「不器用な言葉」
「不器用な言葉。」
太陽がてっぺんまで来た頃、一日目のテストが全て終わった。
午前だけで学校が終わり、ほとんどの生徒は明日のテストに備えて勉強をする。
しかし、後ろから聞こえてきた声は、呑気なものだった。
「っあー!やっと終わったー!日向!どっか飯でも食いにいこーぜ!」
「いや、お前はちゃんと勉強しろよ。違う意味で終わるぞ。マジで。」
日向に懐いてくる亮太を見て、
将悟は教科書を丸めて、亮太の頭を容赦なく叩く。
バンッと、いい音が響く。
「ったー!!今ので暗記全部飛んだ!鬼!」
「るせー。お前今日のテスト、絶対散々だろ。」
「あれはちょっとだけ眠くなったせいで…。」
「だったら飯食いに行かねーで、帰って勉強して寝ろ!」
「だって俺、勉強苦手なんだって!
なんかさー、勉強してたら部屋の散らかりが気になって、
片付けてたら弟たちのやりかけのゲーム見つけて、それで朝まで…」
「お前…それ、ただ徹夜でゲームしてただけじゃねーの!?」
「えっと…うん…。」
将悟は再び亮太の頭を叩く。
そんな、二人のいつも通りの微笑ましいやり取りを見て、
日向は、まるで馬鹿犬と飼い主のようだと思う。
金髪にピアス、着崩した制服の田舎のヤンキーのような風貌の男が、
「真面目に勉強しろ」だなんて似合わなすぎる。
実際、海と山だらけの田舎のヤンキーみたいなものだけれど。
「てか、高橋。…弟、来なかったな。
あいつ、テスト休んで進路どうするんだよ。」
ふいに将悟に呼ばれる。
将悟が日向に向ける目は、いつもどこか、威圧的な感じがする。
鋭い目が、日向を真っ直ぐに見つめる。
いや、睨みつけるような瞳だった。
「彼方は…、ちょっと…体調崩してるから。」
事実だ。
彼方の体調も、精神的な面も、万全とは言えない。
また発作を起こしでもしたら、自分はどうしたらいいか、わからない。
「どうだろうな。…あんなことした手前、学校に来づらいだけじゃねえの?」
控えめに言う日向に、将悟は挑発的な笑みをこぼし、鼻で笑う。
この男は何が気に入らないのか、何かと日向に絡んでくる。
「それもあるだろうけど…。彼方は今本当に体調崩してる…から。」
「ただの意気地なしじゃねえか。だらしねぇ。」
「そんなこと…」
「本当に、お前らそんなんで、…これから、どうするんだよ。」
そんな重々しい空気での二人のやり取りを、
黙って聞いていた亮太が、ドンと一回机を叩き、口を開く。
「だーかーらー!なんでお前はそんな言い方しかできねえんだよ!
俺は二人のこと心配してますよーって普通に言えばいいだろうが!」
「…はっ!?べ、別に…、心配とか…してねえし!」
将悟は亮太の言葉に驚き、照れたように顔を赤くし、怒りながら亮太の頭を叩く。
亮太は、そんな将悟に構わずに続ける。
「日向ごめんなー。こいつ本当は、お前らのことめちゃくちゃ心配してるんだけどさー、
口が悪すぎて喧嘩売ってるようにしか聞こえないわけよー。」
「だから、そんなこと言ってないって!」
真っ赤に染まった顔は、照れ隠しに怒りの表情になろうとするが、
恥ずかしさのあまり、上手くいかないみたいだ。
亮太は立ち上がり、笑いながら将悟の教科書を持つ手首を掴んで、叩くのをやめさせる。
バスケ部で身長の高い亮太と、平均的な男子高校生の身長の将悟が並んで立つと、
結構な身長差があり、なんだか可笑しな光景だった。
「いやー、ホントにさー、日向がいないところでも、
俺に日向はどうしてるー?とか、彼方はどうしてるんだー?って、
そりゃもう頻繁に聞いてくんの。オカンかよって思うくらい。」
「え…?」
「別に…ただ気になっただけで…心配したとかじゃ…ねーからな!」
これでもか、というくらい照れて、恥ずかしくて真っ赤になった顔を、
その細い腕で隠し、そっぽを向く将悟。
今まで態度は全部、照れ隠しだったのだろうか。
なんだかおかしな将悟の様子に、日向は耐えきれず、小さく笑みをこぼす。
「…ははっ。…中村、ありがとうな。」
珍しく笑みをこぼす日向を見て、二人は顔を見合わせて、
驚いたように口をポカンと開けた。
「お前…ちゃんと笑えるんじゃねーか。」
「なんか俺、初めて日向に笑ってもらった気がするー!」
将悟が満足げに笑う。
亮太は心底嬉しそうな顔をして、日向に抱き付くように、
その大きな体に包みこむ。
「あ、おい、亮太…重いって!」
体重がかかると、さすがに日向では亮太を支えきれない。
ふらつく足元で、亮太を引き剥がす。
「高橋。お前はさ、…もっと、感情を表に出した方がいいぞ。」
「…え?」
「ちゃんと笑えるんだから、
いつもみたいに、黙って、不愛想にしてなくてもいいんじゃねーかってこと。
そんなんじゃ、何も伝わらねーぞ。」
将悟はまだ少し恥ずかしそうに、照れながら、日向に言う。
いつものような挑発的な瞳は、もうなかった。
「…ああ。ありがとうな。」
小さく笑う日向に、将悟も笑みをこぼした。
太陽が燦々と照り付ける帰り道。
さっきまで亮太と将悟と談笑していたからか、一人になると少し寂しく感じてしまう。
日向は額から流れる汗を拭い、家までの短い距離を歩く。
途中には、地元の人でもあまり立ち寄らない海辺が見渡せる道がある。
―すっかり夏だな。
そう思い、その海辺を見渡してみると、
よく知った顔の少年と、大人の女性と、犬が遠くの海辺で戯れているのが見えた。
彼方だ。
日向は彼方に駆け寄ろうとするが、今朝のことを思い出してしまう。
―僕の幸せは…っ!日向とずっと一緒にいることだよっ!!
今はそっとしておいたほうがいいのだろうか。
そう思い、遠くの彼方を見つめる。
彼方は楽しそうに犬とじゃれあい、女性と笑い合っていた。
ふと、犬と目が合ったような気がした。
その瞬間、犬は物凄いスピードで日向の方へ走ってくる。
どんどん近づいてくるその犬は、思ったよりも大きい。
「え…?」
嬉しそうに舌を出し、荒い呼吸で日向に近づく。
日向の目の前まで来たところで、顔を擦り付けるように、
日向の足や腕にじゃれ付く。
「あ…お、おい…。」
日向は犬が苦手だ。
苦手というより、どう扱ったらいいのかわからないのだ。
言葉も通じないし、こんな大きな犬を制御する方法など、日向は知らない。
日向が戸惑いながら立ち尽くしていると、遠くから彼方が駆け寄ってくる。
「日向!学校終わったの?」
「ああ。今日は午前中だけだから…っと、おい、こら。…うわ!」
犬はそんなことお構いなしで、その大きな体を日向に擦り付ける。
その体格通りの重みで、日向は尻餅をついてしまう。
「あ!こらリッキー駄目だってば!日向が困ってるでしょ!」
彼方は、器用にリッキーを日向から引き剥がす。
嫌な顔を一切せずに、飼育委員をするくらいの動物好きの彼方は、
何故か動物の扱いに昔から慣れていた。
彼方がリッキーを手懐けている間に、日向は立ち上がり、彼方の背中に隠れる。
動物の扱いに慣れていない日向に、この大型犬を制御するのは不可能だ。
彼方には悪いが、盾になってもらおう。
「おい。なんでこんなところに犬がいるんだよ。」
情けなくも、彼方の後ろに隠れながら、日向は問う。
よく見れば、彼方の全身がびしょ濡れになっていた。
「えっと…それは…」
「ごめんなさい!大丈夫?…ってあれ?君たち…兄弟?そっくりねー。」
彼方が説明しようとすると、遠くから女性が小走りで近づいてきた。
女性は二人の顔を交互に見て、驚いたような表情を見せる。
「ああ、僕ら双子なんです。」
「…どうも。」
いつものように、人当たりよく紹介する彼方。
そして日向は、彼方の後ろから顔だけを覗かせ、短く挨拶する。
「あらー、そうなの。珍しいわね。
…でも、そっちのお兄ちゃんは犬苦手なのね。」
少し困ったような表情で笑う女性に、リッキーは嬉しそうに寄り添う。
日向はリッキーが離れたことを確認して、彼方の横に並ぶ。
その様子を彼方は可笑しそうに見ていた。
「苦手っていうか…。」
「日向は犬が苦手なんじゃなくて、どうしたらいいか、わかんないだけだよね?」
言いかけて口ごもる日向に、彼方がわかったように言う。
心が読めるのではないかと思うくらい、日向の思っていることを当てる彼方。
日向は小さく頷く。
この感覚は、久しぶりな気がする。
昔から彼方は、口下手な日向の気持ちを汲み取って、代弁してくれる。
言わなくても、なんとなく、お互いの考えていることがわかる。
しかし、最近はお互いに、お互いの考えていることが、わからなくしまっていた。
「リッキーは噛んだりしないから大丈夫よ。ちょっと撫でてみる?」
女性はリッキーに「お座り!」と言うと、リッキーは大人しく女性の前に座る。
そして手本のようにリッキーの頭や首を、ゆっくりと撫でて見せる。
リッキーは気持ち良さそうに、目を細めていた。
「いや、俺は別に…。」
「ほらほら、見て日向!リッキー凄い大人しいよ!」
彼方は嬉しそうに、リッキーの背中を撫で回しながら言う。
その光景が妙に似合っていて、まるでブリーダーのようだな、と日向は思った。
日向は、しばらくじゃれあう彼方とリッキーを見つめていた。
「彼はトリマーとか、似合いそうよねえ。」
少し離れて彼方とリッキー見ていた日向に、女性が近づいて笑いかける。
よく見れば、少し腹部が膨らんでいるように見える。妊婦だろうか。
「彼方は、結構不器用ですよ。」
「あら、そうなの。でもあれだけ動物が好きなんだから、
ブリーダーとかもいいと思うわ。」
「…はあ。」
「進路、悩んでるんですって。あ、あと…好きな人もいるみたいよ。」
日向にだけ聞こえるように小声で、
少し意地悪そうな、子供のような笑みとウインクを見せる女性。
「…そうなんですか。」
彼方の好きな人。
それはきっと、自分のことを言ったのだろう。
こんなところで、見知らぬ女性に悟られたくない日向は、
適当にそっけない返事をする。
「ずっと一緒にいる子だって。幼馴染の子かな?
あ…でも、双子だったら、同じ子を好きになっちゃうとか、あるのかな?」
意外と口が軽いらしい。
楽しそうに人の恋路をペラペラと話す女性。
「それはないですよ。…絶対、ないです。」
「そうなの?…でも、双子なのに、性格は全然違うのね。」
女性は、まじまじと素っ気ない態度の日向の顔を見る。
犬は飼い主に似ると言うが、本当にリッキーとそっくりな、懐っこい笑顔だ。
大きな黒目をくりくりさせ、首をかしげる。
「…そう見えますか?」
「ええ。君はなんていうか…猫っぽいわ。けど、彼は犬っぽいわよねー。」
「…自分はわからないですけど、確かに彼方は犬っぽいかもしれませんね。」
「そうよねー。懐っこいし、表情コロコロ変わるし、リッキーみたいよね。」
「…そうなんですか。」
リッキーみたいと言われても、日向にはリッキーがどういう犬なのかなんてわからない。
むしろ、ニコニコと楽しげに話すこの女性に似ていると、日向は思う。
女性はお喋りだとよく言うが、この女性もその通りだ。
素っ気なく返す日向に、怯みもせず、喋り続ける。
「あ、ねえ、君はもう進路決めたの?」
「いえ、まだ…ハッキリとは決めてません。」
「…そう。若いうちってね、何度でもやり直しがきくっていうけれど、
絶対に戻らないことだってあるのよ。…だから、後悔しないようにね。」
ふいに真剣な声のトーンになる女性。
その顔は、少し悲しそうに微笑んでいた。
その顔は、まるで張り付いたような笑顔だと、日向は思った。
「わわっ!リッキー、ちょっと…うわ!」
楽しそうにリッキーと戯れていた彼方は、じゃれあううちに何度も転んだり、
尻餅をついたりしていて、ボロボロになっていた。
いつの間にか濡れた服や体には、砂が大量にこびりついている。
「おい彼方…誰が洗濯すると思ってるんだ…。」
彼方の姿を見て、日向は呆れながらため息を吐く。
それに気付き、彼方は立ち上がり、砂を払う。
リッキーはまだ遊んでほしそうに彼方に纏わりつく。
「ごめん日向…。僕も洗濯手伝うから。」
申し訳なさそうに微笑む彼方。
リッキーは尻尾をブンブンを振り回して、嬉しそうにしている。
「え?君が洗濯するの?お母さんは?」
女性は驚いた表情で、日向の顔を見る。
「…母さんは仕事で忙しいから、家事は俺がしてます。」
「そうなの?えらいわねえ。まだ高校生なのに。」
余計なことを言ってしまったかもしれない、と思い、日向は顔を背けると、
女性は感心したように、日向の頭に手を添えて、優しく撫でる。
まるで子供扱いだと、日向は思った。
その様子を、彼方は無表情で見ていた。
「…別に、普通です。彼方、そろそろ帰るぞ。」
頭を撫でる手か妙に暖かく、優しく、日向は気恥ずかしくなる。
その手を除けるように、日向は彼方の方へ少しだけ寄る。
リッキーが苦手だから、少しだけ。
「うん。…お姉さんありがとう。リッキーもまたね。」
彼方はリッキーと共に、女性と日向に近づき、リッキーのリードを女性に渡す。
日向は近づいてくるリッキーに、少しだけ、後退りした。
そんな日向を見て、女性は口元に手を当て、クスリと小さく笑った。
「今日はごめんねー。リッキーのせいでびしょびしょになっちゃって。」
「いえ、家近いから大丈夫です。」
そんな二人の会話を少し離れたところから見ていた日向は、
二人がまるで、普通の親子のようだと思った。
そんな暖かい思い出など、自分たちには、ないのだけれど。
「またいつでも、ここでリッキーと待ってるからね。…頑張ってね。」
女性は、彼方にしか聞こえないような小さな声で、耳打ちする。
進路や恋の話に、興味深々なのだろう。
「はい…。また、会えたらいいですね。」
彼方は曖昧な返事と、曖昧な笑顔で返した。
もう会うこともないだろうと思い、悩みを話したけれど、
思った以上に、仲良くなってしまった。
人前で堂々と話せないような恋の話の続きなど、言えるわけがない。
これ以上、関わるのはやめたほうがいいと、思ってしまった。
海岸を離れ、静かな緑溢れる山の傍、申し訳程度に舗装された道路を歩く。
海から来る潮風と、山の木々の日陰で、海岸よりは少し涼しく感じる。
「あんなところで何してたんだ?」
「ちょっと…家にいたくなくて、海見に行ってたら、リッキーに懐かれちゃって。」
日向が小さくため息を吐く。
「…彼方、犬臭い。」
「ええっ!?そうかなー?」
「帰ったらすぐシャワー浴びろよ。」
「はーい。」
言葉はなくても、いつの間にか仲直りできる。
そうやってお互いを求め合い、許しあい、生きてきた。
けれど、これからはそうもいかないことを、日向はわかっている。
日向はもう一度ため息を吐き、口を開く。
「…好きな人がいるんだって?」
「え?」
ポカンと口を開け、何のことかわからない、といった様子で日向を見つめる彼方。
「あのおねーさん、意外と口軽いぞ。」
「ええ!?」
驚いた様子で、ポカンと開けていた口をパクパクさせる彼方。
日向は呆れた様子で彼方を見る。
「余計なこと、言ってないだろうな?」
「当たり前だよ…。言えるようなことじゃないし…。」
日向の静かな口調に、
恥ずかしそうに、気まずそうに、彼方は俯き、
もじもじとパーカーの袖を握る。
「わかってるなら、いい。…もうそういうこと、言うなよ。」
「日向…。」
彼方は、その言葉が少し冷たいような気がして、立ち止まる。
前を歩く日向の、自分よりも少し小さい背中は、
確実に、少しづつ遠ざかっているように見えた。
まるで、心の距離のように。
「…好きなままでも、いいから。でも、他の人には言うなよ?」
振り返らずに言う日向の言葉は、素っ気ないが、優しい気がした。
しかし、そんな日向の表情を見るのが少し怖くて、彼方は日向の後ろを静かに歩いた。
そして山と海ばかりを田舎道を超えて、家に着く。
玄関の扉を開けたら、見慣れたハイヒールが、脱ぎ散らかっていた。