「気付きたくなかった想い。」
「気付きたくなかった想い。」
まだ少し薄暗い朝、目覚まし時計よりも早く、目が覚めた。
隣を見ると、彼方は、抱きしめるように自分の体に縋りついていた。
日向は、その少し切なそうな彼方の寝顔を見つめ、物思いにふける。
手を離さなければいけないのに、
結局、縋りつく腕を、離せないままでいる。
未来など、不確かだ。
将悟や亮太に言われて、自分の未来、彼方の幸せを考えてみたところで、
結局、他人に言われて感化された理想論しか、描けない。
そんな普遍的な理想を、本当に自分は、幸せだと思えるのか。
そして、どんなに目に見えない未来を考えたところで、彼方の幸せは、
結局、自分といることなのだろうか。
運命の赤い糸。
そんな話を思い出す。
自分に繋がっている相手なんて、わからないけれど。
むしろ、自分と繋がっている人間なんて、いないかもしれないのに。
糸が、絡まって解けない気がした。
自分の糸と、彼方の糸。
このまま絡まり続けて、ぐちゃぐちゃになってしまう気がした。
目に見えない理想を描くよりも、このままこの箱庭で閉じこもったままの方が、いいのかもしれない。
けれど、亮太や将悟の顔を思い出すと、そうもいかないと思ってしまう。
少し前までは、二人で生きていくことを、当たり前だと思っていたのに。
気付かないふりをしていても、ゆっくり、でも目紛しく、
どんどん、静かに、環境が変わっていっているような気がした。
その度に、暗にこの関係が、この環境が、異常だと言われている。
それでもやっぱり、子供のように泣いて縋る彼方の手を、
日向は離せるわけがなかった。
―いっそ、彼方から手放してくれたらいいのに。
自分から振り払うことなんて、できない。
何度決意したって、彼方の縋る瞳に、心が引き裂かれる。
その涙で揺れる瞳で、簡単に、決意は揺らぐ。
結局、聞き分けのいいフリをして、自分も、変わることを拒んでいるのだ。
悪い夢でも見ているのだろうか、眉を寄せて、切なそうな彼方の寝顔。
そのまだ少し腫れが残る頬に、そっと、触れてみる。
彼方は昔から泣き虫だ。
身長も体も、自分より少し大きくなったけれど、
幼いころと何一つ変わっていなくて、彼方を守るのが自分の役目だと思っていた。
そして、勝手に強くなったつもりでいた。
本当の自分は、こんなにも弱くて、惨めで、滑稽なのに。
双子じゃなかったら、よかったのに。
どちらかが女だったらよかったのに。
そしたら、誰に咎められることもなく、一緒にいられるのに。
―ああ、俺も、彼方のことが、好きなんだな。
そんな自覚なんてなかったはずなのに、
許されることはない自分の気持ちに、気付いてしまう。
恋だとか愛だとか、そういうものはよくわからないけれど、
静かな寝息をたてる彼方を見ていると、胸が締め付けられるようだった。
「ん…日向?」
そんなことを考えていると、彼方が目を覚ましたようだった。
まだ少し眠そうなトロンした目を開け、彼方は自分の頬に、
日向の手が添えられていることに気付く。
その日向の手に、自分の手を添える。
「僕ね、日向に撫でられるの、好き。」
「…そうか。」
軽く、日向の手に頬ずりをする。
「日向の手が、好きだよ。」
日向は、柔らかく笑うその顔が、心底愛おしいと思ってしまう。
触れる体温は暖かくて、なんだか少し、切なくなった。
「俺は、彼方の笑顔が好きだ。」
無意識に口をついた言葉。
彼方は一瞬意外そうな顔をして、またすぐ笑顔に戻る。
「…ふふっ。両思いだね。」
その顔は本当に嬉しそうで、日向も嬉しいはずなのに、
心がキュッと締め付けられるようだった。
ああ、世界に二人だけしか存在しなかったらよかったのに。
そしたら、未来や将来や人目なんかで悩まなくても済むのに。
この世界は生き辛い。
倫理や、道徳や、法律や、世間体なんて、
気にしないで生きていられたらいいのに。
ただ「好き」という感情があるだけで、一生一緒にいられたらいいのに。
叶えては、いけない恋だ。
望んでは、いけない恋だ。
そんなことがわからないほど、もう子供じゃない。
けれど、彼方を不安にさせて、過呼吸を起こす姿を、もう見たくなかった。
だからこそ、今はその思いに、何も言えなくなっていた。
「彼方、今日学校行くぞ。」
「え…でも…。」
その言葉に、戸惑う彼方。
「またしばらくあの人が帰ってくるかもしれない。」
「あ…そっか。…そうだよね。…でも…。」
家にいたところで、母親が帰ってきたらまだ虐待の日々だ。
また彼方が苦しむ。過呼吸を起こすかもしれない。
少しでも、そんなことになるのを避けたい。
歯切れの悪い返事の彼方に、日向は軽く、彼方の頭を撫でながら言う。
「気まずいなら、彼方は保健室とかにいてもいいから。
とにかく、家に一人でいるのはダメだ。」
「うん…。わかった…。」
静かに頷く彼方の瞳は、不安に揺れていた。
「俺もいるから、大丈夫だ。」
日向は、彼方の手を、力強く握った。
百合の朝は早い。
学校から家まで電車で三駅の距離があり、
電車の時間も一時間に一本しかないからだ。
三駅と言っても、田舎の駅と駅の間の距離は相当なものだ。
百合は毎日学校まで一時間かかる距離を通っている。
いつもクラスで一番に学校に着く。
そして、まだ誰もいない教室で、一人静かに窓を眺めるのが日課だった。
―あれから11日。
先週の月曜日のことを思い返す。
自分は浮かれていたのだ。
思い返せば、彼は日向とは全然違う人間だったと思う。
顔はよく似ていたけれど、彼は、自分が好きになった日向ではない。
日向は、あんなに卑しい笑い方をする人間ではない。
あんなに下賤な目で見つめる人間ではない。
あんなに強引な人間ではない。
「好きだ」と言われて、浮かれた自分は、
そんなことにすら、気づかなかったのだ。
毎週、図書室に通って、見つめていたのに。
何が好きだ。何が恋だ。聞いて呆れる。
あんなに焦がれていたのに、日向じゃないことを見抜けなかった。
彼に弄ばれたことよりも、好きな人を間違えた自分に、腹が立った。
それこそ、日向に失礼なことをしたと思う。
結局、悪いのは自分だ。
間違えてしまった自分が悪いのだ。
―私の気持ちって、そんなものなのかな。
最初に日向を見た時は、綺麗な人だと思った。
誰も寄せ付けず、華麗で優雅な一輪の花のようだと思った。
まるで、自分と違う世界を生きているかのように見えた。
その姿に目を奪われて、いつの間にか、
遠くからただ黙って見つめるのが癖になっていた。
そして気づいたのだ。
時折、少し寂しそうに見える瞳に。
儚く、触れたら壊れてしまいそうな瞳に。
その瞳は何を映すのか、何を思うのか。
最初は本当に、興味本位だった。
見つめているうちに、日向のことが知りたいと思った。
知りたいと思ったからこそ、毎週図書室に通い、遠くから見つめ、
同じ本を読み、声をかけるようになった。
そうしているうちに、自分は日向のことが、好きになっていた。
理由なんて曖昧なものだ。
ただ、気づいたら目で追っている。
その瞳に映るものを、一緒に見たいと思った。
その内に秘めた思いを、知りたいと思った。
日向の世界に、自分を映してほしいと思った。
ただ、それだけだ。
言葉で説明するのは難しくても、
自分は、確かに、日向のことが好きだった。
本当に、好きだった。
あんなことがあっても、日向のことを忘れられずにいた。
―日向先輩には、私の気持ちを、まだ…伝えていない。
この思いを伝えないまま、終わるのは嫌だった。
伝えないと、自分で納得できない。
自分自身を、許すことができない。
伝えたところで、付き合える保障もないし、
これまでの関係が崩れてしまうかもしれない。
また彼が酷いことをするかもしれない。
それでも、自分の気持ちに嘘を吐きたくはなかった。
百合は、自分に正直に生きていたかった。
―ちゃんと、伝えよう。ちゃんと伝えて、そして、謝ろう。
百合は誰もいない早朝の教室で、可愛らしいメモ用紙にペンを走らせた。