「破滅への介入者」
「破滅への介入者。」
病院に運ばれた彼方は、腕に点滴を繋がれながら、静かに眠っていた。
まるで世界と掛け離されたような、無機質な空間。
そんな部屋の片隅で眠る彼方を、
日向は椅子に座って、ただ黙って見つめていた。
トントン。
病室をノックする音がする。
入ってきたのは、人が良さそうな、綺麗で身長が高い女医だった。
「おうちの人には連絡してくれた?」
落ち着いた大人の女性の声。
真っ直ぐ日向を見つめる、凛とした瞳。
「母親は仕事で…これないって…。」
嘘だ。
きっと電話をしたところで、取り合ってもらえない。
「お父さんは?」
「…いません。」
「…そう。ごめんなさいね。」
少し気まずそうに、女医は日向から目を逸らす。
「あの、彼方は…どうなるんですか…?入院とか…」
不安そうに目を伏せて呟く日向を見て、女医は優しく微笑みかける。
「今日は目が覚めたら帰っても大丈夫よ。
でも、また後日ちゃんと診察しましょうね。」
「病気…なんですか?」
日向は彼方を見つめたまま、女医に問いかける。
膝の上で握った拳に、少し力が入る。
「さっき彼方君がなったのはね、過換気症候群って言って、
強いストレスを受けた時に、心がそれに耐えられなくなって、
発作みたいな症状を起こすの。過呼吸って聞いたことない?」
「過呼吸…?」
ドラマや映画で少しだけ聞いたことがある。
そんな画面の中のことが、実際に起こるなんて思ってもみなかった。
「本人は死んじゃうほど苦しいけど、それで死ぬことはないから安心してね。
強い不安やストレスに、心が耐えきれなくなって、体が危険信号を出すの。
それが過呼吸。思春期の子は特になりやすいの。
…最近彼方君、何かに悩んだりしてなかった?」
「悩み…。」
心当たりがある。
しかし、言えるわけがない。
「君たち高校三年生よね?進路のこととか、将来のこととか、
そういうので不安がいっぱいになって過呼吸起こしちゃう子は、
意外と多いのよ。もちろん大人だって。
誰にでも、なる可能性はあることなの。」
彼方が過呼吸を起こしたのは、間違いなく自分のせいだと、日向は思う。
自分があんなことを言わなければ、彼方を苦しめないで済んだのに。
後悔ばかりが押し寄せる。どうして、どうしてこうなってしまったのだろう。
「治るんですか…?」
「大体は、その不安を解消してあげたり、
ストレスから遠ざけてあげると発作もでなくなるわよ。
でも、何もかもから逃げることなんてできないから、
彼方君の悩み次第ね。」
きっと彼方は二人でいる未来を望んでいる。
それを引き裂こうとしたから、こうなった。
だとしたら、別々の将来なんて描いてしまったら、
彼方の症状は繰り返すだろう。
日向は、決意が、揺らいでしまいそうだった。
「あとね、一応、念のため、しばらくは精神科に通ってもらおうと思うの。」
「精神科…?」
「何も変じゃないわよ。偏見持たないでね。
ただカウンセリングをして、彼方君を精神的にケアしてあげるの。
それで問題がなかったら通わなくていいし、何かあったらちゃんと治療してあげないと、
また発作で苦しむのは彼方君だからね。」
女医は、日向の不安を取り除くように、ゆっくりとした口調で説明する。
精神科という、一般的に抵抗のある話だからこそ、丁寧に、丁寧に。
「彼方は…おかしいんですか…?」
「おかしくなんてないわよ。思春期なんて多感な時期だから、
些細なことで深く傷ついたり、間違ったことをしちゃう子も多いの。
それで正してあげるのが大人の仕事よ。
だから、彼方君は、なにもおかしいことなんてないのよ。」
日向は、その柔らかい声と笑顔に、少しだけ安心した。
握った拳から力が抜ける。
女医は眠ったままの彼方に一瞥する。
「彼方君はまだしばらく眠ってそうね。
場所を変えて、少しお話ししましょうか。」
そう言うと女医は、日向に病室の外に出るように促した。
通されたのは、「カウンセリングルーム」と書かれた部屋だった。
普通の無機質な診療室とは違い、壁は薄いクリーム色で塗られ、
観葉植物やぬいぐるみなどが並べられていた。
そしてソファと机があるだけの、シンプルな部屋だった。
「そんなに緊張しないでね。ちょっとお話聞くだけだから。」
ソファに向かい合って座る。
自分と同じくらいの身長の女医が、何故かとても大きく感じた。
「さっきね、救急車で運ばれてきたときに、彼方君、すごい抵抗したの。
あんなに苦しそうなのに、嫌だ嫌だって。
それで、点滴の前に、ちょっと眠たくなるお薬を入れて、
眠ってもらったんだけど…。
彼方君は、何か病院を嫌がるような理由はあるのかな?」
「親に…心配かけたくなかったんじゃないですか。」
「そう…。こんな時でも、お母さん忙しそうだものね。」
真っ赤な嘘だ。
今の日向には、彼方を守るために、嘘を吐くことしかできなかった。
「彼方君のほっぺ…、
ちょっと腫れているみたいだけど、どうしたのかわかる?」
「友達と…喧嘩したって…。」
「…そう。まあ、高校生くらいだったら、友達と喧嘩くらいあるわよね。
少し、体にも痣みたいのがあったけど、それも喧嘩かな?」
「多分…そうだと思います。」
「そっかー。…じゃあ彼方君は何に悩んでいたのか、わかる?」
「…さあ。…進路、とかじゃないですか。」
誘導尋問のようだ、と日向は思う。
女医は手元のカルテだろうか、紙にメモを取りながら、話し続ける。
「高校三年生かあ。難しい時期だもんね。日向君は進路どうするか決めた?」
「まだ、はっきりとは…。」
「そう。ゆっくり決めたらいいわ。
って言いたいけど、あと半年しかないもんね。焦るわよね。」
歯切れの悪い返事に、女医は困ったような笑顔を日向に向ける。
こんなことを聞いて、どうしようというのか。
「彼方君とは、別の大学とかに行くつもり?」
「…わからないです。」
「彼方君ね、発作起こしながら、ずっと日向君の名前を呼んでたの。
…よっぽど慕われてるのね。でも、少し…」
何かを言いかけた女医の言葉を遮るように、
トントンと扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ。」
女医が応答すると、若そうな看護師が遠慮がちに扉から顔を覗かせた。
「白崎先生、あの…」
小さく手招きをし、女医を廊下の方へ呼ぶ。
白崎と呼ばれた女医は、小さくため息を吐き、席を立つ。
「ちょっと待っててね。」
日向は扉の向こうへ消えた白崎の背中を確認してから、
大きくため息を吐き、脱力する。
滅多に来ない病院独特の無機質で、閉鎖的な、
緊張感が漂う雰囲気に、飲み込まれそうだった。
思えば、面と向かって一対一で、
こんなに大人と話をするのは久しぶりだった。
浮気をして離婚したらしい、顔も覚えていない父親。
酒と香水の香りを染み込ませて、暴力を振るう母親。
二人の周りには、ろくな大人がいなかった。
だからこそ、あの女医も信用できない。
彼方に「精神異常者」というレッテルを貼って、どうしようというのか。
自分たちのためだと言い聞かせ、離れ離れにするつもりだろうか。
どこに行っても将来の話ばかりだ。
そんな不確かなものを描けと言われてところで、どうしようもない。
いっそこれまで通り、二人で生きていく方が楽な気さえする。
ここまで考えて、日向は自嘲の笑いがこぼれた。
彼方の手を離すつもりだったのに、
別々の将来を歩むことを決めたはずだったのに、
やはりいつも、躊躇って、手を離すのを拒み、縋り続けているのは、自分自身だ。
「彼方のためだ」とか言いながら、結局は自分を守るためだ。
弱くて狡くてみっともないのは、自分だ。
日向は両手で顔を覆って俯く。
―情けなさすぎて、笑えてくる。
ふいに、またトントンと扉をノックする音が聞こえる。
返事を待たずに、先程の看護師が、遠慮しがちに扉を開ける。
「あの…、高橋彼方さんが目を覚ましたので、病室に来てください。」
「…はい。」
彼方が目覚めた。
日向は看護師の後を追い、逸る気持ちを抑えて病室に向かう。
少し歩き、病室の目の前の廊下に差し掛かったところで、日向は異様な雰囲気を感じた。
開いたままになっている彼方の病室からは、騒がしい声が漏れていた。
「彼方君、落ち着いて。ね?」
「やだっ…日向は?…ねえ!日向はどこ…?」
「今呼んできてもらってるから。大丈夫よ。」
「どこ…。日向…日向…っ!」
「落ち着いて。すぐ日向君来るわよ。」
取り乱したような彼方の声と、宥めるように優しく静かな白崎の声。
日向が病室の目の前まで来ると、ベッドの上で不安そうな彼方と目が合った。
「日向…!」
彼方が日向の方へ向かおうとするが、白崎が手で制止する。
「まだ寝てなきゃ駄目よ。」
ベッドから起き上がった彼方は、少しふらついているように見えた。
おそらく先程の「眠たくなる薬」のせいだろう。
日向は彼方の傍に寄ると、彼方は日向に身を預けるように、抱き付いてくる。
「日向…いなくならないで…っ。」
緊張の糸が切れたのか、彼方は日向の胸で縋りつくように、泣き出してしまう。
日向は静かに彼方の背中に片手を回し、もう片方の手で彼方の頭を撫でてやる。
「…大丈夫だから。落ち着けって。」
その様子を、難しい顔をしながら、白崎と看護師は黙って見ていた。