「あなたがすき」

 「あなたがすき」



家に帰ると、静かだった。
物音やテレビの音も聞こえない。
けれど、玄関に彼方の靴がある。
また眠っているのだろうか。
最近の彼方は、自分のベッドで眠っていることが多い。
自分の匂いがして安心するのだと言うが、こちらとしてはなんだが複雑だ。
どうせここに本人がいるのだから、自分を抱きしめればいいのに。
なんてことは、口が裂けても言えないけれど。

靴を脱いで、家に上がる。
キッチンと通り過ぎて、部屋の扉を開けた。
そこには、やっぱり彼方がベッドの上で体を丸めて眠っていた。
けれど、なんだかいつもと様子が違う。
ベッドで眠る彼方の傍には、空になった薬のシートが散乱していた。

いろんな種類の何の効果があるのかもわからない薬に囲まれるように眠る彼方。
京子は一気に血の気が引いていくのを感じた。

「彼方さん!彼方さん!起きてください!」

反射的に、彼方の体を揺する。
散らかっているのは、睡眠薬だろうか。
彼方は睡眠薬で自殺を図ったのだろうか。
起こさないと。目覚めさせないと。ここで死なせるものか。

「彼方さん!ねえ、起きてくださいよ!彼方さん、…彼方さんっ!」

それでも、彼方の瞳は開かない。
けれど、呼吸はしている。心臓は動いている。起こさないと。

ふいに、以前彼方がポツリと零した言葉を思い出す。

―やっぱり僕、死んだ方がいいよねえ。

京子は、瞳に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
死なせない。死なせるもんか。
居場所がないなら、自分が彼方の居場所になってやる。
居場所なら、いくらでもくれてやる。
だから、起きて。目を覚まして。お願いだから。

「彼方さん…っ!彼方さん…っ、ねえ!起きて…起きてよ…っ!」

涙がポロポロと溢れる。
怖い。彼方を失うのが、怖い。彼方がいなくなってしまうのが、怖い。
それでも京子は、彼方の名を呼び、その体を揺さぶり続けた。

「…京子ちゃん?」

ふいに、彼方は薄らと目を開けた。

「どうして泣いてるの…?」

まだ重たそうな瞼で、自分を見つめる。
京子は、反射的に彼方に抱き付いた。

「何やってるんですか…馬鹿…っ。」

涙を隠すことなく、彼方を抱きしめて、声を上げて泣いた。
怖かった。怖かった。彼方が死んでしまうのではないかと思った。
よかった。目を覚ましてくれて。生きていてくれて。死ななくて、よかった。

「馬鹿なこと、しないでくださいよ…。」

ギュッと彼方を抱きしめる。
どこへも行かないように、強く、強く。

「京子ちゃん…痛いよ…。」

彼方は自分の背中に手を回して、まるで子供をあやすようにポンポンと背中を撫でる。
その体温に、ひどく安心した。

「…我慢して下さい。」

「ふふっ、どうしたの?今日は積極的だね。」

そう言って、彼方は笑った。
けれど、薬のせいか、ろれつが回ってない。
顔を上げれば、彼方の重たそうな瞼は、今にも閉じてしまいそうだった。

「どうして…こんなに、薬を飲んだんですか。」

「んー、不貞寝しようと思って。ちょっと、嫌なことがあったんだ。」

彼方は、眠たそうな瞳を擦る。
小さな欠伸をして、薄らと開いた瞳で、自分を見つめる。

「大丈夫だよ。こんなので、死ねるわけじゃないし。…だから、泣かないで?」

優しい手で、自分の髪を撫でる。
そのまま抱き寄せて、自分を彼方の隣に寝かせる。

「心配してくれた?」

「当たり前じゃないですか。」

「ふふっ、そっかあ。」

彼方は満足そうに微笑む。
その表情を見て、安心するのと同時に、怒りがこみあげていた。
なんて人騒がせなんだ。こっちは気が気じゃなかったのに。
京子は涙を拭って、その緩んだ頬をつねった。

「…痛いよ。」

「心配かけた罰です。」

彼方は痛そうに、つねられた頬を撫でる。
このくらい当然だ。こっちは本当に怖かったんだ。
彼方がいなくなりそうで、本当に怖かった。

「もう、こんなこと…しないでください。」

そう言って、京子は彼方の胸に顔を押し付けた。
こんなことをするのは、自分らしくないと思う。
素直に甘えるなんて、自分にはなかなかできない。
けれど、今は彼方にくっついていないと、不安だった。
手を離した瞬間、彼方が消えてしまいそうで。
その姿が儚すぎて、恐ろしかった。

「京子ちゃんは…僕のために、泣いてくれたんだね。」

彼方は自分を抱きしめて、切ない声で囁く。
その低く甘い声が好きだった。自分の髪を梳く優しい指先が好きだった。
細く頼りない体も、嘘ばかり吐く口も、ガラス細工のように繊細な心も愛おしかった。
甘えも、弱さも、この人の全てが好きだった。

「ねえ、京子ちゃん。顔、上げて。」

言われるがままに顔を上げると、唇に温かいものが触れた。
彼方にキスをされたのだ。
そう理解するのと同時に、自分の頬が熱くなるのを感じた。

「ふふっ。京子ちゃんって、不意打ち弱いよねえ。」

そう言って、彼方は無邪気な子供のような顔で笑う。
自分に向けられるその笑顔が嬉しかった。
だけど、同時になんだか恥ずかしくなって、また自分の悪い癖が出る。

「…また、煙草吸ったでしょう?」

京子は唇を尖らせて、プイッと顔を背ける。

「あれ、わかっちゃった?」

「煙草臭い人は嫌だ、って言いましたよね?」

自分の悪い癖。天邪鬼。

「煙草吸う人とは、キスしたくないです。」

素直になれなくて、正反対のことを言ってしまう。
本当はそんなこと、思っていない。
もっと触れたい。もっとキスしたい。もっと、彼方がほしい。
けれど、そんなことは口が裂けても言えなかった。

「ごめんね。今日から、また禁煙するから。」

そう言って、彼方は自分をギュッと抱き締める。
重たい瞼がゆっくりと閉じて、彼方は目を瞑ってしまった。
まだ薬が抜けていないのか。静かな寝息が聞こえる。
 
「ちょっと…寝るなら離してください。制服が皺になっちゃうじゃないですか。」

そう言うと、彼方は薄らと目を開けた。
まだ、完全には眠っていなかったのか。

「えー。もう、仕方ないなあ。」

そう言って、彼方は制服のスカーフに手を掛ける。
そのまま、するりとスカーフを解いた。

「ちょ、ちょっと彼方さん!何するんですか!」

「え?何って…制服脱いだらいいんでしょ?」

彼方は、不思議そうに首を傾げる。
制服を脱がすことに、何の躊躇いもないようだ。

「心配しなくても、下着姿くらいで興奮しないから大丈夫。」

あっけらかんと彼方は言う。
それもそれで、こちらとしては複雑だ。
いや、それよりもこんなの恥ずかしくて耐えられない。

「やめてください!自分で着替えてきますから!」

そう言って、京子は彼方の腕から逃れた。
彼方は何とも思っていないようだが、自分はドキドキして心臓に悪い。

「えー…じゃあ早く戻ってきてよ?」

少しだけ寂しそうに、彼方は唇を尖らせる。
そんな拗ねた子供のような彼方を置いて、京子は逃げるように脱衣所へ向かった。

脱衣所へ入って、京子は大きな溜息を吐く。
洗面台の鏡を見ると、まだ頬は赤い。
心臓もドキドキと騒がしく脈打っていた。
いきなり制服を脱がそうとしたから、勘違いしてしまったじゃないか。

いやそれよりも、制服を脱がせようとする手が、なんだかこなれていたのに腹が立つ。
彼方は、何度この制服を脱がせたのだろう。
自分とは違う女を、何度、何人、抱いたのだろう。
なんだか複雑だ。過去のことだとは、わかっているのに。
過去なんて、消せるわけがない。
それでも、あの人の過去も未来も、全部がほしい。
なんて、ワガママすぎるか。

なんだか、やりきれない気持ちになった。

部屋着に着替えて部屋に戻ると、彼方は静かな寝息をたてていた。
眠ってしまったのか。少しくらい、起きて待っててくれてもいいのに。

京子は彼方の髪を撫でる。
傷んだ茶髪は、指に絡まっては解けた。
まるで、掴みどころのない彼方の心のようだった。

長い睫毛、あどけない寝顔。
スヤスヤと、規則的な寝息をたてる彼方。
薄く開いた唇が、妙になめまかしい。
その唇がほしくなって、京子は彼方にキスをした。
今だけ。自分が素直になれるのは、彼方が眠っている今だけ。
彼方が起きている時は、恥ずかしくて素直になんてなれない。
だから、今だけ。今だけ、素直にならせて。

一度だけじゃ足りなくて、何度も何度もキスをした。
言葉で伝えるのは苦手だから、キスで伝わればいいと思った。
彼方が好き。大好き。愛している。
死んだりしないで。私のために、生きて。
いつかきっと、素直になるから。だから、それまでは傍にいさせて。私の傍にいて。

唇を離して顔を上げると、目が合った。
体が、固まる。

「煙草臭い人とは、キスしたくないんじゃなかったの?」

彼方はニヤニヤと、意地悪そうに笑う。

「え…彼方さん、起きてたんですか…。」

「うん。京子ちゃんが可愛いから、寝たフリしてた。」

長い腕が伸びてきて、抱き寄せられる。
恥ずかしい。最初から気付かれていたなんて。
こんな寝込みを襲うような真似、しなければよかった。
また頬が熱くなる。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。

「ね、寝ぼけてただけです!」

「嘘。そんなわけないじゃない。」

照れ隠しに声を荒げる京子を見て、彼方はクスクスと笑う。
真っ赤になった顔を見られたくなくて、京子は彼方の胸に顔を埋めた。
穴があったら入りたいとは、このことだ。何処かに隠れてしまいたい。
ああ、ダメだ。これじゃ彼方に甘えているみたいだ。
でも、彼方の体温が心地いい。
心臓が五月蝿い。ああ、もう、ドキドキして死にそうだ。

「ね、もうキス終わり?もっとしてくれないの?」

耳元で、彼方は甘く囁く。
その低い声に、ゾクゾクした。
ずるい。彼方はずるい。卑怯だ。
そんな声を聞かされたら、どうしていいかわからないじゃないか。

「…馬鹿。」

そんな悪態を吐くことしかできなかった。
彼方の指が髪を撫でる。指先が触れるたびに、体が熱くなる気がした。
抱きしめる腕が大きくて、優しくて、涙が出そうになった。
ああ、彼方が、好きだ。好きで好きで、堪らない。

「京子ちゃんはさ、僕のどこが好きなの?」

ふいに、彼方がポツリと呟く。

「…なんですか、突然。」

京子は彼方の胸に顔を埋めたまま、言う。
まだ顔は赤いままだ。こんな顔を見せるのは、躊躇われた。

「いや…ほら、自分で言うのもアレだけど、僕、結構色々とダメな男じゃない。」

自覚していたのか。

「ワガママで、嫉妬深くて、独占欲強くて、そのくせに女たらしですよね。」

「そんなこと…あるかもしれない…けどさ。なんか、それは自分で認めたくないなあ。」

彼方は、バツが悪そうに唇を尖らせる。
否定しないのは、自分で自分のことがよくわかっている証拠だ。

「寂しがりで臆病なくせに、変なところは肝が据わってて、嘘吐きで狡い人ですよ。」

素直に好きだとは言えないくせに、こんな言葉はスラスラと出てくる。
自分の天邪鬼は、タチが悪い。

「えー、そうかな?」

「そういう人ですよ、貴方は。」

「やっぱり京子ちゃんは厳しいなー。まあ、僕にはそれくらい厳しい子の方がいっか。」

そう言って、彼方はクスクスと笑う。
そんな子供っぽい笑い方も、好きだった。
作り物じゃない、彼方の暖かい笑顔が好きだった。
その笑顔が見たくて、京子は少しだけ顔を上げる。

「ん?どうしたの?」

目が合うと、彼方は微笑む。

「…なんでもないです。」

その笑顔が見たかっただなんて、言えるわけない。
素直になれない自分は、わざと拗ねたように唇を尖らせて、素っ気ない言葉を吐く。
気にする様子もなく、彼方は自分の髪を撫でる。
最近の彼方は、こうして髪を撫でることが多くなった。
犬や猫を撫でるような優しい手付き。
自分に首輪まで付けて、本当にペットみたいだ。
ああ、でも、彼方に飼われるのも悪くはない。

「ねえ、京子ちゃん。」

髪を撫でる指が、顔の輪郭をなぞって頬に触れる。
その大きな掌が、自分の頬を包み込む。
そのまま上を向かせて、目が合う。
彼方は切ない瞳で自分を見つめていた。

「…まだ優樹さんのことは、好き?」

また、だ。

―じゃあ京子ちゃんが人魚姫だったら、優樹さんを殺す?

夫婦岩で人魚姫の話をしていた時も、彼方は優樹の名前を出した。
自分が彼方に初めて好きだと伝えた、次の日だった。
彼方は自分の名前を出さずに、優樹を京子の王子だと決めつけた。

自分のこの気持ちは、伝わっていないのか。
好きだと言ったのに。抱きしめ合ってるのに。キスをしたのに。
確かに言葉は不器用だけれど、ちゃんと伝えたのに。
この口で、好きだと言ったのに。

「どうして…お兄ちゃんの話になるんですか。」

「…あんなに、好きだったじゃない。」

切なそうに、彼方は呟く。
それはそうだ。自分は、兄のことが好きだった。
どうしようもないくらい、好きだった。
けれど、今は本当に彼方のことが好きだ。

彼方のことが好きだと自覚すると共に、なんだかやるせない気持ちになった。
自分が好きだったのは、兄だったのに。
気付いたら、自分は兄に向ける感情とは別の感情を、彼方に向けていた。
彼方に向けている感情が、恋愛としての好きだとしたら、自分が兄に向けていた感情は何だったのだろう。
確かに自分は、兄のことが好きだったのに。
恋愛感情じゃなかったのか。なんだか自分が馬鹿みたいだ。

結局、自分は間違っていたのだ。
兄妹愛を、恋だと思い込んでいたのだ。
素直じゃない頑固な性格が、意固地になって兄のことが好きだと思わせたのだ。
もちろん、兄のことは大切だ。
でも、あれは恋じゃなかった。
自分が今恋しているのは、目の前のこの人だけだ。

けれど、彼方は自分の言葉を信じてはいない。
自分が本当に好きなのは、優樹だと思い込んでいる。

「…どうしたら、伝わるんですか?」

消え入りそうな声で、京子はポツリと零す。

「え?それは、やっぱり…優樹さんに、ちゃんと好きって言えばいいんじゃないかな。」

彼方は、悲しそうに目を伏せて、笑った。
違う。そういう意味じゃない。
伝えたい相手は、優樹じゃない。

「そうじゃなくって…!」

もどかしさに、京子は彼方の肩を掴む。
真っ直ぐに彼方を見つめる。
恥ずかしい。逃げ出してしまいたい。
でも、ちゃんと言わないと。ちゃんと伝えないと。
ああ、でも…言葉が出てこない。自分の不甲斐なさに、泣きそうだ。

「どうしたら…貴方に伝わるんですか…。」

彼方は、驚いたように目を見開いた。

「え…?なんで…僕?」

戸惑ったように、目を瞬かせる。
なんで、だなんて。決まってる。

「貴方が…好きだからに、決まってるじゃないですか!」

精一杯の告白に、恥ずかしさと緊張で、瞳が潤んだ。

麻丸。
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麻丸。

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