「不吉な手紙」

 「不吉な手紙」



遠くで階段がきしむ音が聞こえた。
誰かが二階へと上がってきたのだろう。
錆びて古くなったアパートの外階段は、ギシギシと嫌な音を立てる。
お洒落な外観に騙されてこのアパートを借りたのだが、実際は扉の立て付けが悪かったり、壁が薄かったりと、あちらこちらが痛んでいてボロボロだ。

ほどなくして、インターホンが鳴った。

京子は腰を浮かせることもなく、ベッドに寝転がった。
どうせ、誰が来たとしても、出るわけにはいかない。
鳴り響くインターフォンの音に耳を塞ぎ、京子は隣で肩を震わせている彼方の手を握り、「大丈夫」と小声で囁いた。

ここのところ、毎日こうだ。
夕方になると、必ず誰かが京子の家に訪れるのだ。
それが誰なのかは、わからない。
自分の携帯電話は彼方が持っているし、あれ以来、電源すらつけてないのだ。
毎日自分の家に通っているのは、友人か、教師か、それとも―。

なんにせよ、インフルエンザだと嘘を吐いたのだから、ほっといてほしい。
今は、例え誰が来ても、扉を開ける気はなかった。
こんな状態の彼方を、人には見せられない。

それにしても、今日は何日だっけ。何曜日だっけ。
日付感覚もあやふやになってきた。カーテンを閉め切った部屋では、昼夜すら曖昧だ。
いつからこうしてるんだっけ。いつまでこうしているんだろう。
テレビも携帯電話もないと、世間と隔離されたみたいだ。
まるで、この部屋だけ時間が止まってしまったような、そんな不思議な感覚になる。

ピンポーン…しばらくして、もう一度、ピンポーン…。
来訪者は、二度、三度とインターフォンを鳴らす。
京子は、心の中で「しつこいな」と思った。
この来訪者は、うるさく連打するわけではないが、ゆっくりと長い時間をかけてインターフォンを鳴らす。
少なくとも五分…いや、十分くらい粘るのだ。

どうせ留守を使うのだから、早く諦めて帰ればいいのに。
執念深いと言うか、諦めが悪いと言うか…。
しつこい男は嫌われるぞ、そう言いたい気分にすらなった。

何度もインターフォンが鳴り響く。
しばらくすると、足音が遠ざかり、再び階段が軋む音がした。
やっと諦めてくれたのか。今日は一段と粘ったみたいだ。

「行ったみたいですよ。」

そう言うと、彼方は僅かに顔を上げた。
不安そうな上目遣いを自分に向け、次に、玄関がある方に視線をやった。
赤く腫れた瞼に痩けた頬。骨が浮く体は、病的なほどにやつれている。

「さ、そろそろご飯にしましょう。何なら食べられますか?」

「…いらない。」

「ダメです。少しでもいいから何か食べないと。」

京子はベッドから降りて、キッチンへ向かう。
すると、すぐに後ろから彼方が慌ててついてきた。

「うーん。ロクなものがないですね…。」

冷蔵庫の扉を開けて、京子は首を傾げる。
思えば、もう何日もスーパーに行っていない。
野菜や肉の類は、ほとんど皆無に等しかった。

残っているのは、少々の野菜と、お酒のアテと、りんごにみかん。
せっかく買った肉まんや豆腐は、とっくに賞味期限が切れている。
あんなに大量に買ったのに、本当に無駄な買い物だったな、と京子は肩を落とした。

「適当にあまり物の野菜炒めますけど、それでいいですね?」

そう振り返って聞くと、彼方は首を振った。

「…これがいい。」

彼方が手に取ったのは、りんごだった。
幸い、傷みはなく、綺麗な状態だった。

「りんご…?でも、これじゃあ…。」

ご飯にはならないでしょ、そう言おうと思ったが、止めた。
ずっと食事を取らなかった彼方が、自ら食材を選ぶこと自体が大きな進歩なのだ。

「わかりました。すぐ切りますね。」

「…ウサギがいい。」

「ウサギ?ああ…。」

彼方に言われるまま、京子はりんごをウサギの形に切った。
お皿に並べられたりんごを見て、彼方はふっと小さな笑みをこぼした。
久しぶりに見る、彼方の笑顔だった。

「日向がね、いつもこうしてくれてたんだ。」

その頬から、涙が伝った。

「変だよね。味なんて変わらないのに、手間かけちゃってさ。
 日向、僕にだけこうしてくれるの。自分のは普通に切るくせにさ。」

「それだけ、彼方さんが特別だったんじゃないですか。」

「特別…。」

そう呟いて、彼方はウサギの形のりんごを見つめた。
長い睫毛がゆらゆら揺れる。
彼方は、この林檎を見つめて何を思うのだろう。

自分のためだけに生きて、そう言ったけれど、やっぱり彼方の頭の中は、日向のことばかりだ。
それを、今更どうこう言うつもりはない。
けれど、いつだって彼方を惑わせ、悩ませるのは、日向だ。
それが、もどかしくもあり、悔しくもあった。
自分だけを選んでくれれば、惑わせることも、悩ますことも、泣かせることだってありはしないのに。

そんなことを思ったって仕方ない。
彼方にとって日向は、生まれたときからずっと一緒にいる家族なのだから。
そんな二人の間に、自分が割って入ることはできない。
そうわかっていても、京子の心の中にモヤモヤとしたものが渦巻いた。

しばらくして、彼方は涙を拭って顔を上げた。

「そういえば、京子ちゃんと初めて会ったのも、ウサギ小屋の前だったね。」

「そうでしたっけ?最初に会ったのって、西棟の廊下じゃありません?夏休み前に。」

「違うよ。去年の春。京子ちゃんが入学してすぐくらいだよ。」

「去年?」

京子は首を傾げる。
彼方と初めて会ったのは、夏休み前だ。それも今年、二年の時。
移動教室で廊下を歩いているところを待ち伏せされて、今に至る…はずだが。

「僕、二年の時も飼育委員だったもん。ちゃんと覚えてるよ。
 入学したての頃、京子ちゃんたまに遠くからウサギ見に来てたよね。」

「あ…っ。」

言われて思い出した。
確かに自分は、一年の春にウサギ小屋に行ったことがある。

「あれは…高校にもなってウサギ小屋があるなんて珍しいと思っただけで…。」

「そう?普通じゃないの?」

「全然普通じゃないです。せいぜい小学校までですよ、ああいうのは。
 っていうか、彼方さんいたんですね。気付かなかった。」

「ひどいなあ。僕はちゃんと覚えてたのに。」

そう言って、彼方は唇を尖らせる。
子供のような拗ねた仕草を見るのも、随分久しぶりだ。

「でもまあ、それはそれで、出会う前から出会ってたみたいで素敵だね。
 僕、二年の頃から、京子ちゃんのことずっと、綺麗な子だな~って思ってたんだよ。
 もしかしたら、一目惚れってやつかもね。じゃあ、これは運命だ。」

「はいはい。また適当なこと言って。」

「適当じゃないよ。ホントのことだよ。」

「…どうだか。」

どうしてこうも彼方は、恥ずかしげもなく歯の浮くようなセリフを言えるのだ。
聞いているこっちの方が恥ずかしくなる。
どうにも今日の彼方は饒舌だ。

「ねえ、京子ちゃん。」

彼方は、京子の肩に凭れかかってきた。

「好きだよ。愛してる。僕、京子ちゃんがいないと生きていけない。
 京子ちゃんに捨てられたら、自殺するしかないくらい、好きだよ。」

「何言ってるんですか…。」

「でも…でもね、…もし僕が京子ちゃんの負担になるのなら、捨てていいからね。
 京子ちゃんの悲しむ顔は、見たくないから。…僕といるの辛くなったら、言ってね。すぐ…消えるから。」

瞼を伏せたまま、彼方はポツリポツリと呟く。
散々自分を振り回しておいて、今更捨てていいだなんて。馬鹿にするにもほどがある。
京子は盛大な溜息を吐いた。

「そんなことしませんよ。何があっても見捨てないって、私言ったでしょう?少しは私のこと信用してほしいですね。」

「…わかんないよ、先のことなんて。」

彼方は瞼を開け、チラリと上目で自分を見つめてきた。

「…でも、今はそう言ってくれるだけで嬉しいや。」

そう言って、彼方は柔らかい微笑みで笑った。

「もう。そんなこと言ってないで、りんご、早く食べないと茶色くなっちゃいますよ。」

「えー。じゃあさ、あーんってしてよ。」

「嫌ですよ、恥ずかしい。」

「前はしてくれたじゃない。あーんしてくれないと食べられない~。」

いつものように、彼方は茶化して甘える。
京子は仕方なしに、りんごを彼方の口元へと運んだ。

結局、彼方は半分ほどりんごを残して食事を終えた。
まあ、半分だけでも食べられただけよしとしよう。
笑ってくれるようにもなったし、大きな成果だ。

それにしても、明日からの食事はどうしよう。
冷蔵庫の中身はもう空っぽだし、この様子だと、とても買い出しになんて行けそうもない。
贅沢をするつもりはないけれど、彼方にもちゃんと栄養のあるものを食べさせてやりたかった。
彼方の様子を見て、短時間でも買い出しに行けたらいいのだけれど。

そんなことを考えながら、京子も食事を終えて、彼方を先に風呂へと促した。
彼方が風呂に入っている間だけが、自由に行動できる時間だ。
京子は、足音を殺して玄関へと向かった。
そして、郵便受けの中身を確認する。

服屋のダイレクトメールと、携帯電話の請求書。
数日郵便受けを開けていなかったが、思ったよりも郵便物は少なかった。
京子はその二つを持って部屋へと戻ろうとした。
しかし、その間から、一枚の紙がはらりと滑り落ちた。

京子は、しゃがんでその紙を拾う。
葉書よりも少し小さいメモ用紙だった。
そのメモ用紙には、綺麗に整った字で、こう書かれていた。

『彼方に会わせてほしい。  高橋』

なんとなく想像はついていたが、やっぱりそうか。
毎日インターフォンを鳴らしているのは、日向だったんだ。
日向は、自分が彼方を匿っていることを知っているんだ。

京子は躊躇いなくその紙を、ゴミ箱に捨てた。
こんなもの、彼方に見せちゃいけない。
ただでさえ不安定な彼方が、この紙を見て、今度は何をやらかすかわかったものじゃないのだから。

それから京子は部屋に戻り、古い雑誌を開いた。
いつも通りにしないと。動揺を悟られてはいけない。平静を保たないと。
日向から手紙が来ていたことを、隠さないといけない―。

彼方が風呂から出て、入れ替わりに京子が風呂場へ向かった。
やっと彼方が笑ってくれるようになったんだ。
食事だって、少ないけど食べてくれるようになった。
もうこれ以上、日向に彼方を掻き乱されたくない。

だから、日向の存在を隠さないと。
毎日インターフォンを鳴らしているのが日向だということを、彼方に気付かせてはいけない。
日向が彼方を探していることも、知られてはいけない。

もし、二人が会ってしまったら、どうなるのだろう。
日向は、彼方に何を言うつもりだろう。
責めるだろうか。軽蔑するだろうか。
それとも、彼方を引っ張ってでも自首させるつもりか。

いずれにせよ、明るい話ではないはずだ。
だって彼方は、自らの母親を殺した殺人者なのだから。
絶対に彼方を連れて行かせはしない。自分が必ず守ってみせる。
京子は、そう強く胸に誓った。

京子が風呂から出ると、彼方はキッチンで蹲っていた。
手には、先程捨てたはずのメモ用紙が―。

「来てたんだ、日向。」

「…みたいですね。」

「なんでこれ捨てたの?」

「見たくないだろうなあって思って…。」

なんだかバツが悪い。
良かれと思ってしたことだが、なんだか悪いことをしてしまったようだ。
けれど、彼方はその紙をじっと見つめたままだった。

しばらくして、彼方はその紙を丁寧に折りたたみ、まるで大切なもののようにポケットに入れた。

「会うんですか、日向さんに。」

彼方は、考えるように瞳を伏せた。

「…僕、これからどうしたらいいと思う?」

「どうしたらって…。」

論理的に考えたら、自首するのが一番だ。
そうはわかっていても、京子はそれを口に出すことができなかった。

今までは、犯罪を犯した人間は、自首をして罪を償うのが当然だと思っていた。
実の母親を殺すなんて、彼方は本当に取り返しのつかないことをしたとも思っている。
けれど、彼方と離れたくない。これ以上彼方に、不幸な目に遭ってほしくない。
暗くて寂しい檻の中になんて、入ってほしくはなかった。
けれど、いつまでも逃げていられるとも、思えなかった。

京子は、何も言えずに唇を噛む。
二人の間に、長い長い沈黙に訪れた。

やがて、彼方は小さな溜息を吐いて、立ち上がった。

「ごめん、変なこと聞いて。…そろそろ寝よっか。」

そう言って、彼方は自分の手を引き、ベッドへと向かう。
握った彼方の手は、小刻みに震えていた―。

麻丸。
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麻丸。

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