「触れる指先、触れられない心」
「触れる指先、触れられない心」
学校も何もない、ただの土曜日。
朝起きると、いつものように彼方が壁の方を向いて眠っていた。
早起きする理由もないし、日向はそのまま起き上がって、
隣で眠る彼方を見つめる。
最近は、一人で眠りにつくことが多くなった気がする。
昨日も日付が変わっても、彼方は帰って来なかった。
朝起きたらいつの間にか隣で彼方が眠っている、そんな生活が続いていた。
きっともう、彼方が自分に笑いかけてくることはない。
日向は、なんとなくそう感じていた。
「もう、戻れないのか…?」
小さく呟いた声は、朝の静寂に消える。
こんなに近くにいるのに、彼方の瞳に自分が映ることはないと思うと、
どうしようもない、モヤモヤとした不安に襲われる。
彼方は毎日いろんな女子に囲まれている。
その中に、彼方の好きな人もいるのだろうか。
もう既に、自分以外の誰かの手を取ったのだろうか。
これでよかったはずだ。
自分以外の、誰か女子の手を取るのが、彼方の望んでいた普通の人生だ。
進路も決めて、バイトも始めようとして、彼方は普通の人生を歩もうとしている。
これでいいはずなのに。
いつまでも一緒にはいられないと、二人別々の人生だと、
自分たちの人生に一番いい選択をと、将悟の言葉を借りて、最初にそう言ったのは自分だ。
先に彼方を突き放そうとして、傷つけたのは、自分だ。
そこから彼方の過呼吸が始まった。
彼方の縋るような瞳に、手を離してはいけないと思った。
自分が彼方を守らなければ、と思った。
認められなくても、許されなくてもいいとも思った。
けれど、このままでは許されるはずがない関係に、
足が竦んで、彼方から手放してくれたらいいのに、と思ったこともあった。
本当にそうなってしまった今は、どうしようもなく不安に揺れているのに。
結局自分はどうなりたいのか。どうしたいのか。
手を離そうと思って、その手を振り払おうとして、
その手が離れていきそうになったら、縋りつきたくなって。
こんなの、ただの自分勝手なワガママじゃないか。
わかっている。わかっているんだ。
これでよかった。これが正しい。
なのに、日向は苦しくて仕方がなかった。
心が荒んでいく。
カラカラに乾いていく。
それでも、何も言えないままの自分が、ひどく惨めに思う。
本当はもう痛みなんてないのに、彼方に噛まれた傷が、ズキズキと疼く。
左側の首筋の傷はすっかり薄くなっていて、
母親につけられた爪痕の方が、クッキリと残っていた。
この傷の意味は何だったんだろう。
彼方の独占欲、自分のモノだという所有欲ではなかったのか。
この傷が完全に消えてしまえば、もう二度と戻れない気がした。
これが、最後の絆のような気がした。
その傷跡に、爪を立ててみる。
力を込めて、抉るように爪を突き刺した。
微かに血が滲んで、ヒリヒリとした痛みがする。
いや、痛くはない。
痛いのは、心だ。
血は滲むだけで、流れることはない。
流れたのは、涙だった。
「日向…?」
彼方の声に、我に返る。
無意識だった。
いや、意識していたのだろうか。
きっと、どうかしていた。
「なに…してるの?」
目を覚ましてこちらを見る彼方は、
涙を流し、首元から血をにじませている日向を見て、
眠そうな目を見開き、驚いているようだった。
日向は慌てて涙を拭うと、指の爪先には血がついていた。
血と涙が混ざって、指をするりと滑り落ちていく。
「…なんでもない。」
こんなことを、思ってはいけないのかもしれないけれど、
久しぶりに彼方が自分を見て、心配そうな眼差しを向けていることに、安心した。
彼方が、自分を見てくれている。
そう思うと、ひどく安心した。
「なんでもないって…そんなわけないでしょ。」
彼方は驚いた表情のまま、何も言わない日向に、戸惑っていた。
何か言わなければ。
しかし、日向は何を言ったらいいのかわからなかった。
少しの沈黙が流れた後、彼方は視線を伏せ、
フラフラと立ち上がり、戸棚の中から薬箱を取り出す。
その中から絆創膏を探して、少しためらうように、そっと日向の傷口に貼る。
「馬鹿なこと、しちゃダメだよ。」
久しぶりに触れた彼方の手は、温かかった。
日向はその体温が、もっと欲しいと思った。
もっと自分に触れてほしいと、そう思った。
けれど、彼方は何かを言いたそうに日向の顔を見たが、すぐに目を逸らす。
「僕、出掛けるから。…変なことしないでね。」
彼方はそう呟いて、ベッドを降りる。
また彼方の背中が遠くなる。
そう思った日向は、反射的に彼方の服の袖を握った。
「な、なに?」
引きつった顔で、彼方が振り向く。
―ああ、そんな顔が見たいわけじゃないのに。
「行くな…。」
日向の縋るような、今にも泣き出しそうな顔に、彼方は胸が締め付けられる。
けれど、この手を握り返してはいけない。
「ごめん…。僕、行かなくちゃ。」
そう小さく呟いて、日向の手を振り払った。
体育館に響く、ボールが跳ねる音。
バスケットシューズが擦れる高い音。
たくさんの大きな声援。
そんな光景を見ていられなくて、亮太は体育館を出る。
そして眩しいほどの日差しを避けて、木陰のベンチに座り込み、俯く。
顔に滴る汗をタオルで拭いながら深くため息を吐くと、
聞きなれた声が頭上から聞こえた。
「終わっちゃったね。」
顔を上げれば、真紀が亮太を見下ろしていた。
「そうだな。」
「…なんだ、泣いてるのかと思った。」
そう言いながら、真紀は顔を上げた亮太に、意外そうな顔をする。
そして、遠慮もなしに、慣れた様子で真紀は亮太の隣に座った。
トーナメント戦で一度でも負けたら終わり。
そんなシンプルな世界だった。
二人の夏の県大会は、もう終わったのだ。
「まさか予選落ちするとは思わなかったわ。」
いまだに吹き出る汗を拭いながら、亮太は再びため息を吐く。
そんな亮太を横目で見て、真紀も感慨深そうに呟いた。
「これで引退かー。なんかあっという間だったね。」
実質二年半、毎日打ち込んできたバスケも、明日からはできなくなる。
部活を引退するだけで、毎日がガラリと変わってしまう気がした。
「そうだな。これから受験勉強かー。」
本格的に、これからの進路を絞る時期が来る。
今まで当たり前だと思っていた学校も、部活も、友人関係も、
この日常全てが、ゆっくりと形を変えていく。
そんなことを考えてはいても、まだ実感は湧かなかった。
「亮太は、進路どうするの?大学?」
真紀はふわふわのショートカットを揺らして、亮太の顔を覗きこむ。
亮太は少し考える素振りを見せ、遠くを見つて口を開く。
「んー、とりあえず地元の大学かなー。まだ自分がやりてぇことなんて、わかんねーし。」
「そっか。…どこの大学受けるか、決まった?」
「偏差値的には海南大かなー。あそこスポーツも盛んだし。」
亮太は、足を組んでベンチに凭れかかりながら語る。
試合の後だからか、少し疲れた様子で、頭の上で手を組んで背中を伸ばす。
引き締まった筋肉のついた長い腕が、亮太の頭上で伸びる。
その横顔は、昔に比べたらすっかり大人びていて、真紀は胸がときめいた。
そして、決心したように、真紀は小さな声で呟く。
「私も、…私も海南大受けるよ。」
「え?真紀ちゃんだったら、もっといいところ行けるだろ?」
口をポカンと開けて、意外そうな顔をする亮太。
真紀は亮太よりもはるかに成績がいい。
そんな真紀が、海南大学を受けると言い出したことに、驚いた。
亮太をまっすぐ見つめる真紀の目は、真剣だった。
その大きな瞳に吸い込まれそうになる。
「海南大に行きたい学部があるの。海南大じゃないと駄目なの。
だから…アンタも勉強頑張って、絶対…絶対受かりなさいよ!」
強気な瞳で、微笑む真紀。
いつも少し乱暴で、ワガママで、気まぐれで、彼女に困らせられることは多かった。
けれど、いつも亮太はそんな強気な真紀に助けられていた。
いつだって、迷ったら手を引いてくれるのは、真紀だった。
疑いのない強気な真紀に、亮太は笑いが零れる。
「なんだそれ。高校卒業しても真紀ちゃんと一緒かよー。」
「アンタが受かればの話だけどね。」
「えー?真紀ちゃん、俺が受験失敗すると思ってる?」
自信満々な様子の亮太に、千秋は呆れた。
「定期テストが全部追試の時点でね…。」
「それは…その…。」
痛いところを突かれて、亮太は口ごもる。
そんな亮太を見て、真紀は大きなため息を吐く。
「はー…。じゃあ私がアンタの勉強も見てあげるわよ。」
二人の関係は年頃の男女の関係とは、少し違う。
それでも、真紀は亮太の傍にいられるなら、この想いを閉じ込めておこうと思った。
ずっと昔から傍にいるのだ。
今すぐどうこうなろうとは思わない。
少しずつ、時間と共に、二人の距離が縮まればいいと願った。
二両編成の静かな電車の中。
田舎から街の方へと向かう上りの車内は、ほとんど乗客がいなかった。
電車に揺られながら、彼方は考える。
日向が、追い詰められている。
追い詰めたのは、間違いなく自分だ。
それでも、今は日向の手を取るわけにはいかない。
しかし、このままでは日向が壊れてしまう気がした。
どうにかしなければ。なんとかしなければ。
日向には、笑っていてほしい。
久しぶりに日向に触れた手は、熱を持っているように熱い気がした。
触れないように、見つめないようにしていたのに。
触れた指先から、感情が溢れ出してしまいそうだった。
部屋を出る前に見た、日向の縋るような、泣きそうな顔が、頭から離れない。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
どうして自分はうまくやれないのだろう。
日向は、綺麗だ。
まるで氷細工のように繊細だ。
触れたら、壊れてしまいそうなほどに。
支えを失えば、儚く折れてしまうように。
そんな綺麗で繊細な日向が、大好きだった。
いや、今でも大好きだ。
けれど、自分が日向の支えになることはできない。
それは、許されないことだ。
薬のせいか、頭がぼうっとする。
日向のあんな顔をみたら、心臓が痛くなる。
上手く呼吸ができなくなる。
薬を変えてもらってからは、少しは発作がマシにはなったが、
完全に発作が起きないという保障はない。
―どうしてこんな思いをしなくちゃならないんだろう。
何度発作を起こしても、その苦しさに慣れることはない。
最近は、いつ発作が起きるかわからない、という不安にも苛まれる。
もう何をしても、報われない気がしていた。
もういっそのこと、日向以外の誰かに縋りつきたかった。
誰でもいい、自分を認めてくれる人に、甘えたかった。
こんな惨めで、情けない自分を、慰めてほしかった。
それができないのなら、もういっそ、滅茶苦茶になりたかった。
何も考えずにすむように、自分を滅茶苦茶に壊してほしかった。
彼方は少し自暴自棄になっていた。
この電車の向かう先で、自分は嫌なふうに変わっていくのだろうと、
ぼんやりとした頭の隅で思った。
それでもいい。
何もない自分は、壊れてしまえばいい。
そうすれば、きっと楽になれる。
彼方は窓から流れる景色に、瞳を閉じた。