「満天の星空」

 「満天の星空」



「ねえ、京子ちゃん。もしも生まれ変われるなら、何になりたい?」

いつだったか、眠る前にベッドでじゃれ合っていた時に彼方が言った言葉だ。

「彼方さん…そんな迷信みたいなもの信じてるんですか?」

「うーん、そういうわけじゃないけどさ、あったら素敵だと思わない?次はどんな人生があるんだろう、ってさ。」

「はあ…。私は別にそういうの信じてませんけど。」

自分の話を聞いているのかいないのか、彼方は楽しそうに語りだす。

「僕は、また日向と双子がいいなあ。それでね、今度は友達をいっぱい作りたいな。
 あ、部活とかもやりたい。仲間とかチームとか、そういうのちょっと憧れちゃうよね。
 僕、こう見えて意外と運動神経いいんだよ?何がいいかなー。サッカーとかカッコいいよねえ。
 バスケとか、テニスとかもお洒落でいいかも。でも、野球はナシだなあ。」

「なんで野球は駄目なんですか?」

「野球だと坊主でしょ?それじゃ日向に髪いじってもらえないじゃん。」

「そんな理由…?」

「大事なポイントだよ、それ。」

呆れ顔で聞くと、彼方は大真面目な顔で答えた。
こういうところは本当にブレない。
なんだかんだ言って、やっぱり彼方の根底にあるのは、日向なのだ。

「別にさ、特別なことなんて何にもいらないんだ。幸せになりたいとか、思ってないし。
 泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、たまに友達と喧嘩なんかしちゃったり。
 ただただ平凡で、普通の楽しい学生生活を送りたい。
 ―それでね、また京子ちゃんに恋をするんだ。」

「例え、生まれ変わったとしても、私が傍にいるとは限らないじゃないですか。」

「そうだね。でも、京子ちゃんが遠くにいたとしても、僕はきっと探しに行くよ。
 何度生まれ変わったって、何度でも京子ちゃんのことを探しだす。
 僕、結構しつこい男なんだよ?京子ちゃんだって知ってるでしょ。」

そう言って、彼方は冗談っぽくクスクスと笑った。

彼方は、もしも話をよくした。
あの時の彼方は、すでに現実を諦めていたのかもしれない。
京子は何気ない話と思って聞き流していたが、あの頃の彼方にとっては、何か重大な意味があったのかもしれない。
だって、彼方はいつだって、未来や現実を見ていなかったのだから。


徐々に彼方の呼吸が落ち着いてきた。
取り敢えずは一安心。そう思って、京子は頬を緩める。
少し離れたところで立ち尽くしていた日向も、安堵のため息を吐く。
彼方は、力なく京子に凭れかかっていた。過呼吸を起こした直後で、体に力が入らないのだろう。

「帰りましょう、彼方さん。」

京子は彼方の耳元で優しく囁く。
しかし、彼方はイヤイヤと、子供のように弱弱しく首を振った。

「…嫌だ。」

「私も、日向さんも…貴方のこと、大事に思ってるんですよ。」

「嫌だ…。嫌だよ…。もう、耐えられない…。辛いんだ、生きてるのが…。もう全部嫌なんだ…っ!」

彼方の瞳から、涙がポロポロと零れ落ちる。
絞り出した声は、悲痛な想いに溢れていた。

「彼方…。」

振り返れば、日向が恐る恐ると言うようにゆっくりと近付いてきた。
彼方はもう抵抗などしようともせずに、自分の肩で顔を隠して項垂れていた。
怯えるように、自分に縋りつく腕に力が籠る。

「日向だって、本当は僕がいない方がいいんでしょ…。」

「そんなこと、思ってるわけないだろ。」

「嘘だ…。」

日向は、しゃがみ込んで彼方の顔を覗く。
彼方はそれを避けるように、顔を背けた。

「彼方…。顔上げろ。」

「やだ…。」

子供が駄々をこねるように、彼方は弱弱しく首を振る。
日向は小さく溜息を吐いて、もう一度強い声で彼方の名を読んだ。

「彼方。」

名前を呼ばれても、彼方はしばらく自分の肩に顔を埋めたままだった。
日向はそんな彼方を見つめ、それ以上は何も言わずに、黙って彼方が顔を上げるのを待っていた。
焦った様子も、怒った様子も、困った様子もない。
日向はこうして待つことに慣れているようだった。

自分だったら、痺れを切らして無理やりにでも顔を上げさせようとするのに、日向は焦れる様子もなく、ただ黙って彼方の気持ちが落ち着くのを待っている。
何も言わなくても、日向は自分よりも、ずっと彼方のことをわかっているのだ。
生まれた時からの長い年月、ずっと一緒に過ごしてきたのだから、当然かもしれない。
やっぱり日向には、敵わない―。

「彼方さん。」

京子は彼方を促すように、そっと背中をさする。
やがて、躊躇いながらも、彼方は恐る恐ると顔を上げた。

二人の視線が交わる。
彼方は不安そうに日向を窺う。
そんな彼方とは正反対に、日向は小さな笑みを浮かべていた。

「帰ろう、彼方。帰って、全部やり直そう。大丈夫、まだ間に合うから。」

慈愛に満ちたような優しい顔で、日向は言う。
日向の優しい言葉に、彼方は呆気にとられたように、小さく口をポカンと開けた。
しかし、すぐに目を伏せ、顔を歪める。

「やり直すって…もう無理だよ…。もう全部終わったんだ…。」

「無理じゃない。まだ何も終わってないだろ。」

「終わったよ…っ!誰も…僕のことなんて…もう…。」

彼方は頭を抱えて、痛いほど悲痛な声を洩らす。
細い肩がガタガタと震える。
それでも日向は表情を変えずに、落ち着いたまま、静かな声で彼方の名前を呼ぶ。

「彼方。」

そう言って、日向はそっと彼方の手を握る。
一瞬、驚いたように彼方の体がビクンと跳ねたが、振り払ったりはしなかった。

「俺には、やっぱりお前が必要だ。」

その言葉に、彼方はまた泣きだしそうな顔になった。

「…日向には、あの子がいるじゃない…。」

「うん。でも、彼方にだって、竹内さんがいるだろ。」

そう言われて、彼方は少しバツが悪そうに視線を逸らした。

「彼方。確かに、俺には彼女がいる。友達もたくさんできた。
 バイト先の先輩とか後輩とか…お前が知らないいろんな人と関わっている。
 でも、それは彼方も同じだろ。竹内さんや誠さん、優樹さんも、みんなお前のことを心配している。大事に思ってる。」

「なんで…優樹さんたちのこと知ってるの…?」

「ついこの間、二人に会った。
 彼方と竹内さんと連絡が取れないって、心配して探しに来ていたんだ。」

「…心配なんて…。」

「心配してたよ。俺も、お前のこと、すごく心配して探してた。
 彼方、ずっとほっといて、ごめん。すぐに迎えに行けなくて、ごめん。
 俺は、やっぱり彼方がいないと駄目なんだ。彼方がいる生活じゃないと駄目なんだ。
 彼方に傍にいてほしい。今更だって言われるかもしれないけど…、帰ってきてほしい。」

真摯に語りかける日向に、彼方は一層辛そうな顔をした。
彼方にとっては、耳を塞ぎたくなるような言葉だろう。
日向のために、何もかもを犠牲にしてきたのに。

「ホント、今更だよ…。今更どうしようって言うの…?
 もう前みたいに戻れるわけないじゃん…!」

「戻れるさ。彼方が戻りたいって思うなら、きっと戻れる。
 なあ、彼方。難しいことなんてどうでもいい。彼方の気持ちが知りたい。
 彼方は、どうしたいんだ?」

日向は、真っ直ぐに彼方を見つめる。
彼方はその視線から逃げるように目を逸らした。

「僕は…。」

そう小さく呟き、彼方は迷うように自分を見た。
そして、ゆっくりと日向の方を見る。

揺れている。
生と死。日常と非日常。自分と日向。
相反する両方が、手を伸ばして彼方を誘っている。

迷っているんだ。
諦めて捨てたはずの未来が、すぐそこにあるのだから。
でも、その手を取るのが怖いんだ。
彼方はもう戻れないところまで来てしまっていると、思い込んでいるから。

本当は戻りたいくせに。
生きたいくせに。幸せになりたいくせに。
心の奥底から、「普通」を望んでいるくせに。
そんな未来を、怖がっているんだ。

それなら、自分が背中を押してあげないと。
臆病で弱虫なこの人を導けるのは、自分だけだ。

「彼方さん。彼方さんの好きな方を選んでください。
 誰かのためじゃなくて、本当は自分がどうしたいのか、何が欲しいのか、自分の気持ちに嘘吐かずに、貴方のしたいことを、望んでいる方を選んでください。」

「京子ちゃんまで…そんなこと…。」

彼方は辛そうに顔を歪め、涙を堪えるように唇を噛んで押し黙った。

彼方の気持ちは、グラグラと揺れている。
溢れ出そうな本音をかろうじて押し込めようとしている。
もう少し、もう少しだ。

「彼方。」

「彼方さん。」

真剣な瞳で日向は彼方を見つめる。
京子も願いを込めるように、彼方の名を呼んだ。

「僕は…。僕は…。」

二人の呼びかけに、ずっと黙っていた彼方が唇を震わせて小さく口を開いた。

「帰りたい…。前みたいに戻りたいよ…。もうこんなの嫌だよ…。」

それは、彼方がずっと心の奥底に押し込めていた言葉だった。
堰が切れたように、彼方の瞳からポロポロと涙が溢れ出す。
まるで子供のように、恥じらいもなく彼方は泣き崩れた。

そんな彼方を見て、日向はふっと小さく笑って、両手を広げた。
彼方は嗚咽を上げて、その胸に飛び込む。
日向は彼方を抱きしめるように、優しく背中を擦った。

やっぱり彼方は、最後に日向を選ぶのだ。
なんだか寂しい気持ちになりながらも、京子は安堵していた。
これでこの人の未来は繋がる。自分が一番ではなくとも、それだけで充分だった。

「こら彼方。竹内さんが見てるんだから。…恥ずかしいだろ。」

口ではそう言いながらも、日向は心底嬉しそうに笑っていた。
小さく微笑む瞳から涙が一粒零れる。笑いながら、日向は泣いていた。
本当はずっと、日向も彼方のことを求めていたのかもしれない。

「日向も、京子ちゃんも、どっちも欲しい。どっちも好き。好きだよお…。」

そう言って、彼方は自分にも手を伸ばした。
その腕は力強くて、もう二度と離したくないと言っているようだった。

彼方に抱きしめられる形で隣り合う京子と日向。
なんだか妙な距離感になりながらも、京子の瞳からも涙が溢れた。
彼方が日向を選びながらも自分を選んでくれたことが嬉しくて、彼方が生きていてくれることが嬉しくて、止めようと思っても涙は止まらなかった。

「全く、貴方は本当にワガママですね。」

そんな気持ちを悟られまいと、また天邪鬼な言葉が出る。
涙を流しながらそんなことを言っても、全然隠せてはいないのだけれど。

「そんなの、京子ちゃんが一番良く知ってるでしょ…。」

さっきまで吹雪いていた雪はいつの間にか止み、重たい雲の隙間から星空が覗いていた。
降り積もった雪と、キラキラと輝く満天の星空。
この幻想的な風景は、まるでおとぎ話のラストシーンのようだった。






「やっぱり、ちょっと狭いね。」

すぐ隣で、彼方が囁く。
彼方が言う通り、男子高校生二人が一つのベッドで眠るのは、やはり少し窮屈だった。
それでも、久しぶりに感じる彼方の体温に、日向は酷く安心していた。

「うん。でも、こっちの方が落ち着く。」

「本当に?いつも僕の寝相が悪いって怒るくせに。」

「それはお前が悪い。」

「えー。仕方ないじゃん。寝てる時なんだから。」

不服そうに、彼方は唇を尖らせる。
泣き腫らして目は赤くなり、瞼も少し腫れているが、やけにすっきりとした顔をしていた。

あれから家に彼方を連れ帰り、ベッドに入るころには午前五時を超えていた。
早朝といえど、真冬の空はまだ真っ暗だった。
カーテンの隙間から覗く仄かな月明かりだけがベッドを照らす。

久し振りの二人きりの夜だった。
以前のように固く手を繋いで、身を寄せ合うように眠るのは、いつ以来だろう。
彼方は少し落ち着かない様子でそわそわを視線を泳がせる。日向も目のやり場に困って目を伏せた。
長い間離れていたせいか、お互いに少しぎこちない空気になる。
以前なら二人で寝るのは当たり前で、そのことに何の疑問も抱かなかったのに、今はなんだか妙に落ち着かない。

離れている時間が長すぎたからだ。
きっと、目を覚ましたら以前のように戻れる。
早く眠ろう。そして、明日からは全て元通りになろう。
そう思って日向は、彼方の手を握ったまま目を閉じた。

「…ねえ、日向。怒ってる…?」

ふいに、彼方がポツリと呟く。

「怒ってるよ。勝手に自分で色々と決めて、勝手にいなくなって。
 俺がどれだけ寂しい思いしたと思ってるんだよ。」

「…だから、あの子に逃げたの?」

自分の気持ちを見透かすような言葉に、日向は息を飲んだ。
一度もそんなこと口にしたことないのに。
何故だろう。彼方には、言葉にしなくても伝わってしまうのだ。

「逃げたって…。そういうわけじゃない。」

「僕はね、京子ちゃんに逃げたよ。
 正直、僕のことわかってくれる人なら誰でもよかった。好きなじゃなくてもよかった。何でもよかった。
 …そう思ってたんだけど、いつの間にか、本当に京子ちゃんのこと、好きになってた。
 なんでかな。日向以外の人なんて、どうでもいいと思ってたのに。
 なんかこう…京子ちゃんといると胸が暖かくなって、すっごく安心できたんだ。」

彼方はそう言って、はにかむように、愛おしそうな顔を見せた。
初めて見る表情だった。自分に執着している時ですら、こんな表情を見せたことはない。
彼方は、心底京子に恋をしているのだろう。自分が百合に恋をしているのと同じように。

日向はくるりと寝返りを打って彼方に背を向けた。
こんなことを言うのは、少々照れくさい。

「ごめん。俺も、百合に逃げてたところはあったと思う。
 告白されてとりあえず付き合ってみたけど…最初は、好きとかよくわからないままだった。
 たぶん、一人になるのが怖かっただけなんだ。だから、百合と付き合うことにした。
 誰かが傍にいてくれないと、どうにかなりそうだったんだ。
 でも、百合と付き合っていくうちに百合のこと可愛いって思うようにもなったし…好き…って思うようにもなって…。
 一緒にいて、すごく楽しかった。嫌なこととか、忘れられた気でいた。」

「…寝言?」

「…うん、寝言。」

普段言えないことを、寝言と称して背中越しに呟く。
その言葉を、聞いていて聞いていないフリをする。
幼いころから、二人の間で続けてきた儀式だった。

「そっか。じゃあ、僕ももうちょっと寝言言おうかな。」

そう言って、彼方も寝返りを打つ。
狭いベッドの中で、二人の背中がピッタリととくっついた。

「あのね、こうやってまた日向と一緒にいられるなんて、思ってもみなかったんだよ。 
 本当は、あのまま死んでしまおうと思ってた。もうこれ以上なんて、望んでなかったんだ。
 だから、日向にはもう会わないでおこうって決めてた。会ったら、きっと迷っちゃうから。
 でもね、日向が来てくれてよかった。日向に会えてよかった。
 やり直そうって、元に戻ろうって、そう言ってくれて、嬉しかったんだよ。」

ゆっくりゆっくりと、彼方は「寝言」を呟く。

「でも、やっぱり今まで通りっていうわけにはいかないと思う。そろそろ自立しないとね。
 僕もゆっくり日向離れしないといけないなあ。もちろん、日向も。」

「自立って…またそんなこと…。」

「だって、今はお互いに彼女がいるでしょ?
 いつまでもおんぶにだっこでベタベタしてたら、あの子と京子ちゃんに怒られちゃう。
 中村君の言ってたことってさ、案外正しかったのかもね。確かに僕ら、今までは普通じゃなかったと思う。
 とりあえずさ、手始めに明日からは別々に寝ない?さすがに高校生にもなって同じベッドって言うのはちょっとアレだと思うし。」

「…彼方は、それでいいのか?」

「うん。」

「本当に…?」

「心配しなくても、もう勝手にいなくなったりしないから大丈夫だよ。
 今度離れるとしたら、どっちかが結婚するときかな。」

茶化すように、彼方はくすくすと笑う。

変わっていないように思えて、彼方は変わった。
自分だけしか存在しない狭い箱庭から抜け出して、広い世界を見てきたのだろう。
外見も、内面も、考え方も、随分大人っぽくなったように思う。
それと同時に、二人の距離が近いようで遠い存在になってしまった。

それでも、日向は満足だった。
今は、変わらない温もりがここにあるのだから。

「おかえり、彼方。」

背中越しに、日向は呟く。
一瞬の沈黙の後、鼻を啜るような音が聞こえた。

「ただいま、…日向。」

さっきまで真っ暗だった空は、ゆっくりと明るくなり始めていた。
カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込む。
二人の再会と決別を祝うように、新しい朝が来た。

麻丸。
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麻丸。

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