「手掛かり」
「手掛かり」
九月も終わりに差し掛かり、少しずつ肌寒い日が多くなってきた。
日も短くなり、どんよりとした曇り空が広がる日が増えた。
母親が事故に遭ってから、一週間と少し。
まだ、意識は戻らない。
日向は、二日に一回ほど、病院に顔を出していた。
別に何をするわけでもなく、静かに眠る母親の顔を見るだけ。
医師や看護師の険しい顔とは裏腹に、自分は胸の内で安堵していた。
このまま、一生母親の意識が戻らなくてもいい。
その方が、平和で幸せなのに。
静かな病室で眠る母親の顔は、穏やかだった。
まるで、死んでいるように眠っている。
事故当時に付けられていた呼吸器や、何に使うかよくわからないチューブなどは外され、母親の細い腕には、規則的に滴る点滴だけが繋がれていた。
これは病状が安定している証拠。
自力で呼吸もできるし、心臓も動かせる。
死んだように眠っていても、この女は生きている。
母親が事故に遭ったことは、百合と将悟に話した。
二人とも、心配そうに自分を気にかけてくれた。
心配かけるのは申し訳ないけれど、何も言わない方が余計に二人を心配させるとわかっていたから。
母親が事故に遭ってから、自分はバイトを減らして、以前より百合との時間を大切にするようになった。
甘く穏やかで幸せな時間。この時間が、いつ壊れるかもわからない。
貪るように、惜しむように、百合との時間を過ごした。
将悟には、「彼方に伝えなくていいのか」と言われた。
そんなこと言われたって、彼方の居場所も連絡先も知らない。
それに、伝えたところで、彼方は戻って来ないことを、わかっていた。
彼方は自分よりも、母親を嫌っていた。
家を出て、いっそ清々したのではないかと思う。
虐待を受けるのは、自分一人でいい。
そして、もう一人。母親が事故に遭ったことを伝えた人間がいる。
同じ高校の二年、竹内京子。
バイト先も同じで、最近よく話すようになった女の子。
彼女に伝えたのは、千秋の言葉があったからだ。
千秋によると、夏休みに街の方の大きな花火大会で、京子が彼方と歩いていたらしい。
本当かどうかはわからない。けれど、千秋が自分に嘘を吐く理由はない。
いや、もしかしたら千秋の見間違いかもしれないけれど。
だって、京子に彼方のことを聞いた時、知らないと言っていた。
京子が嘘を吐いているのか。誤魔化しているのか。
―噂では、女の子百人切りらしいっすよ。
彼方には、おかしな噂がある。
火のない所に煙は立たない。
噂と呼ぶには、あまりにも現実的なものだけれど。
もしかしたら、京子も彼方に遊ばれた女の内の一人なのかもしれない。
だから、彼方のことに触れてほしくなかったのかもしれない。
でも、千秋が二人を見たのは夏休みだと言っていた。
クラスの女子たちは、誰も彼方の連絡先は知らないと言っていたのに。
誰も夏休みに彼方に会っていないと言っていたのに。
偶然二人が街の花火大会で会ったとは、考えにくい。
たまたま会って、たまたまデートをしたなんて、有り得ない。
だとしたら、京子は彼方の連絡先を知っているのではないか。
二人で待ち合わせて、花火へ出掛けたのではないのか。
だったら、京子は今も彼方と連絡を取り合っているのではないか。
でも京子は彼氏がいると言うし、彼方とデートをしていただなんて、有り得ない…と思う。
彼方が京子の彼氏だとしたら?いや、そっちの方が有り得ない。
彼方は自分に恋心を向けていた。
やっぱり千秋の見間違いなんじゃないか。
そう思っても、疑念は消えなかった。
だから、京子に母親が事故に遭ったことを告げた。
どんな反応をするのかと、京子を試した。
けれど、京子は何も言わなかった。
代わりに、探るような視線を向けてきた。
あの沈黙と視線は、どちらだろうか。
何も知らないのから、自分の意図を探ったのだろうか。
知っているからこそ、押し黙って沈黙を守ったのか。
わからない。確信が持てない。
けれど、京子が彼方の居場所を知っていたとしても、簡単に口を割らないだろう。
彼方も口止めしているだろうし、京子は頑固そうだ。
ああいう気が強そうな女は苦手だ。どうしていいかわからない。
京子が本当に何も知らないのなら、それでいいのだけれど。
もし京子が彼方と繋がっているのなら、この話は彼方に伝わるはずだ。
この話を聞いて、彼方がどんな反応をするのかはわからない。
けれど、何らかの反応があるだろう。
いや、そもそも自分は、どうして京子にそんなことを言ったのだろう。
京子を揺さぶって、何がしたいのだろう。
もう彼方を探さないと決めたのに。
別々の人生を歩むと決めたのに。
将悟は、誠が彼方の何かを知っているかもしれないと言っていた。
誠の話を聞きたくなったら、家に来いと言われた。
けれど、将悟が聞いても誤魔化されるのなら、自分が聞いたって同じだろう。
そもそも、何をどう聞けばいいと言うのだ。
誠が誤魔化すのは、きっと触れられたくないから。触れてはいけないことだから。
聞けるわけがない。聞く気もない。聞いたって意味がない。
聞いても、自分にはどうにもできない。
手掛かりは、たくさんある。
けれど、踏み出す勇気がなかった。
矛盾だらけだ。言い訳だらけだ。
本当は心の底で、彼方を探したいと思っているのか。
やっと見つけた彼方への手掛かりに、縋りつきたいと思っているのか。
そんなはずない。そんなことがあっていいはずがない。
彼方を探して連れ戻すなんて、お互いによくないことだと思う。
彼方は望んで家を出ていったし、自分にもう会いたくないはずだ。
百合のことを思うと、自分もこのままでいいと思っていた。
もう二人は、分かり合えない。
みっともなく彼方を追うのは、止めないといけないのに。
無意識に、その手掛かりに手を伸ばしてしまう。
自分は、まだ彼方との日々を望んでいるのか。
わからない。
自分の気持ちがわからない。
自分がどうしたいかなんて、わからない。
もう彼方を探さないと、自分で決めて納得したはずなのに。
日向は、やりきれない気持ちを溜息にして吐き出した。
これはいつの記憶だろう。
自分たちが中学に上がってすぐくらいだっただろうか。
その頃は、いつもより長く母親が家に滞在していた。
当然のように暴力は毎日続いたし、自分も彼方も日に日に疲弊していった。
特に、彼方の憔悴具合は目も当てられないほどだった。
それでも、彼方は二人きりの時は自分に笑いかける。
無理して笑う笑顔が、痛々しかった。
ある夜、二人で隠れたベッドの中で、彼方は小さく零した。
「もういっそ、死んじゃいたい。」
それはきっと、心の底からの言葉だったのだと思う。
自分も同じことを考えていた。
このまま生きていくくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ。
終わりのない虐待の日々に、疲れたんだ。
どうせ自分たちには、人並みの幸せすら与えられない。
なら、もう終わってしまった方が、幸せだ。
今まで抵抗をしなかったわけじゃない。
何度も嫌がった。何度も抵抗した。
けれど子供だった自分たちには、できることは限られていた。
力では押し負けてしまうし、稚拙な言葉では、余計に母親を怒らせるだけだった。
逃げ出す場所なんてなかったし、どう足掻いても、この家が自分たちと母親の帰る家。
誰も助けれはくれない。誰にも頼れない。
逃げ場のない檻のような家だった。
次の日も虐待は続いた。
そこで、自分は母親に口答えをした。
逆上されてもいい。もうどうなったっていい。このまま終わりたかった。
「産んでほしいなんて誰が言った。産んだのは母さんだろ!
俺たちが要らないのなら、いっそを殺せばいいだろ!母さんなんて…大嫌いだ…っ!」
その言葉に、母親は涙を流した。
「なんで…そんなこと言うの…。貴方たちまで…なんで…。私だって辛いのに…。死にたいのは、こっちの方なのに…。」
酒臭い息でそう言って、子供のように泣き崩れた。
体中痣だらけ傷だらけの息子を前に、被害者面する母親に腹が立った。
まるで自分だけが不幸だと思っている母親に、嫌気がさした。
「じゃあ、お前が死ねばいいだろ…っ!」
そう苛立ちのまま、言い放った。
溜まっていた鬱憤を、吐き出した。
あの時の自分は、ひどく興奮していた。
冷静でいられないのは、無理もない。
自分だって、毎日続く虐待に疲弊していたんだ。
救われないことをわかっていたから、どうなってもよかった。
そのまま、泣き崩れる母親を置いて、彼方を連れて部屋に篭った。
部屋に戻っても、興奮は治まらなかった。
しばらく動機が治まらなくて、呼吸が荒かったのを覚えている。
言った。やっと言えた。言ってやった。
自分たちを殺さないのなら、母親なんて死んでしまえばいいんだ。
あんな母親いらない。消えてしまえばいい。死んでしまえばいいんだ。
そうすれば、楽になれる。
そのまま、布団を被って不貞寝をした。
食事も取らず、シャワーも浴びずに、惰眠を貪った。
彼方に起こされたのは真夜中で、その時の彼方は酷く取り乱した様子だった。
彼方は泣きじゃくりながら「母さんが…母さんが…」と震える声で言った。
手を引かれるまま、リビングに行くと、その光景に目を瞠った。
真っ暗な部屋で、母親が腕から大量に血を流して、倒れていた。
壊れた人形のように、床に手足を投げ出して、真っ赤な水たまりを作っていた。
その姿を見た時、足が竦んで腰が抜けた。
あまりの恐怖に奥歯がガチガチと震えて、吐き気がした。
母親の傍には血まみれの包丁が落ちていて、瞬時に何が起きたかを悟った。
母親は、自殺しようとしたのだ。
罪悪感と後悔が押し寄せる。
母親をこんな姿にしたのは、自分だ。
自分のせいだ。自分が殺したようなものだ。
あんなこと、言わなければよかった。
自分の言葉が、母親を殺したんだ。
「どうしよう…どうしよう…」と泣きじゃくる彼方。
自分は、何も言えなくなっていた。動くことすら、ままならない。
体がガタガタと震えて、呼吸すら上手く紡げなかった。
どのくらいそうしていたかはわからない。
長い時間だったような気もするし、短い時間だったような気もする。
気が付いたら、母親は救急車で病院に運ばれた。
彼方が、救急車を呼んだのだろうか。
救急隊員が担架に母親を乗せる時、だらりと腕が宙に揺れた。
それが、意思を持たない壊れた人形のようで、ひどく恐ろしかったのを覚えている。
処置が早く、幸い母親の命に別状はなかった。
けれど、真っ赤な血が飛び散った部屋と、倒れている母親の姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
自分が殺そうとしたのだ。自分が、殺人犯だ。
死んでほしいと思ったけれど、実際に自殺未遂の現場を目にすると、恐怖で体震えた。
情けないくらい、足腰が立たなくなって、へたり込んだ。
言葉を発せられないほどに震えて、体が凍り付いたように動かなくなった。
人が死ぬのは、こんなにも恐ろしいことだったんだ。
それを実感した時、自分を責めた。
責めて責めて、責めつくした。
「日向のせいじゃない。日向のせいじゃないよ。」
慰めるように、彼方は自分に言い聞かせた。
けれど、そんなのただの気休めだ。
紛れもなく、自分のせいじゃないか。
母親は数日で退院して、無事に生きて帰ってきた。
そして、酒に酔い、また自分たちに虐待を繰り返した。
その時から、自分は口を閉ざすようになった。
抵抗も、止めた。されるがまま、殴られ、蹴られた。
それでも、自分は何も言わなかった。
自分の口は、誰かをひどく傷付ける。
何も言わなければ、どうにもならない。
どうにもならなければ、それでいい。
もう、誰かを傷付けるのは、嫌だ。
自分が傷つく方が、何倍もマシだ。
心を閉ざすことを覚えた春だった。
「日向君。日向君、起きて。」
優しい声と共に、肩を揺さぶられる。
重たい瞼を開けると、白いシーツが見えた。
自分はベットに俯せて、眠っていたのか。
顔を上げると、看護師の美波が隣に立っていた。
「…美波さん。」
美波はニッコリと微笑む。
「今日はもう遅いから、帰った方がいいんじゃないかな?」
そう言われて窓の外を覗くと、辺りは真っ暗だった。
どれくらい眠っていたのだろう。ほんの少しの間だと思ったのに。
視線をベッドに戻すと、母親はまだ死んだように眠っていた。
安堵の溜息が洩れる。
「心配しなくても、お母さんは大丈夫よ。」
大丈夫、大丈夫と、美波は自分を元気づけるように言う。
けれど、自分にはその言葉が、呪いのように聞こえた。
美波には、自分が親孝行な息子にでも見えているのだろうか。
お見舞いのつもりで来ているんじゃない。心配だから来ているんじゃない。
母親が目を覚まさないことを、確認しに来ているだけだ。
人の死を見るのは、怖い。
脳裏に焼き付く光景が、フラッシュバックしそうだ。
できればこのまま、目を覚まさず、一生を終えてほしい。
それができなのなら、せめて自分が成人するまで、一人で生きていけるようになるまで。
そんな都合のいいことなど、ありえるのだろうか。
「あの…。」
日向は、ポツリと小さく呟く。
「このまま、…一生目を覚まさないってことも…ありえますか?」
美波は少し困ったような顔になり、自分を慰めるようにトントンと肩を優しく叩いた。
「…大丈夫よ。お母さんはきっと目を覚ますわ。きっと、必ず。絶対に。ね?」
力強く、曖昧な言葉。
慰めが聞きたいわけじゃないのに。
励ましてほしいわけでもないのに。
けれど、胸の内で考えていることを、言えるわけがなかった。
「あーもう、全然わかんねえ!」
亮太はシャーペンを投げ捨てるように机の上に置いて、溜息を吐いた。
ノートはほとんど真っ白なくせに、スナック菓子の袋は既に空っぽ。
新しく買った参考書は、全ての文字が蛍光ペンでなぞられていた。これじゃあ、どこが大事なところかもわからない。
「ちょっと、全然進んでないじゃないの!」
「少しだけ休憩ー。」
そう言って、亮太は床に寝転がる。
足元には漫画やゲームが散乱していて、相変わらず足の踏み場もない部屋だ。
亮太は手近な漫画を手に取り、読み始める。
「さっき休憩したばっかりでしょ!そんなことしてたら、大学受からないわよ!」
呆れて、真紀は亮太を咎める。
「だって、全然わかんねーんだもん。」
亮太はつまらなそうに唇を尖らせて、漫画のページを捲る。
「アンタがちゃんと授業聞いてないからでしょ。」
真紀は溜息を吐いて、ズレた眼鏡を掛け直した。
受験勉強のために、先週買ったばかりの掛け慣れない眼鏡。
母親が選んだ、赤いフレームのお洒落眼鏡だ。
真紀は、亮太の部屋で受験勉強をしていた。
けして綺麗とは言えない、男子高校生の部屋。幼いころは毎日のように訪れた部屋。
中学へ進学して部活が忙しくなってから、あまり訪れることがなかった部屋。
大学進学を決めてから、毎日のように二人は亮太の部屋で勉強会をしていた。
正直自分は、大学進学なんて、どうでもよかった。
高卒で就職しても、フリーターになるという手もある。
どうせ自分は女だし、将来結婚して家庭に入れば、学歴など関係がなくなると思っていた。
それでも、大学進学を決意したのは、亮太とのこの関係をまだ続けていたいと思ったからだ。
想いを伝えられないまま、高校を卒業して離れ離れになるのは嫌だった。
なら想いを伝えればいいと言われそうだが、自分には、その勇気がない。
亮太とは、生まれた時からずっと一緒だった。
幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も。
ずっと亮太の傍にいた。傍にいるのが、当たり前だった。
ずっと一緒に、兄妹のように育ってきた。
だから、告白をして、フラれるのが怖い。
今更この関係を壊すのは、怖い。
今まで当たり前に傍にいたのに、自分の恋心を告げて、傍にいられなくなるのが、怖い。
長年続いた幼馴染と言う関係は、厄介だ。
それなら恋心を隠して、亮太の傍にいる方が気が楽だ。
幸い亮太は自分の気持ちに気付いていないし、こうやって受験勉強を口実に亮太を独り占めできる。
当の本人は、全然やる気がないみたいだけれど。
「やっぱ俺も専門行こうかなー。」
ゴロゴロと寝転がりながら、亮太は言う。
「はあ?なんでよ。受験勉強が嫌になったわけ?」
「それもあるけどさー…。」
漫画を読みながら、亮太は手近にあったチョコレート菓子の袋を開ける。
中からチョコレートを一つまみし、口に入れた。
「最近、俺ばっかり仲間はずれだし。」
亮太は、ポツリと寂しそうに呟いた。
「は?仲間はずれ?」
意味がわからず、真紀は訝しげに亮太を見る。
「将悟も日向も専門だから、最近あの二人仲良いし、よく二人で喋ってるんだけど、俺が会話に混ざろうとしたら、遠ざけられることが多くなったっつーか、なんか秘密でもあるみたいっつーか、お前は受験勉強に専念しろって言われるわけ。」
とりとめなく、たどたどしい言葉で亮太は言う。
亮太は難しい話が苦手だ。それを人に話すのも苦手。
わかりにくい亮太の言葉を掻い摘んで言うと、受験勉強があるから二人の輪に入れない、ということだろうか。
「それで寂しいと?」
机に頬杖を付いて、真紀が言う。
「寂しいっつーか、俺の知らないところで二人がなんかしてるみたいで羨ましいっつーか…うーん、なんなんだろうな。」
自分でもよくわかっていないみたいだ。
亮太は首を傾げて、マヌケな顔で宙を見上げる。
「そんなこと言ったって、今更志望校変えるわけにはいかないでしょ。」
「まあ、そうだけどさ…。」
亮太は不満そうな顔で、唇を尖らせる。
「仕方ないでしょ。あの二人もきっと気を遣ってるのよ。アンタが全然勉強できないから。」
そう言いながら、真紀はノートにシャーペンを走らせる。
志望校は、けして偏差値が高い方ではないし、自分の成績では余裕だけれど、念のため。
「とにかく、今のアンタにできることは、ちゃんと受験勉強して大学に受かること。
変なこと気にしてないで、勉強に集中しなさい。遊ぶのは、受験終わってからよ。」
二人同時に受からなければ、意味がない。
自分が進学を選択したのは、亮太とずっと一緒にいるためなのだから。
「…アンタが大学に受からないと、困る人だっているんだから。」
ボソッと、真紀は小声で呟く。
頬に熱が籠ったのを感じた。
平静を装ってはみたものの、変に力が入りすぎてシャーペンの芯が折れた。
こんなわかりやすい言葉では、いくら鈍い亮太でも、自分の想いに気付くだろうか。
いっそ伝わってしまえば、楽になるだろうか。
恐る恐る顔を上げて亮太を見れば、亮太は自分をじっと見つめていた。
「…な、何よ?」
伝わってしまったのだろうか。
いや、ありえない。鈍い亮太がこんな言葉で気付くわけがない。
緊張で心臓がドキドキと脈打つ。変な汗が出てきた。
ありえないありえないありえない。今伝えるつもりなんてないのに。
「いや、その眼鏡エロイなーと思って。女教師ものだと、やっぱ赤眼鏡は定番だよなあ。」
その言葉に、拍子抜けした。肩の力が抜ける。
同時に、呆れと怒りが込み上げてきた。
この男は、鈍いだけではなく、デリカシーがない。
「何の話してんのよ!変態!」
そう言って、真紀は消しゴムを亮太に投げつけた。
「いたっ!…なにすんだよー。」
消しゴムは亮太の額に命中して、亮太は痛そうに額を覆う。
心配して損をした。けれど、長太の鈍さに、安堵した。
自分が亮太に想いを伝えるのは、まだ先になりそうだ。
亮太が自分の想いに気付くのも、きっとずっと先のこと。
それでいい。急ぐことはない。
ゆっくり幼馴染と言う関係から抜け出せたらいい。
今はまだ、この関係で、この距離感に浸っていたい。