「思考の迷宮」

 「思考の迷宮」



十一月最終週の金曜日。
この日も、いつも通りの一日だった。
朝は駅まで百合を迎えに行って、昨日早退した理由を、母親が言うままに話した。
自分の曖昧な憶測なんて、言う必要はないと思った。

百合は心配するそぶりを見せたが、最後には「ひーくんに何もなくてよかった」と笑顔を見せた。
色々あって連絡を忘れていたことに対しては、拗ねたような口ぶりで頬を膨らませていたが、「私、ずっと待ってたんですからね。次からは連絡くらいくださいよ。」と言って許してくれた。
心配をかけたことに対しては申し訳ないと思いつつも、自分を気にかけてくれている百合の優しさに安堵した。

退屈な授業も、いつも通り。
受験を控えた生徒たちからはピリピリとした緊張感が伝わってくるが、自分のように既に推薦で合格を決めてしまった者たちにとっては、何の意味もない授業だった。
昼休みになれば、屋上に上り、亮太や将悟、そして百合と昼食を取るのも、いつも通り。
いつもと少し違うのは、久しぶりに午後の授業をサボったということ。

進学が決まってからは、サボらず真面目に授業を受けていたのだが、今日はそんな気にはなれなかった。
冷たい風が吹き荒れる屋上で、日向は濁った曇り空を見つめていた。
とっくに予鈴は鳴って、三人は教室に戻ってしまった。
屋上に残っているのは、自分一人だけだ。

一人になると、いろいろ考えてしまう。
頭を空っぽにしたいのなら、こうしてサボらなければいいのだけれど、今は授業を受ける気にもならない。
どうせ退屈な授業だ。頭を空っぽになんてできるわけない。嫌でも彼方のことを考えてしまうだろう。

パニック障害、うつ病。
彼方がそんなよくわからない病気になっているだなんて、全然知らなかった。
過呼吸だって、とっくに治ったものだと思っていた。
どうして彼方は、病気のことを自分に黙っていたのだろう。
心配を掛けたくなかったから?それとも、もう二度と自分と会わないと決めていたから?

彼方は、今、どこで、何をしているのだろう。
将悟は、誠が何かを知っていると言った。
自分は、彼方と京子と仲良さそうに歩いているところを見た。
とりあえず、誠に会えば何かわかるだろうか。

京子の方は、…あまり期待しない方がよさそうだ。
きっとあの様子だと、京子は彼方を庇って、何も言おうとはしないだろう。
二人の関係は、友人か、それとも、やっぱり恋人なのか。
でも、本当か嘘かはわからないが、京子は一緒には暮らしていないと言っていた。
それが本当なら、彼方はどこで暮らしているのだろう。
つい最近まで、この田舎の狭い世界しか知らなかったはずなのに、どこに居場所を見つけたのだろう。
そこで、幸せに笑えているのだろうか。

彼方は、自ら自分の目の前から離れていった。
だからこそ、探すことなんて、自分にはできなかった。
でも、それが本当に正しいことだったのか。
すぐに探し出して、連れ戻すべきだったんじゃないのか。
自分がそうしなかったから、彼方は母親を殺そうとするなんて恐ろしいことをしてしまったのではないか。

探し出せたとしても、今更と言われてしまうだろう。
それでも、彼方を探し出さないといけない気がした。
会って、ちゃんと話をしないと―。

しかし、彼方は自分に会ってくれるだろうか。
学園祭の時に見たお面の男は、自分に声を掛けることすらなく、背を向けて行ってしまった。
あれは彼方だった。間違いない。自分が彼方を見間違えるわけがない。
けれど、あれが本当に彼方だったのなら、自分が会いたいと言ったって、無駄なのではないか。
彼方は自分にもう二度と会わないと決めたからこそ、あの場から立ち去ったのではないか。

考えても仕方のないことばかりが、頭の中を占領していく。まるで迷宮にでも迷い込んだ気分だ。
それを嘲笑うかのように、午後の授業の始まりを告げる本鈴が、屋上まで鳴り響いた。
グラウンドを見下ろせば、ジャージ姿の男子生徒が準備運動を始めていた。
今頃、亮太や将悟は退屈な授業を受けているのだろう。
また百合に「サボり魔は駄目ですよ」と怒られてしまうな。

ふいに、屋上の扉が開く音がした。
誰だろう。教師になんて見つかったら面倒だ。
恐る恐る振り返ると、そこには授業に戻ったはずの将悟が立っていた。

「将悟。」

「おう。」

将悟は片手を上げて近付いてくる。

「珍しい。将悟もサボり?」

「まあな。たまにはお前に付き合ってやろうかと思って。」

そう言って、将悟は日向の隣に腰掛けた。
そういえば、将悟も自分と同じように推薦でもう合格が決まっていたはずだ。
確か、名古屋にある音楽関係の専門学校だったか。

「お前、さっき俺のことチラチラチラチラ見てただろ。なんか用でもあるのかと思って。」

昼食の時のことを言っているのだろう。
皆がいる手前、将悟に言い出すタイミングが見つからず、いつ言い出そうか悩んでいたところだった。
亮太は彼方がいなくなったことを知らないし、百合の前で彼方の話はご法度。
将悟が察してくれたのなら、丁度いい。

「うん、まあ…。今日、百合送った後に、家寄っていいか?ちょっと誠さんに会いたくて…。」

「誠さんに?…ああ、彼方のことか?」

「ああ…。やっぱり、彼方とちゃんと話をしないといけないと思ってさ。」

「そっか。あーでも…」

将悟は、困ったように薄い眉毛を下げる。

「誠さん、もうウチにいないんだよ。ちょうど、昨日帰ったんだ。」

「え、昨日?」

「そう、昨日。急に帰るって言い出してさ。」

弱ったな、と将悟は頭を掻いた。

「ちなみに、どんなこと聞きたかったわけ?」

「彼方が、どこで、何してるかとか。できれば、彼方に会わせてほしかったんだけど…。」

将悟は学ランのポケットから携帯電話を取り出した。

「うーん…。誠さんの連絡先教えてもいいんだけど…。この時間はまだ寝てるかもしれねえなあ。
 それに、あの人、どこまで本当のこと話すか怪しいぜ。俺が聞いても、結構適当に誤魔化されてきたし。」

「将悟はどんな話聞いたんだ?彼方のこと、なんて言ってた?」

「あー…なんつうーか、どう説明すればいいかよくわからないんだけどさ、」

それから将悟は、言い辛そうに言葉を濁しながらも、誠から聞いた話を語ってくれた。

将悟の話を整理すると、誠と彼方は同じ職場に勤めている。街でボーイズバーをしているらしい。
そして、誠は彼方のことを快くは思っていない。彼方せいで誠は仕事を休み、しばらく将悟の家に泊まっていたのだという。
しかし、昨日誠が帰ると言い出した時、彼方は職場からいなくなったと言ったらしい。
彼方の行先は、誠も知らないという。

「…と、まあ、こんな感じなんだけど…。すまん、知ってて黙ってて。」

全てを話し終えた将悟は、少し気まずそうな表情を作る。
ずっと黙っていたことを、気に病んでいるのだろう。

「いなくなったって…彼方はどこに…。」

「お前の家にも帰ってないのか?」

「ああ。帰った痕跡もなかったし、それに、彼方は合鍵置いて出て行ったから…。」

「…そうか。」

将悟は胡坐を組んだ膝の上で頬杖をつき、何かを考えるような仕草をした。

「お前のバイト先にさ、髪の短い女の子いたよな?」

「…竹内さんのこと?」

「多分、その子。彼方が働いてた店の店長の妹らしいんだよ。
 誠さんの口ぶりじゃ、その子が何か知ってるみたいなこと言ってたぞ。」

日向は、今までの京子とのやりとりを思い返した。
京子は、彼方のことなど知らないと言い張った。
けれど、それは嘘だ。きっと、彼方を守るための嘘。

街で二人を見かけた時、二人はとても親しそうだった。
肉じゃがを渡した時も、次はタケノコの煮物がいいとリクエストしてきた。二つとも、彼方の好物だったものだ。
お揃いのアクセサリーと、ペンギンストラップ。
間違いなく、京子は彼方と繋がっている。
しかし、自分に彼方の居場所を教えてくれるなんて、到底思えない。

結局、将悟に誠の電話番号を教えてもらって、この話は終わりになった。
次の授業から教室に戻っても、頭の中は彼方のことでいっぱいだった。
退屈な授業なんて全く耳に入らなくて、ただただ窓の外をぼーっと見て過ごした。
空は重たい鈍色で、今にも雨が降り出しそうだった。

今日は母親が退院する日。
迎えはいらないと言っていたが、一人で大丈夫だろうか。
家に帰ったら、母親はどんな顔を自分に向けるのだろう。
また、優しく笑ってくれるだろうか。
それとも、以前の冷たい暴力的な母親に戻ってしまうのか。

いや、おそらく、母親の記憶は戻っていない。
戻っていれば、病室で対面した時にすぐわかったはずだ。
しかし、記憶が戻っていないのに、過去に自分たちに虐待をしていたことを知って、母親はどう思っているのだろう。
後悔しているのか、それとも、信じられないと耳を塞ぐのか。

いずれにせよ、なんだか顔を合わせるのが躊躇われる。
自分も母親にどんな顔を向ければいいのか、わからないのだ。
上手く噛み合っていた歯車が、音を立てて崩れたようだ。

きっと、母親は彼方のことも聞いてくる。
その時、自分は何と答えたらいいのか。
騙していたことを、恨まれるだろうか。

ああ、なんだか憂鬱だ。
上手い言い訳も、完璧な嘘も思いつかない。
いつも自分はそうだ。不器用にしか誤魔化せない。
人に伝えるための綺麗な言葉なんて、持ち合わせていないのだ。

考えても、憂鬱な気分が募っていくだけだった。
やがて授業が終わり、放課後になった。
いつものように玄関ホールで待ち合わせて、百合を駅まで送る短い時間が、一時の安らぎだった。

「ひーくん、今日ちょっと元気ないでしょう?」

歩いている途中、百合が立ち止まって顔を覗きこんできた。
こういう時の百合は目聡い。自分の少しの変化も見逃さないのだ。

「え…そうかな。ちょっと寒いだけだよ。」

「ホントにそれだけですか?」

じーっと、丸い瞳が自分を見つめる。
百合の強い瞳に見つめられると、自分のこの拙い嘘がすぐに暴かれそうになる。
目を逸らしてしまいたい衝動を抑え、日向は百合の瞳を見ながら答えた。

「ホントホント。百合がくれたマフラーで首元は暖かいけど、手が冷えちゃって…。」

「ひーくんって冷え性ですよねえ。私が暖めてあげる。」

そう言って、百合は自分の冷えた手を両手で包み込んだ。
百合の温もりで指先が暖められていく。

「…暖かい。」

自分より小さな手から優しさが伝わる。
モヤモヤとした気持ちで埋め尽くされていた心が、少し軽くなった気がした。
やっぱり百合の手は魔法の手だ。自然に口元が綻んだ。

「…離したくないなあ。」

「じゃあ、今日はちょっと寄り道します?バイトお休みなんですよね?」

「んー、そうしたいんだけど…今日は帰らなきゃ。母さんのこともあるし。」

そう言うと、百合はしゅんと肩を落とした。
そんなにガッカリされると自分も心が苦しい。
自分だって、何よりも百合のことを優先してあげたい。
けれど、今日はそういうわけにはいかない。

「そうですよね。お母さんのこと、心配ですもんね。」

「ごめん…。」

「いいですよ。その代わりに、明日は一日中デートしてくださいね!」

「うん、もちろんだよ。行きたいところ考えておいて。」

それから、電車が来るまで二人でホームのベンチに座り、明日のデートの約束をした。
別れ際、名残惜しさにぎゅっと百合の手を握ってみたのだけれど、百合は「また明日、ですよ。」と困ったように笑った。
名残惜しいのは百合も同じなんだ。

百合を乗せた電車が見えなくなるまで見送って、日向は一人帰路に着いた。
家に向かう足取りは、重たいものだった。
頭の中でぐるぐると思考を巡らせても、答えは出ない。
色々考えているうちに、家に着いた。

日向は気持ちを落ち着けようと、玄関の前で深呼吸をした。
何度か繰り返してから扉を開くと、家の中は真っ暗だった。
どういうことだ。母親はまだ帰ってきていないのか。
玄関を見ても、母親の靴はなかった。

廊下も、その先も、真っ暗だ。
いつもなら「おかえり」と母親が顔を覗かせるはずなのに。
不思議に思いながらも、日向はリビングに入り灯りを点ける。

テーブルの上には、一枚の紙が置かれていた。
その紙に目を通して、日向は立ち尽くした。

自分はまた、独りになった―。

麻丸。
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麻丸。

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