「平穏を脅かす影」

 「平穏を脅かす影」



「なんかさー…、幸せすぎて、怖い。」

百合を抱きしめたまま、日向はポツリと呟いた。

今日は人生で一番最高な誕生日だった。
何度も百合におめでとうと言ってもらえて、ケーキも焼いてくれて、プレゼントまで貰ってしまった。
これを幸せと言わずになんと言おうか。いや、幸せだなんて、一言で片づけられない。
こんな日がくるなんて、想像もしてなかった。
満たされすぎて、怖いくらいだ。

「もー、ひーくんったら。何言ってるんですか。」

百合は、クスクスと可笑しそうに笑う。

「だってさー、これだけ幸せだと、後でなんかツケが回ってきそうって言うか…。
 こんないいことばっかり続いてもいいのかなーって思うじゃん。」

「いいんですよ。ひーくんは今までいっぱい辛い目に遭ってきたから、私が甘やかしてあげます。」

そう言って、百合は日向の頭を撫でる。

「私といれば、ずっと幸せですよ。」

自分が好きな、柔らかく微笑む百合の笑顔。
小さな唇が弧を描く。その唇に、日向はキスをした。
百合とキスをするのも、久しぶりな気がした。

母親が家に帰ってきて約十日。
今までのように、家に百合を呼べなくなり、会うのは学校や外だけだった。
その間、抱きしめることも、キスをすることもなかった。
手を繋ぐことくらいはできるが、それ以上のことを学校や外でする勇気は日向にはなかった。
たった十日を久しぶりと思うくらい、以前は頻繁にこうしてじゃれあっていた。

いつも百合は、キスをすると、はにかんだように笑う。
そんな照れたように恥じらう姿が好きだった。

「私たち、付き合ってもう三ヵ月ですね。」

「ああ、そっか。まだ三ヵ月なのか。」

「まだ、なんですか?もう、じゃなくて?」

「なんか…もっとずっと長い間一緒にいる気がして。」

思い返せば、百合と付き合い始めたのは、夏休み前だった。
夏休みもほぼ毎日一緒に過ごして、新学期が始まっても毎日学校で顔を合わせる。
百合と過ごす毎日が当たり前になっていて、ずっと前から一緒にいるような錯覚をしていた。
この三ヵ月間、自分はずっと百合に依存していたのだ。

「そういえば、百合の誕生日聞いてなかったな。いつ?」

「七月です。もう終わっちゃいましたけど。」

「あ…俺何もお祝いしてないや。今度何か用意するよ。」

「いいですよ。プレゼントはもう貰っちゃったし。」

そう言って、百合はにっこりと笑った。

「え?俺何かあげたっけ?」

「ええ、最高のプレゼントを。」

日向は首を傾げる。
思い返してみても、百合に何かをプレゼントした記憶がない。
先月指輪を贈ったが、あれは初めてのバイトの給料が出た記念だった。

「えーっと…なんだっけ。」

「覚えてませんか?私の誕生日は、ひーくんが付き合おうって言ってくれた日のちょっと前なんですよ。」

「あ…じゃあ、百合の誕生日って…。」

「七月二十一日です。ね?最高のプレゼントだったんですよ。」

嬉しそうに百合は微笑む。
そんな些細なことで喜ぶ百合が、健気で愛おしく思えた。

「そんなのプレゼントにならないだろ。またバイトの給料入ったし、今度何かプレゼントするよ。」

「いらないですよ。そんな余裕があるなら、ちゃんと貯金してください。」

「でも…俺だって、百合にプレゼントあげたい。」

「だーめです。そんな貢いでばっかじゃ、すぐ破産しちゃいますよ。」

百合は、胸の前で両手を交差させて、大きなバツを作る。

「あ、この前みたいに、こっそり買いに行くのもナシですからね?」

さすが、百合だ。抜け目がない。
自分が考えていることが、完全に見透かされている。
そして、今までの付き合いで、百合は意外としっかりしているというか、金の管理には厳しいことを知っていた。
一緒にスーパーに行っても半額出そうとするし、断っても、無理矢理に金を握らせて来る。
それはもちろん有難いことなのだが、彼氏としては、なんだか恰好がつかない。
だから、ここ最近は、一緒にスーパーにはいかず、先に一人で買い物を済ませるようにしていた。

「じゃあ、俺に何かしてほしいこと、ある?」

「何言ってるんですか。今日は、ひーくんの誕生日なのに。」

珍しく引き下がらない日向に、百合は不思議そうに首を傾げる。

「だって…いつも百合にしてもらってばかりだし、俺も百合に何かしてあげたい。」

唇を尖らせながら、日向は言う。

自分だって、もっと百合を喜ばせたい。
自分といて、幸せだと思ってほしい。

温もり、居場所、愛情。
百合から貰ったものが大きすぎて、とても返しきれないだろう。
けれど、一生かけても、百合に恩を返したい。
いや、一生百合の傍にいて、百合のために生きたいと願った。

「もー、ひーくんったら。私の方がしてもらってばかりですよ。」

百合は少し困ったような顔をして、

「えーっと…じゃあ…。」

そこまで言うと、恥じらうように目を逸らす。

「この前のキス、してください。」

その頬は、わずかに赤らんでいた。

「…いいの?」

百合は無言で頷く。
何度も繰り返した、触れるだけのキスとは違い、最近覚えたばかりの大人のキス。
まだ片手で数えるほどしかしていない不慣れなキス。
少し気恥ずかしいのは、日向も同じだった。

日向は百合の頬を両手で包み、触れるだけのキスをする。
三度唇を触れ合わせて、舌を百合の口内に侵入させた。
生暖かい舌を絡めると、百合もそれに応えてくれた。
なんだか甘い味がする。さっきのケーキのせいだろうか。
触れ合うたび、もっと深く触れ合うたびに、百合への愛しさが溢れる。

「えへへ。このキス好き。でも、まだ恥ずかしいな。」

唇が離れて見つめ合うと、百合ははにかんで笑う。

「…俺も。」

恥ずかしくて、百合を見つめていられなくて、日向は俯く。
ああ、でも、やっぱり、百合といると幸せを感じる。
百合と触れ合っている時間が、何よりも幸福に浸れる時間だった。

「あれ?ひーくん、それ…。」

百合は、何かに気付いたように声を上げる。
驚いたように目を見開き、口を真一文字に結んでいた。
その視線の先にあったのは、さっき椿から貰った避妊具だった。
隠していたズボンのポケットから、落ちてしまったのだろう。

日向は、反射的にその避妊具を掴んで、背中に隠す。

「…あ!違うからっ!」

これじゃあ、まるで、下心を持って百合の家に来たみたいじゃないか。
日向は、焦って必死に弁明の言葉を考える。

「本当に違うから!そんなんじゃないから!さっき…椿さんがこれ渡してきて…それで…。」

「え?お姉ちゃんが?」

「うん…。いらないって言ったんだけど、無理矢理…。べ、別に、変なこと考えてないから!」

「そうですか…。」

そう言って、百合は目を伏せる。
納得してくれただろうか。変な勘違いをしていないだろうか。
百合は俯いて、黙ったまま何かを考えているようだった。

「百合…?」

機嫌を損ねてしまっただろうか。
不安になって、日向は百合に呼びかける。
けれど、百合は返事をする代わりに、日向の胸に正面から飛び込んできた。

「ねえ、ひーくん。…本当は、私だって…ひーくんとえっちなことしたいんですよ。」

日向の背中に手を回しながら、百合は囁く。

「…え?」

「もう一回、してみましょうよ。」

顔を上げた百合は、縋るような瞳をしていた。
けれど、その瞳には不安の色も滲んでいる。
日向は百合の背中を頭に手を回し、抱きしめて百合の頭を撫でた。

「もういいよ、その話は。」

日向は百合を腕に閉じ込めたまま、ハッキリとした口調で言った。

「え…?でも…。」

「いいって。…怖いんだろ?」

百合はわずかに顔を上げ、窺うような視線を向ける。

「ひーくんは…したくないんですか?」

「したいよ。でも、別に今じゃなくてもいいだろ。まだ早いよ、俺たちには。そういうのは、ずっと先だっていい。」

もちろん、自分にだって欲求はある。
けれど、自分が百合に手を出せばどうなるかなんて、痛いくらいに思い知っている。
安易に手を出して、百合を失うようなことをしたくない。
例え体を重ねられなくても、百合と共にいることを選びたかった。

「…私、駄目な彼女ですね。」

自分の胸に顔を埋めて、百合はポツリと呟く。

「そんなことないだろ。百合はいい彼女だよ。少なくとも、俺にとっては大切な彼女だ。」

慰めるように、優しく百合を包み込む。
自分のために、百合が心を痛める必要はない。
百合は何も悪くない。

「ねえ、ひーくん。」

百合は、顔を上げて自分を見つめる。
瞳には、涙か溜まっていた。

「本当は、私だってひーくんとえっちなことしたい。ひーくんに全部あげたい。あげたいのに…。ひーくんなら大丈夫って思ってるのに…。」

ポロポロと、百合の瞳から涙が零れ落ちる。

「でも…ダメなの…。ダメなの…。」

そんな百合の姿を見て、日向は胸が締め付けられた。

「百合…。」

百合を抱きしめる腕に、力が籠る。

「ちゃんと俺が守るから。百合のこと、ちゃんと大切にするから。」

幾度も誓った言葉。百合をこの手で必ず守る。
百合を傷付ける者は、誰だって許さない。例え、それが彼方であっても。
二人でいれば幸せだった。何もかもが上手くいっていた。
この平穏が、一生続けばいいと思っていた。






家に帰ると、リビングに母親の姿はなかった。
部屋にいるのだろうか。それとも、どこかへ出掛けているのか。
机の上には黒い紙袋が一つ。買い物でもしてきたのか。
そんなことを考えていると、とん、とん、と、ぎこちない物音がキッチンから聞こえてきた。

「ただいま。何やってるの?」

キッチンを覗くと、母親が包丁を握って何かを切っているところだった。
あれだけ危ないから料理は自分がすると言ったのに。
ギプスを嵌めた不自由そうな手で、母親は料理をしようとしていたらしい。

「あら、おかえり、日向。今日は御馳走作ろうと思って。」

母親は振り返って微笑みを作る。
調理台の上には、たくさんの肉や野菜が並べられていた。

「そんなことしなくていいよ。まだ腕治ってないんだし。俺が作るから母さんは座ってて。」

「少しは母親らしいことしたいじゃない。それに、今日は日向の誕生日なんでしょ?」

「そうだけど…。そんな手で料理して悪化したらどうするんだよ。とにかく、料理なんていいから。」

そう言って、日向は半ば無理矢理に、母親の背中を押してリビングへと追いやった。

「もー。心配いらないのに。日向ったら、過保護すぎよ。」

母親は、少し不満そうに包丁を置いてキッチンを出る。

最近は、いつもこんな感じだ。
料理や洗濯などの家事は自分がやると言っているのに、母親は無理して家事をこなそうとする。
少しでも母親らしいところを見せたい、と本人は言う。
それはそれで有難いことなのだが、やっぱり少し心配だった。

相変わらず、母親の記憶は戻っていない。
けれど、だからこそ、良好な親子関係で平和な日常が続いていた。

リビングの窓からベランダを見れば、洗濯物が揺れていた。
ああ、洗濯もしてくれたのか。あの不自由な手で、よくやるものだ。
学校から帰ってから自分がしようと思っていたのに。
明日からは、朝の内に済ませてしまった方がいいかもしれない。

「あ、そういえば…。今日ね、玄関のドアノブにこれが掛かってたの。」

母親は、机の上に置いてあった黒い紙袋を日向に差し出す。
よく見れば、有名なアパレルショップのブランド名が印刷されている紙袋だった。
日向はそれを受け取り、中身を覗いた。

「『日向へ』ってメモが入ってたから。お友達からの誕生日プレゼントかしら。」

そのメモを見た時、息が止まった。
『日向へ』ただそれだけ書かれたメモ。
見覚えのある下手くそな文字。
間違いない。この雑な文字は、彼方のものだった。
日向は、袋の中身を取り出した。

入っていたのは、真っ赤なマフラーだった。

麻丸。
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麻丸。

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