「二人の世界」

 「二人の世界」



『日向へ

 あの子から、全てを聞きました。
 日向が母さんと目を合わせてくれないのは、私があなたたちに酷いことをしていたからなのね。
 嘘だと思った。でも、私を見るあの子の目は、憎しみで溢れていた。
 日向も、本当は母さんと一緒になんて、暮らしたくなかったんでしょう?
 私のこと、怖かったんでしょう?母さんなんて、死ねばいいと思っていたんでしょう?
 ごめんね、気付かなくて。思い出せなくて。しっかり者の日向に甘えてばっかりで。
 日向は優しい子だから、言えなかったのよね。

 日向、ごめんなさい。
 あの子にも、謝りたくて仕方がありません。
 あの子は何も悪くありません。悪いのは、母さん一人です。

 私たちは、一緒にいない方がいいのかもしれない。
 逃げるみたいでごめんなさい。 でも、今は一人で頭を冷やしたいの。
 勝手なことを言っているのはわかっているけれど、母さんはしばらく家を出ます。
 許してほしいなんて、言えません。本当に、本当に、ごめんなさい。


 追伸 

 学校の手続きは心配しないでください。
 せめて、親としての責任は取ります。』


日曜日の昼下がり。
バイトも、デートも、何の予定もない退屈な日だった。
日向はベッドに寝転がって、母親からの手紙を読み返していた。

なんだよ、一緒にいない方がいいって。
彼方も、同じことを言ったんだ。
自分たちは一緒にいない方がいい、って。

みんなそう言って、いなくなるんだ。
自分の気持ちなんて関係なしに、勝手に理屈をつけていなくなる。
自分と話をすることもなく、ただ自己満足で自分を捨てるんだ。

学校の手続きは心配しないで、と書かれているが、どうだろうか。
もしかしたら、専門学校に行く話もなくなるのだろうか。
せっかくやる気出して、頑張っていたのになあ。
また未来が、見えなくなった。
やっぱり自分は、暗い世界に閉じこもるしかないのか。

優樹からの連絡は、今日もない。
本当に二人は、旅行に行っているだけなのか。
それなら、どうして携帯電話を置いていったんだ。
彼方はもう、自分のことなんてどうでもいいのだろうか。

日向は、大きな溜息を吐いた。

彼方のことは、京子が帰ってきたら少しは進展するだろう。
今自分にできることは、優樹からの連絡を待つしかない。

しかし、母親の方はどうなのか。
あれから一度も連絡はない。何処で何をしているのだろうか。
もう二度と、自分の前に姿を見せないのではないか、とさえ思う。

母親と過ごした日々は、普通の家族になれたみたいで、照れくさいけれど嬉しかった。
そこに彼方もいれば、それ以上に幸せなことはなかっただろう。
ああ、なんだ。自分は普通の家族に憧れていたのか。
今更だと思うけれど、あの時の優しい母親との暮らしに、自分は満たされていたんだ。
もう二度と、戻ることはできなのだろうけれど。

考えたって、どうにもならない。
むしろ、考えれば考えるほど、悪い方向へと想像してしまう。

こんな時は、百合に会いたい。
あの天使の微笑みを自分に向けてほしい。
あの優しい声で名前を呼ばれたら、少しでも憂いは晴れるだろうか。
あの柔らかい体に触れて、抱きしめて閉じ込めておきたい。
百合だけは、自分から逃げないように、精一杯縋りついていたい。

そうは思っても、今日は百合に会えない。
昨日は優樹と話し込んでしまって、結局百合との約束を断ることになってしまったし、今日は椿と買い物に出かけるから、予定は空いていないのだと言う。
昨日の約束を断ってしまった自分が悪いのだけれど、タイミングが悪かったな。
せめて少しだけでも会っておけばよかった。
明日まで百合と会えないなんて、寂しすぎてどうにかなってしまいそうだ。

そんなことを考えていると、インターフォンが鳴った。
誰だろう。自分を訪ねてくる人なんて、いないはずなのに。
不思議に思いながらも、日向は玄関に向かった。

玄関の扉を開けると、百合がニッコリと微笑んで立っていた。
まるで、自分の気持ちを読んだかのようだ。

「百合…。今日は椿さんと出かけるって…。」

「昨日も会えなかったから、ひーくんが寂しがってるんじゃないかと思って、早めに切り上げて来ちゃいました。…お邪魔でした?」

百合は控えめに首を傾げてみせる。
突然の百合の訪問に呆気に取られていた日向は、慌てて首を振った。

「ううん。ちょうど会いたかったところだったんだ。」

「えへへ。やっぱり。私も、ひーくんの風邪どうなったかな、って気になってたんです。」

「ああ、熱はもう下がったよ。まだちょっと体はだるいけど…。」

「本当ですか?」

そう言って、百合は自分の額に手を伸ばしてきた。
ひんやりした感触が額から伝わる。

「んー、下がった…のかなあ?」

外の寒さのせいか、百合の手はすっかり冷たくなっていた。
百合まで風邪をひかせてしまったら可哀想だ。早く家に入れてあげないと。
そう思って、日向は百合の手を引く。

「とりあえず、上がって。お菓子とか用意してないけど…。あ!ミカン、ミカンならある。あとリンゴも。
 それから…ちょっと時間くれたらプリンも作れるけど…。ああ、でも…卵あったっけ…。」

「もー。ひーくんったら、すぐそうやって私のこと太らせようとするー。」

「あ、いや、そういうつもりじゃないんだけど…。」

百合に会えたことが嬉しくて、つい饒舌になってしまう。
百合はそんな自分を見て、おかしそうにクスクスと笑った。

百合が笑うたびに、百合の口から白い息が洩れる。
短いスカートからは、寒さで赤くなった生足が覗いていた。膝には、新しい絆創膏が貼られている。
女の子のお洒落は気合だ、と聞いたことがあるが、こんなに寒いのによくやるものだ。

とりあえず、冷えた体を温めるために、百合をリビングのコタツに座らせた。
そして、すぐに温かいミルクティーを用意してあげた。

「昨日はどうしたんですか?急に『用事ができた』って言ってましたけど。何かあったんじゃないかと思って、びっくりしましたよ。」

ミルクティーが入ったマグカップを両手で抱えて、百合は言う。
日向は百合と向き合うような形で、正面に座り込んだ。

「ごめん…。実は、誠さんが、バイト先に竹内さんのお兄さんって人を連れてきてさ。
 優樹さんっていうんだけど、ちょっとその人と話してて…。」

「えっと…。竹内さんのお兄さんって、彼方さんが働いているお店の店長さんでしたっけ?」

「うん、そう。優樹さんも、彼方とも竹内さんとも連絡取れなくて、心配してきたみたい。
 でも、合鍵を使って竹内さんの家入ったら、二人はいなかったって…。」

「ええ?じゃあ…二人はどこに?」

日向は躊躇うように、コーヒーを一口飲んでから言った。

「それが…なんか旅行に行ってるらしくて。」

「へ?旅行?」

百合は、大きな瞳をパチパチと瞬かせる。
あまりにも意外な答えだったからだろう。
自分も優樹から聞かされた時は、同じような反応をしたと思う。

「うん…。俺もよくわからないんだけど、パソコンのネットの履歴を調べたんだって。
 そしたら、温泉旅館のページがいっぱい出てきたらしいんだ。それで、旅行に行ってるんじゃないか、って優樹さんが。」

「温泉って…。」

百合は、納得できないような顔をして「うーん」と唸る。
その仕草こそ可愛らしいが、少し怒っているようにも見えた。

「こんな時に、二人は何をしてるんでしょうね。
 こんなにひーくんも、その優樹さんって人も心配してるのに、のんきに温泉なんて…。
 この前だって、彼方さん何にも言わずに走っていっちゃうし…。」

「この前?」

「あ…。」

百合は慌てて口元を抑える。
どうやら、口が滑ったようだ。

「百合、この前って…何?彼方に会ったのか…?」

「えっと…その…。」

百合は口ごもり、目を伏せる。
そして、困ったように上目で自分を見つめて、また目を逸らした。
しばらくそうやって視線を泳がせていたが、やがて、観念したように口を開いた。

「金曜日に…彼方さん、ここに来てたんです。」

思わず日向は、目を見開いた。

「彼方が…ここに?」

「はい。私がここに来たら、彼方さんが家の前に立ってて…。声かけたら逃げちゃいましたけど…。」

「そっか…。」

知らなかった。彼方が自分に会いに来ようとしていたなんて。
それも、たった二日前に。二日前と言うと、二人が旅行に出る前日か。

「どうして黙ってたの…?」

「だって、言ったら…ひーくん、探しに行くって言うでしょう?
 あの時、熱出してたから…言わない方がいいかな、って思って…。ごめんなさい。」

百合は、申し訳なさそうに肩を落とす。
黙っていたことを、気に病んでいるのだろう。

「でも、きっと、彼方さんはひーくんに会いに来たんですよ。私に見つかったから逃げただけで…。
 だから、その…また、会いに来てくれますよ、多分。」

「そうかなあ…。」

そう言って、日向はまた一口コーヒーを飲んだ。
ブラックコーヒーの苦味が口の中に広がる。
それは、今の自分の気持ちを表しているかのようだった。

どうしてあのタイミングで、彼方は自分に会いに来ようとしたのだろう。
本当に、二人は旅行に出ているだけなのか。
もしかしたら、もう二度とこの地に帰って来ないつもりなのではないか。
だから、最後にこの家を訪れたのではないか。

そんな悪い予感が、日向の中に渦巻いていた。






彼方との旅行は、楽しいものだった。
昼前になったら旅館をチェックアウトして、伊豆の観光へと出かける。
温泉まんじゅうやお菓子などを買い食いし、歩き疲れたら無料で開放されている足湯で疲れを癒した。
割烹のようなちょっといいお店で昼食を取って、いい時間になれば次の宿へチェックイン。

どの旅館も、やっぱり豪華で広い部屋だった。
室内露天風呂では、彼方と肌を触れ合わせて少しだけじゃれ合って、夕食は御馳走と酒でお腹と心を満たした。
そして、夜になれば、痛いほどお互いを抱きしめ、疲れ果てるまでセックスをした。

旅行中の彼方はふわふわと無邪気に笑い、初めての旅行を楽しんでいるようだった。
彼方は、ここが誰も二人を知らない場所だと言った。
だからこそ、京子は恥ずかしげもなく手を繋いで歩き、彼方に寄り添って恋人らしいデートをした。

時間が経つのは早いもので、すぐに三日目の夜がやってきた。
明日になれば、旅行は終わりで地元へ帰らなければいけない。
二人は名残惜しむように酔いに任せて体を重ね、愛を確かめ合った。

けれど、今日の彼方は、なんだか様子がおかしいのだ。

情事が終わった後、二人はお互いを抱きしめるように布団に寝転んでいた。
そんなときでも、彼方は愛おしそうな、でも少し切なそうで辛そうな、そんな視線を自分に向ける。
何かを言いたいのに言えない、そんな顔だった。

ああ、そういえば、彼方が母親を殺したという前日も、そうだった気がする。
あの時も、こうして何度も体を重ねていたっけ。
それならば、また彼方は何かをしようと言うのか。
その前に、自分を愛し尽くそうとしているのではないか。

もうこれ以上、何をしようと言うのだろう。
まさか―。

嫌な考えが頭を巡って、思わず京子はハッと顔を上げた。

「どうしたの?」

彼方は不思議そうに首を傾げる。
自然に振る舞っているように見えるが、その瞳はやっぱり影が滲んでいた。

「いえ、なんでも…。」

「そう?急にビクってなったから、こっちがビックリしちゃったよ。」

クスクスと彼方は笑う。
そして自分へと手を伸ばし、髪を撫でた。
汗ばんで湿った短い髪が、彼方の指に絡まっていく。

温かい手。優しい手。この手で彼方は、実の母親を殺したのか。
自分にとっては心地いいこの手が、悪魔のようなことをしてしまったんだ。
そんなこと、今でも信じられない。

「ねえ、彼方さん。私から離れたりしないですよね…?私を置いて、勝手に何処かに行ったり…しないですよね…?」

彼方は、僅かに驚いたような顔をした。しかし、すぐに取り繕って微笑む。

「どうして、そんなこと言うの?」

「だって、彼方さん、なんか変です…。
 お母さんのこともそうですけど…急に旅行に行こうって言い出したり、こんな豪華な旅館泊まったり…。
 もうお金なんて持ってても意味ないって、言ってましたよね?それ、どういう意味ですか。
 こうやって、何回も…こういうことするときは、彼方さんが何かしようとしてる時なんじゃないんですか…?何か…大変なことを。」

その言葉に、彼方の笑みが消えた。

「じゃあ、ちょっと聞いていい?」

そう言って、彼方は躊躇うように唇を開いた。

「僕が母さんを殺したって言った時、京子ちゃんならさ、自首しなよって言ってくれると思ってたんだけど、言わなかったね。…どうして?」

「それは…。」

彼方と離れたくなかったから。
けれど、その言葉が言えなかった。

「あのさ、こんなこと言うと、ひかれちゃうかもしれないんだけどさ…。
 僕ね、京子ちゃんのこと、なんだかお母さんみたいって思ってたんだよね。」

「お母さん…?」

「うん。変だよね。」

彼方は、少し恥ずかしそうに笑う。

「僕が過呼吸起こしてる時に、『大丈夫、大丈夫』って優しく背中擦ってくれるし、
 僕が何か悪いことしたら、怖い顔して『何やってるんですか!』って厳しく叱ってくれるし、
 京子ちゃんはさ、誰よりも僕のこと考えてくれてたんじゃないかな、って思って。
 …普通のお母さんって、そういうものなんでしょ?」

「私は、恋人じゃないんですか?」

「もちろん、可愛い彼女だよ。でも、僕はどっちもほしかったのかもしれないな。彼女も、優しいお母さんも。
 だから、京子ちゃんなら、自首して、ちゃんと罪を償って、そしたらまた一緒に暮らそうって言ってくれるんじゃないかなって思ってたんだけど…言ってくれなかった。」

「じゃあ…今からでも自首しましょうよ。それで、罪を償って…全部終わったら、また一緒に…。」

「無理だよ。」

京子の言葉を遮って、彼方は言った。

「もう、抱えきれない。耐えられないんだ…。」

目を伏せて小刻みに震えている姿は、まるで懺悔でもしているようだった。
旅行中、一度も見せなかった不安そうな姿。
やっぱり彼方は、無理をして明るく振る舞っていたんだ。

「彼方さん。私、全部捨てて彼方さんと生きる覚悟はありますよ。だから…」

だから、どこでもいい、二人で静かに暮らせる場所へ行こう。
全てを捨てても、二人でいれば、きっと幸せだから―

そう言おうとしたが、彼方は静かに首を振った。

「ダメだよ。京子ちゃんには、待っていてくれる人がたくさんいるでしょ?
 僕と違ってちゃんとした友達もいるみたいだし、バイト先の人たちも大事なんでしょ?
 それに、優樹さんだって、京子ちゃんがいなくなったら大変だよ?たった二人の家族なんだから。」

「それを言ったら、彼方さんだって、日向さんがいるじゃないですか。」

「ううん、日向にもう僕は必要ないよ。」

彼方は、切なそうに眼を細める。

「母さんも死んで、日向の学費も稼いで、これで日向は幸せになれる。
 悔しいけど、いい彼女もいるみたいだし、普通の未来を望める。
 だから、もう僕が日向にしてあげれることって、何もないんだ。
 僕の役目は、終わったんだ。」

彼方は、もう戻れないところまで来てしまっている。

もっと早く出会っていればよかった。
もっと早く恋をしていたら、そしたら―
この人は苦しむことなんてなかったのに。

普通の人生を、踏み外すこともなかったのに。

麻丸。
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麻丸。

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