「知らない香り」
「知らない香り」
水曜日の朝、目覚まし時計の音と共に日向は目を覚ます。
そして、いつもと違うことに気付く。
隣に彼方がいない。
自分のことを避けていても、夜遅くまで帰って来なくても、
朝になれば隣に眠っていたはずなのに。
言葉を交わさなくても、視線を交わさなくても、
自分の隣で眠っているはずなのに。
いつも彼方が眠っている場所に触れてみると、布団は冷たかった。
彼方の体温がない。
どうやら彼方は、帰ってきていないようだ。
誰かの家に泊まったのだろうか。
今までそんなことは一度もなかった。
それに、誰かの家に泊まるにしても、彼方は男友達なんてほとんどいない。
彼方の周りに集まるのは、いつも女子ばかりだ。
―そんなはず、ない…。
日向は考えたくない現実に、目を伏せる。
どんどん、どんどん、彼方が自分から離れていく。
彼方の見る世界に、自分がいない。
自分以外の誰かに、彼方を奪われてしまう。
―ああ、彼方もあの時、こんな気持ちだったのか。
嫉妬や依存、執着に悋気。
ぐるぐるとした言持ちが渦巻く。
奪われるのが怖い。
離れていくのが怖い。
彼方が百合を襲ったときも、こんな気持ちだったのか。
こんなに汚らしくて、情けなくて、醜い気持ちだったのか。
何をしてでも繋ぎとめていたいという、独占欲。
あれは何だったのだ。
自分はここにいるのに、繋いでくれないのは、彼方だ。
変わってしまった。
彼方の外見も、気持ちも、想いも。
全部全部、変わってしまった。
髪を切ったあの日から、全部変わってしまったんだ。
ああ、髪なんて切らなければよかった。
彼方の髪を染めなければよかった。
そうすれば、まだ二人で笑い合えていたのだろうか。
すっかり伸びた自分の髪を手で梳いてみる。
真っ直ぐな黒髪は、さらさらと指をすり抜けていく。
―俺も、切ったら変わるのかな。
けれど、日向は変わる勇気も、髪を切る勇気もなかった。
二人で笑い合えていた時のまま、自分は何も変わりたくないと思った。
このままでいれば、いつか彼方が戻ってきてくれる、そう願いたかった。
まだ眠たい体を起こして、洗面所へ向かう。
目を覚まそうと、馬鹿なことを考えるのは止めようと、
蛇口から冷たい水をひねり出して、顔を洗う。
ふと顔を上げれば、洗面台の鏡の中の自分と目が合う。
彼方と同じ顔、そのはずなのに、それは全然違うように見えた。
鏡に映る自分は、とてもみすぼらしく、情けない顔をしていた。
独りだった。孤独だった。
そこに彼方がいない。
それだけで、自分はこんなにも弱くなる。
首元の傷も、もう消えてしまいそうだった。
無意識に、その傷に触れる。
爪を立てて、抉る。血が滲む。
そうすることで、何故か少し安心した。
ふいに、玄関が開く音がする。
彼方が帰ってきたのだろうか。
その声に、日向は洗面所を出て、玄関の見える廊下へと出た。
「あ…日向。…ただいま。」
彼方は少し驚いたような顔をして、すぐに目線を逸らす。
驚いたのはきっと、首筋の新しい傷のせい。
聞きたいことや、話したいことはたくさんあるけれど、
どれも上手く言葉にできなかった。
余計なことを聞いて、嫌われるのが怖い。
でも、一つだけ聞きたかった。
「どこ…行ってたんだ?」
「…友達の家に、泊まってたんだよ。」
日向の控えめな質問に、
彼方は目を合わせることなく、素っ気なく小さく呟いて、
日向の横をすり抜けて、自室の方へ行ってしまう。
自分の首の新しい傷を見ても、気づかないふりをした。
絆創膏を貼ってくれなかった。
触れて、くれなかった。
すれ違う彼方からは、ふわっと柔らかい香りがした。
それは自分のものとは違う、女性ものの甘いシャンプーの香り。
なにを、していたのだろうか。
ぐるぐると、嫉妬と不安が渦巻く。
日向はその場でしゃがみ込み、両手で顔を覆う。
泣いてしまいそうだ。
今まで彼方の一番は自分だったのに。
彼方には自分しかいなかったのに。
自分にも彼方しかいなかったのに。
それなのに、彼方は、自分以外の女の手を取ったのだろう。
何故だろう。
どこで間違えてしまったのだろう。
自分が彼方を不安にさせたから?
自分が彼方を手放そうとしたから?
彼方の手をしっかり握ってなかったから?
ぐるぐる、ぐるぐる思考が絡まる。
いくら考えたって、答えなんて出ない。
いくら思い返したって、戻れない。
「日向、話があるんだけど。」
ふいに、後ろから声を掛けられる。
振り返ると、彼方は着替えて、髪の毛を整えて、
学校に行く準備を終えて、そこに立っていた。
「これ、日向のだから。」
目を逸らしたまま、彼方は紙袋を差し出す。
それは、携帯電話会社のロゴが書いてある紙袋だった。
「携帯。必要でしょ?」
しゃがみ込んだまま、受け取ろうとしない日向に、
彼方は日向の傍に、その紙袋をそっと置く。
「なんで…こんなもの…?」
いきなり渡された携帯電話に日向は戸惑って、小さく呟く。
「一応、僕の番号とアドレスはもう登録してあるから。
好きに使っていいし、ちゃんと持ち歩いてね。」
静かに冷たい口調で、彼方は語る。
日向はただただ、戸惑うことしかできない。
「そうじゃなくて…なんで…」
未成年の彼方が、一人で携帯電話を契約できるはずがない。
そもそも、そんなお金などないだろう。
「僕、金曜の夜から、バイトでしばらく家空けるから。
街の方でバイトするから、そっちの方の友達の家に泊めてもらうし、
ほとんど帰って来ないと思うから。
一応、いつでも連絡取れた方がいいでしょ?」
「え…帰って来ないって…。」
そんな話聞いていない。
ブリーダーになる、そのためにバイトをする。
それだけしか聞いていない。
「日向一人になるけど、日向なら大丈夫だよね?」
勝手に決めて、勝手にいなくなろうと言うのか。
そこに自分が口を出す余地は、ないのだろうか。
彼方が帰って来なくなる。
独りになる。
独りぼっちになってしまう。
彼方の言葉が、まるで死刑宣告のように聞こえる。
絶望に喉を締め付けられて、声が出なくなる。
「まあ、週一回くらいは帰ってくると思うよ。たぶん。」
なんでとか、待ってとか、言いたいことがたくさんある。
けれど、言葉にならない。
喉がカラカラに乾いて、言葉を紡げない。
何も、言えない。
「ああ、それと。そろそろ進路、決めなきゃだめだよ。
日向はお料理が得意だからコックさんもいいと思うし、
手先が器用だから美容師さんとかでもカッコいいよね。
普通に大学行くのでもいいよ。…ちゃんと、考えといてね。」
冷たい口調で、目を逸らして言葉を紡ぐ彼方。
その目は、自分を映さない。その声は自分を突き刺す。
「じゃあ、僕もう学校行くから。ちゃんと携帯持ち歩かないと駄目だよ。」
何も言えない日向に視線もくれず、自分の知らない甘い香りをちらつかせ、
彼方は日向の横をすり抜けて、玄関へ向かう。
「あと、そろそろ彼女でも作ったら?」
その遠ざかる背中を、ただ黙って見送るしかできなかった。
彼方が玄関を出て、扉を閉めた瞬間、涙が流れた。
どうして自分はいつも、大事な時に何も言えなくなるのだろう。
何か一言でも言えたら、変わっていたのだろうか。
たった一言「待って」と言えたら、彼方は振り返ってくれたのだろうか。
「行くな」と縋りつけば、傍にいてくれただろうか。
いつも泣いて縋るのは彼方の方で、自分は甘え方を知らない。
彼方の手を掴んで、振り向かせて、泣きながら縋るなんて、自分にはできない。
そんな情けないことできない。
そんなことをして嫌われるのも、嫌だ。
どうしたらよかったのだろう。
どうしたら、あの頃に戻れるのだろう。
息が詰まりそうだ。
彼方が置いていった紙袋の中を、そっと覗いてみる。
白色のスマートフォンが見えた。
白。純白。無垢。
それは彼方の笑顔ような色。
その色が、堪らなく苦しかった。
一人で学校までの道を歩く。
自分の心と裏腹に、晴天続きの夏空は、曇ることを知らなかった。
足取りが重い。学校へ行きたくない。
学校へ行けば、彼方が女子に笑顔を振りまいているのを見てしまう。
彼方を囲む女子の中に、昨日彼方と夜を共にした女子もいるのだろう。
そんなの、見たくなかった。
自分が彼方の一番ではないことを、思い知らされる。
一番になんてなれないことを、思い知らされる。
そんなの当たり前で、わかってはいるけれど、苦しかった。
前を見れなくて、俯いてとぼとぼと重い足を動かす。
「日向君、おはようー!」
いつもと同じ、小さな商店街の方から、千秋が顔を出す。
何故千秋は毎日ここで自分を待つのだろう。
今は誰にも会いたくなかった。
こんな醜い嫉妬に塗れている自分を、見られたくなかった。
情けなくてみっともない、そんな思考を暴かれたくなかった。
「どうしたの?今日はいつもより元気ないね。」
日向の気持ちとは反対に、
千秋はいつも通りの人懐っこい笑顔で、日向の隣に並んで微笑む。
その笑顔が、何故か今は癪に障る。
「…なんでもない。」
日向は顔を背けて、素っ気なく答える。
今はあまり話したくない。
そのニコニコとした笑顔を向けてほしくない。
「なんでもないって、そんなことないでしょー?ねえねえ、何があったの?」
千秋は首を傾げて日向を見上げる。
その計算したようなあざとい仕草が、目に障る。
「…なんでもないから。」
「なんで教えてくれないのー?」
それでも千秋はしつこく日向を見上げて首を傾げる。
自分のことなど、放っておいてほしいのに。
自分の汚い部分を、覗こうとしないでほしいのに。
「関係ないだろ。」
千秋は少し考えるように頬に手を添え、そして思いついたように手を叩いた。
「わかった!彼方君のこと?最近彼方君と一緒にいないもんね。だからなの?」
楽しそうに、冗談めかして笑うのが、許せなかった。
彼方の名が出て、日向の中の何かが、切れた。
「だから…なんでもないって言ってるだろ!
何も知らないくせに、わかったようなこと言うなよ…っ!」
日向は無意識に感情が高ぶって、抑えられずに怒鳴ってしまう。
まただ。いつも言い終えたあとになって後悔する。
千秋は、今まで見たことがないような激昂した日向を見て、息をのむ。
そして、瞳を潤ませて、静かに口を開く。
「…わからないよ。わからないから、わかりたいって、知りたいって思うんでしょ!?
日向君の考えてることわかりたい、って…。それは、いけないことなの!?」
そう声を荒げて、たどたどしく言葉を紡いだ千秋の瞳には、涙が滲んでいた。
千秋は両手で顔を覆い、泣き顔を隠した。
涙を流した千秋に、日向は自責の念にかられる。
泣かせたいわけではなかった。
ただ、そのニコニコした笑顔で、
自分の中へ踏み込んできてほしくなかっただけだ。
「矢野…その…ごめん…。」
日向はどうしていいかわからずに、小さく千秋に謝る。
けれど、千秋は泣き止むことはなく、
両手で顔を覆ったまま、涙声で呟いた。
「どうして日向君は、いつも全部一人で抱え込もうとするの…?
私だって知りたいし、わかりたいし、頼ってほしいよ…。
日向君のこと、好きなんだもん…。」
小さく肩を震わせて泣く千秋。
日向は、なんと声を掛けたらいいか、わからなくなった。
「好き」だと言われ、自分はどうすればいいのか。
「好き」だという感情は、いつだって一方的だ。
きっと、報われないことの方が多い。
彼方も、亮太も、百合も、千秋も、そして自分も。
誰一人、報われない。
「ごめん…。でも、泣くな。」
そう言って、日向は子供のように泣きじゃくる千秋の頭を、そっと撫でる。
「そんな優しいことするのは、ズルいよ…。」
千秋は、声を上げて泣いた。