「消えない影」
「消えない影」
寄り添って、じゃれあって、他愛のない話をして、時間は過ぎていく。
夕食を食べ終え、昨日と同じく先に百合に風呂を勧めた。
すっかり寒くなってきたし、浴槽にお湯を張って、用意していた入浴剤を入れておいた。
甘いバニラの香りがする泡風呂だった。今日のために、前々から購入していたものだ。
風呂から出てきた百合は泡風呂を気に入ったらしく、日向に髪の毛を乾かされながら嬉しそうな顔をしていた。
「ああいうのなら、一緒に入ってもよかったのに。」
「恥ずかしいだろ?」
「泡で見えないですよ?」
「いや、入る時とか、出る時とか。」
「タオル巻けばいいじゃないですか。」
「いや、そういうわけにはいかないだろ。」
一緒に入浴なんて、自分の理性が持つわけがない。
自分は百合の白い腕や、パジャマから覗く細い足でさえ意識してしまうのだから、タオル一枚巻いただけの姿なんてきっと耐えられない。
そんなことを知ってか知らずか、この無邪気な天使は無防備な笑みを見せる。
日向は邪なことを考えないように必死に手を動かし、百合の髪を乾かした。
百合の髪を乾かし終わって、日向も風呂に入った。
あんなことを言っていた手前、百合が入って来るんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。
日向は安心したような、少し残念なような、妙な気持ちになった。
体を洗って、風呂に浸かる。
風呂の中の泡は、もう既にほとんど残ってはいなかった。
昨日から四六時中百合と過ごしているから、こうして一人になると色々考えてしまう。
泡風呂だなんて、少しキザすぎただろうか。
今まで恋愛経験なんてなかったから、どうしていいかわからないのだ。
どこまでしていいんだろう。やりすぎて、引かれたりしないだろうか。
今では毎朝作っている百合の分のお弁当だって、最初は迷った。
デートの時に毎日でも自分の料理が食べたいと言ってくれて、嬉しかった。
だからお弁当を作ったのだけれど、出来上がってから、あれは社交辞令だったんじゃないか、こんなことをされたら困らせてしまうのではないかと、一人で何度も考えたものだ。
自分ができることなんてたかが知れているし、たいしたことはしてあげられてないと思う。
けれど、百合のあんなに嬉しそうな顔が見れてよかった。
もっともっと、百合を喜ばせてあげたい。
百合をできるだけ甘やかしてあげたい。なんだってしてあげたい。
あんな可愛い彼女の笑顔を、もっともっと見ていたい。
だから、自分のこの邪な気持ちを押し込めないと。
体が目当てで付き合っているわけじゃない。
百合は自分の恩人だ。自分にとっては、女神のようなものなんだ。
そんな百合を、自分勝手な性欲で汚してはいけない。
そう、日向は思った。
風呂から出てリビングへ戻ると、百合はおかしな恰好をしていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。」
そう言って、百合は悪戯っ子のような顔で微笑む。
あまりに妙な光景に、日向は呆然と立ち尽くした。
それもそのはずだ。
さっきまでパジャマ姿だった百合の服装が、一変している。
黒いフリルのワンピースに白いエプロンドレス、頭には同じく白いフリルのついたカチューシャを付けていた。
「百合…何やってるの…?」
「見てわかりませんか?メイドさんです!」
スカートの裾を摘まんで、百合はくるりと一周してみせる。
意外とスカートが短い。スカートとニーハイソックスの間から、白い太ももがチラリと覗いた。
「メイドって…え?…ええ、なんで?」
わけがわからずに、日向は戸惑うことしかできない。
反対に百合は、満面の笑みを浮かべて、自分の反応を楽しんでいるようだった。
「学園祭で着るコスプレが、昨日届いたんです。
ひーくんはメイドさんが好きって聞いたから、メイドさんにしました!」
そう言って、百合はこれ見よがしにメイド服のスカートを翻す。
そして可愛らしくポーズを取って、得意そうに日向に見せつけた。
「…俺、そんなこと一言も言ってないけど…。」
「ええっ?…坂野先輩に騙されましたかね?」
「…やっぱり亮太か。」
百合にそんなことを吹き込むのは、亮太しかいない。
荷物が多かったのも、この衣装のせい。
携帯電話に夢中だったのも、このことを亮太に相談していたのだろう。
「似合いませんかね…?」
百合はしょんぼりと肩を落として、上目で日向を見る。
日向は、改めてメイド服姿の百合を見た。
童話に出てきそうなフリルのワンピース。
メイドと言うより、絵本にでも出てきそうなお姫様にも見える。
メイドがどうこうというわけではなく、百合は何を着ても可愛いと思う。
「可愛いよ。」
「ホントですか?」
「うん、似合ってる。」
その言葉に、百合は満面の笑みを見せた。
「じゃあじゃあ、今日は私がひーくんにご奉仕しますよ!」
「ご奉仕…?」
「何かしてほしいことはありませんか?このひーくん専属のメイドがなんでもしてあげますよ!」
すっかり元気になった百合は、張り切ってみせる。
なんでもしてあげる、その言葉に、日向はなんだかそわそわした気持ちになった。
いや、駄目だ。変なことを考えないと決めたばかりなのに。
自分の理性の緩さに、溜息が洩れそうになった。
「ええ…別に、何もしなくていいよ。」
「なんでですか!あ、じゃあ髪乾かしてあげます!」
「それくらい自分でできるし…。」
「いつも私の髪乾かしてくれるんですから、お返しです。はい、座って座って!」
そう言って、半ば強引に椅子に座らせられた。
百合が背後に立ち、ドライヤーの熱風を感じる。
誰かに髪を乾かしてもらうなんて、初めてのことだった。
時折百合の指が髪や地肌を掠める。その度に、なんだか緊張した。
自分は今まで当たり前のように百合の髪を乾かしてきたけれど、いざ自分がされる側になると、案外照れくさいものなのだと日向は知った。
「次は何してほしいですか?」
髪を乾かし終わって、専属メイドは次の指示を心待ちにするように言う。
「そう言われても…。」
急に言われたって、そんなこと思いつかない。
それに、百合にはしてもらってばっかりだ。
自分だって、何かしてあげたいのに。
「遠慮しないでくださいよ。あ!肩揉んであげましょうか?」
「え…いいよ、凝ってないし。」
「じゃあ、膝枕してあげましょうか?」
「それはちょっと…恥ずかしい。」
「じゃあじゃあ、えーっと…えーっと…。」
うーんと唸って首を捻りながら、百合は考える。
「いや、何もしなくていいよ。いつも通りでいい。」
「もー!ひーくんったら、欲がないですよ、欲が。」
そう言って、百合は頬を膨らませた。
そんな仕草でさえ、可愛らしいと日向は思った。
欲がないなんて、そんなわけがない。
けれど、自分のこの汚い性欲を口にすることはできなかった。
この邪な気持ちは、自分の中だけに押し込めておこうと日向は決めた。
楽しい時間は過ぎるのが早く、すっかり夜も更けてきた。
いつもそうだ。百合と過ごしていると、時間を忘れてしまう。
時計を見れば、そろそろ日付が変わる頃だった。
百合に元のパジャマに着替えてもらって、メイドごっこは終わりにした。
そして、そろそろ眠ろうと、昨日と同じように二人でベッドに入った。
けれど、昨日とは違い、百合は無口だった。
手を繋いでピッタリとくっついて、何かを考えるように目を伏せていた。
静寂の中に、昨日と同じ時計の音だけが響く。
黙っていても、カチコチと時は進む。
百合と過ごす、最後の夜だった。
「ねえ、ひーくん。」
ふいに、百合がポツリと呟く。
「何?」
百合は、躊躇うように息を吸ってから言った。
「…何も、しないんですか。」
その言葉に、心臓がトクンと跳ねた。
けれど、日向は平静を装って聞き返す。
「…何も…って、何が?」
「だから…その…。」
そう言いかけて、百合は口ごもる。
言葉を選んでいるのか、言い辛いことなのか、百合の視線は暗闇を彷徨う。
「私じゃ…駄目ですか?」
「…え?」
消え入りそうな小さな声で、百合は言った。
「私…胸もちっちゃいし、子供っぽいし…。やっぱり私じゃ、そういうことしたいって思えませんか…?」
日向は耳を疑った。
「ちょ…ちょっと待って。それって…その…セ、セックス…したいってこと…?」
その行為を言葉にするのが恥ずかしくて、小声になってしまう。
百合も同様なようで、顔を真っ赤にして目を逸らす。
けれど、自分にギュッと抱き付いて、囁くような声で言った。
「…ひーくんは、したくないんですか?」
「えっ…したい…けど…でも、…え?」
日向は動揺していた。
口が滑って、思わずしたいと言ってしまった。
ああ、でも、そんなことを言ったら百合に嫌われてしまうのではないか。
いや、百合は自分を誘っている。本当にいいのだろうか。
いや、冗談かもしれない。自分を試しているだけかもしれない。
百合は本気なのか?本気で言っているのか?これは夢じゃないのか。
日向は、思いっきり爪を手の平に食い込ませてみた。痛い。夢じゃない。
夢じゃない?これは現実なのか。どうしよう。自分はどうすればいいんだ。
今日の百合の様子がおかしかったのだって、もしかしたらこのためだったのだろうか。
自分に手を出してほしいがために、わざと誘うような素振りを見せていたのだろうか。
据え膳くわぬは男の恥、なんて言葉を思い出した。けれど、いいのか?本当にいいのか?
混乱した頭で日向はぐるぐると思考を巡らす。
でも、ダメだ。頭がパンクしてしまいそうだった。
百合は顔を上げて、真っ直ぐに自分を見つめる。
「私は、したいです。ひーくんがほしい。」
百合の凛とした強い声と、切ない瞳。
日向は鼓動が早くなるのを感じた。
「…ホントに、いいの?」
頬を真っ赤に染めた百合は、小さく頷く。
「…ひーくんの好きにして。」
その言葉に、どうにかなってしまいそうだった。
理性を保つなんて、もう無理だ。
今すぐ百合を自分のモノにしたい。
「百合…。」
日向は百合に覆いかぶさって口付ける。
百合は日向を抱きしめて、それを受け入れた。
貪るように何度も何度もキスをした。呼吸ができないほど長く唇を重ねた。
しつこいくらいに百合の柔らかい唇を堪能する。
そして、唇に割って百合の口内に舌を滑り込ませた。
百合は少し驚いたように体を震わせたが、日向に応えるように舌を絡ませた。
生暖かい舌が絡まる感触に、ひどく興奮した。
今宵、自分は百合を抱く。
唇が離れると、どちらのものともわからない唾液が糸を引いた。
情欲の色に染まった百合の瞳に、切ない溜息が洩れる。
仄かな月明かりがベッドの中の二人を照らす。
百合が愛おしい。愛しさが溢れて、胸がいっぱいになった。
心臓が壊れてしまいそうだ。興奮で呼吸が荒くなるのを自覚した。
こんな可愛い子を好きにできるなんて、夢みたいだ。
「どうしよう…なんか、ドキドキしすぎて死にそう…。」
百合をぎゅっと抱きしめて、肩口に顔を埋める。
興奮と恥ずかしさで、百合に顔を見られたくなかった。
きっと今自分は、凄く情けない顔をしている。
「ふふっ、大袈裟ですよ。」
そう言って、百合はクスクス笑った。
細い指が髪を梳く。百合の暖かい体温に包まれると、一層鼓動が早くなった。
情けない話だけれど、自分には経験がない。
頭の中で何度も百合を犯してきたが、いざその行為をするとなると、どうしていいかわからない。
緊張と興奮で、頭の中は真っ白だった。
「だって、俺初めてだし…。」
百合の肩口に顔を埋めたまま、日向は言った。
こうして顔を隠していないと、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「私だって、初めてですよ。ひーくんが、初めて。」
百合は、強い声で言った。
初めて。以前の事件の詳しいことは、敢えて聞かないようにしてきた。
それが百合のためであり、自分のためであると思ったからだ。
百合はどこまで彼方に汚されたのだろう。今自分がしてる以上のことまで、されたのだろうか。
なんだか腹立たしくなった。百合は自分のモノなのに。
自分は百合を傷付けまいと、大切に大切に守ってきたのに。
「…怖くない?」
「大丈夫です。ひーくんなら、大丈夫。」
そう言って、百合は精一杯縋りつくように自分を抱きしめた。
もう一度キスをして、舌を絡める。
百合は「でも、ちょっと恥ずかしい」と、はにかんで笑った。
首筋から肩にかけて、唇を這わせてキスをする。
百合の綺麗な肌に自分の感触を教え込ませるように、ゆっくりと、優しく。
唇が肌を這うたび、百合の口からは切ない吐息が洩れた。
肌と服の隙間に手を滑り込ませて、服を着たままの百合の体をそっと撫でた。
吸いつくような若い柔肌の感触。陶器のような白い肌は、月明かりに照らされて幻想的に見えた。
時間を掛けて、ゆっくりと百合の肌を愛撫する。
手で、唇で、百合への愛しさを伝えた。
そして、日向は意を決して、百合が着ているパーカーのファスナーにそっと手を掛けた。
緊張で手が震える手で、ゆっくりとファスナーと下ろしていく。
薄いピンクの下着と、小さな胸の谷間が露わになった。
百合は恥ずかしいのか、両手で顔を覆って、身を固くしていた。
日向は、下着の上から百合の形のいい小振りな胸を揉んでみた。
手の平にすっぽりと収まるサイズの百合の胸は、柔らかかった。
触ったことのない感触。女の子特有の温かい柔らかさ。
百合の心臓が、トクトクと早いリズムで脈打ってるのが伝わる。
百合も自分にドキドキしてくれている。
「ね、百合、顔見せて…。」
「駄目です…。恥ずかしい…。」
百合は顔を覆ったまま、小さく首を振る。耳まで真っ赤だ。
可愛らしく恥じらう百合に、胸がきゅっと締め付けられた。
百合は今、どんな顔で自分のことを感じてくれているのだろう。
「お願い…顔見たい…。」
百合は、イヤイヤと首を振る。
顔を隠して恥じらう百合は可愛い。けれど、やっぱりその顔が見たい。
もどかしい。じれったい。我慢なんてできない。
日向は百合の手首を掴み、顔を覆うその手を少し強引に退けた。
「あっ…。」
けれど、やっと見れた百合の表情に、日向は目を瞠った。
「え…。」
百合の目には、涙が滲んでいた。瞳には怯えの色が浮かんでいる。
興奮して気付かなかったが、百合の体は小刻みに震えていた。
「ち、違うんです!平気、…平気だから…」
慌てて取り繕う百合の瞳から、涙が溢れた。
堰を切ったように、ポロポロと雫が滴り落ちる。
本当は、怖くて堪らなかったのだろう。
どうして百合が怖がっていることに気付けなかったのだろう。
浮かれていた。自分は、完全に浮かれていた。
百合が体を許してくれたことに舞い上がって、周りが見えていなかった。
何よりも気にしてあげないといけなかったのは、百合の気持ちだったのに。
自分の快楽ばかりを優先して、百合が怯えていることに気付けなかった。
「…ごめん。やっぱり…今日はやめよう。」
そっと、日向は百合の上から退いた。
そして、その震える体を隠すように、布団を掛けてやった。
「ひーくん待って!違うの…違うの…。」
手で涙を拭いながら、百合は言う。
けれど、涙は止まることはなかった。
「無理しなくていいよ。そういうことしなくても、俺…百合といられるだけでいいから。」
宥めるように、百合の頭を撫でる。
「違うんです!ひーくんが嫌なわけじゃなくて…その…。」
百合は真っ赤な目で、嗚咽を洩らした。
「わかってる。いいよ。大丈夫だから。」
なんだか百合を見ているのが辛くなって、日向は百合に背を向けてベッドに横になった。
百合が背中に縋りついてくるのを感じる。とてもじゃないけれど、振り向けなかった。
「ひーくん…。」
背中越しに、すすり泣くが聞こえた。
抱きしめて慰めてあげたい衝動に駆られたが、できなかった。
今の自分には、そんな資格なんてない。
日向は、百合が泣き止むのを、ただ静かに待った。