「ぼやけたピント。」
「ぼやけたピント」
眩しいほどの夏の日差しが煩わしくて、家中のカーテンを閉めた。
それでも完全な暗闇にはならなくて、彼方は頭から布団を被った。
真っ暗な、ほとんど身動きのできない狭い空間。
隣には日向がいるはずで、その狭い世界が全てだったのに。
自分を避けるように、学校へ行ってしまった日向のことを考える。
―いつまでも好きでいてくれる保障なんてねーだろ!?
日向の口からそんな言葉が出るなんて意外だった。
いつも不安や嫉妬を、口に出して依存するのは、自分だった。
日向はただ黙って、そんな自分の傍にいてくれる。
ただ黙って、縋りつく自分に依存してくれていた。
「未来なんて…そんな不確かなもの…。」
目に見えない不確かな未来を思うより、
手の届くこの狭い箱庭を守る方が、はるかに容易い。
自分のしたことが過ちだとしても、日向の隣を、奪われたくはなかった。
二人だけの箱庭。狭いけれども幸せな世界。
それを日向も望んでいると、心の底で信じていた。
日向は無口だ。よく言えばクール。
少し口下手なところがある。
それでも、何も言わなくても、
お互いに相手の言いたいことは、なんとなく伝わっていた。
いつも自分が「女の子から告白された。」と言えば、
「付き合ってやればいいのに。」と素っ気なく返す。
それは、なんとなくだけれども、自分が、日向以外を選ばないことを、
日向がなんとなくわかっているからこそ、言える余裕であると思う。
なんとなく。そんな不確かでも、確かな、絆で結ばれていた。
一人になると、日向のことばかり考えてしまう。
昨日、亮太と将悟に会ってから、日向の様子がおかしい。
いや、自分が日向にキスをした時からだろうか。
奪われたくないから、日向の気持ちを確かめたいから、キスをした。
けれど、逆に日向を困らせてしまったのかもしれない。
本当は、その一線を越えてはいけないことは、わかっていた。
ただどうしても、確証がほしかった。
日向は優しいから、自分を振り払わない。離れていかない。
日向の隣は自分だけ。ずっと一緒に生きていける。
そんな確証が、欲しかった。
自分が日向に依存していることは、充分わかっている。
この依存は、恋心と同じだ。
自分は日向に、恋をしている。
そう思うたびに、日向を閉じ込めてしまいたくなる。
誰にも合わせず、誰とも話させず、ただ自分だけを見てほしい。
未来の話を言われても、日向が別の女性と付き合うとか、
キスするとか、想像できない。したくもない。
自分以外の人に、触れてほしくない。
―好きな人を嫌いになるほど嫌なことってなんだろうなーと思って。
―…浮気、とか?
ふいに、いつかのキッチンでの会話を、思い出す。
彼方は、目を見開き、困惑した。
「…どうしよう…。」
自分は許されないことを、してしまったのかもしれない。
道徳や法律や人道なんてものじゃない。
ただ一人、何をしてでも守りたかった日向に、
許されないことを、してしまったのかもしれない。
もしかしたら日向は、もう二度と、
自分に笑いかけてくれないかもしれない。
嫉妬に狂った自分の軽率な行動で、日向を傷付けてしまった。
日向の未来に、自分の居場所は、もうないのかもしれない。
だからこそ、進路の話をしたのだろう。
二人が、別々の未来を、歩むために。
きっと見限られたのだ。
だから日向は、自分を置いて行ってしまったのだ。
彼方は、あまりにも軽率に、
不誠実なことをしてしまった自分を、死ぬほど恨んだ。
日向の未来に、自分の居場所がないのなら、
自分はどうすればいいのだろう。
日向のいない世界を、どうやって生きていけばいいのだろう。
いつかのように、泡になってしまえばいいのか。
泡になって消えてしまっても、日向は悲しみすら、しないかもしれない。
ぐるぐると、不安が渦を巻く。
「どうしよう…どうしよう…独りぼっちになっちゃう…。」
ドクドクと、心臓がうるさい。
呼吸が荒くなり、上手く息ができない。
眩暈がする。体が言うことをきかない。
彼方は苦しくなる呼吸に、胸に手を当て、布団の中でうずくまる。
体が熱い。そして寒いような不思議な感覚。
息苦しさに、生理的な涙が溢れる。
必死で息を吸って吐く。呼吸の仕方を忘れたように、
ただ、口を開いて荒く、浅く、息を吸い、吐き出し続けた。
―…息が、できない。…このまま死んじゃうのかな…。
涙がとめどなく流れる。
頭にフィルターがかかったように、何も考えられない。
ただ、死んでしまいそうな息苦しさが続く。
徐々に遠くなる意識に、彼方は瞼を、閉じた。
放課後。
HRも終わり、明日から始まるテストに向けて、
徐々に生徒たちが帰っていく。
日向も帰ろうと、鞄に荷物を詰め込んでいた。
「うあー!もうテストとか憂鬱!部活もできねえし!」
「お前は部活サボってばっかだろ。」
「うるせー!サボっててもやる時はやる男なの!俺は!」
「はいはい。」
背中越しに、いつも通りテンションが高い亮太と、
呆れ気味の将悟の会話が聞こえる。
「しょーごはそのツラで意外と勉強できるとか詐欺だよなー。」
「お前がただの馬鹿なだけだろ。
赤点取ったら追試とかで夏の大会出られなくなるぞ。」
「…それはマズい…!高校生活最後の大会を追試で逃すとか笑えねえ…。」
「じゃあ諦めて猛勉強しろよ。」
「えー。じゃあ将悟が俺に勉強教えろよー。」
「嫌だ。お前うるさくて勉強にならねーだろ。」
「ええー。あ!そーだ!」
トントンと、亮太に肩を叩かれる。
「日向!勉強教えて!」
振り向いた日向に、亮太は満面の笑みで、大型犬のように懐いてきた。
「いや、今日は早く帰らないと…彼方が」
「まーた弟かよ。」
日向が言い終わる前に、将悟が吐き捨てるように言う。
金髪の隙間から、銀のピアスが揺れる。
将悟は少し挑発的な瞳で、真っ直ぐに日向を見つめてくる。
「おい将悟やめろよ!日向だってちゃんと考えてるんだから!」
亮太が牽制するように、将悟の方を見て言う。
しかし、将悟は構わずに口を開く。
「お前、そんなに弟のことが大事なら、
それこそちゃんと、アイツの幸せを考えてやれよ。」
「…ああ。わかってる。」
昼休みの屋上での亮太との会話で、
将悟が嫌味で言っているわけじゃないことは、わかってた。
ただ、答えが出ない今は、あまり挑発しないように言う。
「じゃあ、また明日。」
日向はそれだけ言って、教室を後にする。
あれ以上あの場所にいても、また喫茶店のようなことになるだけだ。
今はそんなことよりも、家に残した彼方のことが心配だ。
二人は、静かに教室を出ていく日向を見送った。
亮太は小さくため息を吐き、将悟の方を見る。
「将悟はさー、どうしてあんな言い方しかできないかなー。」
「大事なことだからこそ、甘やかしたらダメだろ。」
「日向もさ、あれからちゃんと考えてるんだって。あんまり焦らせるなよ。」
「アイツらは、誰かが厳しく言ってやらねえと、変われねえだろ。」
将悟は机から教科書類を鞄に詰め込みながら言う。
亮太はその様子を見つめながら、自分も鞄を開く。
「そんなん、親が言えばいいことじゃん。」
「そうだけど…てか、アイツらの親は何も言わないわけ?」
「さあ?そういえば二人とも親の話あんまりしないよなあ。」
「てか、親も見分けついてんのかな。」
「さすがにわかるだろ…。」
呆れたように、亮太はわざとらしく両手を開いて見せる。
そんな亮太を見て、将悟は自分の少し長い襟足を、指で遊ばせながら呟く。
「てかアイツらもちゃんと見分けられるように、
髪型とか変えたらいいのにな。」
「そんなこと言って…、将悟みたいな髪になったら嫌だぞ。」
「…これはポリシーだ。」
将悟は少しむくれたように、亮太から視線を逸らした。