「耳を塞ぐ未来。」
「耳を塞ぐ未来。」
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
けたたましい音をかき鳴らす目覚まし時計を止め、日向は体を起こした。
隣ではまだ、彼方がスヤスヤと寝息をたてて、眠っている。
結局昨日は、彼方の髪を切らずに終わった。
今もまだ、日向の手の平には、
彼方の脈が、ドクドクと鳴る感触が残っているような気がした。
何故自分はあんな馬鹿なことをしてしまったのだろう、と
日向は、まだ少し眠たい頭で考える。
彼方を殺したいわけじゃない。
自分も彼方に死なれては、生きてはいけないのだから。
衝動的だった。無意識だった。
ただ、そこに、彼方の白く細い首筋があったから。
それだけとしか言いようがないくらい、
自分自身、その突拍子もない行動に驚いたのだ。
隣に目をやれば、彼方の白い首筋が、布団から覗いていた。
日向は邪念を振り払うように、首を左右に振って、起き上がる。
彼方の寝顔は、まるで子供のように、あどけなかった。
そんな彼方をまだ起こさずに、朝食の用意をしようと台所へ向かう。
魚を焼きながら、心地よいリズムでねぎを刻む。
そのねぎを味噌汁の中に入れ、卵をボウルに割り入れる。
毎日繰り返す作業は、慣れたものだった。
魚もいい感じに焼け、皿に乗せたところで、
彼方が眠そうな目をこすり、台所へやってくる。
「おはよー。」
「おはよう。もうできるから、お米よそえよ。」
彼方は眠たそうに、ふらふらと日向の傍まで来る。
「はーい。あー今日は和食だぁ!」
まだ途中の料理をみて、彼方は嬉しそうな顔をした。
彼方は和食が好きだ。だから朝はなるべく和食を作る。
日向は嬉しそうな彼方の顔が、好きだった。
手際よく、味噌汁をよそい、サラダを盛り付ける。
彼方はその様子を、うきうきした表情で見ていた。
「日向はお料理が上手だから、コックさんになれるかもね。」
日向の手が止まる。
彼方の口から出た言葉は意外なものだった。
「未来」だとか「将来」だとか、そういうものを避けていたはずなのに。
いつも通りを装いつつ、日向は静かに問う。
「彼方は…何になりたいんだ?」
「あー…。まだ、決めてないや…。」
無意識に言ったのだろうか。
その表情は、少し困ったような、悲しそうな顔だった。
「…そうか。」
食卓に出来上がった食事を並べる。
テレビからは、夏らしい海やプールの映像が流れていた。
席に着き、日向が口を開く。
「今日、学校行くか?」
「うーん…。」
彼方の鈍い返事に、追い打ちをかける。
「今日から期末テストだぞ。」
「尚更行きたくないね。それ。」
難しい顔をして、眉間に皺を寄せる彼方。
彼方はあまり勉強が得意ではない。
「そんなこと言ってると、卒業できないぞ。」
日向は呆れながら、魚をつつく。
そんな日向を見て、彼方は小さな声で、ボソッと呟く。
「いいよ。卒業できなくて。」
「彼方…。」
「いや、ううん!ごめん!そんなことないよね!」
彼方は、わざとらしく取り繕って見せる。
そんな様子を見て、日向は静かに話す。
「別々の人生って言ったって、そんなにすぐ離れるわけじゃない。
俺たちの帰る家は、ここだけだ。」
「また…その話…。」
食事を摂る彼方の手が、止まる。
少し落ち込んだような彼方は、箸をいた。
「ちゃんとお互いの幸せを考えろって、中村が言ってた。」
構わず続ける日向に、彼方は耐えきれずに、立ち上がる。
「幸せって…日向は僕の幸せがわかる?
僕の幸せは…っ!日向とずっと一緒にいることだよっ!!
なんで…なんでわかてくれないの!?」
激昂したような、懇願するような瞳で、日向を見つめる。
その手は少し震えていて、変わることを拒んでいるようだった。
「彼方…。」
「ごちそうさま。もういらない。」
吐き捨てるような言葉を残して、振り向きもせず、
逃げるように彼方は自室の方へ行ってしまう。
テレビの音だけが響く部屋には、
まだほとんど手を付けられていない温かい食事と、日向だけが残った。
将悟はため息を吐いた。
隣の席で寝息をたてている男は、テスト中だと忘れているのだろうか。
机に伏せて、力なく右手に握ったペンは、今にも床に落ちそうだった。
朝の会話を思い出す。
「徹夜で勉強したから、赤点は絶対とらねえ!」
徹夜で勉強しても、テスト中に寝てしまったら意味ないだろうと、将悟は思う。
テスト開始直後からうつらうつらとしていた亮太は、
ほとんど解答欄を埋めていないだろう。
亮太が赤点を取ったところで、自分には何の関係もないが、少し良心が痛む。
将悟はわざと音を立て、床にペンを落とす。
それに気づいた試験官が、将悟の近くまで来て、そのペンを拾う。
試験官に礼を言い、亮太の方をチラッと見ると、
亮太は目を覚まし、時計を確認して、絶望的な顔をしていた。
残り時間は10分だった。
自業自得だ。
ふと、斜め前の席に目をやれば、日向が頬杖を突き、窓の外を見つめ、
心ここにあらず、というような背中が見えた。
―どいつもこいつも、何やってるんだか…。
すっかり埋まった解答用紙を見つめ、将悟はもう一度、小さくため息を吐いた。
「しょーごー!!!どうしよう…赤点確実だ…。」
一つ目のテストが終わると同時に、亮太は将悟に泣きついた。
「さすがに、テスト中に昼寝とかありえねえわ。」
呆れたように、開いた教科書から視線を移さず、将悟は言う。
大げさに頭を抱え、将悟を真っ直ぐに見つめる亮太。
「寝てるつもりなんて全然なかったんだよ!
ただ、気が付いたら意識がなかったんだ!」
「ホント、お前馬鹿だわ。」
将悟は肩を落として、亮太の額を指で弾く。
「いってぇ!」
「目、覚めたか?」
「寝てねーってば!」
「嘘つけ。ぐっすり寝てただろ。」
額を押さえ、涙目で痛みに耐える亮太。
そんなやり取りをしているうちに、次のテストの予冷が鳴る。
日向は、相変わらず、ただ黙って、窓の外を眺めていた。
次のテストが始まり、夏の日差しが差し込む静かな教室では、
ただペンを走らせる音だけが、響いていた。