「パブロフの双子」
「パブロフの双子」
図書委員の仕事は朝、昼休み、放課後の本の貸し出しや返却などのカウンター作業だ。
日向の担当は毎週金曜日の放課後だった。
別に本は嫌いじゃないし、むしろ静かに過ごせる場所でよかったと思う。
そして、彼方は学校で飼っている鶏や兎の世話をする飼育委員。
日向に合わせて担当を金曜日の放課後にしてもらったらしい。
彼方は動物や子供がよく似合う。
人当たりもいいし、彼方自体が小動物のようだからだろうか。
通学の途中で犬や猫を見つけたら、必ず足を止めて「可愛いね」というほどだ。
今はゴールデンウィーク前の4月の終わり。
もう母親が帰って来なくなって1ヶ月は経っていた。
体の痣も目立たなくなってきた頃だった。
新しいクラスにも、委員の仕事にも慣れてきた。
静かな図書室は勉強をする生徒のペンの音、読書をする生徒の本を捲る音だけが聞こえる。
-静かでいいな-
と日向は思っていた。
カウンター作業なんて忙しいものでもないし、日向は本を読みながら時間が過ぎるのを待つ。
彼方と離れている時間が、とても長く感じるような気がした。
ふと視線を感じて顔を上げると、図書室の片隅で本を読んでる少女と目が合った。
が、少女はすぐ手元の本に視線を戻した。下級生だろうか。あどけない顔に小さな体。
-気のせいか-
他人を視線が合うことなんて珍しくない。
親しくもないのだから無理に声をかけることもない。
そう思い、日向もまた本に視線を落とそうとした。
しかし、廊下からバタバタバタと騒がしい足音が近づいてくる。
バンッ!と勢いよく亮太が入ってきた。
「よー!日向ー。」
片手を上げ、大声を出しながら亮太がカウンターへ来る。
部活中なのか、バスケ部のユニフォーム姿だった。
少し息が上がっているようだった。
「図書室では静かにしろ。」
相も変わらず、亮太は日向に懐いてくる。
どれだけ冷たくあしらっても、グイグイと距離を縮めようとしてくる。
「なんだよー!せっかく委員長様が日向が仕事サボってないか見に来てやったのにー。」
亮太は「委員長」いう言葉を強調する。
それでモテると思っているらしい。
「余計なお世話だ。」
そう呟くと本に視線を戻す。
亮太はカウンターに頬杖をついて日向の読んでいる本の表紙を覗き込む。
「それ何読んでるの?」
「白夜行。」
亮太は表紙を見つめ、本文を覗き込もうとする。
しかし、文字の多さに苦い顔をした。
「へー。俺難しい本なんてわからないやー。」
「別に難しくなんかない。普通のミステリー小説だ。」
「ふーん。」と力ない声で呟き、亮太は図書室を見渡した。
またさっきの少女が、こちらを見ていた。気がした。
亮太がうるさいせいかもしれない。
早くこいつに部活に戻ってもらわないと。
「こんなところで油売ってていいのか?」
「あー…そろそろ部活戻んねえと。」
亮太は手で顔を扇ぐ。ほのかに汗が滴っていた。
深呼吸をひとつして立ち上がる。
バスケ部のキャプテンだけあって体格もいいし身長も高い。
上から見下ろされると威圧感がある。
「じゃー仕事がんばれよー!」
豪快な笑顔で手を振りまたバタバタと騒がしく亮太が図書室を出ていく。
こいつは何をしにきたのだろう。
わざわざ部活を抜けてまで日向のところへ来る理由などないはずなのに。
静かになった図書室は日向の他に数人しか残っていなかった。
下校時刻のチャイムが鳴る。
後は図書室の鍵を閉めて帰るだけだった。
図書室にいる生徒たちも、まばらに帰り支度を始める。
「あの…貸し出しを…お願いしたいんですけど。」
カウンターには先ほど目が合った少女がいた。
日向は記録ノートを広げ、貸し出しの作業をする。
「クラスと名前は?」
「1年3組、新田百合です。」
やはり、あどけない顔つきは1年生だった。
長い黒髪が、艶やかに揺れる。
貸し出す本のタイトルを見て、日向は手を止めた。
先週日向が読んでいた本だ。
-偶然だろう-
そう思い、必要事項をノートに記入して貸し出し作業を済ませる。
「貸し出し期間は1週間だ。来週金曜日まで。」
「はい、ありがとうございます。」
少女は軽くお辞儀をして、自分の荷物をまとめて図書室を出て行った。
もう図書室には残っている生徒はいない。
-鍵閉めて彼方を迎えに行くか-
日向は飼育小屋で鶏や兎と戯れているであろう彼方のもとへ行くことにした。
校舎裏の片隅。そこに飼育小屋がある。
下校時刻も過ぎて辺りに人影はほぼなかった。
彼方は膝の上に兎を乗せ、空を見上げていた。
「彼方、帰るぞ。」
声をかけると、彼方はこちらを見て微笑む。
日向が彼方の傍に歩み寄ると、彼方は兎の頭を撫で、ふと目を伏せる。
「なんか…帰りたくないなあ。」
時々彼方は家に帰りたがらない。
そういう時は決まって嫌な予感がするらしい。
そして彼方の嫌な予感は、当たる。
「馬鹿言うな。帰るぞ。」
彼方は小さく頷いて、兎を膝から降ろす。
帰る場所はあの家しかないのだ。
他にどこにも行く場所なんてないのだ。
夕暮れの並木道に、二つの小さな影が揺れる。
彼方はいつもよりも言葉少なだ。
学校から徒歩15分。川沿いの古びた小さな一軒家。それが二人の家だ。
日向は鍵穴に鍵を差し込み、違和感を覚える。
鍵が開いている。
間違いない。母親が帰ってきている。
ドアを開ければ見慣れた女性用のくたびれた靴。
彼方の体が強張った気がした。
リビングへ行くと、散らかった酒瓶。
テーブルに酔い伏せる母親がいた。
「た、ただいま…」
消え入りそうな彼方の声。
これからどうなるのかは、わかっていた。
「あら…帰ってきたの…」
顔を上げる母親の顔は憔悴しきっていた。
しつこいくらいの香水の香り。アルコールと煙草の臭い。
フラッ、と立ち上がった母親は二人の前に立つ。
「…どうして…」
聞き取れないくらい弱弱しい声。
振り上げられた右手が日向の体を突き飛ばす。
「日向…っ!」
日向は背中に鈍い痛みを感じる。
力任せに背中を壁に叩きつけられる。
怯えきった彼方の声が聞こえる。
「どうしてどうしてどうして…っ!どうして私だけ…っ!」
母親は金切り声で瞳に涙を浮かべ、二人を責める。
腕を、胸を、腰を、足を感情に任せた暴力が襲う。
彼方もまた、怯え、逃げ場をなくし、一方的な暴力を受ける。
抵抗してはいけない。
中途半端に抵抗すれば、この地獄が長く続くだけだ。
母親の気が済むまで、耐えるしかない。
日向は唇を噛み、目を伏せて無言でこの時が過ぎるのを待つ。
彼方は「ごめんなさい…ごめんなさい…」と小さな声でうわ言のように呟き続ける。
-アンタたちのせいで-
-なんで私だけ幸せになれないの-
-産まなきゃよかった-
-死んでしまえばいいのに-
-そしたら私は幸せになれるのに-
幼いころから繰り返される呪文は、
体の痛みよりも酷く、心に突き刺さった。
自分たちが何か悪いことをしたのだろうか。
生まれてきたこと自体が罪ならば、責任を持って殺してくれればいいのに。
何も聞こえないふり。
何も感じないふり。
この時間は永遠などではないのだから、心を殺して、耐える。
やっと、足音が遠ざかる。
玄関を開けた音がした。
母親は、またしばらく帰ってこないだろう。
どれだけ殴られただろう。
体は節々が痛み、真新しい痣だらけになっていた。
母親がいなくなり、荒れた部屋はとても無機質に感じる。
「ごめんなさい」と呟きながら泣きじゃくる彼方を連れ、日向は自室へ向かった。
日向は重い足を引きずり、彼方に温かいコーヒーを淹れてやる。
沈黙が重々しい。
コーヒーが冷めるころには、彼方も落ち着きを取り戻していた。
涙で真っ赤に腫れあがった目。
制服を脱いだ体は、所々変色し痛々しいほどだった。
彼方は冷めきったコーヒーを両手に包み、
カップの中の自分を見つめながらポツリポツリと声を絞り出すように呟く。
「今日はいつもより激しかったね。
あーあ。今年は海行って泳げるかと思ったんだけどなあ。
こんな体じゃまた一年中長袖かなあ。
今年はどうやって言い訳しようか?」
彼方は殴られた後はいつもよりよく喋る。
まるで「自分は平気だ。これくらいいつものことだ。」
と自分に言い聞かせるように他愛のない話をする。
日向に心配をかけないようにいつもどおり振る舞おうとする。
その痛々しい笑顔が、いつも日向の心に重くのしかかる。
「さすがに夏場に寒がりだから長袖なんだーとかはもう通用しないよねえ。
あ!蚊に刺されやすいからーとかどう?駄目かなあ。
日焼けしたくないからーとか言ったら馬鹿にされそうだしなー。
ねえ日向はどう思う?」
-その笑顔になりきっていない笑顔が-
「…やめろ。」
「え?」
絞り出した声が、思った以上に強張っていることに気づく。
ポカンとした彼方の顔が一瞬で不安に染まる。
「俺の前で無理して笑うな。俺に気を使うな。
辛いなら、泣いて…いいから。」
真っ直ぐに彼方を見つめながら諭す。
そんな自分の方が泣きそうになっていることに気づいた。
いくら殴られたって、いくら暴言を吐かれたって涙など出なかったのに、
自分の前で無理して強がる彼方の顔を見ているのが何よりも辛かった。
目頭が熱くなるのを感じる。
「…じゃあ、ちょっと甘えていい?」
彼方は泣きそうな顔をして、日向の胸に顔を押し付け腰に手を回し、
正面から抱き付くような姿勢をとった。
日向からは彼方の顔が見えない。
彼方の体は少し震えていて、服越しに伝わる体温はほんのり冷たかった。
それが悲しいような切ないような不思議な気持ちになって、涙の溢れる瞳を、手で覆った。
「あのね、日向は泣かないから。だから、僕も…っ、
日向の前では泣かないようにしてるんだけど…っ。」
ぐすっ、と鼻を啜る音がする。
彼方も泣いているのだろう。
「僕…っ、弱くてごめんね。泣かないようにしてるのに…
いつもすぐ泣いて、ごめんなさいって許しを求めて…っ。
日向だって同じなのに…助けてあげたいのに…
泣きたいのは…っ、日向だって同じなのに…っ。」
日向の腕の中で嗚咽が漏れる。
自分と同じ背中が、やけに小さく感じる。
「…俺はっ…泣いてない…っ。」
詰まる言葉に、鼻を啜る音。
日向が泣いていることは彼方にもバレている。
でもそれを知ってても、知らないふりをしてくれる。
「うん…そうだね。」
それが彼方の優しさだ。
全部わかっているくせに言葉には絶対に出さない。
暗い部屋に、二人の嗚咽だけが響いた。
日向と彼方はいつも二人で一つの部屋で過ごす。
ベッドも二人には狭いシングルベッド一つだ。
暴力を受けた後はいつも手を繋ぎ、お互いを慰めあうように寄り添って眠る。
それが、この悪夢の中の唯一の幸せだった。
始まりは何だったのか、いつからだったのかなんんて覚えてはいない。
ただこれが、二人にとっては当たり前のことだった。
触れる体温はすっかり暖かくなっていた。
日向はふと、今日読んだ本を思い出した。
-自分たち二人とは環境は違うけれど、あの本の主人公はどうしたんだっけ…-
微睡む思考を押し込め、重くなる瞼を閉じた。