「解けぬ糸。」
「解けぬ糸。」
―おかしいと思わねえの?
―お前らホモかよ、気持ち悪い。
―普通じゃない。…異常だろ。
頭にフィルターが掛かったように、全てが霞んで見える。
今自分に向けられているのは、歪み切った自分たちの関係への軽蔑の目だ。
自分でも理解はしていた。
普通ではない。こんな関係が普通のわけがない。
考えないようにして、なんとなく考えていたのに、
いざ他人に指摘されると何と答えたらいいのか、わからなくなる。
自分でもこの関係が異常なことくらい、わかっていたのに。
否定も肯定も、弁解でさえ、何一つ思いつかなかった。
「ホモとか…そんなんじゃない…。けど…。」
やっと絞り出した言葉は、途切れる。
何を伝えればいいのか、どう伝えればいいのか、考えても出てこない。
口を塞いで俯く日向を見て、亮太はなんとか話題を変えようとする。
「そ、そういえばさ!えっと…日向は、なんで学校…こないんだ?」
わざとらしさが、亮太らしい。
あの事件の日から、ちょうど一週間立っていた。
「それは…彼方が…。」
言いかけて止める。
先程の話題を、蒸し返してしまうところだった。
彼方に学校に行かせてもらえないなどと、口が裂けても言えなかった。
「彼方のこと心配なのはわかるけど、水曜から期末テストだし、
出席日数のこともあるし、このまま休み続けたら最悪、留年するぞ?」
「ああ…わかってる。」
察したのか察していないのか、亮太の話題は学校のことにシフトする。
いろいろありすぎて、テストのことなどすっかり忘れていた。
テストでいい点を取ったところで、自分の未来がどうこうなるわけじゃない。
日向は変わりつつある環境に、思いを馳せる。
「お前ら進路調査票も出してないだろ?卒業したらどうするつもりなんだ?
まさか卒業しても弟と一緒の大学行く、とか言うんじゃないだろうな?」
しばらく黙っていた将悟が口を開く。
卒業とか大学とか、今はそんな未来のことを何も考えられなかった。
「それは…。」
「いつまでもそうやって、ベッタリ一緒にいられるわけがないんだぞ?
お前にはお前の、弟には弟の人生があるんだから、ちゃんと考えろよ。」
「将悟…。そんなすぐには未来のことなんて、決められないだろ…。」
将悟は曇りのない真っ直ぐな目で語り続ける。
日向は、彼方と離れる未来なんて想像ができなかった。
「見ろ。」
将悟は喫茶店の窓の外を軽く指さす。
そこには幼い子供を抱いた母親と父親が、仲良さそうに歩いていた。
「ああやって普通に卒業して、彼女作って、結婚して、家庭を作って、
子供が生まれて、家族を守るために働く。…それが普通なんだよ。」
将悟は目を細めて呟く。
彼方もいつかは自分以外の女性を選ぶ時がくるのだろうか。
自分もまた、彼方以外の女性を選ぶのだろうか。
窓の外の家族は幸せそうで、それが余計に日向の心を締め付ける。
「そんなの、俺たちにはまだ早いって。」
「早くねえよ。もうすぐ俺らも18だ。
充分に働くことも、結婚することもできる歳なんだよ。
ちゃんと考えろよ。お前らの人生にとって、何が一番いい選択なのかを。」
真面目な顔のまま、二人に諭すように話す将悟。
日向と同じ歳なのに、こんなにもしっかりと未来のことを考えている。
しかし、いくら正論を振り翳されても、どうしようもない未来に耳を塞ぎたくなる。
「お前、一回弟と距離置いたほうがいいんじゃねえの?」
迷いのない真剣な将悟の目。
その視線が日向に突き刺さるようで居た堪れなかった。
「俺…もう帰らないと…。」
日向はこの場から、早く逃げ出したかった。
目に見えない未来など、考えたくはなかった。
「日向…なんかあったら俺に相談してくれよ…。俺ら、友達だろ?」
「…ありがとう。」
日向は小さく呟き、買い物袋を持って立ち上がる。
亮太は少し寂しそうな顔をした後、いつものように豪快な笑顔を見せる。
「明日絶対学校来いよな!絶対だぞ!」
そんな太陽のような眩しい亮太の笑顔が、脳裏に焼き付いた。
日向の背中が見えなくなると、亮太がため息を吐く。
「お前、なんであんなこと言ったんだよ。」
将悟は窓の外を見つめ、考えるように腕を組む。
「別に俺らが口を出すことじゃないけど、なんかムカついた。」
「…なんだそれ。」
亮太は呆れるように肩を落とす。
「日向は優しいんだよ。…優しいから、彼方のことを突き放せないんだよ。」
「だとしても、あいつらはこのままでいいわけないだろ。」
「そうかもしれないけど…。俺ら、まだ高三だぜ?」
「アホか。もう高三だろ。
お前もあいつらと友達って言うなら、ちゃんとあいつらのこと心配してやれよ。
優しくするだけなら他人でもできる。ただ優しくするだけが友達じゃないぞ。」
亮太は、たまに将悟が同い年だとは思えないときがある。
将悟は歳の割に大人びている。見た目も、思考も。
自分たちが想像もつかないような未来のことまで、しっかり考えている。
亮太はそれが誇らしく、どこか寂しかった。
辺りはすっかり夕日が照らしていた。
日向は少し早足で家に向かう。
玄関の扉を開ければ、そこに彼方がしゃがみこんで待っていた。
「…遅いよ、日向。どこ…行ってたの?」
「それは…。」
彼方は不安そうな小さな声で、日向に詰め寄る。
そんな彼方に日向は戸惑う。
まるで捨てられてた子供のような、
今にも泣きだしそうな顔をしていたからだ。
「ねえ、逃げようとしたの?」
日向の腕を掴み、静かな声で問いかける。
小刻みに震える細い指が、日向を離さない。
「…違う。…ちょっとそこで亮太と…中村と会ったから、
少し…話をしていただけだ。」
誤魔化そうかと思ったが、今の彼方にそんな誤魔化しをしても無意味な気がした。
誤魔化しても正直に話しても、きっと彼方は自分に縋りつく。
たった数時間離れただけで、彼方はこんなにも不安でいっぱいになってしまうのだから。
「え…?どうして…?どうして日向が亮太や中村君と会うの!?
なんであの二人なの…?なんで僕よりあの二人のところに行くの…?」
今にも溢れそうな涙を瞳いっぱいに溜めて、彼方は日向に縋りつく。
日向の腕を握る手に力が籠る。
それがまるで彼方の執着心のように、強く、強く。
「…全部聞いた。彼方がやったこと。彼方が言ったこと。全部。」
「え…?」
日向は彼方を真っ直ぐ見つめて話す。
彼方は口をポカンと開け、茫然とした様子だった。
「…僕のこと…嫌いになった?」
消え入りそうな彼方の声。
俯き、日向を掴む腕を静かに見つめる。
「…俺が彼方のことを、嫌いになれるわけがない。」
本心だ。
彼方が自分の知らない誰かを傷つけたとしても、
目の前で傷つき震えている彼方の方が大事だ。
日向は彼方の手を、離せない。
―お前にはお前の、弟には弟の人生があるんだから。
心に突き刺さった将悟の言葉を思い出す。
考えても答えが出ないのなら、今はまだこの手を手放さなくてもいいだろう。
少しずつ少しずつ変わっていける時を探せばいい。
「日向…。ねえ、言って。
…僕がいないと生きていけないって、言ってよ…。」
日向に抱き付くような格好で、彼方は日向の肩に顔を埋めて涙をこぼす。
不安からくる涙か、それとも安心して気が抜けたのか、日向の肩は少し濡れた。
そんな日向の頭を撫でる。
「俺は…彼方がいないと、生きていけない。」
それは、繰り返される呪いの言葉だった。
ここ最近、眠るときはしつこいほどに、彼方が纏わりついてきた。
しかし今日の彼方顔を背けるように壁の方に向いてしまった。
―おそらく「寝言」だろう。
日向も彼方に背を向けて布団に入る。
静かな長い沈黙の後、彼方が小さな声で「寝言」を言った。
「日向は優しいから…。
僕が嫌ならちゃんと言って。日向が僕のこと嫌なら…っ。
今なら、まだ…放してあげられるから…。」
少し涙声が混じるその声を、
日向は無言で聞かないフリをして眠りについた。