「縮まる距離」

 「縮まる距離」



追試の最終日の金曜日。
目覚まし時計の音で目が覚めると、
彼方が壁の方を向いて、静かに寝息を立てて眠っていた。
いつもは二人で向かい合って寄り添って眠るのに、
彼方は最近、日向の方を向かなくなった。
壁の方を向いて眠るのは、「寝言」の時だけだったのに。

昨晩も、彼方は日付が変わっても帰って来なかった。
昨晩だけじゃない。
最近、夜遅くまで彼方は帰って来ない。
追試なんてせいぜい夕方には終わるのに、
どこで何をしていたのかも話そうとしないし、
そもそも最近視線を合わすことすら、ほぼない。

いつも日向が先に眠りについて、朝起きたらいつの間にか彼方が隣にいる。
そんな生活が続いていた。

傍にいるはずなのに、とても遠くにいるような、そんな気持ちになる。

朝は二人で起きて朝食を食べる。
それは変わらないが、明らかに会話が減った。
彼方から話しかけることも少なくなったし、
日向から話しかけても、彼方の短い返事だけで会話が終わってしまう。

以前は二人で笑い合っていたのに、
最近は彼方が自分に向ける笑顔を見ていない気がした。

―クラスの女子とは楽しそうにニコニコと笑い合っているのに。

日向は首を振って、嫉妬じみた気持ちを押し込める。
女子に嫉妬するなんておかしい。
そんなことはわかっていても、離れていく彼方との心の距離に、
心が荒んでしまいそうだった。

毎日夜遅くまでどこに行ってるのか。
どうして目を合わそうともしないのか。
どうしてあからさまに自分を避けているのか。

そう問いただしたい気持ちはあっても、彼方に拒絶されるのが怖かった。
こんな独占欲や依存心のようなもので、彼方に嫌われるのが怖かった。
自分の知らない彼方が、怖かった。


「彼方、起きろ。朝だぞ。」

いつものように、彼方に声をかけて起こす。

「ん…。んー…。」

最近、彼方の寝起きが悪くなった。
いつもなら声を掛ければ、眠そうな顔で「おはよう」と笑うのに、
何度も腕を揺さぶって声を掛けないと、目を開けないようになった。

「彼方。起きろって。」

「んー…。」

何度も声をかけて、やっと彼方は目を開ける。
のろのろと起き上がり、ベッドに腰掛けてぼうっとする。
また半分眠っているような、無気力な瞳でしばらくそのままぼんやりと、
時々頭をフラフラさせ、座ったまま眠りそうにもなる。

以前はそこまで寝起きが悪い方ではなかったはずだ。
最近、夜遅くまで出かけているから、疲れているだけだろうか。

「俺、朝食作るから、早くシャワー済ませろよ。」

そう言ってまだ寝惚け眼の彼方を置いて、日向は台所へ向かい、朝食の支度をする。

30分もあれば、充分に朝食ができる。
いつもならシャワーを終えた彼方が皿を並べたり、米をよそったりと
日向の手伝いをするが、リビングに彼方の気配はない。
脱衣所を覗いてみても、彼方がシャワーを浴びた痕跡はない。

日向は不思議に思いながら部屋に戻ると、
彼方は先程と同じ姿勢で座ったまま、ぼんやりしていた。

「彼方…?」

その声に、彼方は反応しない。
いつもと違う様子の彼方に、日向は駆け寄って彼方の顔を覗く。

「彼方、どうした?」

彼方は、口は半開きで、視点はどこか遠くを見つめたまま、
瞳はまだ開ききらない様子で、ベッドの淵で項垂れていた。
彼方はぼんやりしたまま、ゆっくりと口を開く。

「…なんか、頭ぼーっとする。」

小さく呟く彼方の体は、少しふらついている気がする。

「大丈夫か?熱でもあるのか?」

そう言って、日向は心配そうに彼方の額に触れようとするが、
まるで、触れるのを拒むように、彼方は力ない手でそれを制止する。

「大丈夫…。ただの…風邪だよ…。」

「熱測った方がいいんじゃないか?」

体がだるいのか、彼方の口調はゆっくりと、消え入りそうな小さな声で、
日向と話しながらも、体はフラフラとしていて座っているのも、しんどそうだった。

「…平気。…寝てたら…治るよ…。」

そう呟いて、彼方は倒れるようにベッドに身を沈める。
普通じゃない様子の彼方に、日向が困惑していると、消え入りそうな声で彼方は呟く。

「日向は…学校、行かないと駄目だよ…。」

「でも…彼方が…。」

「…寝てれば治るから。それに…うつしたら大変でしょ…。
 出席日数とかもあるんだから…日向は、ちゃんと…学校行って。」

心配する日向をよそに、彼方は喋るのも辛そうなのに、日向が傍にいることを拒む。
その様子に、日向は悲しくなる。

「本当に、大丈夫なんだな?」

「うん…平気だから。」

「…わかった。ちゃんと寝てろよ。」

「うん…。」

そう言うと、彼方は目を瞑り、すぐに眠りに落ちる。
日向は、静かに寝息をたてる彼方に、布団を掛けなおして、
一度台所へ戻り、ベッドの脇に水と風邪薬を置いて置く。

眠った彼方の額に触れると、それほど熱くもなく、
いつも通りの体温に少し安心する。

彼方は触れることすら拒む。
前までは、何もなくても手を繋ぎ、触れ合っていたのに。
自分の手を、好きだと言ってくれていたのに。

何故自分を拒むのだろう。
何が嫌になってしまったのだろう。
どうして変わってしまったのだろう。

日向には、そう問いただす勇気がなかった。

もし、嫌いだと、自分は必要ないと、関わらないでくれと、
そう言われてしまったら、生きていけない。
その言葉を聞きたくないがために、日向は何も言えずにいた。

静かに眠る彼方の手を握ってみる。
少し汗ばんだ骨っぽい手から伝わる、温かい体温。
握り返されることはないその手に、何故かとても苦しくなった。






ああなんでこんなに頭がぼうっとするのだろう。
確か、昨日病院で他の薬を貰った。
それのせいだろうか。
いつもより体がだるい。
頭が働かない。
あまり薬を飲みすぎるのも、よくないな。

重たい瞼を開けると、枕もとの時計は昼過ぎを指していた。
傍には水の入ったペットボトルと、風邪薬が置かれていた。
布団は肩まで掛けられていて、自分の体は少し汗ばんでいた。

―日向は心配性だな。

全て日向がしてくれたのだろう。
その優しさが、今は痛い。

彼方は重い体を起こして、のろのろとリビングに向かう。
誰もいない、静かで寂しいリビング。
机の上には、ラップを掛けられたおかゆが入った鍋が置かれていた。

「なんで…こんなに優しくしてくれるのかな…。」

自分は、日向を悲しませて、傷つけてばかりなのに。
日向は何も言わずに食事を作ってくれるし、
洗濯も、掃除もなんでもしてくれる。

自分にできることは、何もないのに。
日向を笑わせることも、喜ばせることもできないのに。
こんな自分が、日向にしてあげられることはなんだろう。
彼方は働かない頭で必死に考えた。






授業が終わり、図書委員の当番の金曜日。
日向はいつものように、図書室のカウンターに座る。

結局、彼方は午後の授業から学校に来ていた。
追試もあるから当然だろうか。

まだ少しぼうっとした様子で授業を受けて、
休み時間や放課後は、いつものように女子たちと談笑していた。
声を掛けようとも思ったが、一度もこちらを見ることがない彼方に、
日向はどう声を掛けたらいいのか、わからなかった。


静かな図書室で、いつものように本を読んで時間を潰す。
けれど、今日は全然読書に集中できなかった。

先週告白してきた百合が、相変わらず図書室に来ていたからだ。
百合はただ黙って図書室の椅子に座り、本を読んでいた。
時々日向と目が合うと、首を傾げてニッコリと微笑む。

その様子に、日向は戸惑っていた。

普通告白してフラれたら、気まずくなって顔を合わせづらいのではないか。
なのに百合は平然と、いつも通り図書室に現れ、にこやかに微笑みかけてくる。
そんな百合を見て、日向はなんとなく気まずくなる。

なるべく目を合わせないように、本に視線を落とす。
しかし、百合からの熱い視線が、ひしひしと伝わってくるような気がする。
日向は、早く下校時刻になれ、と心の中で祈り続けた。


そして下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響く。
図書室に残っていた生徒たちも帰り支度をはじめ、疎らに廊下へと消えていく。
日向は少し安心して息を吐くと、百合は嬉しそうに日向のもとへと近付いてきた。

「日向先輩、お疲れ様です!」

明るい笑顔で、日向に笑いかける。
百合は、気まずさなんて全然感じていない様子で、ただ真っ直ぐに日向を見つめる。
そんなカウンター越しに向かい合う百合に、日向は戸惑ってしまう。

「あ、ああ…。貸し出しか?」

「いいえ。今日は、日向先輩とお話ししたいなあって思って。」

そう言って、百合はカウンターに肘をついてしゃがみ込む。
百合は戸惑う日向を気にもせずに、
上目づかいで、椅子に座る日向を見上げるように、微笑む。

「気まずいですか?」

「…少し、な。」

見透かされたような言葉に、日向は目を逸らす。
それでも百合は嬉しそうに言葉を続ける。

「やっぱり日向先輩は優しいですね。
 気まずいのは、私のことを気にしているからでしょう?」

真っ直ぐな目を少し細めて、首をかしげる。
図星を指され、何と答えたらいいかわからない日向は、口を噤んでしまう。

夕日が差し込む静かな図書室に残っているのは、
日向と百合の二人だけになっていた。

「そんなに心を痛めてくれなくてもいいんですよ。
 それに、私はフラれても諦めませんから、って言ったはずです。」

日向を真っ直ぐ見つめたまま、百合は一息置いて、
とびっきりの笑顔を見せる。

「だから、これから日向先輩に好きになってもらえるように、
 自分からどんどんアピールしていこうかな、と思いまして。」

そう言って、少し不器用なウインクをして見せる。
強気な言葉と、その仕草がおかしくて、日向は自然と笑みがこぼれる。

「なんだそれ。」

口元を手で隠して小さく笑う日向を見て、
百合は安心したように、ふわりと微笑んだ。

「日向先輩は、笑顔も綺麗ですね。」

その笑顔が、自分に向けられなくなった彼方の笑顔に似ていて、
日向は嬉しい反面、少し切なくなる。

「…新田は強いな。」

日向は小さな声でポツリと零す。
少し切なそうな表情をした日向に、百合は凛とした声で言う。

「百合って、名前で呼んでください。」

その目は期待を含んだように、真っ直ぐ日向を見つめる。
それが妙に気恥ずかしくて、日向はまた目を逸らしてしまう。

「それは…ちょっと…。」

日向は小さな声で、口ごもる。

人と見つめ合うのも、人の名前を呼ぶのも苦手だ。
もちろん恥ずかしいという気持ちもあるし、
本当にそう呼んでいいのかどうか不安になるからだ。
苗字ではなく名前で呼ぶというのは、なんだか特別に感じてしまう。

名前を呼ふことが、馴れ馴れしいのではないか、
嫌なのではないだろうか、不快に思うのではないだろうか。
そんなことばかりを思ってしまう。

日向は自分に自信がないのだ。
だからこそ、そう考えてしまう。

「ダメ、ですか?」

口ごもったまま、何も言わない日向に、百合は少し不安気そうに、日向を見つめる。
その表情を見て、心が揺れる。

人の悲しんでいる顔や、困ったような顔を向けられるのも苦手だ。
自分がそんな顔をさせていると思うと、心が痛む。
自分のせいで人を苦しめることが、怖い。

「駄目じゃないけど…その…。」

百合の少し不安そうな顔に、日向が折れる。
けれど、やはり恥ずかしさが邪魔をして、言葉が詰まってしまう。

「じゃあ、百合って呼んでください!」

百合は、そう言いかけた日向にキラキラとした目を向ける。
そんな目で見つめられると、日向は一層恥ずかしくなってしまう。
その目を見ていられず、日向はカウンターに視線を落とし、
机の上を片付け始めながら呟く。

「…そのうちな。」

「えー!なんでですか!今呼んでくださいよー!」

照れくさそうに呟く日向に、百合は拗ねたように唇を尖らせ、頬を膨らませる。
その仕草は、まるで無邪気な子供のようだ。

「もう下校時刻も過ぎたんだ。図書室も早く閉めなきゃいけない。」

日向はカウンターの上を片付け、荷物を鞄に押し込みながら言う。
百合はカウンターに項垂れながら、
そんな日向の様子を、じーっと見つめながら呟く。

「…日向先輩、冷たいです。」

拗ねているような、ご機嫌斜めな百合の様子に、日向はため息を吐く。
そして、百合に背を向けて立ち上がる。

「ほら、早く帰るぞ、…百合。」

その言葉に、不貞腐れていた百合は、明るい笑顔になる。



百合の名を呼んだ日向の顔は、夕日のせいか少し赤らんで見えた。


麻丸。
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麻丸。

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