「突き放す手、差し伸べる手」
「突き放す手、差し伸べる手」
静かな木曜日の朝、いつも通り二人きりで静かに朝食を囲む。
相変わらず彼方と視線は合わないし、距離を取られる。
夜遅くまで帰って来ない彼方と、唯一二人きりでいられる時間。
なのに、二人で食事をしていても、なんだか寂しい朝食だった。
「日向は、そろそろ進路決めた?」
ふいに、彼方が口を開く。
けれどそれは、避けていた将来の話だった。
彼方はテレビのニュースを見つめ、日向のことを見ることはない。
日向は視線を落として、小さな声で答える。
「…俺も、ブリーダーになる。」
「なんで?日向は動物苦手でしょ。」
テレビから視線を逸らさず、でもどこか冷たい声で彼方は言う。
それはまるで突き放すような、素っ気ない態度だった。
「…そんなことない。それに…彼方と、一緒にいたいから。」
否定されるのを分かっていて、消え入りそうなほど日向の声が小さくなる。
きっと彼方はそんなことを望んでいないのは、わかっている。
けれど、今は理由なんて何でもいいから、
目の前から離れて行ってしまいそうな彼方を、繋ぎとめておきたかった。
「そんな理由じゃダメだよ。ちゃんとよく考えて。自分のことだよ?」
彼方は日向に向き直り、真剣な目で日向を見つめる。
久しぶりに、目が合った気がした。
しかし、日向は彼方の真っ直ぐな瞳を見つめていることができず、俯いてしまう。
自分を突き放す瞳が、怖い。
彼方に嫌われるのが、怖い。
彼方と離れてしまうのが、怖い。
「あと半年くらいしかないんだよ?
専門学校行くにしても、大学行くにしても準備があるし、
どこの学校行くかとか、勉強しなきゃとか、学費とか、
…考えること、いっぱいあるんだよ?」
聞きたくない言葉を容赦なく浴びせる彼方に、
日向は何も言えず、口を噤む。
久しぶりに自分を見つめる彼方の瞳は、まるで自分を突き放すようだ。
「大事な、日向の将来のことなんだよ。」
聞きたくない。聞きたくない。そんな言葉。
このままでいられないのなら、未来なんていらない。
日向は、変わり行く環境が、ただ怖かった。
昨日も一昨日も、彼方は日向を置いて先に学校へ向かう。
風呂場から出て、誰もいないリビングを見渡すのは、慣れることもなく、
日向は寂しい気持ちでいっぱいになった。
食器は綺麗に洗われて片されているし、彼方が脱いだ服は綺麗に畳まれている。
それは、彼方がもう自分を必要としないみたいで、苦しかった。
一人で学校に向かう道は、どこか心許なく、憂鬱だ。
夏の暑さと、眩しいほどの太陽の日差しが、身を焦がす。
静かに打ち寄せる波と、ゆらゆらと揺れる陽炎が、まるで自分を嘲笑っているようだ。
おぼろげな足取りで海沿いの田舎道を歩いていると、
小さな商店街の方から、日向に向かって大きく手を振りながら、
日向のもとへと駆けてくる少女が一人。
矢野千秋だった。
「日向君おはよう~。」
ゆるい口調に柔らかな笑顔。
昨日も一昨日も、この場所で彼女に出会った。
何故か最近、待ち伏せるように、彼女はこの場所で立っている。
日向はそんな千秋に、少し戸惑っていた。
最近クラスでも話しかけてくることが多いし、
そっけなく返事をしても、千秋はニコニコと嬉しそうな顔をする。
どうしてこんな自分なんかに話しかけてくるのか、わからなかった。
「…おはよう。」
日向が小さく呟くと、千秋はいつものように嬉しそうに笑って、日向の隣に並ぶ。
向かうところは同じ学校だから無視もできないし、
日向は何も言えずに、仕方なく一緒に登校することになる。
少し早足で日向の隣を歩く千秋を見て、
日向は少しだけ歩くペースを落として、彼女に合わせる。
「今日も一人なんだね~。最近彼方君と一緒じゃないみたいだけど、どうしたの?」
「別に、なんでもない。」
「そっか~。まあいろいろあるよね。」
素っ気ない日向の返事にも、千秋は笑顔のまま、日向を見つめる。
大抵の人間は素っ気ない返事を返されると、気まずそうに逃げていくのに、彼女は違う。
口数が少ない日向に、いろいろな話をしてくる。
「あ、そうだ!」
思いついたように両手を叩く千秋は、日向の横に並んで歩幅を揃えて、
首を傾げて日向の顔を覗きながら、楽しそうに話し出す。
「日曜日にね、街の方まで行って、夏祭りの時に着る浴衣を買いに行こうと思うの~。
「浴衣、着るのか?」
「うん!せっかくだしね!夏祭りと言えば浴衣でしょ~!」
いつの間にか日向も頭数に入れられていた夏祭り。
本当は彼方のことも心配だし、大勢で騒ぐのも、人ごみも苦手な日向はノリ気ではなかった。
しかし、千秋の楽しそうな顔を見ていると、断りづらかった。
「日向君はどんな浴衣がいいと思う~?色とか、柄とか!」
千秋は日向より低い身長で、見上げるように日向の顔を覗きこみ、
子供のように目をキラキラさせて、無邪気に振る舞う。
「自分の好きなのを着ればいいだろ。」
日向は、女性ものの浴衣の知識などはないし、
ファッションに関しても疎いため、困ったような顔をして答える。
その言葉に、千秋は自分の顎に手を当てて、少し考えるようなしぐさを見せた。
「んー、じゃあ日向君は何色が好き?」
好きな色を聞かれても、今までそんなことをあんまり考えたことがなかった。
いつも着る服などは無難な黒やグレーが多いし、
そもそもほぼ毎日制服を着ているから、頻繁に服を買うわけでもない。
小物や靴だって、シンプルなものばかりだ。
ふいに彼方の顔が頭に浮かぶ。
自分に向けることがなくなった、純粋で無垢な彼方の笑顔。
ふわふわと柔らかく、明るく上品な、自分が大好きな笑顔。
例えばそれに色を付けるとしたら、穢れがない純真無垢な白だろうか。
その笑顔は、今は自分に向けられることはないけれど。
「…白。」
日向の顔が少し切なそうに翳ったのを、千秋は見逃さなかった。
けれど、見て見ぬフリをして笑う。
「白か~。涼しげでいいかもね!じゃあ白い浴衣にしようかな~。」
千秋は日向が切なそうな顔をする理由を知らない。
けれど、聞いたところで自分には何もできないことを、
わかっているからこそ、気付かないふりをして笑う。
何かを暴かれるのが怖いのか、他人の手を取るのが怖いのか、
誰かを失うのが怖いのか、人との深い関わりを拒み続ける日向。
切なげに物憂げに、世界と距離を取る。
千秋は、そんな日向に惹かれていた。
他愛のない話をしながら学校へ向かう。
ほとんど千秋が自分一人で喋っているだけだが、
時々、日向も素っ気ない返事をしてくれる。
自分を振り切ろうと思えば振り切れるのに、歩幅を合わせて、
ただ静かに頷く日向の優しさが、千秋は嬉しかった。
彼方は、日向より先に学校に来て、クラスの女子たちと談笑する。
ニコニコと笑っていれば、何もしなくても勝手に女子たちは集まってくるし、
誰かと話していれば日向は気を使って、自分のもとへ寄って来ない。
でも本当は、笑っていても楽しくなんかないし、
好意を持たれても、興味もないし迷惑だ。
けれど、暇つぶしと、日向を避けるためにはちょうどよかった。
女子なんて単純だ。
『可愛い』とか『綺麗』だとか適当に褒めて、優しく話して聞いてあげて、
時々、『大丈夫?』と少しの優しさを見せて心配をしてあげる。
それだけで、コロっと落ちてしまうんだから。
くだらない。
「そういえば、日向君、最近いろんな人と話すようになったね。」
突然、自分を囲む女子の一人が日向の話題を出す。
話したくない話題に、彼方はぎこちない笑顔で答える。
「あ、うん、そうだね…。」
敢えて自分からは話題にしないのに、避けているのに、
日向のことを考えたくないからこそ、ここでこうして笑っているのに、
何も知らない他人が、傷口を抉る。
ふと、教室の入り口の方を見れば、
日向が千秋と仲良さそうに登校してきたのが見えた。
千秋の顔は嬉しそうで、今の自分には望めない、日向の隣を歩く。
その様子が羨ましくて、妬ましくて、彼方は目を逸らす。
視界の隅に映る日向は、ひどく傷ついたような顔をした。
ああ、心臓が痛い。
ドクドクと、嫌な動悸がする。
家を出る前に薬を飲んできたのに、効く気配がない。
―やっぱり全然効かないや。
「ごめん、僕ちょっと行かなきゃいけないところ思い出した。」
そう微笑んで、自分を囲む女子を振り払い、教室を出る。
過呼吸になりそうだ。
どこか人のいないところへ行かなければ。
どこに行けばいいのだろう。
この狭い学校の中は人で溢れかえっている。
誰もいない、誰にも見つからない場所に行かなければ。
呼吸が、荒くなる。
脈が速くなる。
心臓が破裂しそうだ。
日向のあんな顔なんて見たくないのに。
本当は悲しませたくなんかない。
傷付けたくなんかないのに。
こんなことしかできない。
こうすることでしか、日向の未来を望めない。
こんな自分が大嫌いだ。もう自分なんていらない。
どうでもいい、もう、どうにでもなってしまえ。
彼方はそんな自暴自棄な思考で、屋上の扉を開けた。
「あのねあのね、日向君。」
最近、休み時間のたびに日向に話しかける千秋を見て、
亮太は小さな声で、隣で雑誌を読んでいる将悟に耳打ちする。
「やっぱり矢野ちゃんって日向狙い?」
興味津々の亮太とは正反対に、将悟は興味なさそうに、
雑誌に目を落としたまま、気だるげに答える。
「あー…かもな。」
「マジで!?日向って意外とモテるのか!?」
亮太は驚いたように、目をパチパチと瞬きさせ、
目の前にいる本人にも聞こえそうなくらいの声で将悟に囁く。
「まあ、顔はいいしな。弟もモテるし。」
将悟は顔を上げ、千秋と話す日向の、少し猫背の丸い背中を見つめる。
微かに見える横顔は整っているし、長い睫毛に白い肌。
あの双子は、いわゆるイケメンという部類に入るだろう。
「日向も将悟もずるい…。なんで俺だけモテないんだ…。」
「お前の場合はその性格だろ。」
「え?俺、性格悪い!?」
「性格悪いんじゃなくて、…ただの馬鹿だろ。」
「えーひーどーいー!」
そんな、いつも通りの他愛のない会話を毎日繰り返す。
いつも通り大げさに、うるさいほど明るく振る舞う亮太。
しかし、将悟の目にはいつもと違って見えていた。
「っていうか、アイツ、百合ちゃんのこと、どうするんだろうな。」
その言葉に、亮太は少し切なそうな表情をした。
亮太も気になってはいても、日向に聞けずにいるのだろう。
亮太が百合にフラれて、百合が日向にフラれて、
日向も、彼方と上手くいっていないみたいだ。
全員の想いが一方通行で、報われない。
「百合ちゃんは、フラれても諦めないってさ。
これからもっともっとアピールしていくってさ。」
そう言った亮太は、少し悲しそうに苦笑した。
机に頬杖を付きながら、どこか遠くを見て、
切なそうに、でもどこか満足げに呟く。
「ホント、百合ちゃんは強い子だよ。」
早朝の誰もいない屋上で、しゃがみ込んで過呼吸に耐える。
月曜日に処方された薬は、残り一錠になっていた。
最後の一錠を、震える手で飲み込む。
日向のことを考えるたびに、日向の傷ついた顔を見るたびに呼吸が荒くなる。
そのたび、気休めだと思って薬を飲み続けたから、薬の減りは早かった。
効果なんて、ほぼない。
不安になって、呼吸が早くなるたびに薬を飲んでも、過呼吸は容赦なく訪れる。
何の意味もないのに薬を飲んでしまうのは、なんとなく、安心できるような気がするからだ。
薬を飲んだから大丈夫、そう思うための、ただの気休め。
徐々に落ち着いてくる呼吸に、彼方は少し安心する。
もう一時限目の始まりを知らせるチャイムも鳴ったあとだった。
よく日向と一緒に授業をサボった屋上。
昼には二人で一緒に弁当を食べた屋上。
今は、自分の隣を見ても、日向はいない。
そんな風通しがいい隣が、とても寂しくて、辛くて、苦しかった。
たくさんの女子に囲まれても、何の意味もない。
自分には、日向しかいないのだから。
日向以外の人間なんて、必要ないのだから。
「…もう、死んじゃおうかな。」
四階建ての校舎の屋上。
自分の身長よりも高い屋上の柵に手を掛ける。
見慣れた景色が、いつもより無機質に見えた。
海からの柔らかい潮風が、頬を撫でる。
下を見下ろすと、見慣れているはずの高さに足が竦んだ。
ここから飛び降りたらどうなってしまうのだろう。
ちゃんと綺麗に死ねるのだろうか。
日向は、泣いてくれるのだろうか。
ああ、でもこれくらいの高さだと、必ず死ねるわけじゃないんだっけ。
これで死ねなくて生き残っちゃったら、笑いものだな。
そんなことを考えて、彼方は柵から手を離す。
まだ自分には、できることがあるはずだ。
「日向のために…まだ…。」