「甘く淑やかな時間」
「甘く淑やかな時間」
シャワーを浴びて部屋に戻ると、彼方は机の上に何かを並べていた。
缶ビールに酎ハイ、日本酒。柿ピーにチーズおかきにスルメイカ。
色々な飲み物とおつまみが用意されている。
今日はやけに冷蔵庫の中が散らかっていたのは、これのせいか。
「…なんですか、これ。」
「せっかくだから、今日は二人で飲もうよ。」
「私たち、未成年ですよ。」
「こういうのは、バレなきゃいーの。みんなやってるでしょ?」
そう言って、彼方は悪びれる様子もなく、微笑む。
「京子ちゃん、誕生日の時に日本酒飲みたいって言ってたでしょ?同じの買ってきたんだ。」
兄と彼方と誠に祝ってもらった誕生会。
実際には、自分を祝うというより、三人が騒いで酒を飲んでいただけだけれど。
その時、兄たちが美味しいと言いながら飲む日本酒が羨ましくて、「ちょっとだけ飲みたい」と言ったけれど、優樹に止められた。
そのことを、彼方は覚えていたのか。
「…こんなに買ってきて、飲み切れるんですか?」
そう言いながら、京子はソファに腰掛ける。
少なくとも缶は十本以上あるし、日本酒は一升瓶だ。
二人で飲む量じゃない…と思う。
「余ったら、次に回せばいいじゃない。」
「買う時に、年齢確認とかされないんですか?」
「されたことないなあ。ほら、コンビニの店員さんって結構適当だから、何も言われないよ?」
「そういうもんですか…。」
まだ水気が残る髪をタオルで拭いていると、彼方が顔を近付けてきた。
「いい匂いするね。」
「シャンプーの匂いでしょう。」
「京子ちゃんの匂いだよ。」
そう言って、彼方は自分の首元に顔を埋める。
そして、甘えるように、首筋にキスを落とした。
「濡れますよ。まだ髪乾かしてないんですから。」
「平気だよ。濡れてもすぐ乾くし。」
なんだか照れくさい。
彼方の短い髪が首筋を掠める。
先にシャワーを浴びた彼方からも、シャンプーの匂いがする。
いい匂いだなんて、同じジャンプ―の匂いだろうに。
それから、髪を乾かして、彼方と酒盛りを始めた。
酒には少しだけ興味があったし、この際だ。
兄にバレなければ、怒られることもないだろう。
彼方はグラスに氷を入れて、日本酒を少しだけ注ぐ。
自分の誕生日の時に三人が飲んでいた日本酒だ。
ラベルには、毛筆の厳かな書体で手取川と書いてある。
「ほら、飲んでみてよ。」
そう言って、彼方はグラスを差し出す。
京子はそのグラスを受け取って、香りをかいでみた。
アルコール特有の香りに、少し林檎っぽい香りが混じっていた。
京子は初めての酒に、少しドキドキした気持ちでグラスに口を付ける。
しかし、一口飲んで、京子は顔をしかめた。
初めて飲んだ日本酒の味は、とても美味しいとは言えないものだった。
何とも言えない口の中に残る味。
まだ高校生の京子には、この味を言葉でどう表現すればいいかわからなかった。
「…これ、美味しいんですか…?」
「甘くて美味しいよ?」
彼方は、不思議そうに首を傾げる。
これが美味しいだなんて。自分にはその味覚がわからない。
「全然甘くないですよ。よくこんなの飲めますね…。」
「そうかなあ。じゃあこっちは?ジュースみたいで飲みやすいと思うけど。」
そう言って、彼方はピンクとオレンジの色をした缶を渡してくる。
カシスオレンジと書いてある。カクテル、というやつだろうか。
京子は彼方に日本酒のグラスを渡して、その缶を受け取った。
「これもマズいんじゃないでしょうね?」
「うーん、人それぞれ好みがあるから何とも言えないけど、京子ちゃんはこっちのほうがいいと思うよ。」
京子は訝しげに彼方を見つめて、プルタブを引いた。
プシュッという音が洩れる。炭酸飲料なのか。
甘い柑橘類の香りがする。カシスオレンジだから当然か。
京子は警戒しながらも、一口だけそのカクテルを口に含んだ。
彼方の言った通り、ジュースみたいな甘味が口の中に広がる。
さっきの日本酒よりはマシだ。飲みやすい。
マシというよりも、このカクテルは本当に酒かと疑うくらいに、美味しいと思った。
「美味しい。」
全然お酒っぽくない。
これならグイグイ飲める気がする。
「そう?ならよかった。」
彼方は満足そうに微笑んで、自分がギブアップした日本酒に口を付けた。
平気そうな顔でグラスを傾ける。
本当に美味しいと思っているのか。京子には理解できない。
テレビを見ながら、他愛の話をしながら、二人は酒を煽った。
ゴールデンタイムのバラエティ番組を見て、二人で笑ったり、一発屋の芸人のネタに首を傾げたり、楽しい時間を過ごした。
気付いたら、夜九時前だった。
CMでこの後放送される映画の告知をしている。
今日の金曜ロードショーは「隣のトトロ」だった。
スタジオジブリの、有名アニメ映画だ。
「あー、これ子供の時好きだったなあ。」
テレビを指さして、彼方は微笑む。
その頬は、ほんのり赤い。酔っているのだろうか。
机の上を見れば、日本酒の瓶が半分ほど減っていた。
自分も調子に乗って缶酎ハイを五本も開けて、少し体がふわふわしているような感覚だった。
けれど、なんだか気分がいい。これがアルコールの力だろうか。
京子は、ごろんと彼方の膝の上に寝転がった。
「どうしたの?珍しいね。酔っちゃった?」
そう言いながら、彼方は自分の髪を撫でる。
「酔ってないです。」
「ふふっ、酔ってる人ほど酔ってないって言うんだよ。」
「酔ってないですってば。」
少し舌っ足らずに、京子は言う。
「はいはい、そうだねー。」
彼方は、まるで酔っぱらいの戯言を聞き流すかのように言う。
自分はちっとも酔っていないと言っているのに。
ただ少しだけ、彼方の体温がほしくなっただけだ。
アルコールの力もあってか、いつもは天邪鬼なこの口が、今日は少しだけ素直になれそうな気がする。
彼方の指が、髪を梳く。なんだか心地いい。
このまま、うとうとと眠ってしまいそうだ。
京子は、目を細めてその指先に酔いしれた。
「…ねえ、京子ちゃん。…人を殺すのって、どんな気分なんだろう。」
ふいに、彼方がポツリと呟く。
「なんですか、突然。」
テレビに目を向けると、九時前の短いニュース番組が流れていた。
『殺人を犯して指名手配されていた男が、遺体となって発見。警察は、自殺とみて捜査を進めている』という内容だった。
こんな時間に、物騒な話題だ。
「案外、平気なものかな。…それともこうやって、罪悪感で自分も死にたくなるのかな。」
彼方はテレビを見つめたまま、小さく呟く。
京子はアルコールで靄のかかった頭で、彼方の意図することを考えた。
けれど、わからない。酔いが邪魔をして、思考が上手く働かなかった。
「…何か、変なことを考えてるんじゃないでしょうね?」
「嫌だなあ。なんとなく、そう思っただけだよ。」
そう言って、彼方は何でもないように笑う。
なんだ、ただの例え話か。京子は安堵した。
最近の自分は、少し神経過敏になっているのかもしれない。
それくらい、この人は危うい人なのだ。
その危うい人に、自分は惚れている。
「ね、それよりも、トトロ始まるよ。」
彼方は再びテレビを指さす。
ちょうど映画の冒頭が始まった。
視線を上げると、彼方はテレビに釘付けだった。
テレビを見つめる目は、ウキウキと輝いているように見える。
なんだか子供みたいだ。
気取って大人ぶっている時はカッコいいのに、たまに見せる子供の顔は、可愛い。
彼方は不思議な人だと思う。大人の顔と子供の顔、両方を持っている。
いや、本来は必死に大人のフリをしている子供なのだろう。
―こっちを見てほしい。
京子は両手を伸ばして、テレビを見つめる彼方の頬を包み込んだ。
「ん?どうしたの?」
彼方は京子を見下ろして、不思議そうに首を傾げる。
「…キス。」
舌っ足らずな言葉で、京子は呟く。
「キス、してください。」
自分がこんなことを言うのは、きっとアルコールのせいだ。
酒のせいで、少しだけ、どうにかなってしまったんだ。
「ふふっ、今日は素直だね。」
そう言って、彼方は自分にキスをくれた。
そのキスが嬉しくて、もっとほしくなった。
京子は彼方の首に腕を回して、何度も何度もキスをした。
テレビなんかよりも、彼方に夢中だった。
「京子ちゃん、起きて。」
彼方に頬を突かれて、京子は瞼を開いた。
テレビを見ると、映画はとっくに終わっていた。
気付いたら、日付が変わっている。所々記憶がない。
自分は彼方の膝に寝転んだまま、うたた寝をしていたのだろうか。
「眠いなら、ベッド行こう。大丈夫?立てる?」
「だいじょうぶです。」
そう言って、京子は彼方の膝の上から、身を起こす。
けれど、うまくいかない。
体がフラフラして、真っ直ぐに座ることすらできない。
重力に引っ張られるように、ズルズルとソファに沈み込んでしまう。
「あーあ。相当酔ってるみたいだね。」
彼方に体を支えられ、なんとかソファに座ることができた。
だけど、自分の足は、言うことを聞きそうにもない。
「仕方ないなあ。」
よいっしょ、と言いながら、彼方は自分の体を抱える。
いつか優樹がしてくれた、お姫様だっこと同じだ。
けれど、兄とは違う、力強い腕。自分とは違い、足取りもしっかりしている。
「意外と…力あるんですね。」
「あのね…。僕だって男なんだから、これくらいできるよ。」
そう言った彼方の顔が、なんだか男らしくて、愛しくて、けれどなんだか恥ずかしくなって、京子は彼方にギュッと抱き付いた。
きっと、お姫様抱っこなんてされているせいだ。
自分の身を、全部彼方に預けているせいだ。
恥ずかしい、でも、くっついていたい。
彼方にベッドに運んでもらい、二人で布団を被った。
子供をあやすように、背中を撫でられる。
心地いい。このまままた眠ってしまいそうだ。
でも、まだ起きていたい。彼方との夜を、大事にしたい。
「…恋人らしいこと、しないんですか?」
京子はポツリと呟く。
「ん?明日どこか行きたいところでもあるの?」
「そうじゃなくって…」
恋人らしいこと、そう言って彼方は以前デートに連れて行ってくれた。
けれど、今言っているのは、そういうことじゃない。
「恋人同士が、同じベッドにいるんですよ。」
舌っ足らずにそう言うと、彼方はクスクスと笑った。
「京子ちゃん、飲みすぎだよ。」
「…酔ってないです。」
「はいはい、そうだね。京子ちゃんは酔ってないねー。」
彼方は、自分の言ったことを全く相手にしていないように笑う。
なんだかもどかしくて、京子は彼方にギュッと抱き付いた。
「…しないんですか?」
彼方を上目で見つめて、首を傾げてみる。
「…あのね。僕は酔ってる子に手を出すほど、ダメな男じゃないよ。」
ポンポンと彼方に頭を撫でられる。
まるで子供扱いだ。
せっかく自分が素直になっているのに。
こんなこと、酒が入っていないと言えないのに。
面白くない。京子は唇を尖らせた。
そんな自分を見て、彼方は少し困ったように微笑む。
そして、自分の尖らせた唇に、軽く一瞬だけのキスをした。
「はい、今日はここまで。明日バイトでしょ?早く寝ないと。」
京子は不満に思いながらも、酔いと眠気に任せて目を閉じた。
まだ明日もある。明日も彼方がいてくれる。
明日は酒を飲まずに、素直になれるだろうか。
天邪鬼を封印して、素直に想いを伝えたり、甘えたりできるだろうか。
そうなったらいいな、と京子は酔った頭の隅で思った。
静かな寝息が聞こえる。
京子は既に眠ってしまっていた。
彼方は京子の髪を梳き、その寝顔を見つめていた。
閉じた瞼、緩んだ頬、薄く開いた口。
甘えるように細い腕を伸ばし、自分の体に絡める熱を帯びた体温。
今日の京子は、やけに素直だったな。
結構酔っていたようだったし、やっぱり酒の力だろうか。
明日になって酔いが醒めたら、また素直じゃなくなるのだろうか。
京子が冷たかったり、素っ気なかったりするのは、恥ずかしいから。
照れ隠しで、正反対のことを言うのだ。
それは、優樹の家で、京子と生活をしていて気付いたこと。
天邪鬼なのは、優樹にそっくりなのだ。
たまには素直に甘えてほしいと思って酒を用意したけれど、こんなに酔ってしまうとは、思っていなかった。
明日になったら、京子は今日のことを覚えているだろうか。
覚えていてほしい。けれど、やっぱり覚えていない方がいいかもしれない。
自分も酔いに任せて変なことを口走ってしまった。
できれば、あの言葉だけ、忘れていてほしい。
心配は、かけたくない。
「彼方さん…」
ふいに、京子が小さな声を洩らす。
けれど、目は閉じている。寝言だろうか。
「ずっと…一緒にいて…」
その言葉に、なんだか切ない気持ちになった。
彼方は京子を抱き寄せ、消え入りそうな小さな声で呟いた。
「…ごめんね。それは、できそうにないんだ。」
甘く淑やかな時間は続かない。
そんなこと、自分がよく知っていた。
いつもどおりに出勤して、優樹はカウンターで客の酒を作っていた。
週末の夜とあって、店は大繁盛。
片手で数えられる人数の従業員と、両手の指を足しても足りないくらいのたくさんの客で店は賑わっていた。
奥のボックス席は団体で埋まっているし、カウンター席は少しの空白を残してほとんど埋まっている。
彼方も誠もいないと、少しだけ店が寂しい。
今日は従業員も少ないし、酔い潰れないようにしないと。
まあ、自分が酔い潰れたところで、なんだかんだ言って、息子代わりの従業員が上手く店を回してくれるけれど。
ふいに、店の入り口の扉が開く。
優樹が顔を上げてそこを見れば、見慣れた女性が店を覗いていた。空席があるか確認しているのだろう。
その女性は優樹と目が合うと、ニッコリと微笑んだ。
「おー智美さん!」
「こんばんは。」
智美は店の中を見渡して、ゆっくりと優樹がいるカウンターに近付いてきた。
探しているのは、彼方だろう。彼女は、彼方の客なのだから。
「ごめんなー、今日彼方休みなんだわ。」
「知ってる。今日は優樹君と話に来たの。」
そう言って、智美は空いているカウンター席に座った。
優樹が立っている目の前だ。
「…俺と?」
智美は小さく頷く。その表情には、翳りがあった。
どうして彼方の客が、自分に話があるというのだろう。
優樹は、なんだか嫌な予感がした。