「断ち切る未練」

 「断ち切る未練」


生徒もほとんど家に帰り、学校はすっかり静かになっていた。
将悟が保健室を去ってから、結構な時間が経った気がする。
彼方はベットに横たわり、日向はそのベッドの淵に腰かけていた。

「帰りたくないなあ…。」

憂鬱そうな、気怠い彼方の呟き。
その視線は、どこか遠くを見ているようだった。

「彼方…。病院、いくか?」

日向は少し言い辛そうに、視線を逸らして言う。
外から吹く風で、カーテンがゆらゆら揺れる。

「…どうして?」

彼方も遠くを見つめたまま、呟く。
こんなに近くにいるのに、視線が交わることは、ない。

「最近、発作多いだろ。…病院行って、ちゃんと診てもらおう。」

日向は視線を落とし、膝の上で組んだ両手を見つめる。
なんとなく、目を合わせ辛かった。

きっと将悟は、自分に言ったようなことを、彼方と話してたのだろう。
自分がちゃんと答えを出さないから、ちゃんと決意できないから、
だから彼方まで巻き込んでしまったのだろう。
発作の引き金は、きっと、自分が決めかねている将来の話だ。

結局、彼方を苦しめているのは、優柔不断な自分ではないのか。

「…このまま死んじゃえたらいいのにな。」

静かな保健室で、彼方はポツリと呟く。
その言葉は、生暖かい潮風に攫われて、消えていくようだった。

「馬鹿言うな…。」

絞り出した声は、少し震えていて、
日向は、自分の不安や情けなさが、声になって滲み出ている気がした。

「日向は、僕がいなくても生きていけるよ。」

静かに呟く彼方の言葉に、呼吸が止まりそうになる。
彼方がいない世界なんて、想像できない。
自分はそれほど強い人間では、ない。

「日向は、強いから。きっと、大丈夫だよ。」

顔を上げた日向の瞳には、彼方の悲しそうな笑顔が映った。

思えば、最近彼方は笑わなくなった。
作り笑顔が多くなった気がする。
昔は何もなくても、馬鹿みたいにニコニコと、自分の隣で笑っていたのに。
彼方は、自分のことを考えて、心配をかけないように、困らせないように、
笑顔になりきれていない笑顔を、繰り返す。
日向は、そんな下手な作り笑いをさせている自分に、嫌気がさした。

「…そんな顔するくらいなら、無理して笑うな。」

いつもの彼方に向ける優しい声ではなく、辛く、押し殺したような声に、
彼方は少し驚いたような顔をして、またすぐ笑顔を取り繕って見せる。

「無理なんて、してないよ。」

悲しそうな、辛そうな気持ちを押し殺すような笑顔が、
なんだか自分の知らない彼方のような気がして、
日向は何故か、とても恐ろしく感じた。

「でもね、一つだけ…お願いがあるんだ。」

そう言って笑顔のまま日向の手を優しく握る彼方。
その手は、少し震えていた。

「お願い…?」

「うん。…ワガママは、今日で全部最後にするから。」

真っ直ぐ日向を見つめる彼方の瞳は揺れていて、
今にも泣きだしてしまいそうなのを、
無理矢理な笑顔で押し込めているようだった。




二人はそのまま帰路の途中にあるスーパーに寄り、家に帰った。

玄関を開ける手が少し震えたが、母親はいないようだった。
しかし、リビングは荒れ果てていて、そこらじゅうに空の酒瓶が散らかっていた。

「あの人が帰ってくる前に、やるぞ。」

日向はそう言って、荷物を置いて上着を脱ぐ。

「うん。あ、汚れちゃうから、僕タオル持ってくるね。」

彼方も上着を脱いで、脱衣所の方へタオルを取りに行く。
その様子を見て、日向は散らかった酒瓶を片づけて、床に新聞紙を敷く。
そして、買い物袋から、先程スーパーで買った染毛剤を取り出す。

赤みがかった茶色の染毛剤。
彼方が選んだものだった。

新聞紙を敷いた上に椅子と鏡を用意する。
そして、古い傷だらけの戸棚の中から、ハサミを取り出す。
幼いころから自分の髪も、彼方の髪も、このハサミで日向が切ってきた。

手先が器用だからといって、それほど役に立つことはない。
料理なんて、レシピを見れば誰だって、それなりのものができる。あとは慣れだ。
散髪だって、昔からやってきたからこそ、慣れで、なんとなくできるだけだ。
自分にできることなんて、限られている。

そんなことを考えているうちに、彼方が脱衣所からタオルを持って、日向の方へ来る。

「襟、邪魔になるからシャツも脱げよ。」

「…なんかその言い方、えっちだね。」

彼方は嬉しそうに、クスクスと笑う。
その言葉に、日向は冗談交じりに小さく笑う。

「じゃあ、脱がせてやろうか?」

「えー?そう言われると、ちょっと恥ずかしいよ。」

こんな風に笑い合えたのは、久しぶりな気がした。
最近は、見えもしない未来を考えて、少し神経質になりすぎていたのかもしれない。

彼方はシャツのボタンを外し、ゆっくりと脱いでいく。
シャツの下に着ているTシャツは、少し汗ばんでいた。
そんな彼方の肩にタオルをかけて、日向は、ハサミと櫛を持って彼方の後ろに立つ。
彼方の柔らかい髪に触れると、一昨日のことを思い出して、少し手が震えた。

「大丈夫だよ。日向は優しいから、そんなこと…できないよ。」

見透かしたように彼方が呟く。
日向は、呼吸が止まるかと思った。
そんなことを気にもせず、柔らかく、しなやかな彼方の黒髪は、
まるで甘えているかのように、日向の指に絡みついてくる。

「例えばさ、僕が日向に殺してくれってお願いしても、きっと日向はできないと思う。
 日向の手は優しいから。だから、人を傷付けることなんて、きっとできない。
 優しくて温かくて、綺麗で繊細な日向の手。
 僕はね、そんな日向の手が、好きなんだよ。」

いつもより饒舌な彼方。
彼方が饒舌な時は、何かを隠している時だ。
隠していることを悟られないように、饒舌に他の話題で気を逸らす。
彼方は、その隠し事は絶対に言おうとしないことも、わかっている。
だから聞かない。聞けない。

「…死ぬとか殺すとか、あんまり馬鹿なことを言うなよ。」

「…そうだね。ごめん。」

彼方は手鏡を持ち、鏡の中の自分を見つめながら呟く。
すっかり伸びた黒髪が揺れる。

「今日はいっぱい日向に触れてほしいな。」

「いつも触れてるだろ。」

「うん。だけど、今日は日向の指で、いっぱい触れてほしい。」

その言葉は少し寂しそうで、鏡を覗いても、彼方の顔は見えなかった。
日向はゆっくり、ゆっくりと、手櫛で彼方の髪を梳かす。
痛みのない綺麗な黒髪が、指をすり抜けていく。

「本当に、染めるのか?」

「うん。」

「なんでいきなりそんなこと…。」

「うーん。なんでかな?」

顔だけで振り返って見せた彼方は、おどけたように首を傾げて笑った。
亮太に殴られたという頬は、すっかり腫れが引いていた。
日向は小さくため息を吐き、彼方の髪にハサミを入れ始める。

「いつもとおんなじくらいでいいよな?」

「うーん、夏だから、いつもよりちょっと短めにしてほしいかも。」

「わかった。」

静かな部屋でハサミの音が響く。
彼方は目を閉じて、自分の髪に触れる日向の存在を感じていた。

「日向もさ、彼女作ったら?」

「それは彼方もだろ。せっかくモテるんだから。」

「そんなことないよ。…でも、僕が本当に彼女作ったら、日向はどうする?」

繰り返された質問は、何故かいつもと違う気がした。
彼方は何かを試しているのだろうか。
その声は「いつも通り」を装っているようで、変な違和感を感じる。

「…ちゃんと応援するよ。」

本心ではない。
けれど、自分に引き止めることなど、できない。
彼方の口から、紡ぎだされる言葉は、何故か遠いもののように感じた。

「…僕も、日向に彼女ができたら、ちゃんと応援するよ。」

瞳を伏せている彼方の表情は、読めなかった。
冗談でもこんなことを言うはずがないのに。
何かが、掛け違っているような気がした。

これが普通なのだと、わかっている。
けれど、日向は心に、もやもやとしたものが渦巻いた。

日向は余計なことを考えないように、無心でハサミを動かした。



「こんな感じで、どうだ?」

一通り切り終わり、肩に付いた髪を払って日向が言う。

「うん、すっごくスッキリした!」

彼方は手鏡を見て、短くなった自分の髪に触れて笑う。

「よし、じゃあ次はカラーだな。」

日向は染毛剤を手に取り、パッケージを眺める。
昔から散髪はやってきたが、カラーなどしたことがない。
少し不安に思いながらも、パッケージの裏の細かい説明書きをじっと見つめる。

「こういうの、やったことないから…変になっても怒るなよ?」

「日向なら大丈夫だよ。たぶん。」

「たぶん、って…。」

曖昧な言葉に、ため息を吐く。
彼方は、甘えるように嬉しそうな顔を見せる。

「染毛剤、服に付くと大変だから、上全部脱げよ。」

「えー、またそんなえっちなこと言うー。」

茶化したように笑う彼方。

「馬鹿なこと言ってると、やってやらないぞ。」

「えー。…恥ずかしいから、あんまり見ないでね。」

そう言った彼方は、ゆっくりとTシャツを脱ぐ。
露わになった体は、自分と同じで、痣や切り傷だらけの醜いものだった。
日向は、黙ってその肩にタオルを掛けなおしてやる。

日焼けなんて一切していない白い肌に浮かぶ紫の痣は、
まるで淫らに咲き乱れる花のようだとも思った。

自分に背を向けて座る彼方の細い体が、痛々しくて、でも妙に愛おしくて、
ふいに、何処かに消えてしまいそうな不安に駆り立たれて、
日向は両腕を彼方の首に回し、抱き付くように頭を肩に凭れかかる。

「日向?」

彼方は驚いたように、振り向こうとする。
しかし、俯いた日向の顔は見えない。

「なあ、なんで俺たち双子なんだろうな…。」

絞り出した声は、とても情けないもので、
自分でも、無意識に口走った言葉に驚いた。

「ごめん、なんでもない。」

慌てて彼方から離れようとする日向。
しかし、彼方はそんな日向の腕を掴んだ。

「いきなり、どうしたの?」

真っ直ぐに日向を見つめる彼方。

「なんでもない、から。」

日向は、自分の情けなさに恥ずかしくなり、顔を背ける。
彼方の腕の力は強く、離してはくれない。

「ねえ、僕のこと…好き?」

答えてはいけないような気がした。
この気持ちは、閉じ込めて置こうと決めた気持ちだ。
もし答えてしまったら、自分の気持ちが雪崩れ込んでいきそうで、怖くて言えなかった。
いっそ、言ってしまえたら、どれだけ楽なことだろう。
しかし、それは許されない。

「…っ。」

彼方は、顔を背け黙ったままの日向を見て、悲しそうに笑った。

「ごめんね。困らせるつもりじゃないんだ。」

彼方は日向の腕を引き、その細く長い指に、自分の指を絡ませる。

その指先から、日向の暖かい体温が伝わってくる。

「もう子供じゃいられないことは、わかってるつもりだったんだ。」

そう言った彼方は、指を一層強く絡ませた。




カラーを終えた彼方が、シャワーを済ませてリビングに戻ってくる。
茶色に染まった髪は、まだ少し濡れていた。

「カッコいい?」

「ああ、カッコいいよ。…でも」

「ん?」

―まるで別人みたいで

「何でもない。」

見たことのない彼方。
いつもより少し短い茶髪が、ドライヤーの風に煽られて揺れる。
日向が好きだった、彼方のしなやかな黒髪はもうない。




少しづつ変わっていく環境に、日向は息が詰まりそうだった。




麻丸。
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