「これからの未来とこれまでの過去」
「これからの未来とこれまでの過去」
十月の二週目の火曜日。
京子が学校から帰ると、いつものように彼方が家で待っていた。
すっかり慣れた様子で、まるで自分の家のようにソファに寝そべって寛いでいる。
机の上には、いつもの白い箱。貢物のケーキだ。
「おかえり。」
自分の姿を見て、彼方は微笑む。
「ただいまです。」
京子は嬉しいような、恥ずかしいような、なんだかくすぐったい気持ちになった。
今までずっと一人暮らしだったから、「ただいま」と「おかえり」が言える人がいなかった。
誰かが待っている家に帰るのは、いいものだ。
それが好きな人なら、尚更。
部屋着に着替えてから、彼方の隣に腰掛ける。
近付いた彼方からは嗅ぎ慣れた甘い香りがした。彼方の煙草の香りだ。
彼方の煙草の香りは変わっていて、独特な甘いバニラの香りがするのだ。
禁煙すると言いながら、自分の見ていないところで吸っているのを、京子は知っていた。
彼方は嘘を吐くのは上手いが、結構脇が甘い。
口では完璧な嘘を吐くのに、行動は隙だらけだ。
「煙草、吸ったでしょう?」
「バレちゃった?」
彼方は悪びれる様子もなく、可愛らしく舌を出してみせる。
本当に禁煙する気はあるのか。
ベランダにある空き缶に、煙草の吸殻が日に日に増えているのを、自分は知っているんだぞ。
まあ、自分の前で吸わないだけマシになったけれど。
「禁煙してくれるんじゃなかったんですか。」
「だって、禁煙してても京子ちゃんキスしてくれないし。」
人差し指を唇に当てて、彼方はコテンと首を傾げる。
不覚にも、可愛らしく見えてしまった。
いや、駄目だ。そんな可愛い仕草をしたって無駄だ。
自分は甘やかさないぞ。
「この前みたいに、飴でも舐めてればいいでしょう。」
京子は素っ気なく言い放つ。
「もう飽きちゃったー。甘いものそんなに好きじゃないんだもん。」
そう言って、彼方は唇を尖らせる。
自分に見せない、彼方の素直な表情。仕草。言動。
そんな子供のような姿が、好きだった。
それから、いつものようにテレビを見ながら、他愛のない話をした。
今日の貢物は、レアチーズケーキのホールと、小さなモンブランが二つだった。貢物
毎日毎日、彼方はいろんなケーキを買ってきてくれる。
それも、自分が飽きないように、毎日違う種類を選んでくれる。
素直じゃない自分と違って、彼方は素直で優しい。
自分は彼方にしてもらってばかりだ。
自分だって彼方に何かしてやりたいのだけれど、どうすればいいかわからないし、素直じゃない性格が邪魔をする。
素直になろう、素直になろうと、心の中では思うのだけれど、どうにも上手くいかない。
いつか、彼方に愛想を尽かされないか心配だ。
だって、こんな素直じゃない彼女なんて、絶対に可愛くない。
そんなことを考えながら、京子はレアチーズケーキを頬張る。
今日のケーキも美味しい。彼方が選んでくれるケーキは、なんだって美味しいんだ。
「京子ちゃんってさ、細い割によく食べるよね。」
自分をじーっと見つめながら、彼方は言う。
そんなに見つめられると、なんだか食べ辛い。
「悪いですか。」
「ううん。いっぱいご飯食べる女の子って可愛いと思うよ。」
そう言って、彼方は満足そうにニッコリと笑った。
彼方に「可愛い」と言われると、なんだか恥ずかしい。
よくそんな言葉を平然と言えるものだ。
けれど、その一言で浮かれてしまう自分が、悔しい。
「そういえばさあ、僕、もうすぐ誕生日なんだ。再来週の木曜日。」
壁に掛けられたカレンダーを指さしながら、彼方が言う。
京子もカレンダーに視線を移す。
週末前の木曜日。二十二日だった。
「再来週…。何か欲しい物とかありますか?」
「んー、別に何もないなあ。」
彼方は少し考える素振りを見せたが、思いつかなかったのか首を傾げて微笑む。
「京子ちゃんと一緒にいれたら、それでいいや。」
「それでいいって…。何かあるでしょう。欲しい物とか、行きたい所とか、したいこととか。前に遊園地行きたいって言ってませんでした?」
「まあそうなんだけど…平日だしさ。遠出できないじゃない。」
そう言って、彼方は困ったように笑う。
一番近い県内唯一の遊園地は、電車で二時間の街を超えて、更に二時間はかかる山の中。
片道四時間以上。遊園地を堪能して往復すると、半日は見積もらないといけない。
確かに、平日に行く場所ではない。
「じゃあ週末に行きましょうよ。それなら大丈夫でしょう?」
「週末は仕事休めないよー。この前の休みは特別だったの。」
自分と彼方は、生活リズムが違う。
学校へ行く時間や、仕事に行く時間、寝る時間や休みも違う。
こうして毎日会いに来てくれるが、外でデートをする時間は限られているのだ。
なかなか時間が合わないものだ。
「いつも通りでいいよ。別に遊園地行けなくても、京子ちゃんと一緒にいられたら、それでいいいし。」
諭すように、彼方は微笑む。
何かしてあげたいと思うのに、何もできない自分がもどかしい。
そんな欲のないことを言わせるなんて、彼女失格じゃないか。
「…じゃあ、何か欲しい物はありますか?」
「ないよ。あったとしても自分で買えちゃうし。」
ケロッとした顔で彼方は言う。
確かに、自分よりは彼方の方が稼いでいるだろうし、自分のバイト代なんて、たかが知れている。
けれど、そういうことじゃない。
ちゃんと祝ってあげたいのに。喜ばせたいのに。
「じゃあ、何かしてほしいことは?」
「その日はバイト入れないで、僕が仕事行くまで一緒にいてほしいかな。」
「そんなの、当たり前じゃないですか。他にないんですか?」
「他に、って言われてもなあ…。今日はやけにムキになるね。珍しい。」
そう彼方に言われて、初めて自分がムキになっていることに気付いた。
自覚すると、一期に恥ずかしくなる。
これじゃあまるで、彼方のことが大好きみたいじゃないか。
いや、実際に好きなのだけれど、そう言われると恥ずかしい。
京子は赤面して俯く。
「べ、べつに、お祝いしてあげようとか思ったわけじゃないですからね!」
ああ、もう。どうして自分は素直になれないんだ。
なんで素直に祝ってあげたいと言えないんだ。
いつだって言葉が正反対になる。天邪鬼な自分が恨めしい。
こんなんじゃ、彼方に嫌われてしまうじゃないか。
けれど、彼方は気にしていないようで、おかしそうにクスクスと笑った。
「はいはい。でも、一緒にいてくれるんでしょ?」
「仕方なしですよ。」
「ふふっ、ありがとう。」
いつもこんな感じだ。
自分が天邪鬼なことを言っても、彼方は気を悪くするようなこともなく、笑う。
そんな優しさに救われながらも、この天邪鬼を直さなきゃと思うんだ。
素直に甘えられるような、可愛い彼女になりたい。
彼方に好かれるような、可愛い女性に。
けれど、そうなりたいと思っても、自分のプライドが邪魔をするのだ。
「十八になったら、結婚できるねえ。」
冗談めかして彼方は言う。
結婚、だなんて。まだ早い。
「私、まだ高校生ですよ。」
「女の子は、十六で結婚できるんでしょ?」
「気が早すぎやしませんか。」
まだ自分たちは十代だ。それに、高校生。まだまだ子供だと思う。
ずっと一緒にいられればいいけれど、先なんて見えない。
いつか彼方も、こんな自分に愛想を尽かすかもしれない。
自分だって、この先どうなるかわからない。
遠い未来なんて、誰にもわからない。
恋愛が脆く壊れやすいものだってことは、充分わかっているつもりだ。
それなのに、「結婚」だなんて。そんなのは夢物語だ。
急に、後ろから彼方に抱きしめられた。
彼方の体温と、煙草の甘い香りに包まれる。
「…京子ちゃんは、僕と結婚したくない?」
耳元で囁く、低く、甘い声。
京子は、体がカッと熱くなるのを感じた。心臓も鼓動を早める。
その声に自分が弱いことも知らずに、彼方は悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
「プロポーズなら、もっとロマンチックにしてくださいよ。」
平静を装って、京子は素っ気なく呟く。
照れて、少し早口になった。
「そういうの気にするんだ。やっぱり京子ちゃんも女の子だね。」
彼方は少し意外そうな顔をして、だけど冗談めかして笑う。
彼方といると、心臓に悪い。
いくら平静を装っていても、心臓の音や体温の上昇までは隠せない。
自分がドキドキしているのがバレそうで、恥ずかしくて居た堪れない。
彼方は気付いているのか、いないのか、自分の肩に顎を乗せてリラックスしている様子だった。
「そう言えばさー、優樹さんに年齢のことバレちゃったんだ。」
「え?」
彼方は自分を抱きしめたまま、何気なく重大なことを呟く。
「バレてるのは前から知ってたんだけどさ、昨日面と向かって言われちゃって。
これ以上嘘吐いてもしょうがないから、認めちゃった。」
一気に血の気が引く。体が冷えていくのを感じた。
なんてことだ。今まで隠し通してきたのに。
「…お兄ちゃん、なんて?」
動揺を隠して、京子は聞く。
「ここにいたいなら、まだここにいていいって。」
その口調は、さほど重大でもなさそうだった。
まるでつまらない世間話でもするかのように、本当に何気ない口調だった。
「…なんだ。よかった。」
京子は、安堵して胸を撫で下ろす。
「変だよね。てっきりクビになっちゃうと思ったのに。」
そう言って、彼方は自分を抱きしめる腕を解く。
そして、ソファーに座り直して、首を傾げた。
「なんで優樹さん、あんなに優しいんだろ。」
「お兄ちゃんは、誰にだって優しいですよ。」
「そうだけどさー、なんか特別扱いされてる気がするもん。」
腑に落ちない様子で、彼方は唇を尖らせる。
年齢のことが優樹にバレたと聞いた時は驚いたが、彼方の様子を見る限り、心配はなさそうだ。
けれど、優樹がそんなことを言うのは、意外だった。
優樹は、悪や不正を嫌う人間だったからだ。
このまま彼方を雇い続けるということは、法を犯すと言うことだ。
優樹は、そんなことしないと思っていた。
「なんかさー、優樹さん、優しすぎて逆に怖い。
なんであんなに優しくしてくれるんだろう。
僕なんかに優しくする理由なんてないじゃない。」
彼方はソファーの上で膝を抱える。
その子供のような仕草と、首を傾げて上目で自分を見つめる視線に、少年が重なった。
「…似てるんじゃないですか。」
ポツリと京子が呟く。
彼方は不思議そうに尋ねてきた。
「似てる?誰に?」
「大樹…弟です。」
「あ…そっか。三兄弟だったんだよね。」
彼方は、明らかに気まずそうに眼を逸らした。
自分の弟だった大樹は、もうこの世にいない。
両親と共に、数年前に交通事故で亡くなっている。
「…大樹も、良く笑う子でした。泣き虫で不器用で、でも甘えるのだけは得意で。明るくて、可愛い弟でした。」
京子は目を伏せて、昔を思い出す。
瞼を閉じれば、あの頃の大樹が鮮明に思い出される。
記憶の中の大樹は、小学生で止まったままだった。
「…僕、大樹君じゃないよ。」
気まずい空気に、手持無沙汰な様子の彼方は、前髪を指で弄ぶ。
「そんなこと、お兄ちゃんだってわかってますよ。でも…重ねちゃうんじゃないですか。無意識に。」
「そんなに似てるの?」
「さあ。私には似ているって思えません。でも、お兄ちゃんからしたら、似ているように感じるんじゃないんですか。」
「そっか…。」
彼方は目を伏せる。
重々しい沈黙が訪れた。
大樹のことを思い出して、なんだか感傷的な気分になってしまった。
今まで忘れていたわけじゃない。でも、こうして人に死んだ自分の家族の話をするのは、久しぶりな気がした。
あまり人には言わないようにしていたのに、彼方が大樹を思い出させたんだ。
彼方は、大樹に似ている。
無邪気な笑顔。弱虫で泣き虫な臆病者。
可愛らしい仕草に、少し甘えたなところ。
あの頃に大樹も、こんな少年だったんだ。
「ごめんね。変な話させて。」
沈黙を破ったのは、彼方だった。
憐みのような視線を自分に向けて、言葉を探しているようだった。
「別に…。今は、お兄ちゃんも彼方さんもいるから平気です。そんな可哀想な子を見るような目で見ないでくださいよ。」
「いや、そういうわけじゃないけど…。こういう時、なんて言ってあげたらいいかわかんなくて。」
しどろもどろになりながら、彼方は頭を掻く。
なんだ、自分を慰めようとでもしてくれていたのか。
やっぱり、彼方は優しい。
「いつも通りでいいんじゃないですか。昔のことなんですから。」
京子は、既にいつも通りの素っ気ない口調に戻っていた。
昔の話だ。もう自分は、ちゃんと区切りをつけている。
過去を嘆くなんてことはしない。自分は前を向いて生きている。
「やっぱり京子ちゃんは強いね。」
「貴方が弱虫なだけですよ。」
「ひどいなあ。」
そう言って、彼方は笑った。