「衝突」
「衝突」
追試が始まり、亮太はない頭で必死に解答欄を埋める。
再追試になんてなったら、週末の部活の大会に出られないかもしれない。
全ての教科が追試の時点で、既に大会出場が危うい。
この追試だけは、なんとか赤点を免れなければいけない。
そんなことはわかっていても、頭に浮かぶのは百合のことばかりだった。
空気に流されて告白して、フラれたけれど、自分はまだ百合のことが好きだった。
―俺も…そんなワガママで、諦めが悪い男だったら…どうする?
そんなことを言ってしまったが、百合の日向への強い想いは知っているし、
自分に『これ以上』がないのもわかっている。
しつこくして嫌われるよりも、いい相談相手として傍にいられればいい。
自分にできることはただ一つ、百合の幸せを願うだけ。ただ、それだけ。
教室の中央の方には、彼方の背中が見える。
彼方は何を思っているのだろう。
あんなことをして、何事もなかったように学校に来て、
いつものように楽しそうに笑って、女子たちに囲まれている。
しかし、自分たちと話をすることもなくなったし、
何故か学校では日向を避けているような気がした。
日向と彼方の間に、何があったのかは知らない。
『あの日のこと』は、誰にも言わない約束をした。
―それが百合にとって一番いい。
将悟がそう言ったから、自分も黙っている。
けれど、いつものように振る舞う彼方を、許せるはずがなかった。
一人だけが幸せそうに振る舞うのを、許せなかった。
彼方のせいで百合は苦しんだのに。
自分だって、百合を傷つけられて冷静ではいられないほど、苦しかった。
あの日、彼方を殴ったのは衝動的だった。無意識だった。
ただ反射的に、体が動いてしまった。
百合を傷つけておきながら、おどけてみせる彼方が、許せなかった。憎かった。
馬鹿なことをしたとは思っている。
暴力で何も解決しない。そんなことはわかっている。
けれど、あの時は自分を止められなかった。
彼方を殴ったことに、後悔もない。
あの日、彼方が見せた日向への異常なまでの執着と依存心。
あれは何だったのだろうか。
学校に来るようになった彼方は、話すどころか、日向と視線を合わそうともしない。
彼方の自分勝手な日向への執着心で、百合が傷つけられたのに。
彼方は何がしたいのだろう。
わざと、自分たちと話すことがないように、日向を避けているように振る舞うのか、
日向の様子を見ていると、本当に日向のことを諦めたようにも見える。
日向のことを諦めたのだとしたら、百合はどうなる?
勝手な嫉妬で、巻き込まれて傷つけられた、百合はどうなる?
百合は何のために傷つけられたのか。
なんの意味もなくなる。
無駄になる。
彼方が日向のことを諦めたのだとしたら、百合が傷つけられた意味がなくなる。
百合が何の意味もなく、無駄に、傷つけられたことになる。
今の彼方の態度は、あまりにも自分勝手で都合がよすぎる。
これじゃあ、百合が報われない。
苛立ちで、シャーペンの芯が折れる。
自分が今すべきなのは、テストでも部活でもなく、
百合のために動くことではないのか。
そんなことを考えていると、チャイムが鳴り、追試の終わりを告げた。
半分ほどしか埋まっていないテスト用紙なんて、どうでもいい。
彼方と、話をしなければ。
「彼方!」
テスト用紙を提出して、生徒たちが帰りだしたころ、
亮太は、帰り支度をしていた彼方に後ろから声をかける。
振り返った彼方は、少し驚いたような顔をして、すぐに目を細めて笑った。
「なあに?また僕のこと殴るつもり?」
ニコニコと、いつものように微笑む彼方。
しかし、言葉はどこか棘が感じられ、
笑っているはずのその瞳は、何故かとても冷たく見えた。
いつもと様子が違う彼方に、亮太は少し気後れする。
外見はすっかり変わってしまったが、中身まで別人のような気がした。
「…ちげえよ。話がある。いいから場所変えるぞ。ついて来い。」
そう言って、亮太は教室を出るように促す。
彼方は冷たい瞳を細めたまま、黙ってついてきた。
誰もいない、放課後の空き教室。
窓は閉めきられ、蒸し暑い空気が漂っていた。
亮太は誰もいないことを確認して、その空き教室に入り、
後ろからついてきた彼方に、向き合う。
「お前…なんで百合ちゃんにあんなことしたんだよ。」
眉間に皺を寄せるほど、険しい表情の亮太に、
彼方は、ヘラヘラと笑ったまま答える。
「亮太には関係ないじゃない。
あ、それとも、亮太はあの子のこと、好きなわけ?」
仮面を被ったように不気味に見えるほどの、彼方の笑顔。
薄ら笑いを浮かべ、亮太を挑発しているようだった。
「…悪いかよ。」
小さく漏らした亮太の言葉を聞いて、彼方は一層、意地悪く笑う。
「へー。あの子のことが好きだから、あの子と近づくために、
日向と友達ごっこやってるわけ?亮太ってば、最低だね。
あーあ、日向が可哀想。」
その言葉に、動揺した。
彼方はおどけるように、わざとらしく、両手を開いて肩を落とす仕草をみせる。
口元を釣り上げ、冷たい目で亮太を嘲笑う。
「違う…。そんなんじゃねえよ。…日向とは、ちゃんとした友達だ。」
そうだ。自分はちゃんとした日向の友達だ。
百合のことは好きだけれど、日向とくっついてほしい。
日向から百合を奪うつもりなんてない。
あの時百合に告白したのは、空気に流されたからだ。気の迷いだ。間違えたのだ。
本当は自分で気づいていて、言われたくなかったことを、彼方に暴かれる。
でも確かに最初は、百合を奪うために、日向に近付いたんじゃない。
百合に近付いたのだって、最初は「日向に好意を寄せている子」という、ただの興味本位だった。
裏切るために、近付いたんじゃない。
そう自分に言い聞かせる。
眉間に皺を寄せたまま、無言になる亮太を見て、彼方はさらに続ける。
「でもあの子は亮太の方がお似合いかもね。
あの子馬鹿っぽいし、子供みたいだし。あ、胸もなかったよ?」
彼方は、馬鹿にしたように、鼻で笑う。
開いたままの両手を開いて閉じて、何かを揉むような仕草を見せる。
その言葉も、仕草も、目障りでしかなかった。
「彼方…お前いい加減にしろよ!…なんで…なんであんなことしたんだよ!?」
苛立ちが消えない。
彼女の負った傷は、計り知れないというのに、
百合のことを、馬鹿にして、見下して、蔑む彼方が、許せなかった。
怒鳴るような亮太の声に、彼方はその笑顔の仮面を捨てる。
そして、面白くなさそうな顔をして、小さく呟いた。
「僕の日向を、取られそうだったから。」
彼方は、目を逸らして、顔を背ける。
その顔は、どこかやるせない表情をしていた。
「でも、もういいんだ。日向は、もういいんだ。」
そう言って、不貞腐れたような顔を亮太に向ける。
亮太は、言っている意味がわからなかった。
「どういう…ことだよ?」
「もう僕には、日向は必要ない。
だから亮太があの子と付き合おうが、日向が誰かと付き合おうが、どうでもいい。僕には関係ないよ。」
光のない冷たい瞳で、吐き捨てるように言う。
その顔は、あの時、あの教室で見せた顔に似ていた。
まるで、何かを諦めたような、空っぽになったような、冷たくて寂しい瞳。
けれど、彼方の答えに、亮太は納得できるはずがなかった。
「じゃあなんであんなことしたんだよ!?
お前は…っ!百合ちゃんのこと、なんだと思ってるんだよ!?
お前のやったことは…許されるわけねえだろ!!」
感情に任せて、彼方の胸倉を掴み、怒鳴りつける。
こんなことをしても、何の意味がないことは、わかっている。
暴力を振りかざすことが正義じゃないことも、わかっている。
しかし、許せない。許せるわけがなかった。
押さえきれないほどの怒りで、彼方の胸倉を掴む腕が震える。
彼方は、激昂した亮太の顔を、冷たい目で見ていた。
「殴りたいなら、殴ればいいじゃない。」
冷淡な彼方の言葉は、まるで機械のように無機質で、感情がなかった。
嘲笑うような、挑発的な冷たい瞳。
「…馬鹿にするなよ。こんなことしてもどうにもならねえ。」
殴ったって、何の意味もない。
しかし、冷静になろうとしても、怒りで手が震える。
彼方は、亮太の自分の胸倉を掴む手をにそっと触れ、鼻で笑う。
「こんなに震えてるのに?」
「いい加減に…っ!」
その挑発に、亮太は堪えていた怒りを我慢できずに、拳を握る。
そしてその拳を、彼方に振り翳す。
「別にいいよ。…慣れてるから。」
迫る亮太の拳に、彼方は目を閉じて、そう小さく呟く。
その意味深な言葉に、亮太の拳が止まる。
「どういう…意味だ?」
「…そのまんまの意味だよ。」
表情を変えずに、冷たい目で吐き捨てる。
そのまま、意味がわからずに、戸惑う亮太の腕を掴んで解く。
「僕のことが許せないだとか、嫌いだとか、そんなのどうでもいい。
でも、日向のことは、ちゃんと大事にしてあげて。
それができないなら、…日向から離れて。」
そう言って、亮太を睨むように見つめる。
「なんだよ、それ…。」
彼方は亮太の腕を掴んだまま、戸惑う亮太に詰め寄る。
先程まで、まるで機械のような無機質な冷たい目だったのに、
日向のことになると、人が変わったように、切なそうな、熱を持った目になる。
「大事にできないなら、日向に近付かないで。」
その真剣な目に、恐怖を感じる。
彼方の日向に向ける執着は、普通じゃない。異常だ。
しかし、彼方は「もう日向は必要ない」と、吐き捨てるように言ったばかりだ。
彼方の考えていることが、わからない。
「お前…日向のことどうしたいんだよ…?
自分のモノだとか、もう必要ないとか…意味わかんねえよ!
アイツのこと…大事なんじゃねえのかよ!?」
その言葉に、彼方は辛そうな顔をして、唇を噛み締める。
亮太の腕を掴む彼方の手は、少し震えていた。
「…大事だよ。大事だけど、僕は…っ…。
亮太には、わからないよ!…わかるわけないっ!」
激昂したような彼方の言葉に、亮太は言葉を失う。
大事にしたいのであれば、最近の日向に対する彼方の態度は、不自然すぎる。
結局、日向を苦しめているのは、彼方ではないか。
それなのに、彼方はこれ以上何をしようというのか。
亮太は、理解ができなかった。
「僕は…誰が傷ついても、誰を傷つけても、日向が幸せなら、それでいい。
日向のために邪魔な人間は、みんな僕が日向の目の前から消すよ。
あの子だって…もっともっと、ボロボロにしとけばよかったかな?」
冷たい目で不敵に笑う彼方。
―これ以上、百合ちゃんに何かしたら…。
亮太は、彼方の言葉に再び怒りが沸き起こる。
反省のかけらもない態度を取り続ける彼方に、我慢の限界がきていた。
「お前…ホント、いい加減にしろよ!」
彼方の腕を振り払って、胸倉を掴む。
挑発的な目を向けて、彼方は嘲笑うように首をかしげる。
「ちょっと、何してんのよ!」
ふいに、教室の扉が乱暴に開き、一人の少女が現れる。
突然のことに、彼方の胸倉を掴む亮太の腕の力が抜ける。
彼方は彼女を一瞥して、亮太から少し距離を取る。
彼女はものすごい剣幕で、亮太に迫る。
「え…?ま、真紀ちゃん!?」
彼女は、バスケ部のマネージャーの渡辺真紀。
三年三組で、栗色の短いふわふわの髪に、ミニスカート。
強気で活発な体育会系の少女だ。
「追試終わったころだと思って待ってても部活に来ないし、
教室行っても誰もいないし、すっごく探したんだからね!
アンタ、キャプテンのくせに、今週の大会出ない気!?」
不機嫌そうに眉を吊り上げ、そのふわふわの髪を揺らす。
亮太は彼女の剣幕に慌てふためき、両手をバタバタと振る。
「いや、そんなつもりは全然ないから!
ちょっとコイツと話があっただけで…その…。」
口ごもる亮太の腕を、真紀は力強く掴む。
まるで彼方のことなど、見えていないようだ。
「言い訳はいいから、早く部活に来なさいよ!
そんなんじゃ後輩に示しがつかないでしょ!馬鹿!」
そう言われ、亮太は真紀に腕を引かれ、そのまま連れていかれる。
亮太は真紀に引っ張られるまま、振り返ると、彼方は目を逸らして小さく呟いた。
「…日向の邪魔をしたら、許さないよ。」
その言葉に、去り際の亮太の表情が、険しくなるのが見えた。
夕日が差し込む誰もいない教室の中、彼方は胸に手を当て、一人でうずくまっていた。
呼吸が苦しい。
精一杯強がって見せても、体は正直なようだ。
「大丈夫。僕はちゃんとやれる。日向のためだ。大丈夫、大丈夫…。」
荒い呼吸を、必死で押し込める。
本当は今すぐにでも、日向に会いたい。
日向の優しい声で、名前を呼ばれたい。
手を繋いで指を絡めて、笑い合いたい。
抱きしめて、その体温に触れたい。
もう何度目か、早くなる呼吸に嫌気がさす。
心臓がチクチクと刺されるように痛い。
今はただ、日向の優しい手が、恋しかった。