「夢の中の羊たち」
「夢の中の羊たち」
-産んでほしいなんて誰が言った-
-いっそ俺たちを殺せばいいだろう-
-そうすればお互い幸せだ。…母さんなんて大嫌いだ-
初めて抵抗した夜の記憶。
-どうして…どうして、そんなことを言うの…?-
-あの人と同じ顔で、そんなことを言うの…っ!?-
-どうして…あなた達も私のことを責めるの…-
真っ赤に染まる荒れ果てた部屋。
手首から血を流し、動かない母親。
近づいてくるサイレン。
怯えて泣き喚く彼方。
-あなたが、私を殺すのよ-
感情を閉じ込めることを覚えた夜の記憶。
「日向、日向起きて。朝だよ。」
自分を呼ぶ彼方の声が聞こえる。
瞼が重い。体に力が入らない。思考がほんのり霞がかっている。
日向は手探りで彼方の腕を掴む。
「どうしたの…?」
彼方は少し荒い日向の呼吸に気づく。
日向の額に手を乗せ、いつもより熱い日向の体温に驚く。
「…すごい熱…。今日は学校休もう?」
「ん…。」
どうやら先日の雨のせいで風邪をひいたようだ。
体がだるい。頭が働かない。
寒くて暑い、変な感覚だ。
「ちょっと待ってて。今熱さまシートとかお水とか持ってくるから。」
彼方がベットから降りようとするも、日向は彼方の腕を離さない。
解こうと思えば解ける程度の力だが、今の日向はあまりにも弱弱しかった。
「…行くな…。」
声にならない声を絞り出す。
「え?」
「どこにも…行くな。」
彼方を掴むその手は、弱弱しく、それでも必死に縋りついているようだった。
熱のせいか、潤んだように見える日向の瞳は、少し切なく揺れていた。
-寝かせてから持ってくればいいか。-
あんなことがあった後で、日向が不安になるのも無理はない。
彼方は諦めたように日向の手を強く握り、微笑んだ。
「大丈夫だよ。僕はもうどこにもいかないから。」
その言葉に日向は安心したように、もう一度瞳を閉じた。
浅い呼吸を繰り返す、ほのかに上気した頬。
半開きのだらしない唇が、何故かとても官能的に見えた。
彼方は手の平を日向の頬に添える。
―このまま閉じ込めてしまえたらいいのに。
最近日向が見ている世界が自分と違う気がする。
日向の世界には自分以外の誰かがいる気がする。
狭い世界で二人きり。
それで充分なはずなのに。
入水して日向の気を惹いてみても、何かが掛け違っている気がした。
―日向は僕がいないと生きていけない。
―けれど、「僕以外の誰か」も必要としている気がする。
そのまま、その呼吸を止めたい衝動に駆られる。
奪われるのが怖い―。
「坂野先輩、ちゃんと日向先輩と仲直りできたんですか?」
毎週月曜日の図書室の約束。
静かな図書室で亮太は元気なく机に伏せっていた。
百合はそんな亮太を、心配するような呆れた様な目で見ている。
「あー…これからだよ。」
「珍しくヘコんでいるんですね。」
先週の金曜日、日向と亮太が衝突したことを百合は心配していた。
あの後、日向は図書室に帰って来なかった。
その場にいた百合も、感情を剥き出しにした日向を初めて見て驚いていた。
「なー、…俺の悪いところってどこだと思う?」
「…うーん。空気の読めないところ?」
百合はいつものように、少し考えたそぶりをみせて答える。
亮太は顔を上げて遠くを見つめ、ため息をつく。
「…やっぱそう思う?」
「自覚していたんですね。」
百合は-意外だ-という顔をする。
「俺はさー、ちゃんとアイツらと仲良くなりたかったの。
俺が力になれるなら、いくらでも力になってやりたいと思ったんだ。
なーんでうまくいかねえのかなあ…。」
亮太は机の上で手を組み、その上に顎を乗せる。
わざとらしくうーん、うーんと唸りながら考える。
「どうして日向先輩にこだわるんですか?」
「んー、最初は気まぐれで声かけたんだけどさー、…見えちゃったんだよ。」
「見えちゃった?何がですか?」
亮太はハッとした様子で口を塞ぐ仕草をする。
慌てて手を左右に振り、
「あ、いや、なんでもない!今のなし!」
と必死な様子で誤魔化した。
百合はその下手な誤魔化しに気付きはしたが、
-敢えて聞かないでおこう-と口を噤んだ。
「でもさ、日向はどんなことがあっても自分の感情を押し殺して、
ただ黙って我慢する奴だと思ってたからさ、
ああやってちゃんと俺のこと怒れるんだ、怒鳴れるんだって思ったら
なんか…安心した。」
満足げに薄笑みを浮かべる亮太。
頬杖を突きながら黙って話を聞いていた百合は、静かに口を開いた。
「坂野先輩って…マゾなんですか?」
百合の意地悪な発言に亮太は頷く。
「大人のお姉さんに弄ばれたい願望はあるかな!」
「それはさすがにどうかと思いますよ。」
「ひどい!男子高校生ってこんなもんだぜ!」
静かな図書室にいつものように二人の笑う声が響く。
亮太の落ち込みは、すっかり晴れていた。
-そうだ、ちゃんと謝ろう。そしてゆっくりゆっくり距離を詰めていこう。-
大きな深呼吸を一つ。覚悟を決めて教室に入る。
が、日向も彼方もまだクラスに来ていなかった。
拍子抜けした亮太は肩を落とし、自分の席に着く。
-いつものように「おはよう」と、ちゃんと真っ直ぐに「ごめん」を言おう。-
しかし、始業の鐘が鳴っても、二人はクラスに姿を見せなかった。