「消えた幽霊」
「消えた幽霊」
帰りの電車の中で、二人は無言だった。
彼方はずっと窓の外を見つめていたし、自分は零れそうになる涙を必死にこらえるようと、地面ばかりを見ていた。
視線が絡むことはないが、手だけはキツく握っていた。
昨日、彼方に別れを告げられた。
薄々勘付いていたことだった。
彼方は多くを語らずに、「この旅行で最後。…別れよう。」そう言った。
自分と別れてこの人はどうするつもりだろう。
そんなの、一つしかない。
彼方は、死ぬつもりなのだ。
だから、自分を手放そうとしている。
京子は、そっと首元に手をやる。
彼方から貰った猫のネックレスの冷たい感触が、指先に伝わった。
これは、首輪のはずだったのに。
彼方の独占欲の証のはずだったのに。
今は、もう何の意味も持たない。
無言のまま電車は進んで、地元の街が間近に迫る車内アナウンスが流れた。
彼方との繋がりが消えるまで、あと少し。
「…もう着くよ。」
窓の外を見つめたまま、彼方はポツリと呟いた。
京子はその手を離したくなくて、爪を立てて握った手に力を込める。
「痛いよ。」
そう言った彼方は、振り返って困ったように笑った。
どうして、こんな時に笑えるのか。
微笑む彼方とは裏腹に、京子の瞳からは涙が溢れた。
彼方は何かを言おうと口を開いたが、何も言ってはくれなかった。
窓の外に視線を戻して、黙ってしまった。
そのまま、ゆっくりと電車が停車する。
「…京子ちゃん、降りないと。」
自分から目を逸らして、彼方は言う。
「嫌です。」
「もう終点だよ。」
「嫌です。」
「ほら、駅員さん困っちゃうでしょ?」
「嫌です…っ!」
瞳から溢れた涙は、頬を伝って京子の太ももに落ちた。
出口へと向かう乗客たちが、涙を流しながら駄々をこねる自分を驚いたような顔で見ていた。
それでも、涙は止まらなかった。立ち上がる気力すらなかった。
だって、この電車を降りたら、彼方と別れなければならないのだから。
ふいに、彼方に抱きしめられた。
嗅ぎ慣れた煙草の甘い香りと、彼方の体温に包まれる。
ズルい。彼方はズルい。
こんな時ばっかり、優しくするなんて―。
「…行こう。ね?京子ちゃん。」
自分を諭すように、彼方は優しく耳元で囁く。
「嫌です…。嫌…絶対嫌…。」
「京子ちゃん…。」
「せめて、あと一日だけ…。あと一日だけでもいいから…一緒にいてくださいよ…。そしたら…ちゃんと諦めるから。」
カッコ悪い。みっともない。恥ずかしい。
けれど、今の自分には、取り繕って澄ました顔なんてできない。
縋りついていないと、今すぐにでも彼方が消えてしまいそうだと思った。
捕まえておかないと、もう二度と会えない気がした―。
「…あと一日で、本当に諦められるの?」
「…はい。」
「…約束できる?」
京子は小さく頷いた。
けれど、そんな約束なんてできなかった。
だって、これは、彼方と少しでも長くいるための嘘なのだから。
彼方は考えるように目を伏せ、やがて仕方ないというように小さく溜息を吐いた。
「あと一日だけだよ?」
京子はそれに答えず、彼方に抱き付いた。
この腕を、離したくない。離すつもりもない。
だから、お願い。どうか今だけは、私のワガママを聞いていて。
「京子ちゃん、とりあえず降りよう?もう他の人、みんないなくなっちゃったよ。」
抱き付いたまま無言で涙を流す自分に、彼方は困ったような顔を向ける。
車内に、もう乗客は残っていなかった。
結局、最後の日は、京子のアパートで過ごすことになった。
アパートに付いてドアを閉めた途端、京子は荷物も置かずに彼方を後ろから抱きしめた。
「ねえ、彼方さん。抱いて…。」
彼方は、驚いた顔で振り返る。
普段の自分は、こんなこと言わないのだから、当たり前か。
けれど、残された時間の中で、少しでも長く彼方と繋がっていたかった。
「お願い、抱いて。」
「京子ちゃん…。」
それから、彼方の腕が伸びてきて、自分を抱きしめた。
優しい口付けを交わし、指と舌を絡めた。
離れないように抱きしめ、お互いを貪るようにキスをした。
「酷くして。」
彼方にベッドに押し倒された時、京子はポツリと呟いた。
「え?」
「思いっきり酷くして…。それで、彼方さんのことを嫌いになれるようにしてくださいよ…。」
そうだ。できるだけ酷いのがいい。
彼方に抱かれたことを、忘れないように。
彼方に愛されていたことを、覚えておくために。
彼方を愛したことを、誇れるように。
傷跡が残るくらい、キツく抱いてほしかった。
「…それは無理だよ。だって、僕、京子ちゃんのこと大好きだもん…。」
卑怯な微笑みで、彼方は困ったように笑う。
京子の瞳からは、また涙が溢れた。
「ズルい…。」
さっきの言葉通り、彼方は自分を優しく抱いた。
甘い言葉を囁き、蕩けるようなキスをして、指先で肌を撫で、力強い腕で自分を抱きしめた。
悲しい瞳で自分を見つめて、「愛してるよ」と何度も口にした。
もうどうしようもない。どうにもならない。
自分じゃ、彼方を止められない。
自分が何を言っても、彼方に響かない。
誰でもいい。誰か、この人を止めて。この人の命を助けて。
誰でもいい。誰でもいいから、どうか―。
―ピンポーン。
―ピンポーン。
誰かがインターフォンを押す音が聞こえる。
その音で、日向は目を覚ました。
時計を見ると、午前一時だった。すっかり真夜中だ。
どうやら、学校から帰ってきてから、着替えもせずにコタツでうたた寝していたようだ。
窓の外を見れば、白い雪がチラチラと空から舞い降りていた。
―ピンポーン。
またインターフォンが鳴った。
こんな時間に、一体誰だろう。
不思議に思いながらも、日向はコタツを抜け出した。
「寒っ…。」
どうやら暖房を入れ忘れていたようだ。室内でも息が白い。
そういえば、今日の深夜から大雪警報が出ていたっけ。
―ピンポーン。
何度目のインターフォンだろう。
どうやら来訪者は、自分が出るまで鳴らし続けるつもりらしい。
いたずらか?それとも、何か緊急の用事がだろうか。
日向は、恐る恐る玄関の扉を開けた。
そこに立っていたのは、パジャマ姿で俯く京子だった。
「竹内さん…?そんな格好で…。」
この雪の中、京子はコートも羽織らずに、パジャマから鳥肌が立った足を曝け出している。
肩と頭には、うっすらと雪が積もっていた。
よほど慌てて訪ねてきたようだ。
「あの人に会ってください…。」
「え?」
京子は、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、泣き腫らしたように真っ赤だった。
「彼方さんに、会ってください。」
睨むように強い瞳で、京子は自分を見つめる。
その顔は、必死に涙を堪えているようにも見えた。
「彼方の居場所が…わかるのか?」
「今、私のアパートにいます。」
「竹内さんのアパートに?」
「はい。」
京子は悔しそうに唇を噛み、深く頭を下げた。
「お願いします。あの人を…彼方さんを、助けてください…。
私じゃ…あの人は、救えない。貴方じゃなきゃ駄目なの…。
お願い、あの人を助けて…。あの人を、死なせないで…。」
「どういうこと…?」
顔を上げた京子の顔は、辛そうに歪んでいた。
今にも涙が溢れてきそうだ。
「説明は後です。今すぐ私についてきてください。…お願いします。一刻を争うんです。」
一刻を争うなんて、どういうことだ。
何の説明もない京子に、戸惑い首を傾げることしかできなかった。
けれど、日向は京子の様子を見て、只事ではないと察した。
日向はすぐに部屋に入ってコートを羽織り、支度を済ませた。
部屋を出る前に京子が薄着だったことを思い出して、クローゼットから彼方のコートを取り出して玄関に向かった。
玄関に戻ると、京子は俯いたまま、体を震わせてただじっと待っていた。
「彼方のコートだけど、ないよりマシだから。」
日向は、京子の肩にコートを羽織らせてやる。
「…ありがとうございます。」
京子は複雑そうな顔をしたが、素直にコートに袖を通した。
それから、二人で京子のアパートへと向かった。
外に出ると、雪が本降りになり、吹雪いていた。
視界が真っ白で、数メートル先すら見えない。
地面には、十センチほど雪が積もり始めていた。
歩いている最中、京子はずっと無言だった。
ただ前へ前へと足を動かし、焦っているように早足で自分の少し前を歩いた。
日向はそんな京子の後ろを、はぐれないように大股で歩いて付いていく。
真新しい雪に、二人の足跡が長く残った。
十分も歩かないうちに、京子のアパートへとたどり着いた。
何度も通ったはずの赤煉瓦のアパートは、雪ですっかり景色を変えている。
降り積もった雪に注意しながら階段を上り、ようやく京子の部屋の前に着いた。
「鍵が…開いてる…。」
ドアノブに手を掛けた京子が、驚いたように呟く。
「まさか…。」
慌てて京子は扉を開き、部屋の中へと消えていく。
日向は一瞬迷ったが、玄関に足を踏み入れた。
「彼方さん!彼方さん!」と悲鳴にも似た声が室内に響く。
ようやく日向も京子に追いついたが、部屋の中には誰もいなかった。
ただ、床に膝を付いて座りこむ京子がいるだけだ。
「そんな…間に合わなかった…。」
京子の瞳から、涙がポロポロと流れ落ちる。
日向は何と声を掛けたらいいかわからずに立ち尽くしていると、縋りつくようにぎゅっと袖口を掴まれた。
「あの人、死ぬつもりなんです…。」
「え…?」
「お母さんを殺したのは…彼方さんです。
それが、貴方のためにできる最後のことだからって…。
貴方のために、彼方さんは実の母親を殺したんです…っ!
でも…彼方さんはその罪悪感に耐えられなくなって…それで…。
私じゃ彼方さんを止められなかった…。だから貴方を連れてきたのに…。こんな…こんなことって…。」
そのまま京子は、両手で顔を覆って泣き崩れる。
細い肩が小刻みに震える。京子の口からは嗚咽が漏れた。
やっぱり、母親を海に落としたのは彼方だったんだ。
確かに彼方はとんでもないことをしてしまったと思う。
それも、こんな自分のために自分を犠牲にするようなやり方で。
けれど、母親は死んでない。それを彼方に伝えたら―。
今なら、まだ間に合う気がした。彼方を救える気がした。
「もう電車もバスも動いてないし…遠くへは行ってないはずだ。竹内さん、彼方が行きそうな場所、わかる?」
日向は跪き、京子と視線を合わせた。
「彼方さんの行きそうな場所…?」
顔を上げた京子は、考えるように視線を彷徨わせる。
やがて、小さな声でポツリと呟いた。
「海…。」
「海?そう言われても、この辺りは海岸なんて山ほどあるし…。」
「夫婦岩…いえ、機具岩です。絶対、あの人はあそこにいる。」
確信を持っているように、京子は力強く言う。
「機具岩…。」
あの場所は、幼いころから二人だけの秘密の場所だった。
そこに、彼方がいる。
「行こう、まだ間に合うかもしれない。」
救わないと。連れ戻さないと。
彼方は、自分にとってかけがえのないたった一人の双子の弟なのだから―。