「些細なアクション」
「些細なアクション」
すっかり初夏の暑さが身に染みる7月。
日向と彼方が学校に来なくなってから1週間も経っていた。
百合もあれから図書室に現れない。
「今日もアイツらこねーのな。」
代わり映えのない日常。
将悟はいつものように片耳にイヤホンを挿し、雑誌を読みながら亮太に話しかける。
「おー…。」
亮太は力なく答える。
そんな亮太に、一人の女子生徒が気づいて話しかける。
「元気ないね。どうしたの?」
明るい向日葵のような微笑み。
「矢野ちゃん…。」
彼女は矢野千秋。
同じクラスの女子生徒だ。
人当たりが良く、誰に対しても友好的に話しかける人物だ。
「こいつ、あの双子にあえねーからへこんでんの。」
「おい、しょーごっ!」
将悟が茶化すように言う。
千秋が二人の前に立ち、首をかしげる。
束ねられた黒髪が揺れる。
「高橋君?…ならたまに会うよ?」
その言葉に将悟が顔を上げる。
亮太も意外そうな顔をして、目を見開く。
「え?アイツら学校こねーじゃん。」
頬に手を添えて考えるようなしぐさをする。
これは千秋の癖のようなものだ。
「うちの近所のスーパーで二人で買い物してるのよく見るの。
あーでも…。最近日向君一人で来ることが多いかなあ。
話しかけても急いでるからって言われてすぐ行っちゃうんだあ。」
「スーパー…。」
二人の家と千秋の家は近い。スーパーで会うのも納得だ。
もしかしたらそのスーパーで、二人に会えるかもしれない。
そう亮太が考えていると、廊下から千秋を呼ぶ友人の声が聞こえる。
そのまま千秋は二人に軽く手を振り、廊下の方へ行ってしまった。
「…将悟、今日一緒にそのスーパーいかね?」
千秋の背中を見送り、亮太は将悟に向き直る。
将悟は少し面倒な様子で雑誌を捲る。
「会ってどうするんだよ。」
会ったところでどうこうなるわけでもない。
「どうするって…考えてないけど、俺は日向と仲直りしたい。」
そうだ。亮太は考えなしに、本能のままに行動する。
いつも将悟はそれに振り回されてきた。
「弟の方は?」
「ちゃんと、話をしたい。」
いつものように亮太の纏まりのない行動に呆れる将悟。
ため息を吐きつつ、亮太の方に体を向ける。
「話を聞くような奴じゃないと思うけどな。」
「それでも…俺はこのまんまじゃ嫌だ。」
「ったく、ちゃんと考えてから行動しろよ…。」
会っても、話しても、どうにもならないのに、
真っ直ぐな亮太の瞳は、何故か力強く見えた。
将悟は再度小さなため息を吐き、そんな亮太に付き合うことを決めた。
無関係だとはさすがに言えない。
たまたまだとはいえ、充分巻き込まれている。
二人は放課後に千秋の言うスーパーに向かうことにした。
汗ばむほどの陽気。
夕方といえど、眩しいばかりの太陽が照り付けていた。
日向は体中に残る痣を隠すために、袖の長いパーカーを羽織り、
玄関へ向かおうとする。
「…どこいくの?」
日向に気付いた彼方は、リビングから身を乗り出して日向を呼び止める。
一瞬日向はビクッとして、彼方の方へ振り向く。
「…スーパーだよ。もう冷蔵庫に何もないし。」
「僕も行く。」
あの日以来、彼方はどこへでもついてこようとする。
キッチンはもちろんトイレや風呂場でさえ、
見捨てられた子供のように、不安そうな瞳で日向を追いかけようとする。
「まだ頬腫れてるだろ。すぐ帰ってくるから。」
亮太に殴られたという頬が、まだ赤く腫れていた。
何故殴られたのか、何があったのかは未だに話そうとしない。
不安そうな瞳で、彼方は日向の袖口を掴む。
「…本当に?本当にすぐ帰る?僕から逃げない?どこにも行かない?」
畳みかけるように、しつこいように日向に問いかける。
日に日に彼方の依存や束縛がひどくなっていた。
―奪われるのが怖い。
そう言って学校にさえ行かせてはくれなかった。
四六時中彼方と一緒に過ごす。
それが当たり前だったのに、この現状はあまりにも異常だ。
「スーパー行くだけだから。すぐ帰る。」
「本当にスーパーだけだよね?逃げないよね?」
掴まれた袖に力が籠る。
この近すぎる距離感に、少し戸惑う。
「…ああ。」
「絶対、すぐ帰ってきてよね。」
そう言って、彼方は指で日向の首の傷を愛おしそうになぞる。
彼方に噛み付かれた傷跡。
カサブタになっても色濃く残る。
それはまるで、自分が彼方の所有物であるかのような錯覚をさせる。
首輪のような、呪いのようなものだった。
「…逃げないでね。」
そう呟く彼方の瞳は、暗く自分以外を映していないようだった。
うだるような暑さに顔をしかめる。
パーカーを脱いでしまいたい衝動に駆られるが、
とても人に見られてもいいような体ではない。
日向は額から流れる汗を袖口で拭い、近所のスーパーへと向かう。
唯一買い出しに行くこの時間が、一人になれる時間だった。
彼方の自分に向けられる歪み切った愛情や依存や執着。
それが異常なことくらいわかっている。
このままでいいわけがないことも、わかっている。
それでも、日向はその手を振り払えないでいた。
少し伸びた髪で隠れる首筋の傷跡が、それを許してはくれない。
彼方の世界には、日向しか存在していなかった。
日向もまた、彼方しかいない世界を生きていた。
少しゆっくりと買い物をする。
このままどうなってしまうのだろう。
学校や亮太のこと、進路のこと、そして彼方のこと。
グルグルと出口のない思考が駆け巡る。
答えが出ないことがわかっていても、考えずにはいられなかった。
「…日向!」
買い物を済ませ、スーパーの自動ドアをくぐると、
聞きなれた声に呼び止められる。
亮太と…同じクラスの中村将悟。
「亮太…?」
学校帰りだろうか、二人は制服のまま立っていた。
結局あの後から一言も話していない日向は、
少し気まずいような気持ちになる。
「ちょっと…話があるんだけど…。」
遠慮がちに言う亮太。
しかし、日向は彼方のことが脳裏に浮かぶ。
―絶対、すぐ帰ってきてよね。
「すぐ帰らないと…いけないから。」
日向は視線を背け、二人の横をすり抜けようとする。
しかし、日向は亮太の隣の男に腕を掴まれる。
「いいからちょっとツラ貸せよ。」
「え…。」
金髪で耳に無数のピアスが揺れる男。
同じクラスで亮太の友人の中村将悟。
日向は将悟とはあまり話をしたことがなかった。
自分からはまず話しかけることもないし、
将悟の方からも話しかけてくることもなかったからだ。
見た目のせいか、なんとなく怖い男というイメージがある。
「ちょっ!将悟!喧嘩しに来たわけじゃねーんだから!」
慌てて亮太が止めに入る。
少し不満そうに、見た目の割に細い将悟の腕が離れる。
「ここじゃアレだから。…そこの喫茶店入ろうぜ。」
将悟は顎で隣の喫茶店を指す。
「ちょっと、話がしたいだけだから。」
「でも…。」
とても逃げられる雰囲気ではない。
日向は家で帰りを待つ彼方のことを思いながら、
諦めて二人についていくことにした。