「手放した過去と手放せない今」
「手放した過去と手放せない今」
京子はパニックになっていた。
目の前で、彼方が過呼吸を起こして苦しんでいる。
どうしよう。どうすればいいんだっけ。
あの時は、どうやって彼方を落ち着けたんだっけ。
ぐるぐると思考を巡らせ、ほとんど反射的に京子は彼方を抱きしめた。
そのまま背中に手を回し、そっと、慰めるように震える背中を撫でた。
そうだ、思い出した。あの時は、何度も何度も、優しく背中を撫でたんだっけ。
級に抱きしめられ、彼方は驚いたように目を見開いたが、言葉は出ないようだ。
ただ困惑した顔で、はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返している。
「大丈夫。私がいるから、大丈夫ですよ。」
彼方を安心させようと、京子は優しい言葉をかけながら、彼方の背を撫でる。
過度な呼吸に、息を吐くたび、彼方の肩は激しく上下していた。
「大丈夫だから。ゆっくり息を吐いて。…そう、上手。」
彼方は、力ない手で自分を抱きしめる。
その手は、縋りつくように震えていた。
苦しさからか、他の何かからか、彼方の瞳から涙が溢れた。
京子はそんな不安定な彼方の体を、しっかりと抱きしめていた。
どれくらいそうしていただろう。
十分かもしれないし、一時間かもしれない。
いや、もっと長い間だったかもしれない。
ゆっくりと、彼方の呼吸は落ち着いてきた。
体に力が入らないのか、完全に彼方は京子に体を預けていた。
「…落ち着きましたか?」
その体を抱きしめたまま、京子は囁く。
彼方は京子の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「これは…罰なんだ。」
消え入りそうなほどの小さな声で、独り言のように、そう彼方は呟く。
「罰?」
「いろんな人を、傷付けた罰。日向も…京子ちゃんも。」
顔を上げた彼方は虚ろな目で、彼方は力ない笑みを作る。
「ごめんね。迷惑かけたね。すぐ出ていくから…。」
そう言って立ち上がろうとしたが、彼方はふらついて再び床に膝をつく。
発作が治まったとはいえ、そんなにすぐには動けないだろう。
その証拠に、顔色はまだ青白いままだった。疲弊も浮かんでいる。
「そんな体で、どこ行こうって言うんですか。」
「でも…。」
「まだ、話は終わっていないでしょう?」
なんとしてでも、彼方をこの場に引き止めておきたかった京子は、少しキツい口調で言った。
そのせいか、それとも体が自由に動かないからか、彼方は京子を窺うようにじっと見つめた後、諦めたように、その場に座り込んだ。
「その前にさ、お水…貰えないかな?薬飲みたいんだ。」
そう言われ、京子は一度キッチンへ出て、水をコップに注いだ。
キッチンの窓を見ると、ほんのり外が明るくなってきていた。
部屋に戻ると、彼方は膝を抱えて、俯いていた。
「彼方さん、お水。」
「ありがとう。」
水を受け取る時の彼方は、なんだかぎこちない微笑みだった。
水の入ったコップを右手で持って、左手で上着のポケットを弄る。
手を滑らせたのか、数枚の薬のシートが散らばった。
「まだ本調子じゃないんでしょう?」
そう言って、京子は散らばったシートを集めて彼方に渡す。
「あ…ありがとう。」
薬を受け取る時の彼方の手は、小刻みに震えていた。
覚束ない手付きで、彼方はシートから薬を取り出していく。一つ、二つ、三つと、ゆっくりと。
彼方の手の平の上には、山盛りになるほどの薬が乗せられていた。
「あんまり見ないでほしいんだけど…。」
バツの悪そうな顔で、彼方は遠慮がちに言った。
そういえば、病気や薬の話をするのは嫌がっていたな。
「じゃあ、むこう向いてますから、さっさと飲んでください。」
そう言って、京子はそっぽを向く。
しかし、横目では彼方をじっと見つめていた。
そんなことを知ってか知らずか、彼方は一気に錠剤を口に入れ、水で流し込む。
そして、ゆっくりと嚥下をして、大きな溜息を吐いた。
床には、空になった薬のシートが数枚散らばっていた。
京子はそのシートを拾い上げ、部屋の中にあるゴミ箱に投げ入れた。
静かな部屋では、その些細な音がやけに大きく聞こえた。
そのまま京子は乱暴にドスンとソファーに座り、足を組む。
「なんで、貴方は…馬鹿なことばっかりするんですか。」
「ごめんなさい…。」
彼方は叱られた子供のように、その場で床に正座をして背中を丸めた。
「私、怒ってるんですよ。」
「うん…ごめんなさい…。」
弁解の言葉が出ないのか、それともそのつもりすらないのか、彼方は何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。
いつもは自分よりもずいぶん大きく見えるその体が、今はなんだかやけに小さく見えた。
「出て行って、そのままもう二度と顔見せないつもりだったんでしょう?」
彼方は俯いたまま、何も言わない。
それは、肯定の意味だろうか。
「別れるつもりですか。」
また、彼方は何も言わない。
無言を貫くその姿勢が、余計に京子を苛立たせた。
「貴方にとって私も、しょせんその程度の女だったんですね。」
そう京子は吐き捨てた。
「違…っ!…それは違うよ…。」
彼方は顔を上げ、声を張り上げる。
しかし反射的だったのか、すぐにはっとした表情を浮かべ、気まずそうに目を伏せた。
そして、一度唇をキュッと結んで押し黙った後、自信無さげな声で小さく呟く。
「京子ちゃんのことは好き。…本当だよ。」
膝の上で握った拳が震えていた。
「バレなきゃ、何してもいいと思ってるんですか。」
「それは…。」
「そういえば、初めて一緒にお酒を飲んだ時も、そんなこと言ってましたね。」
―こういうのは、バレなきゃいーの。みんなやってるでしょ?
そう彼方が、悪びれる様子もなく言っていたことを思い出した。
「あのさ…。」
俯いたまま、彼方は自分を窺うように控えめに声を出す。
「こんなことを言うのは、すごいワガママで、自分勝手で、ひどいことだってわかってる。
わかってるんだけど…。」
躊躇うように、彼方は声と長い睫毛を揺らした。
「京子ちゃんが好き。嫌いにならないで。…捨てないで。…お願いします。」
そう言って、彼方は地面に手を付いて、深く頭を下げた。
精一杯、誠心誠意の気持ちを表しているのだろう。
「そうやって謝るくらいなら、最初からしなければよかったでしょう。」
「ごめんなさい。どうしても、そうするしかないと思ったんだ。
あんなことでもしないと、学費なんて稼げなかった。
僕にできることなんて、あんなことくらいしかなかったんだ…。
京子ちゃんには、本当にひどいことをしたと思ってる。
でも京子ちゃんのことは本当に好き。それは嘘じゃない。
今の僕には、京子ちゃんだけなんだよ…。」
頭を下げて蹲ったまま、彼方は言う。
鼻を啜る音が聞こえる。泣いているのか。
彼方はまるで叱られた子供のように背中を丸め、小さく小さくなっていた。
出会った時から、彼方は何一つ変わっていない。
馬鹿な人。可哀想な人。不器用で愚かで、けれど純粋なままの、大人になりきれない子供。
大切な者の前では、常に一途であろうとする姿勢。
何も変わっていない。純粋すぎる大馬鹿野郎だ。
京子は大きな溜息を吐き、ソファーから降りて、彼方の前に立った。
「…約束してください。もう他の女の人とは寝ない。手を繋ぐのも、キスをするのもダメ。
私が不誠実だと思うことは、今後一切、誰が相手でも、何があっても、絶対にしないこと。
これが守れるなら、今回のことは水に流します。」
恐る恐る、彼方は顔を上げる。
その瞳には、涙が滲んでいた。
「…許してくれるの?」
「許しませんよ。でも、目を瞑ってあげるって言ってるんです。」
そう言って、京子は彼方の前で膝をついた。
そして、その細い体を抱きしめた。
「きっと、私は、あなたを一人になんかしません。
だから、日向さんのためじゃなくて、私のために生きて。」
彼方の瞳から、涙が一粒零れ落ちた。
「約束する…。約束するよ…。ごめんなさい。本当にごめんなさい…。」
そう言いながら、彼方は自分を抱きしめて泣いた。
その腕は力強くて、京子はもう逃げられないと思った。
どんなに悲しい想いをしても、どんなに裏切られても、孤独に怯えるこの人を、独りにはできない。
人は、急には変われない。
きっと彼方は、これからも馬鹿なことを繰り返すだろう。
その度に、自分はまた悲しい想いをして、怒って、それでも結局許してしまう。
ああ、自分は本当にダメな男を愛してしまった。
でも、この人が好き。愛してる。愛しているんだ。
「ちょっと顔上げてください。」
彼方が泣き止んだころ、京子は彼方の耳元で囁いた。
「一発くらい、ビンタしてもいいですよね?」
ニッコリと、京子は微笑む。
彼方は、一瞬何を言われたのかわからない様子で、目をパチパチと瞬かせた。
けれど、すぐにその意味を理解し、困惑した表情を浮かべた。
「えっ…いや…。ううん、それで気が済むのなら…。」
覚悟を決めるように、彼方はギュッと目を瞑り、身を固くする。
そのビクビクしている様子が可笑しくて、けれどなんだか可愛らしくも思えて、ああ、自分は本当に彼方に毒されているな、と京子は思った。
京子は、その彼方の引き結んだ唇に、キスをした。
「へ…?」
目を開いた彼方は、驚いたように口をポカンを開けて、マヌケな顔になった。
すかさず京子は、緩んだ頬に一発ビンタをお見舞いした。
「痛っ…!何するの、もう…。」
痛みを堪えるように、彼方は頬を抑える。
「ビンタするって、ちゃんと宣言したじゃないですか。」
「もー…。その上げて落とす感じ、ホントずるい…。」
「それで許してあげるんだから、安いものでしょ。」
「まあ、そうなんだけどさ…。でも、ちょっと酷いよー…。一応、顔も商売道具なんだけど。」
頬をさすりながら、彼方は不満そうな顔をした。
そんなに痛いわけがない。充分に手加減したのに。
「ねえ、京子ちゃん。もう一回してよ。」
「ビンタを?」
「んなわけないでしょ、なんでそうなるの…。違うよ、キスだよ。」
そう言って、彼方はじっと京子の目を見つめる。
そんなに見つめられると、なんだか照れくさい。
酔いなんて、とっくに醒めているんだ。
「ね、お願い。僕のこと嫌いじゃないなら、キスしてよ。」
自分を窺うように首を傾げ、彼方は縋るような瞳を向けてくる。
本当に許されたのか、嫌われていないのか、まだ不安なのだろう。
ああ、もう、自分はシラフなのに。
そんな恥ずかしいこと、自分からなんて出来ない。
けれど、彼方の不安そうな顔を見たら、そんな意地なんて張っていられなくなった。
「目、瞑ってくださいよ。」
照れ隠しで、いつものように素っ気なく京子は言う。
「…またビンタとかしない?」
喜ぶかと思ったが、彼方は訝しげな視線を向ける。
「しませんよ。」
「さっきの、ちょっとトラウマになってるんだからね。まだヒリヒリするしさ。」
少し赤くなった頬を擦って、彼方は唇を尖らせる。
「あれは貴方が悪いでしょう。」
「それは…返す言葉もゴザイマセン。」
バツが悪そうにそう言って、彼方は目を閉じた。
先程のようにビクビクした様子はなく、純粋に京子のキスを待ちわびている。
京子はその唇に、そっと触れるだけの短いキスをした。
唇が離れると、彼方は惜しむように自分を抱き寄せた。
そして、彼方からキスをしてきた。
何度も何度も、短いキスを繰り返す。
どれくらいそうしていたのかは、わからない。
唇が離れたかと思うと、彼方は自分の肩口に顔を埋めて痛いくらいに自分を抱きしめた。
「…ねえ、絶対に一人にしないでね。」
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。