「不確かな運命」
「不確かな運命」
「そういえばさ、彼方君、少し痩せた?」
広い豪華な部屋の中、シーツを纏ってベッドに横渡りながら、
煙草を吸う女は、半裸の彼方の姿を見て、言った。
「そうかな?そんなことないと思うけど…。」
痣だらけの上半身を晒して、ベッドに座り込む彼方は、自分の体に触れてみる。
自分では彼女が言うほど、変わっていないと思う。
「ならいいけど。…こういう仕事してたら、ストレス溜まりやすいし、
体壊す子も多いからねー。気を付けなよ。」
紫煙を吐き出しながら、たいして興味もなさそうに、
膝を曲げて足をゆらゆら揺らして、彼女は呟く。
「ストレスとかで、ご飯食べれなくなっちゃう子とかもいるからねー。
食べても吐いちゃって、ガリガリになる子とか、よくいるのよ。」
長い黒髪をかき上げると、彼女の耳には丸い大きなピアスが揺れていた。
彼女は一口タバコを吸い、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
そのまま、ベッドの淵に置かれた灰皿で、火を消した。
「ふーん、そうなんだ。でも僕は平気だよ。毎日楽しいし。
智美さんは、優しいね。」
そう言って、彼方は智美の隣に寝転がる。
智美も麗華と同じく、彼方の客だ。
彼方との一夜を金で買う、大人の女性。
派手なピアスと、長い黒髪が印象的な、二十歳そこそこのキャバクラ嬢。
智美は隣で寝転がる彼方の肩に、そっと触れる。
確かめるように、その肩をなぞって、首を傾げた。
「もっと肉付けた方が、いいと思うけどなー。」
肩や腕、腰をなぞって、智美は骨っぽい彼方の細い体を抱きしめる。
彼方もそれに応えるように、智美の背中に手を回す。
もうこんなことも慣れた。
気持ちがなくても、抱きしめられる。キスができる。体を重ねることだって。
ただ優しく微笑んで抱きしめてやれば、彼女たちは幸せそうに微笑んでくれる。
麗華だって、智美だって、みんな同じだ。
みんな金を出して寂しい夜を埋める。
一夜限りの疑似恋愛。そこに愛情なんてありはしない。
このホテルで過ごす時だけ、恋人のフリをして優しくする。ただそれだけ。
「あ、そうだ!今度、私の仕事が休みの日に、同伴で焼き肉行こうよ。
御馳走してあげるから。」
そう言って、智美は彼方の腕の中で微笑む。
同伴、仕事、アフター。
夜の仕事とはいえ、一日の拘束時間は結構長かった。
夕方くらいから客と食事同伴をし、
完全に日が落ちてからは店でいつも通りの営業。
営業が終わるのは太陽が昇る時間で、
その後からはアフターと称して、彼女たちとホテルで体を重ねる。
大変だと言えば大変だが、仕事は楽しいし、給料もいい。
それに、アフターで彼女たちと体を重ねれば、さらに稼げる。
「ホント?楽しみにしてるね。」
彼方は智美を抱きしめたまま、優しく微笑んだ。
目を細めて、優しく柔らかい、営業用の笑顔。
けれど智美は、彼方の笑顔に、一層嬉しそうな顔をした。
馬鹿だと思う。
こんな関係に満足そうに笑って、薄っぺらい言葉に喜んで、
本当にあるかどうかもわからない約束を、口に出す。
全部全部嘘ばかりだということは、彼女たちもわかっているはずなのに。
どうしてそんなに、楽しそうに笑えるのだろう。
「あれ?ピアスなんてしてたっけ?」
ふいに、智美は彼方の髪をそっと掻き分ける。
そして、彼方の右耳に輝く赤いピアスを、じっとみつめた。
「ちょっと前に、優樹さんに空けてもらったんだ。」
赤い石のついたピアッサーは、自分で選んだものだった。
色とりどりのファーストピアスがついたピアッサーの中で、
何故赤を選んだのかというと、赤はまるで日向のような色だったからだ。
強く綺麗だけれど、どこか儚く、脆さや危うさがある、鮮やかな赤色。
未練がましいと言われれば、そうかもしれない。
けれど、どこかで日向と繋がっていたかった。
報われないとはわかっていても、やっぱり日向のことが、忘れられないでいた。
「なにー?私が前に言ったこと、気にしてるの?」
少し切なそうな表情をした彼方に、智美は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「ピアスを開けたら運命が変わる、だっけ?」
以前、智美と体を重ねた時に言われた言葉。
『ピアスを開ければ、運命が変わる。』
もちろん、そんなの信じていないし、都市伝説だと思っている。
ピアスを開けたのは、ただの気まぐれだ。
「まあ、そうなったらいいな、って思うけどね。」
そう言って、彼方はニッコリと微笑む。
「彼方君は、どんな運命を変えたいの?」
智美は彼方を抱きしめたまま、静かな声で問う。
「それは内緒。」
人差し指を唇に添えて、彼方は首を傾げて微笑んだ。
その言葉に、智美は少し面白くないような顔をして、彼方を抱きしめた腕を解く。
そして、ベッドの淵から煙草の箱とライターを取り出して、再び煙草に火をつけた。
「まあ、運命を変える、って言ったって、
自分の運命がどんな運命なのかすら、わからないのにね。
結局は、自分で変えていくしかないのよ。
それがどうしようもないことなら、どうにもならない。
そういう意味では、ただの気休めなんだよねー。」
智美はそう饒舌に語って、紫煙を吐き出す。
ゆらゆらと、その煙は薄く広がり、宙を舞う。
それは儚い人の想いのように、力なく揺らめいて、消えた。
「わかってるよ。でも、試してみてもいいかな、って思っただけ。」
そう言って、彼方は右耳のピアスに触れる。
もうすっかり痛みなんてなくて、あるのは少しの違和感だけ。
でもこのピアスに触れれば、日向が傍にいてくれるようで、
ほんの少しだけ、安心する。
「なんか意外だよね。あんまり人に流されないタイプかと思ってたけど。」
「…そう?」
人に流されないタイプ。そんなこと初めて言われた。
というより、今までは流されるような人間が、周りにはいなかったし、
たくさんの女子に囲まれていても、結局、心を許せるのは日向一人だった。
それに、いつもワガママを言うのは自分で、
日向はそんな自分に呆れながら、嫌な顔一つせず、自分に合わせてくれていた。
日向は優しい。
自分の嫌がることは絶対にしないし、とても自分に気を使ってくれる。
静かに相槌を打ちながら、自分の話を聞いてくれる。
なんだかんだいって、自分を甘やかしてくれていた。
あの二人とは大違いだ。
「でもピアス空ける時、怖かったなー。
誠さんに抑え込まれて、優樹さんに意地悪されて…。」
ふと思い出した、ピアスを開けた時の話。
いつも二人は自分のことを意地悪にいじるし、楽しそうに茶化す。
けれど、なんだかんだ言って、気を使ってくれていて、優しい。
あれがあの二人なりの、可愛がり方なのだろう。
「彼方君は、すっかり二人のおもちゃだね。」
智美は心底面白そうに、声を上げて笑う。
「笑い事じゃないよー。もう。」
そう言って、彼方は拗ねたように、唇を尖らせた。
なんだかんだ言って、楽しくやれている。
だから自分は、大丈夫だ。
母親が帰ってきてから、いつものように暴力が続いた。
日向はただ黙って、それを受け入れた。
母親は酒に溺れ、酔って暴力を振りかざす。
しばらくして虐待に飽きれば、何処かへ出かけていく。
そしてまた帰ってきて、暴力を繰り返す。
終わりなんて、なかった。
しばらく帰って来なかったのに、また男にでも捨てられたのだろうか。
いつも夏休みの間は、いつもより暴力がひどくなる。
学校へ行く必要もないし、制服を着る必要もないし、人に会う必要もない。
だから、顔も殴られたし、痣だけではなく、割れた酒瓶で殴られて出血もした。
家にいる時は、この痣だらけの体を、見られて困ることはない。
だからいつものように、季節に見合わない長袖を着ることもなかったし、
半袖やタンクトップで過ごすことが多かった。
そのせいか、剥き出しの腕は、鮮やかな生々しい切り傷と、痣に塗れていた。
彼方がつけた噛み跡を見られて、一層暴力が酷くなったりもした。
「気持ち悪い」「異常だ」と、散々罵られて、
その噛み跡に、爪を突き立てられた。
煙草の火を、腕に押し付けられることもあった。
いくらこの身が傷ついてもいい。
痛みには慣れているし、肌を隠すことにも慣れた。
心配してくれる人なんて、誰もいない。
自分がどうなろうと、誰にも関係ない。
痛みには、とっくに慣れていた。
殴られた痣も、割れた酒瓶で切れた傷も、
押し付けられた煙草も、さして痛くはなかった。
痛いのは、心だった。
独りになってしまったという孤独感。
誰にも望まれていないという虚無感。
「アンタたちなんかいらない」
「死んでしまえばいいのに」
そんな言葉を浴びせられるたび、心がチクチクと痛んだ。
自分が生きていることを、誰も望んではいない。
誰も自分を必要としてくれない。
誰かに、求められていたかった。
愛されていたかった。
嘘でもいい。
自分が必要だと、生きていてもいいのだと、そう言ってほしかった。
相変わらず、百合からも、彼方からも、連絡はない。
日向はただ独りで、振り翳される暴力に、口を噤んだ。
この悪夢も、黙って耐えていれば、いつかは終わる。
けれど、自分は何のために耐えているのだろう。
今までは彼方がいた。
彼方とずっと一緒にいるために、
そのためだけに、この理不尽な暴力に、耐え続けてきた。
けれどもう、自分の傍に、彼方はいない。
じゃあ何のために耐えるのだろう。
耐える意味なんてない。
けれど、抵抗したところで、きっと母親は変わらない。
逃げ出そうとしたって、自分には、どこへも行く場所なんてない。
心がカラカラに渇いて、日向は何も考えられなくなっていた。
いや、何も考えたくなくなっていた。
もう全部どうでもいい。
どうにでもなってしまえばいい。
心が、荒んでいく。
どうして自分だけ、こんな目に遭わなければいけないのだろう。
そうして自分だけ、こんな思いをしなければいけないのだろう。
彼方も、離れて行ってしまった。
百合も、もう、きっと自分のことを嫌いになってしまった。
自分は独りぼっちだ。
誰にも愛されない。求められない。
誰にも必要とされない。
自分が生きている意味なんて、もう何もない。
それなら。
それなら、もう、いっそ。
日向は震える声で、小さく呟いた。
「…もう…殺してくれ…。」
母親は不敵に笑って、長い爪を日向の首に食い込ませる。
自分の首に添えられた細い両手に、ゆっくりと力が籠る。
日向は、静かに目を閉じた。