「ファインダー越しの僕の世界」

 「ファインダー越しの僕の世界」



早朝。
彼方は仕事を終えて、カメラを持って、外に出た。
今日はアフターを断って、食事に行こうと言う優樹の誘いも断った。
優樹は意外そうな顔をしたが、たまたま閉店まで残っていた常連客とアフターへ出掛けた。
この時間から焼き肉へ行くのだという。

優樹には申し訳ないが、できるだけ早く、自分の世界をカメラに残したかったのだ。

今日は、店の従業員や、客の写真をカメラに収めた。
仲のいい従業員、常連客、酔い潰れて途中で眠ってしまった優樹の写真。
店内のインテリアを撮った写真や、珍しい酒の写真。
自らの姿も、従業員に撮ってもらった。

カメラのディスプレイを確認すると、皆頬を赤くして笑っていた。
楽しそうに酒を飲んで、カラオケを歌って、盛り上がっている姿。
自分もまた、酔いに任せてはしゃいでいる姿を残した。
これが、自分の見てきた世界。
日向と離れて、飛び込んだ夜の世界。

十月にもなると、早朝は肌寒い。
外はまだ薄暗く、人通りはほとんどなかった。
車通りのほとんどない片側二車線の道路の隅を、客待ちのタクシーが埋め尽くしている。
彼方はビルを出て、横断歩道を渡り、対面の道路へと移動する。
そして、優樹の店が入っているビルに狙いを定めて、シャッターを切った。

次に、この街最大のスクランブル交差点で一枚。
繁華街と住宅地の境目の大きな橋で一枚。
橋を渡って、よく野良猫が溜まっていた空き地で一枚。
初めて優樹に連れられて訪れた美容室の前で一枚。
そして、優樹のマンションまで帰り、そのマンションの前でも一枚。

とても上手とは言えない写真だった。
ただファインダー越しに見える景色にシャッターを押しただけ。
それでも、残しておきたい写真だった。
自分が生きてきた世界を、残しておきたかった。

優樹のマンションへ帰ると、優樹はまだ帰ってきていなかった。
当たり前か。さっき店の前で別れたばかりだ。
まだしばらく帰って来ないだろう。

彼方は、真っ直ぐに自分の部屋に入った。

カメラのバッテリーが切れそうだ。充電しないと。
コンセントに差しっぱなしだった充電器を引き寄せ、カメラに繋ぐ。
そして床に座り込んで、充電しながら、もう一度カメラの中の写真を眺めた。

メモリーカードの最初の方には、京子の写真ばかりが入っている。
一枚目の写真は、カフェでカメラを向けられて恥ずかしそうに俯く京子。
この写真は「消した」と京子に嘘を吐いて、取っておいたものだ。
一番最初の写真だから、大切に残しておきたかった。

二枚目の写真は、同じくカフェでの京子。
目の前にケーキをたくさん並べて微笑んでいる。
綺麗な綺麗な、微笑みだった。僕の、好きな人。

三枚目も、四枚目も、その次も、さらに次も、京子だった。
無防備にテレビをぼーっと見つめる京子。
勝手にシャッターを切ったことに怒る京子。
恥ずかしそうにクッションで顔を隠す京子。
素っ気なくそっぽを向く京子。
あどけない穏やかな寝顔。

こうしてみると、笑っている写真は少ない。
けれど、これでいいんだ。
自分が見てきた京子は、あまり笑わない。
天邪鬼で素直じゃない。それが、自分の好きな彼女なのだから。

大人びた顔も、目力が強くキツイ印象の瞳も、短いけれど綺麗な髪も、細く華奢な体も、冷たいようで優しい言葉も、好きだった。
京子の全てが、好きだった。
不思議なくらい、京子といると楽になれた。
気を遣うこともないし、素のままの自分でいられる唯一の居場所。

京子は今まで出会った女とは違っていた。
自分に気に入られようと媚びてくるわけでもないし、むしろ自分を冷たく邪険にあしらう。
自分が馬鹿なことをしたら、下手な慰めなんてせずに、本気で怒ってくれる。
自分が過呼吸を起こしたら、本気で心配してくれる。
睡眠薬をちょっと多く飲んだだけで、泣き出してしまう。
京子は天邪鬼だけれど、自分に向ける感情は真っ直ぐなんだ。
厳しくて、優しい人。

でもそんな京子を、自分はいつか裏切ってしまう。
いや、体を売っている時点で、裏切っているも同然か。
こんなに距離が近付いても、京子には知らないことがたくさんある。
けれど、自分の全てを話すつもりはないし、そんなのは自己満足だ。
同じ荷物を、京子には背負わせたくない。

自分は幸福なることなんて、できない。それはわかっている。
だけど、今は幸せだ。こんな生活でも、京子がいてくれるから、自分は救われている。
今だけ、このぬるま湯のような幸せに浸っていたい。
そのぬるま湯が冷めきって、凍えてしまうまで。
これは自分に与えられた最後の幸せなんだと、そう思った。

駄目だ。こんなことを考えていると、気分が沈む。
なんだか無性に、死んでしまいたくなるような遣る瀬無さに襲われる。
彼方は、部屋の引き出しに隠しておいた薬を取り出す。
抗うつ剤、抗不安薬、睡眠薬。
何も考えず、目に入った分だけシートから取り出して手の平に乗せた。
そして、一気に飲み干す。

一回に飲む量を遥かに超えていた。
けれど、最近は処方された量よりも多く飲むことが癖になっていた。
少しでも、このモヤモヤとした気持ちを誤魔化したい。
結局自分は、薬に頼って逃げているだけだ。

着替えもせずに、彼方はベッドに倒れ込む。
体は疲れているはずなのに、目を瞑ってみても眠気なんてない。
あれほど薬を飲んだって、まともに眠ることすらできない。
やっと眠れたと思っても、二、三時間もすれば、すぐに目が覚めてしまう。
おかげで最近やけに体が重い。疲れが取れない。

不眠に拒食に、倦怠感。
本格的に、精神を病んでしまいそうだ。
いや、もう病んでいるのか。わからない。けれど、普通の状態でないことはわかっている。

一人になると、よからぬことばかり考える。
消えたいだとか、死にたいだとか、殺したいだとか、そんな、物騒なことばかり。
目を開けて机の上に視線を移すと、コンビニで買った安いカッターナイフが目に入った。
駄目だ。また誰かに見られたら、困る。
彼方は邪念を取り払おうと、力なく頭を振った。

手首を切ったところで、死ねるわけない。
あの時の自分は、どうかしていたんだ。
自傷したって、何の意味もなかった。
それに、京子に心配はかけたくない。

睡眠薬を飲んだのに、目は冴えたまま。
ふと携帯電話のディスプレイを見ると、午前九時過ぎだった。
学校の授業が始まったころだろうか。もう学生は、外を歩いていないだろう。
優樹もまだ帰ってきていない。

今のうちに外に出てしまおう。
今は、優樹と顔が合わせるのが辛い。
京子の家に逃げてしまおう。

優樹に、年齢のことがバレた。
年齢のことがバレていると誠から聞いてわかっていたけれど、いざ面と向かって言われると、申し訳なさで消えたくなった。
そもそも、どうして優樹は誠から聞いた時点で、自分に問い詰めなかったのだろう。
どうして、自分なんかに優しくしてくれるのだろう。

優樹は、今まで通りここにいていいのだと言う。
騙してたことを怒りもしないで優しい言葉を吐く優樹に、罪悪感が膨らんだ。

どうしてだろう。
人を騙すのには慣れていたのに。
今更、嘘を吐くことに罪悪感を覚えるなんて。

本当はバレた時点で辞めようと思っていたけれど、そんなことを言われたら、どうしていいかわからなくなる。
結局、中途半端になったまま、今日も出勤した。
仕事中の優樹はいつも通りだったし、自分も平静を装っていつも通りを務めた。
けれど、やっぱりなんだかバツが悪い。

彼方は立ち上がり、スーツを脱いで私服に着替える。
手首の傷が見えないように、シャツの上から少し袖の長めのニットのカーディガンを羽織った。
最近は少し肌寒い。日向と離れて、二つ目の季節を迎えようとしている。
もう三ヵ月日向に会っていないのか。
体感的には、もっと長くに感じる。

いや、一度京子とデートをしている時に見かけた。
けれど、それだけだ。見かけただけ。
言葉を交わしたわけじゃないし、向こうはこちらに気付いていない。

日向に会いたい。
恋じゃなくても、愛じゃなくても、自分にとって、日向はかけがえのないたった一人だった。
もう今更、あの頃のように戻れるわけもない。
けれど、もし時間が巻き戻せたら―なんて、そんなことありえない。
自分はもう、日向に会う資格がないんだ。
諦めなくちゃ、諦めなくちゃ。
二人は別々の道を選んだのだから。

外に出ると、相変わらずの曇り空。
薄暗い曇天が、ここ一週間は続いていた。
ハッキリしない曖昧な空。
いっそ、雨が降ればいいのに。

彼方は、コンビニに寄って煙草を買った。
相変わらず、年齢確認なんてされない。
バレなきゃ、何をしてもいいんだ。
優樹に嘘がバレた時は、心が痛かったけれど。

そして通い慣れた駅前の洋菓子店「マルシェ」へ。
ほとんど毎日ケーキを買いに来る自分に、店員は親しげに「こんにちは。今日はレアチーズケーキとモンブランがおススメですよ。」と声を掛けてくる。
「じゃあレアチーズケーキのホールと、モンブラン2つで。」と言って、ケーキを包んでもらった。

そのまま駅へ向かい、いつもの電車へ。
一時間に一本と言う少ない路線。
今日は都合よく、待ち時間はほとんどなかった。

車内での退屈な時間を車窓を見て過ごし、京子の住む町へ降り立った。
かつて自分が、日向と暮らしていた土地。
今はもう、自分の居場所がない土地。

真っ直ぐに京子の家に向かい、合鍵を使って、京子の家に入る。
そして冷蔵庫にケーキを入れて、部屋の中を見渡した。
相変わらず、片付いていて綺麗な部屋。
京子も結構几帳面な性格なんだ。

彼方は首から下げていたカメラを構えて、ファインダーを覗く。
京子が生活している部屋。自分を受け入れてくれる部屋。
京子との思い出が詰まった部屋。

彼方は無心でシャッターを切った。

西向きで景色が綺麗な広い窓。
京子が大事にしているテレビ棚の上の小物類。
自分が買った服が綺麗に片付けられているクローゼット。
少しずつ距離を縮めたソファ。一緒に眠ったベッド。
手料理を作ってくれたキッチン。
この部屋の風景も、残しておきたい自分の思い出。

写真を撮り終えて、カメラを机の上に置いた。
そして、ベランダに出て、煙草を燻らせる。
禁煙は、できたり、できなかったり。
煙草を止めようと努力はしてみるものの、なかなか上手くはいかない。
いや、今こうして煙草を吸っている時点で、全然禁煙できていない。

自分は意志が弱いのだと思う。
何か嫌なことやイライラするようなことがあったら、無性に煙草が吸いたくなる。
すっかり自分は、ニコチン依存症になってしまっている。
京子もそれをわかっているのか、灰皿代わりにしている空き缶は置いたままにしてくれている。

携帯電話で時刻を確認すれば、まだ昼過ぎだった。
ちょうど昼休みくらいだろうか。
京子はあと数時間は帰って来ないな。

最近は優樹のマンションに居辛くて、京子の家に逃げることが多くなった。
年齢のことがバレたから。それもあるけれど、以前からこうだった。
優樹の傍は、なんだか落ち着かないんだ。

優樹は優しすぎる。
その優しさが、なんだか無性に怖いのだ。
どうしてこんな自分に優しくしてくれるのだろう。
自分と優樹は他人なのに、どうして。

「みんなのお父さん」と従業員に言いながら、自分にだけは「みんな」と違う扱いをしているように感じる。
住む場所も、携帯電話も、仕事も与えてくれる。
給料も充分すぎるほど貰っているし、定期的に美容院や買い物、食事に連れて行ってくれる。
何不自由ない生活をさせてもらっている。
けれど、明らかに他の人とは違う、特別扱いをされている。

「悩みがあるのか」なんて、自分を気遣うようなこともしょっちゅう言ってくる。
その言葉に、どう答えていいかわからずに、笑って誤魔化した。
自分に父親がいたら、こんな感じなのだろうか。
わからない。だって、自分に父親の記憶なんて、ないのだから。

彼方は、煙草を水の入った空き缶に煙草を投げ入れた。
ジュッという音と共に、煙が消える。
消火を確認して、部屋に戻った。

そして、ベッドに寝転がり、枕に顔を埋める。
仄かに京子の香りが残っている気がする。
なんだかひどく安心する香り。
京子の香りに包まれると、不思議とよく眠れそうな気がする。
今もほら、こうして自然に瞼が閉じていく。


目を覚まして時計を確認すると、二時間しか経っていなかった。
ぐっすり眠ったような気がしたけれど、まだこんな時間か。
再び瞼を閉じて眠ろうとしても、できなかった。
疲れているはずなのに、眠りたいはずなのに、やけに眼が冴える。
本当に、自分の体は散々だな。

京子は、まだ午後の授業の真っ最中だ。
早く帰ってきてくれないかな。
待つのは、少しだけ辛い。

僕の好きな人、早く帰ってきて。
早くその顔を見せて、笑って。

今の自分には、京子しかいないのだから―。

麻丸。
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麻丸。

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