。

彼方は溜息を吐きながら、体を起こした。
苛立ちを誤魔化そうと、乱暴にグシャリと前髪をかき上げる。

「…智美さんがそんなこと言うの?変じゃない?」

ああ、おかしいな。いつもなら、言葉巧みに上手く誤魔化すのに。
抱きしめてキスをして、甘い言葉の一つでも言えるはずなのに。
今日は何故かそれができない。なんだかイライラする。
それは自分が精神異常者に見られたからなのか、浅はかな偽善をみせられたからなのか。
苛立ちを隠せないなんて、自分らしくない。

「彼方君…。」

智美は、戸惑ったような視線を向ける。

そろそろ、智美との関係も潮時か。
もっと長く引っ張れると思ったのに。
まあ、こうなってしまっては、仕方がない。

「もう智美さんとは寝ない。店にも来なくていいよ。」

そう冷たく吐き捨てるように言って、シャツに袖を通す。
これ以上、ここに居たって意味はない。

「待って。…ちゃんと話をしよう?」

縋るように、智美は後ろから自分を抱きしめてくる。
今更遅い。もう何を言ったって無駄だ。

「もう話すことなんて、ないでしょ?」

構わず、シャツのボタンを一つ一つ留めていく。
智美を振り払って、スーツのズボンに足を通す。
シャツは出したまま、苛立ちに任せてベルトをキツめに締める。

「彼方君…待って。」

「待つ必要なんて、ないでしょ?」

そう言って、優樹に仕立ててもらったスーツのジャケットに袖を通して、立ち上がる。

「じゃあ僕は帰るから。…ああ、お金はいらないよ。さよなら。もう会わない。」

戸惑って縋るような智美を置いて、彼方はその部屋を後にした。



眩しい日差しを浴びながら、駅へ向かう。
今は、優樹のマンションへは帰りたくなかった。
作り笑いをする余裕すらない。苛立ちが募って、猫なんて被れない。
こんな顔を、優樹に見られたくなかった。誰にも自分を見てほしくなかった。

誰にも会いたくない。こんな自分を、誰にも見られたくない。
けれど、無意識に足が向いたのは、京子の家だった。

電車に乗って、二時間近く揺られて、駅から数分歩く。
通い慣れた赤煉瓦のアパートの扉を、合鍵で開ける。
中に京子の姿はなく、静かだった。

携帯電話で時刻を確認すると、まだ午前中だった。
京子が帰ってくるまで、数時間はある。
彼方はポケットを弄る。
取り出したのは、病院で不眠を訴えて処方された数種類の睡眠薬。
あるだけ飲んでしまおうと思った。
どうせたいして効き目はない。たくさん飲んだところで、死ぬわけはない。

苛立ちを押し込めるように、乱暴に睡眠薬を口の中に押し込んだ。
不愉快な苦い味が広がる。駅で買った缶コーヒーで、それを流し込む。
一気にコーヒーを飲みほして、空き缶に少しだけ水を入れて、ベランダへ出る。
すっかり見慣れた景色は、秋に変わっていた。
晴れ渡る青空が高い。木々が紅葉している。
日向と離れて、季節が一つ、変わった。

彼方はベランダにしゃがみ込んで、煙草に火を点ける。
肺を満たす煙に、少しだけ安心する。
せっかく禁煙していたのにな。また京子に怒られてしまう。
けれど、今はどうでもよかった。苛立ちが消えるなら、それでよかった。

ぼーっと空を見上げながら、紫煙を吐き出す。
燃え尽きた灰を、空き缶の中に零す。
また京子に、「空き缶を灰皿代わりにするな」と言われてしまうな。
だって、京子の家には灰皿がないのだから、仕方ない。

短くなった煙草を、空き缶の中に落とす。
ジュッという音と共に、火種が消えた。
念のため、空き缶をクルクルを回して消火を確認する。
京子は心配性だから、何度も口を酸っぱくして「ちゃんと火が消えたことを確認してください」と言っていた。
自分も耳にタコができるほど、その言葉を聞いた。
缶の中を覗いてみたら、煙草はすっかり湿っていた。もう、大丈夫。
彼方は空き缶を置いて、部屋に戻った。

薬なんて気休めみたいなもので、即効性なんてない。
京子のベッドに身を沈めて、瞼を閉じてみる。
布団から、京子の匂いがする。京子の枕を、両手で抱きしめる。
なんだか落ち着く、京子の香り。

京子のことが、本当に好きになっていた。
けれど、同時に怖くなった。
自分の日向を好きだという気持ちが、偽りだったのではないかと思ってしまうから。
恋や愛なんかじゃ、なかったんじゃないかと、思ってしまう。
怖い。だってあれが恋じゃないのなら、自分はなんていうことをしてしまったんだ。
日向を傷付けた。百合を傷付けた。いろんな人を傷付けた。
それは、きっと一生許されない。
もう戻れない。戻れるわけない。二度と。永遠に。戻れない。



夢を見た。

まだ、日向と仲が良かったころの夢。
中学校に上がりたての頃の記憶。

二人とも今よりも体が小さくて、二人で眠ってもシングルベッドは狭くは感じなかった。
ピッタリとくっついて身を寄せ合って、二人で虐待に耐えていた。
体中傷だらけだった。心も、ボロボロだった。
それでも、独りじゃないから生きていられた。
日向と一緒だから、生きていられたんだ。

それは、ある日の真夜中のことだった。
いつものように、日向と身を寄せ合って眠っていた。
ふいに、誰もいないはずのリビングから物音が聞こえた。

今思えば、馬鹿だったと思う。
知らないふりをして、眠っていればよかったんだ。
当時の自分は、幼く、愚かだった。

重たい瞼を擦って、ベッドをするりと抜けて、部屋を出た。
リビングを覗くと、真っ暗な部屋で酒を煽る母親がいた。
その姿を見た時、逃げなきゃいけないと思った。
息を殺して、足音を潜めて、リビングを離れようとした。

けれど、母親は自分に気付き、腕を引っ張った。

「あ…ごめんなさい…。」

自分は背筋が寒くなって、ぎゅっと目を瞑った。
殴られると思った。蹴られると思った。体中、ボロボロにされると思った。
けれど、その日は違った。

「あの人に、似てきたわね。」

酒臭い息で母親はそう呟くと、乱暴に腕を引っ張って、自分をソファに押し倒した。
覆いかぶさるように、母親が自分に跨る。
そして、自分の寝巻のジャージに手を掛けた。

「なに…するの…。」

体が恐怖で凍り付いて、動かなかった。
抵抗を諦めている自分は、ただされるがままだった。

母親の手は、ジャージを下ろして、その下の下着も下ろした
そして、露わになった自分の下半身に舌を這わせた。

それが意味することは、保健体育の授業で充分に理解していた。

「やだ…母さんやめて!」

その行為は、ただただ気持ち悪くて、汚くて、恐ろしかった。
快楽なんてない。嫌悪と、罪悪感と、屈辱で吐き気がした。
散々体中を弄られて、舐められて、犯された。

その日、生まれて初めて、日向にも言えない秘密ができた。
言えない。言えるわけない。
汚された、汚れてしまった、だなんて。

解放されたのは、空が白んできた頃だった。
自分に飽きた母親は、何処かへ出掛けてしまった。
ただ一人暗い部屋に残されて、心が空っぽになった。
シャワーを浴びて、体を綺麗にして部屋に戻ると、日向は何も知らない顔で眠っていた。
その寝顔が綺麗で、自分なんかとは全然違って、苦しくなって、辛くなって、声を押し殺して、泣いた。

汚された自分とは違って、日向はやっぱり綺麗だった。
それが羨ましく思う反面、眩しくて、見ていられなかった。
だけど日向のことは大切だし、何もなかったフリをして笑った。
嘘を吐くことを覚えた春だった。

それから母親は、たまに自分を犯すようになった。
母親からしたら、どちらでもよかったのだと思う。
だって、二人の見分けができなかったのだから。

日向だけは、守らないといけないと思った。
だから、自分が犠牲になった。
自ら望んで、母親に犯され続けた。

その行為が始まるのは、二人が寝静まった真夜中だった。
真夜中に物音を聞けば、自分は迷わずにリビングに向かった。
何をされるかわかっていながら、汚されに行った。

ある日、真夜中に目を覚ましたら、母親が自分たちの部屋にいた。
静かに眠る日向の服を、脱がそうとしていた。
自分は慌てて飛び起きて、声を潜めて母親に言った。

「ね…ねえ、僕…頑張るから…ちゃんと言うこと聞くから…だから日向には手を出さないで…お願い…日向だけは…許して…。」

その夜、自分の貞操と引き換えに、色を使うことを覚えた。
自分が内側から壊れていく気がした。
心が壊れていく音を聞いた。
それでも、日向を守るためには、こうするしかなかった。

日向の知らないところで汚れていく自分が、ひどく滑稽に思えた。
けれど、日向だけは綺麗なままでいてほしい。
日向だけは、汚されないでほしい。
日向は、自分の神様だったから。

幸か、不幸か。
皮肉にも、自分は嘘を吐くことと、色を使うことを覚えた。
笑顔をいう、偽りの仮面も与えられた。
ニコニコヘラヘラ笑って、心にもない嘘を吐く。
自分は平気だと、何もないよと、微笑む。

自分が笑っていれば、日向も笑ってくれた。
虐待が続いていても、日向がいれば耐えられた。
独りきりで汚されても、日向の寝顔を見たら、平気でいられた。
いや、自分はとうの昔に、壊れていたのかもしれない。

それから、どんな女と体を重ねても、満たされることはなかった。
愛されることはなかった。愛することもなかった。
愛が、わからなくなっていた。
愛なんて、ただの性欲だとしか思えなかった。

だって、学校や優樹の店で自分に擦り寄ってくる女は、みんな同じだった。
恋だの愛だの言いながら、結局は自分の体が目当てだった。
体を重ねて「愛されている」だなんて、馬鹿なことを言うなよ。

そもそも、恋ってなんだ。愛ってなんだ。
満たされるってなんなんだ。
そんなもの、存在しないじゃないか。
どこにもないじゃないか。

誰も自分を、愛してくれないじゃないか。

日向は、自分を愛してはくれない。
日向は、あの子供みたいな女を選んだ。
身を挺して日向を守った自分よりも、あの女を選んだ。
いや、日向は自分が汚れていることを知らない。
何も知らないまま、日向は幸せになった。

京子だって、本当は優樹のことが好きなんだ。
自分とは、惰性で付き合ってくれているんだ。
京子が初めて自分に好きだと言ったとき、涙が出た。
嬉しかった。愛おしかった。
けれど、よくよく考えれば、信じられなかった。
あんなに優樹のことを想っていたのに、急に自分を好きだなんて。
あの言葉は、自分が言わせたようなものだ。
嘘でいいから、なんて。嘘でいいはずなかった。
嘘じゃ、満たされない。

結局、独りぼっち。
愛なんてわからない。
けれど、愛されたかった。愛がほしかった。
誰かに、自分の居場所を与えてほしかった。

そんな臆病な自分は、何も言わずに傍に置いてくれる京子が、心の拠り所だった。
嘘なんかじゃ嫌だ。でも、傍に置いてくれるなら、嘘でいい。
嘘でもいいから、自分の傍にいてほしかった。
いや、やっぱり嘘は嫌だ。
でも、独りぼっちの方が怖い。


京子の嘘に甘えて、京子を縛り付けたかった。

麻丸。
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麻丸。

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