「間違った痛み」

 「間違った痛み」



夏祭りの前日。
いつものように、百合と公園で他愛のない話をした。
百合は柔らかく微笑んで、幸せそうに笑う。
その笑顔が、彼方に似ていて、どうしようもなく胸を締め付けられる。

「…どうしたんですか?」

百合はすぐに日向の表情の些細な変化に気付く。
気付いて、気づかないふりをしたり、心配そうに顔を覗きこんだりする。

「いや…なんでもない。」

不器用に、取り繕って見せる日向。
百合は少し考えるように首を傾げて、伏し目がちに口を開く。

「日向先輩…お願いがあるんですけど…。」

「なんだ?」

「明日の夏祭り…二人っきりで行きたいです。」

顔を上げて、真っ直ぐに日向を見つめる百合。
断られると思っているのか、その瞳は、少し不安そうだった。

明日は千秋や亮太、将悟と約束していた夏祭り。
千秋に怒鳴って、泣かせてしまって、さらには告白された手前、
顔を合わせづらいし、日向は大勢で騒ぐのも得意じゃない。
クラスメイトより、百合と一緒にいた方が気が楽だ。
それに、百合と一緒にいれば、千秋や亮太に、余計なことも言われないだろう。

「…わかった。いいよ。」

小さく答えると、百合は嬉しそうな顔をする。
さっきまでの不安そうな顔が嘘みたいだ。

「本当にいいんですか?クラスの人と一緒に行く予定じゃ…。」

少し遠慮がちな百合の言葉に、日向は小さく笑う。
嬉しそうにしているのに、人の心配もする。
百合は、優しい子だ。

「百合と一緒の方がいい。
 それに、クラスの奴らは学校始まったら、嫌でも顔合わせるからな。」

その言葉に、百合は子供のように、あどけない顔で笑う。
目を細めて、柔らかく、ふわりと。

「日向先輩…大好きです!」

彼方に似たその笑顔が、好きだった。
きっと自分は、百合に恋をしている。
そう思い込むことしか、できなかった。
そう思い込むことで、孤独を誤魔化した。






夏祭り当日の朝、日向はベッドの中にいた。
夏休みだから早起きする理由もないし、一人ではやることもない。
夏祭りは夜からで、百合との待ち合わせも夕方だ。

亮太には昨日の夜に「やっぱり夏祭り、百合と行く。」と短いメールを送った。
亮太の返信は早く、「ちゃんとエスコートしてやれよ!」と亮太らしいメールが届いた。
百合から、自分たちが付き合ったということを聞いているらしい。
少しだけ、亮太に引け目を感じる。

孤独を紛らわすように、日向は彼方と眠ったベッドに身を沈める。
目を瞑れば、隣で彼方が眠っているような気がして、
一人の時は、ずっとベッドの上にいた。

彼方が帰って来なくなって一週間。
週に一度は帰ると言っていたのに、彼方からの連絡は一切なかった。
一人になると、彼方のことばかり考える。

どこにいるのだろう。
何をしているのだろう。
誰といるのだろう。
自分のことを、少しは考えていないだろうか。

―彼方に会いたい。

無意識に、首筋の傷に触れる。
もう彼方の噛み跡は残っていなかった。
それでも、自分の爪を首筋に突き立てる。
それが日向の癖になっていた。

傷があれば、まだ彼方と繋がっていられる。
そんな浅はかな考えが、頭に浮かぶ。
だから無意識に首筋の傷を抉る。
日向の首筋は、傷だらけだった。

別にいい。
パーカーのフードやストールを巻けば隠せる。
学校もないのだから、制服を着なくてもいいし、服装でどうにでもなる。

けれど、自分でつけた爪跡よりも、彼方の噛み跡が欲しかった。
自分は彼方のモノだと、そう疑わせない傷跡が、欲しかった。



ふいに、玄関の扉が開く音がする。
こんな朝早くに、誰だろう。彼方だろうか。
いや、彼方から連絡は来ていない。
きっと、自分に会いたくないのだろうから、帰って来ないだろう。
だとしたら、返ってくる人間は一人。
母親だろう。

日向は身を隠すように、静かに布団を頭まで被る。
きっと、また虐待を繰り返す。

その足跡は不安定に、フラフラと、日向の部屋に近付いてくる。
きっと泥酔した母親だ。
隠れても、どうせ殴られる。
日向は布団の中で、身を強張らせた。

そして、部屋の扉が静かに開く。
扉を開けた人物が、自分の隠れる布団に近付いてくる。

「日向…。」

小さく呟くその声は、彼方の声だった。

「彼方…?」

日向は驚いて布団を捲ると、日向を組み敷くように、彼方が抱き付いてきた。

「はあっ…。やっぱり日向が一番いい。落ち着く…っ。」

彼方は日向の存在を確かめるように、強く抱きしめながら、
肩口に顔を埋めて、切なそうな吐息を洩らす。

「おい、どうし…」

突然のことに、日向は驚いて身を起こすと、
彼方の様子がいつもと違うことに気付く。
彼方から、アルコールの臭いがした。

「酒、飲んでるのか?」

顔を上げた彼方の目はトロンとしていて、相当の酒を飲んだようだった。

「日向…好きだよ。好き。大好き。」

トロンとした目で切なそうな、愛しそうな視線を日向に向ける。
両手で強く日向の体を抱きしめて、彼方は縋るように身をくっつける。
その体温は暖かく、久しぶりに抱き付いてきた彼方に戸惑いながらも、日向は嬉しかった。

「彼方…どうしたんだ?なんで…酒なんか飲んでるんだ?」

縋りつく彼方の髪を撫で、日向は彼方に語り掛ける。
その髪からは、この前のモノとは違うシャンプーの香りがした。
彼方は自分の頭を撫でる日向の手に、気持ちよさそうに目を瞑る。

「日向の手…好き…。」

そう言いながら、日向の首筋に顔を埋める。
どうやら、相当酔っ払っているらしく、話を聞いていないようだ。

そして、日向の首筋の爪跡を見て、彼方は少し悲しそうな顔をした。

「これ…また、自分でやったの?」

彼方はその傷を、そっと指でなぞる。

「駄目だよ…。」

そう言って、爪跡に舌を這わせたと思ったら、首筋に鋭い痛みが走る。

「いた…っ!」

爪で抉ったようなものではない、固い歯の感触。
彼方が、自分の首筋を噛んでいた。
強く、強く。
まるで、自分を刻み付けるように。

「ごめんね…痛いよね…?」

そう言いながら、首筋から口を離して、彼方はその傷を舌で舐める。
その舌の感触は生暖かく、血が滲んだ傷口はヒリヒリと熱を持った。

その痛みがひどく嬉しくて、涙が出た。
この痛みが、欲しかった。
この傷が、欲しかったんだ。
もっと。もっと、欲しい。

「…大丈夫だから、もっと…ちゃんと痕つけて。」

日向は静かに首を振って、彼方の髪を撫でる。
彼方は顔を上げて、切なそうな瞳で日向を見つめる。

「ねえ、日向。これは…夢だよね…?」

「え…?」

彼方は日向の涙を指で拭って、再び日向の首筋に顔を埋める。
そして、切ない吐息を洩らす。

「夢だから、いいよね…?」

「何言ってるんだ…?」

意味がわからずに、日向が戸惑っていると、再び首筋に鋭い痛みが走る。

「…っ!かな、た…っ!」

先程よりも強く噛む彼方。
角度を変えて、場所を変えて、何度も何度も、日向の皮膚に歯を立てる。
興奮しているのか、少し息が荒いような気がした。

「好き…好きだよ…。」

「日向は僕のだよね…?」

「ごめんね…痛いよね…?でも、やめてあげられない…っ。」

「誰にも渡したくない…っ。」

うわ言のように、熱を持った言葉を呟きながら、
彼方は日向の体に、噛み跡を残していていく。

痛いけれど、痛みなんて、感じなかった。
ただ彼方が、自分に執着してくれることが、嬉しかった。
今までのように、二人でくっついていられることが、嬉しかった。

アルコールと、自分の知らないシャンプーの香りに包まれた彼方。
どこで、誰と、何をしていたのかは知らないけれど、
彼方が自分のもとへ、戻ってきてくれた。
自分を好きだと言ってくれた。
それだけで、嬉しかった。

彼方は首筋だけではなく、肩口や胸元も噛んだ。
愛しそうに、切なそうに、何度も何度も、噛み跡を付けた。
唇が皮膚に触れる感触、歯が食い込む痛み、彼方の強い腕の力。
それが、たまらなく嬉しかった。

痛みか、嬉しさか、涙が頬を流れる。
その度に、彼方が優しく指で流れる涙を拭ってくれる。
日向は、彼方の髪を指でゆっくりと、優しく、梳く。
日向の手の感触に、彼方は顔を上げて、柔らかく笑う。

その笑顔は、日向が好きな彼方の、真っ白な笑顔。
柔らかくて、上品で、あどけない、そんな笑顔。
女子に向ける笑顔とは違う、自分だけに向けられる、素直で優しい笑顔だ。


しばらくして満足したのか、彼方は日向の隣に、ごろんと寝転がる。
久しぶりに、二人でベッドに横たわる気がした。

「噛みすぎだ、馬鹿。」

そう言った日向の表情は、怒っている、というより、嬉しそうだった。
しかし、首筋だけではなく、肩口や胸元も、彼方の噛み跡でいっぱいになっていた。
ところどころに血が滲んで、赤い歯形がハッキリと残っている。

「ごめんね。久しぶりに日向を見たら、つい…。」

トロンとした目のまま、彼方は申し訳なさそうに呟く。
そして、日向と指を絡めて、強く、手を握る。
酒の飲みすぎのせいか、彼方は眠たそうな顔になっていた。

「寝るのか?」

日向がそう聞くと、彼方はゆっくり頷いた。
そして、眠たそうに、小さく呟く。

「日向…僕が起きるまで傍にいてよ…。ずっと、手を握ってて…。」

ぎゅっと、彼方の手に力が籠る。
久しぶりに繋いだ手は、暖かかった。

「わかった。」

日向が返事をすると、彼方は満足げな笑みを浮かべて、目を閉じる。
しばらくすると、静かで穏やかな寝息が聞こえてきた。

こうやって向かい合って眠るのは、いつぶりだろう。
彼方の穏やかであどけない寝顔が、懐かしい気がする。
彼方に触れるのも、手を繋ぐのも、指を絡めるのも、
全部全部、久しぶりだ。

彼方に噛まれた傷が、痛い。
けれど、今は幸福感でいっぱいになっていた。

彼方がここにいる。
自分の隣にいる。
笑ってくれる。
自分を見てくれる。
触れさせてくれる。
手を繋いでくれる。
噛み跡を、残してくれる。
それがひどく、幸せだ。

静かに眠る彼方の頬に触れてみる。
すると、彼方は少し顔をしかめて、もぞもぞと寝返りを打つ。
繋いだ手が離れる。
それでも、幸せそうに眠る彼方の隣にいられることが、嬉しい。
彼方を抱きしめ、体温に触れながら、目を閉じる。ああ、幸せだ。



いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
目を開けると、隣に彼方はいなかった。
時計を見ると、昼過ぎを指している。

―起きるまで傍にいろ、とか言ってたのに。
 
日向は部屋を出て、リビングに向かう。
その途中で、風呂場から水音がするの気付く。

―なんだ、シャワー浴びてるのか。

きっと腹を空かせているだろうと思い、日向は冷蔵庫を開けて、適当に食材を見繕う。
彼方に料理を作るのは、久しぶりだ。腕が鳴る。

日向が調理をしていると、彼方がリビングに来た気配がした。
日向は、台所から顔を覗かせると、
彼方は髪を乾かして、着替えて、何処かへ行く用意をしていた。

「彼方、飯、食うだろ?」

少し嬉しそうな日向の声に、彼方は驚いた表情で振り返る。
そして、視線を逸らして、そっけなく呟いた。

「…いらない。」

気まずそうに顔を背けて、日向の方を見ようとしない彼方。
日向はそんな彼方の様子に違和感を感じ、包丁を置いてリビングに入る。
近付く日向に、彼方は一瞬身を震わせて、距離を取る。

「僕どうやって帰ってきたんだっけ…。昨日の記憶、全然ないや。
 …なんか、いつの間にかベッドで寝てたから、びっくりしたよ。」

目を逸らして、少し早口に澄ました顔で呟く。
これは、昨日までの、自分を避けている彼方の顔だ。

「何も、覚えてないのか…?」

「…?うん、全然覚えてない。」

彼方はわざとらしく、日向の方を見ないまま、首をかしげる。

そんなはずない。
朝方、確かに、彼方は自分の首筋を、肩口を、胸元を、噛んだのだ。
「好き」だと言って、「自分のモノ」だと言って、縋りついたのだ。
手を握って、一緒にベッドで眠ったのだ。

日向は、自分のシャツの胸元を開いて、噛み跡を彼方に見せようとする。

「これ…」

「覚えてないってば!」

日向の言葉を遮って、怒鳴るように声を荒げる彼方。
それはまるで、日向を拒絶しているようだった。

「…僕、バイト行かなきゃいけないから。」

彼方は一度も日向と目を合わせることもなく、足早に玄関へと向かう。

「待て…!」

日向は慌てて、彼方の腕を掴む。
今度こそ、ちゃんと繋ぎとめておきたかった。
やっと、いつもの彼方が戻ってきたと思ったのに、ここで手放したくない。
手を離したら、また彼方がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、日向は必死だった。

「そういうのやめてよ!そんなふうに、くっつかないでよ!!」

苛立ったように、荒げた声で、彼方は日向を拒絶する。
日向の手は、乱暴に振り払われた。

「え…。」

「男同士で…そんなふうにくっつくの、おかしいと思うよ。」

その言葉に、日向は何も言えなくなる。
彼方の冷たい言葉が、心に突き刺さる。
彼方の瞳は、日向を映さない。

「じゃあね。…また、しばらく帰って来ないから。」

そう言って、振り返ることなく、玄関の扉を開けた彼方の表情は、見えなかった。
そして、乱暴に、玄関の扉が閉まる。



日向は、また、独りになった。


麻丸。
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