「弾かれた存在」
「弾かれた存在」
機具岩へ向かって、日向と京子は歩いていた。
外に出てから少しの時間しか経っていないのに、外は真っ白な銀世界に変わっていた。
建物や道、木々や山さえも、どこにあるのかわからないくらい白く雪化粧している。
しんしんと降り積もる雪に足を取られつつ、二人は機具岩の近くまで来ていた。
緩やかなカーブを描く坂を上っている途中、なんだかやけに甘ったるい香りが漂ってきた。
何度か嗅いだことのある匂いだ。これが何の匂いなのか、日向にはわからないけれど。
「彼方さんの煙草の匂い…。」
そう言って、京子は足を速める。
坂を上りきって開けた高台に出ると、一人の男がこちらに背を向けて海を眺めていた。
欄干に凭れかかり、手にはモクモクと薫る煙草をふかしている。その煙草から、甘い匂いが漂っているようだ。
「彼方さん!」
その声に、彼方は振り返った。
「早かったね。もう見つかっちゃった。」
お道化るように彼方は微笑んだ。
彼方は京子を見て、そして、自分を視界に入れた。
しかし、自分と目が合うと、彼方は悲しそうに口元を歪めた。
「やっぱり、日向を呼びに行ってたんだね。」
「ごめんなさい…。でも、こうでもしないと…貴方を止められないと思って。」
「…それは、余計なお世話だよ。誰に何を言われたって、もう遅いんだ。」
冷たく言い放った彼方に、京子は何かと言おうとしたが、怯んだように口を噤んでしまった。
彼方は煙草に口を付けて、ゆっくりと煙を吐き出す。
そして、その煙草を地面にほおり投げ、靴で踏んで揉み消した。
火が完全に消えてから、彼方は自分に向き直った。
「久し振りだね、日向。少し大人っぽくなったんじゃない?」
「…彼方こそ。」
「そのマフラー、つけてくれてるんだ。気に入ってくれた?」
「やっぱりこれ…彼方が…。」
「うん。日向は、やっぱり赤が似合うね。カッコいいよ。」
満足そうに彼方は微笑む。
久し振りに見る、彼方の顔だった。
少し前に見た時よりも、僅かに大人びている。
傷んだ茶髪は前に見た時よりも長くなっていて、身長も自分より少し伸びている気がした。
細い体は頼りなく、あの頃の彼方とは何もかもが違っていた。
「ずっと…探してたんだぞ。」
言いたいことは山ほどあるのに、それしか言えなかった。
何から話したらいいかもわからないし、離れていた時間が長すぎて、逸るような、少し緊張するような、妙な気持ちになる。
彼方と直接話をするのは、夏以来なのだから。
「それは、僕を捕まえるため?」
彼方は、自嘲気味に薄く笑う。
それは、冷たい冷たい笑みだった。
「わかってると思うけど、母さんを殺したのは…僕だよ。」
やっぱり―。
想像していたことだけれど、いざ彼方の口からその言葉を聞くと、信じられない気持ちになった。
「どうして…そんなこと…。」
「日向のためだよ。日向が幸せになるためには、あの人はいらない。日向の未来に、あの人は必要ない。
生きていちゃいけない人なんだ。日向だって、そう思うでしょ?」
同意を求めるように、彼方は自分をじっと見つめる。
その瞳には、鋭く暗い光が宿っていた。
「違う…。彼方は知らないんだ。母さんは、記憶を無くしてる。
ちょっと前に事故に遭って、頭打ったらしくて、それで…。
だから、今は前みたいに酷いことしたりしないんだ。」
「なにそれ。事故に遭ったから全部覚えてませんって?そんな都合のいいことあるわけないでしょ。
だから許せって?許せるわけないじゃん!あの人のせいで、僕たちの人生滅茶苦茶だよ!
今更いい母親演じてようが、あの人のしたことは、なかったことにはできないんだよ…っ!」
彼方は、興奮したように声を荒げる。
こんな彼方の姿を見るのは、初めてだった。
いつもふわふわと笑っていて、怒ったり、感情を剥き出しにしている姿なんて見たことがない。
それほど、ずっと母親のことを憎んでいたのだろう。
当たり前だ。彼方は、自分たちに虐待を続ける母親しか知らないのだから。
「それでも…そこまでする必要は…。」
日向の言葉を遮って、彼方は強い口調で言う。
「あったよ。そこまでしないといけなかったんだ。
大体、記憶を無くしてるって、本気でそう思ってるの?
都合よく記憶を無くしたフリしてるだけかもしれないじゃん!
きっとまた元通りになるよ。あの人は変わらない。きっとまた繰り返す。だから…殺さないといけなかったんだ…。」
彼方は拳を握りしめ、目を伏せ俯く。
キツく唇を噛み、何かに耐えるように微かに肩を震わせていた。
揺れているんだ。
殺したいほどの憎しみと、母親を殺した罪悪感や後悔に。
実際に母親に手を掛けてしまったことを悔やみ、自ら死を選ぼうとしているのだ。
生と死の境界線。
彼方は、ギリギリのところに立っている。
少し足元を踏み外せば、手が届かないほど遠くへ行ってしまいそうなほど、ギリギリの境界線に。
今までの彼方の行動は、全て自分のためなのだと彼方は言った。
自分の気持ちなんて知らず、自分勝手に理由を付けて、とんでもないことをしでかした。
怖いほどに、真っ直ぐな自分への想い。
彼方は、今までずっと、自分のために自らを犠牲にしてきたのだ。
なら、自分が救ってやらないと。取り戻さないと。
いつも彼方に助けられてばかりじゃいられない。
彼方に辛い想いばかりさせていられない。
今度は、自分が彼方を救う番だ。
日向は、気持ちを落ち着けようと小さく深呼吸をした。
そして、真っ直ぐに彼方を見つめ、口を開いた。
「…母さんは死んでない。」
僅かに顔を上げた彼方は、驚いたように目を見開く。
自分の隣に立つ京子も、困惑した顔を向けた。
「どういうこと…?」
「母さんはちゃんと生きてる。あの日、運よく救助されて助かったんだ。
事件にもなってない。母さんは、自分で足を滑らせたって、そう言ってる。彼方が突き落としたなんて、誰にも言ってない。」
「それ…本当ですか?」
「ああ。」
日向が力強く頷くと、京子は安心したように瞳を潤ませた。
「よかった…。本当によかった…。彼方さんが、人殺しになんてならなくて…。」
そして、彼方に向き直る。
「彼方さん、帰りましょう。死ぬことなんてないです。お母さんは無事だったんですから…。」
しかし、彼方は信じられないと言うような表情のままだった。
「そんな…そんなはずないよ!僕は、確かにここから母さんを落としたんだ!
あの日は、雨が降っていて海は大時化で、しかも、ギプスなんて嵌めた手で助かるわけがない…っ!」
彼方は、取り乱したように声を荒げる。
「助かるわけなんて…ないんだ…。」
そのまま項垂れるように、地面に膝をついた。
肩がガクガクと震えている。吐き出す白い息が、徐々に荒くなっている気がした。
「彼方さん…もしかして、また…。」
京子は、心配そうに彼方に駆け寄ろうとする。
しかし、彼方はそれを制するかのように、強い口調で叫んだ。
「近寄らないで…っ!」
その声に、京子は怯んだように足を止めた。
そして、彼方と自分を交互に見て、困ったように立ち尽くす。
彼方は、欄干に凭れかかるようにフラフラと立ち上がった。
膝から下のズボンは、雪で湿って色濃く変色していた。
「…ごめんね。でも、もう最後の一日は終わったんだよ。もう僕と京子ちゃんは恋人じゃない。」
京子の方を見ようとはせずに、彼方は足元を見たまま言った。
「そんな…。」
京子はふらつく足元で、彼方へと一歩踏み出す。
しかし、彼方が発するのは、冷たい言葉だった。
「近寄らないでってば!…近寄ったら、飛び降りるよ。」
「やめて…。やめて…彼方さん、お願い…。」
祈るように必死な声。
京子はその場から動けず、また泣きだしそうな顔をして、両手でその顔を覆った。
近寄れば、彼方は海へと飛び降りる。あの日、母親にしたように。
どうすればいいんだ。どうすれば、彼方を思い留まらせることができるんだ。
京子は、自分に「彼方さんを助けて」そう言った。
ずっとしらばっくれていた京子が、自分を頼った。
プライドの高い京子が、「私じゃ、彼方さんを止められないから」そう縋るように涙を見せたんだ。
どうにか彼方を説得しないと。日向は、必死に考える。
不器用でもいい。綺麗に飾った言葉じゃなくていい。短くても、みっともない言葉でも、もう何だっていい。
彼方を救える言葉を、必死に探さないと。
「…彼方。大丈夫だから、帰ってこいよ。誰もお前を責めたりしない。」
「そうですよ、彼方さん…。お願いだから、もう馬鹿なことはやめて…。
家にもお兄ちゃんのところにも帰りたくないなら、ずっと私のところにいていいから、だから…だから、お願い…帰ってきて…。」
自分に同調するように、京子も必死に彼方に言葉をかける。
その瞳からは、また涙がポロポロと溢れていた。
「ねえ、彼方さん…。貴方がいないと、私…どうしたらいいかわからない。
私のために生きてくれるって、言ったじゃないですか…っ!約束、したじゃないですか…っ!」
「彼方、みんなお前のことを心配してる。俺も、やっぱりお前がいないと駄目だ。
帰ろう。俺たちの家に…。また、前みたいに一緒に暮らそう…。」
話を聞いているのかいないのか、彼方は俯いたままだった。
少し苦しそうに息を切らして、胸に手を当てている。
以前に見た、過呼吸が起こる前のようだ。
「…無理だよ。もう一度殺すなんて…僕には無理だ…。」
震える手の平を見つめて、彼方は小さく呟く。
「そんなことしなくていいんです!もう、貴方は何もしなくていいんですよ!そうやって、彼方さんばっかり苦しい想いする必要なんてないんです…っ!」
「そうだ、彼方。今は母さんも家にいないし…。でも、またきっと帰ってきてくれる。
落ち着いたら、ちゃんと母さんに謝ろう。それで、…今度は三人で暮らそう。
きっと、今度は彼方が憧れていた普通の家族になれるから…。」
彼方の呼吸が、どんどん荒くなる。
ふらつく足元で欄干に凭れかかり、立っているのがやっとのようだ。
その欄干のすぐ後ろは、断崖絶壁。下の仄暗い海までは、二十メートルはあるだろう。
早く彼方を、そこから遠ざけないと。
「やめてよ!無理だよ…っ!もう、何もかもが無理なんだよ…っ!」
二人の説得に、彼方は頭を抱えて悲痛な叫びをあげる。
そのまま地面に蹲り、肩で息をするように激しく喘ぎ始めた。
京子は、すかさず彼方に駆け寄る。
「彼方さん…!」
抱きしめるように、京子は慣れた様子で彼方の体を支え、背中をさする。
彼方は抵抗しようとしたが、思い通りに体が動かないらしく、京子に体を預け、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。
白石に聞いた通り、彼方の過呼吸は治っていなかったのだ。
ずっと、彼方は一人でその苦しみを抱えて生きていたのだ。
―今なら。
そう思って日向も彼方に駆け寄ろうと一歩踏み出した。
そのとき、彼方は拒絶するように強い声で叫んだ。
「来ないで…っ!」
力ない腕で、彼方は欄干に手を掛け、立ち上がろうとする。
京子は彼方を立ち上がらせないように、ぎゅっと抱き寄せた。
それでも彼方は、欄干に手を伸ばそうとする。
京子はその手を掴み、自分に向けて静かに言った。
「…言うとおりにしてください。」
彼方に拒絶され、京子にもそう言われ、日向は唇を噛んでその場に留まるしかなかった。
彼方は京子の肩に顔を埋めていて、その表情は見えない。
しかし、縋るように京子を抱きしめ、肩を震わせている。
自分のことは拒絶するのに、京子は違うのか。
そのことに少し胸を痛めつつも、日向は黙って二人を見ていた。
大丈夫、大丈夫だからと、京子はまるで母のように彼方の耳元で優しく囁く。
彼方は京子にされるがまま、その身を預けていた。
以前の彼方は、浅く広い上辺だけの人間関係しか作らず、自分以外の人間には、けして心を開かなかったのに。
今の彼方にとって、京子は拒絶せずに無防備な身を任せられる存在なのか。
京子は、優しく彼方を包み込む。
彼方は、苦しみに耐えるように京子に縋りつく。
二人の間には、相当の信頼関係があるのだろう。
そんな二人の世界に置いてきぼりにされながら、日向はただ一人立ち尽くすしかなかった。