「猫とペンギン」

 「猫とペンギン」



家に帰ってすぐに、京子はペンギンのストラップを学生鞄につけた。
その様子を、彼方は満足そうに微笑んで見ていた。
初めてのお揃いのストラップ。
今日という日の記念に、このストラップを大事にしようと京子は思った。

「本当につけてくれたんだ。」

「だから、ちゃんとつけるって言ったでしょう。」

「うん。ありがとう。お揃いだね。」

そう言って、ポケットから携帯電話を取り出して、彼方は嬉しそうに微笑む。
携帯電話に付けられた彼方のストラップが、ゆらりと揺れた。
自分のものと同じ、ペンギンのストラップ。
あまりにも嬉しそうな顔をするものだから、京子は少し恥ずかしくなった。
こんなの、馬鹿ップルみたいじゃないか。

「何がそんなに嬉しいんですか。」

「えへへ。だって、すっごく恋人っぽいじゃない。」

「っぽい、じゃなくて、恋人でしょう。…一応。」

「ふふ、そうだね。嬉しいなあ。」

そう言ってから、彼方は大きな欠伸を一つした。
そういえば、帰りのバスの中、家に帰ってから、彼方はしきりに欠伸を繰り返した。
午前中に家に来たのだから、今日は眠っていないのだろうか。

「眠いなら、仮眠取ったらどうですか?今日も仕事なんでしょう?」

「うん…まあ。じゃあ、ちょっとだけ寝ようかなあ。」

彼方は、ごろんと狭いベッドに寝転がる。
そして、両手を大きく広げて、甘えるように言った。

「京子ちゃん、こっちおいで。」

「嫌ですよ。二人で寝たら、狭いじゃないですか。」

「それがいいんじゃない。本読んでても、携帯弄っててもいいからさ、隣にいてよ。」

おいでおいで、とでも言うように、彼方は手招きをする。
京子は、溜息を吐いてベッドにもぐりこんだ。

「全く。子供じゃないんだから。」

「ふふっ、京子ちゃんは優しいね。そんなこと言いながら、僕のお願いを聞いてくれるんだもん。」

「別に、そんなつもりじゃないですよ。彼方さんが、どうしても、って言うからでしょ。
 それに、彼方さんって、ほっとくとめんどくさいし。」

また自分の口から、天邪鬼な言葉が洩れる。
本当は、こんなこと言うつもりじゃないのに。
どうしても、素直になれない。
彼方と共にいられることが、嬉しくて仕方ないはずなのに。

彼方の両腕が、自分の体を捕らえる。
京子は、抱き枕のように彼方に抱きしめられてしまった。

「…なんか、幸せ。」

はにかむように、彼方は笑う。

「こうやって、一緒に寝るの好きなんだよねえ。なんかいい夢見れそう。」

そう言って、彼方は満足そうな顔を見せた。
今日一日中、心底嬉しそうに、幸せそうに彼方は笑っている。
こんな他愛のないことで、こんなに素直じゃない彼女なのに、彼方は本当に幸せそうに笑う。

「…彼方さんって、欲がないですよね。」

京がポツリと呟くと、彼方は不思議そうに首を傾げた。

「そう?そんなことないけど。」

「だって、欲しいもの聞いても、何もいらないって言うじゃないですか。」

「だってなあ…。欲しいもの言ったら、くれるの?」

顎に手を当てて少し考える素振りを見せた後、彼方はじーっと京子の顔を覗きこむ。
子供のような伺いの眼差しに、京子はたじろいだ。

「…高いものはちょっと無理ですけど、一応私もバイトしてますから、ある程度のものなら。」

彼方は、うーんと唸った後、静かに首を振った。

「僕の欲しいのは、お金で買えないものかなあ。」

「お金で買えないもの…?何ですか?」

そう京子が聞くと、彼方は抱きしめる腕を強めた。
すっぽりと彼方の胸に包まれる。鼓動が聞こえるほど、近くに彼方を感じる。
縋るように、しがみつくように、彼方は腕の中に自分を閉じ込めて、耳元で囁いた。

「…家族。家族がほしい。」

切なく吐息が揺れた。

「…家族?」

何を言っているんだ、この男は。
結婚だ、家族だって、何をこんなに生き急いでいるのだ。
京子はハッとして顔を上げると、彼方は口元を緩めて笑っていた。

「なーんてね。嘘だよ。ただの冗談。」

「…結婚したいだとか、家族が欲しいだとか、ちょっと生き急ぎすぎなんじゃないですか」

「だから冗談だって。他意はないよ。」

そう言って、彼方は大きな欠伸をした。

「そろそろホントに寝るね。六時くらいに起こして。」

自分を抱きしめたまま、彼方の瞳が閉じる。
やがて、数分もしないうちに寝息が聞こえてきた。

いつもはそっぽを向いてばかりで、まじまじと彼方の顔を見たことはなかった。
口をポカンと開けていて、マヌケな寝顔だ。
けれど、そんな無謀な寝顔が、なんだか可愛らしく思えた。
こうやって、彼方の寝顔を見るのは、数えるほどしかない。
何度か彼方は家に泊まったが、いつも自分が先に眠ってしまい、目を覚ましても先に彼方が起きているからだ。
栄養不足か生活リズムの乱れか。肌は少し荒れているようだが、綺麗な顔をしている。
白い肌、整った顔、長い睫毛。彼方が女子にモテるのも、わかる気がした。

つんつんと、指で彼方の頬を突いてみる。
起きない。いつかは寝たふりをして、自分をからかったのに。
もう一度突いてみる。彼方は、顔をしかめて低く唸った。
指を離せば、しかめた顔が緩む。

指先で唇をなぞってみる。
彼方は、くすぐったそうに小さく首を振った。
起きない。ただ規則正しい寝息が洩れるだけ。
どうやら、完全に眠っているみたいだ。

京子は薄く開いたその唇に、そっとキスをしてみた。
触れるだけの短いキス。彼方の瞳は閉じたままだった。
彼方とキスをしたのは、数えるほどしかない。
彼方に抱かれたのも、夏休み前のたった一度だけだった。

もっと触れてくれてもいいのに。
時には、少し強引に迫ってくれてもいいのに。
じゃないと、素直じゃない自分からは誘えない。
もっと、繋がっていたいと思うのに。羞恥心が、邪魔をする。

京子は彼方の腕をするりと抜けて、ベッドを降りた。
そして、化粧台の棚を開き、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出す。
その包装を剥がして、箱を開けると、自分の胸にあるネックレスと同じ、猫と月がモチーフのピアスが出てきた。
彼方がこのネックレスを買ってくれた店と同じ店で買ったものだ。
本当は、初めてのお揃いは、これになるはずだったのに。
どうにも面と向かって渡せそうにない。それどころか、まだおめでとうも言えていない。

京子はベッドに戻り、もう一度彼方の頬を突いてみた。
彼方は顔をしかめることもなく、すやすやと寝息をたてている。

起きない方が都合がいい。
そう思いながら、京子は彼方の傷んだ髪の毛を掻き分ける。
右耳には、リング状の銀のピアスが光っていた。
それをそっと外して、自分が用意したピアスに付け替える。
お揃いの猫が、キラリと彼方の耳で光った。

外したピアスはどうしようか。
とりあえず、化粧台にでも隠しておくか。
彼方がピアスに気付くのは、いつだろう。
なるべく遅い方がいい。できれば、帰った後がいい。
自分といる時に気付かれたら、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
今でも、なんだか気恥ずかしい。ああ、神様、どうか気付かせないで。
祈るような気持ちで、京子は彼方の寝顔を眺めた。

安心しきっている無防備な寝顔。
けれど、さっきの彼方の笑みが偽物だということに、京子は気付いていた。
冗談だよ、だなんて、少しも冗談に聞こえなかった。
彼方は、何かを隠している。それが何かは、わからない。
けれど、わかるんだ。彼方は、何かを隠している。

彼方は、孤独な人だ。
家族を捨て、普通の生活も捨て、何もかもを手放した。
今の彼方に、家族はいない。それどころか、友人の一人もいない。
唯一心の支えにしていた日向にも、会えなくなってしまった。

自分といることで、少しはその寂しさを癒せているのだろうか。
自分は、彼方に何かをしてやれただろうか。彼方を救ってやれているのだろうか。
彼方は今、幸せなのだろうか。


午後六時が近付いてきた。
気持ちよさそうに眠っているのを邪魔したくはないけれど、そろそろ起こさないと。
もう少し一緒にいたいけど、まだ帰したくはないけれど、時間なのだから仕方ない。
京子は大きく溜息を吐いた。

「彼方さん、起きてください。」

声を掛けても、彼方の瞼は閉じたまま。起きる素振りはない。
仕方なしに彼方の体を揺すると、彼方は薄らを目を開けた。

「ううーん、あと五分…。」

そう言って、彼方は頭まで布団に潜り込む。
まるで、ただをこねる子供のようだ。

「六時に起こして、って言ったのは、彼方さんじゃないですか!」

「もうちょっと…。あと五分だけだから…。」

「そんなこと言って、五分後も同じこと言うんでしょう?」

「言わないからぁ…。」

「ほら、早く起きてください!」

京子は、無理矢理に布団をはぎ取る。
彼方は寒そうに体を丸めた。

「うー。京子ちゃんひどいー。」

「ひどくないですよ。むしろ感謝してください。」

「うーん…。」

目をしぱしぱとさせながら、彼方は諦めたようにゆっくりと体を起こす。
そして、ポケットから携帯電話を取り出しながら、大きな欠伸を一つ。
まだ眠たいのだろう。二時間も睡眠をとれていないのだから。

寝ぼけ眼のまま壁に凭れかかって、彼方は携帯電話を操作する。
メールでもしているのだろうか。ディスプレイに指先が滑る。
いつもなら、自分といる時には、ほとんど携帯電話を触らないのに。
その姿を見ながら、京子は小さく呟いた。

「…今日くらい、休めないんですか?」

「なあに?まだ一緒にいてほしいの?」

冗談めかして、彼方は笑う。
自分が否定するのをわかっていて、からかってるつもりなのだろう。
けれど、京子は否定せずに、小さく頷いた。
まだ、一緒にいたい。

「…もう少しくらい、いいじゃないですか。」

思ったよりも簡単に、本音が口から出た。
彼方は眠たそうな目を擦って、意外そうに眼を瞬かせる。

「え?え?今なんて?」

訳が分からないと言うように、彼方は目をパチパチとさせながら聞き返す。
眠そうだった瞳は、パッチリと開いていた。

「だから、今日くらい休んだらどうですか、って言ってるんです!」

京子は赤面しながら、顔を背ける。照れ隠しで、語気が強くなった。
素直にもう少し一緒にいたいと言えればいいのに、自分にはそれができない。
上手く甘えたり、誘うことなんてできないんだ。

「うーんと、嬉しいんだけど…急には休めないかなあ。」

彼方は、困ったように頬を掻く。

「そうですか…。」

しょんぼりと京子は肩を落とした。
ワガママと言ってもしょうがない。仕事なのだから、仕方ない。
わかってはいるけれど、少し残念な気持ちになった。
そんな姿を見て、彼方は首を傾げて悩むような素振りを見せた。

「ちょっと待ってて。優樹さんに電話してみる。」

そう言って、彼方は携帯電話の画面をタップして、耳に当てる。
呼び出し音が微かに聞こえる。彼方は人差し指を立てて、静かに、と京子に合図を送った。
しばらくすると、電話が繋がったらしく彼方が喋り出した。
どうやら、今日休めないか掛け合っているようだ。

京子は、二人の会話を聞こうと、彼方にピッタリとくっついた。
彼方と目が合う。彼方は、ふっと微笑んで、自分の頭を撫でた。
京子はなんだか恥ずかしくなって、目を伏せ、唇を尖らせて黙っていた。

やがて電話が終わると、彼方は顔を上げて自分に微笑みかけた。

「今日、休みにしてもらっちゃった。」

「別に…そこまでしなくてもよかったんですよ。」

「えー、だって、京子ちゃんが甘えてくるの珍しいんだもん。」

自分を抱きしめて、彼方はもう一度ベッドに寝転がる。
京子も、彼方と共にベッドに寝転がされてしまった。

「京子ちゃんは、どんなふうに甘やかしてほしいのかな~?」

彼方は満面の笑みを自分に向ける。
そして、まるで犬でも可愛がるように、頭を撫でてきた。
その手がやけに心地よくて、京子は目を細める。

「ふふっ。京子ちゃんったら、本当に猫みたいだね。ゴロゴロ~って言うかな?」

そう言って、京子の顎の下を指先で撫でる。
京子はくすぐったくて、首を振って顔を背けた。

「言うわけないでしょう。私は人間です。」

「そっか、残念。」

笑みを浮かべながら、彼方は手を離す。
そして、自分の瞳をじーっと見つめてきた。
甘えるような、おねだりするような、上目の瞳。

「…何ですか?」

「キス、していい?」

遠慮がちに、彼方は言う。

「そんなこと聞くなんて、貴方らしくないですね。」

「だって、今日煙草吸ったし、京子ちゃん嫌がるかなーって思って。」

「そう思うなら、ちゃと禁煙すればいいのに。」

「それがなかなかできないから困ってるの。」

「自業自得です。調子のって煙草吸い始めた彼方さんが悪い。」

「ちぇー。相変わらず京子ちゃんは厳しいなあ。」

そうして、二人で笑い合う。
他愛のないことで笑い合える、この時間が好きだった。
彼方が心底楽しそうに笑ってくれるこの時間が。
自分だけに笑みを見せてくれる、二人っきりの夜。

笑い終えて、静かに二人は見つめ合う。
そして、京子の方から彼方に口づけた。

仄かに煙草の香りがした。
本当は、煙草を吸う男が嫌いだなんて、嘘だ。
自分が幼いころから兄は煙草を吸っていたし、兄の周りの人間も同じ。
彼方にキスをされてしまうのが照れくさくて、つい、そう言ってしまっただけ。
それを気にしているなんて、彼方も案外可愛いところがあるものだ。

唇が離れると、彼方ははにかむように笑った。

「ふふっ、京子ちゃんったら、積極的。」

その笑顔がなんだか愛おしくて、心がきゅっと締め付けられた。
もう少し、素直になってみたい。
恥ずかしくたって、この人が笑ってくれるのなら、たまには素直になってもいいじゃないか。

京子は彼方を抱きしめて、小さな声で囁く。

「…今日くらいは、好きにしてもいいですよ。」

「なあに?誘ってるの?」

彼方は茶化しておかしそうに笑う。
けれど、京子はニコリともせずに、赤面した顔を彼方の胸に押し付けた。

「…悪いですか。」

「…え?」

彼方は少し意外そうな顔をして、そしてすぐに笑った。

「京子ちゃんは、意外としたがりさんなんだねえ。」

クスクスと笑いながら、彼方は京子の髪を撫でる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
黙ったまま、ただ静かに自分の髪を梳くだけ。

彼方と付き合ってからは、まだ一度も抱かれていない。
それどころか、付き合ってから彼方は、自分の体を求めることをしなくなった。
以前はみっともないくらいに他人の温もりを求めていたのに。何故。

「…しないんですか?」

「しないよ。京子ちゃんのこと、大事にしたいからね。」

「…この私が、好きにしていいって言ってるんですよ。」

「うん。だから、こうやって、ぎゅーってしてるじゃない。それで満足。」

京子は少し不満に思いながらも、彼方にされるがまま、抱きしめられ、頭を撫でられた。
結局、この日は、いや、この日も、彼方が自分を抱くことはなかった。

ただ、ありふれた日常だった。いつも通りの、他愛のない日常だった。
外が暗くなるまでベッドで微睡んで、いい時間になれば京子は夕食を作ろうとキッチンへ入る。
彼方は相変わらず眠そうな顔をして、顔を洗おうと洗面所へと向かって行った。

やがて、洗面所から驚いたような彼方の声が聞こえたが、京子は聞こえないふりをした。


麻丸。
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