「隠しきれない傷跡」
「隠しきれない傷跡」
その日は土砂降りの雨が降っていた。
朝は澄み渡る晴天だったのに、夕方から急に天気が崩れた。
ワイパーを動かしても、とんでもないくらいの雨量に、視界は霞んで見えた。
「将君が卒業するまでに、あと5本はライブしたいねー。」
運転席の男は、耳に光る大量の銀のピアスを揺らしながら、
真っ直ぐに視界の悪い道路を見ていた。
銀色に染めた髪の襟足だけを伸ばして、
タンクトップからタトゥーの入った腕を覗かせる、垂れ目の大男。
「そうっすねー。とりあえずあと三曲くらい作って、
新しいベースも見つけないとですね。」
将君、と呼ばれたのは、将悟だった。
将悟は助手席に座り、流れる景色を見つめていた。
二人は、バンドのスタジオ練習の帰りだった。
今はバンドメンバーは二人だけだが、街の方でスタジオに入り、
ドライブが趣味だという誠は、いつも田舎の方の将悟の家まで、車で送り迎えをしてくれる。
その誠も「夏休み」と称し、一週間程度、仕事の休みを取って、
これから将悟の家に泊まり込んで、バンドの曲を作る予定だった。
「そうだねえ。もうあと半年くらいしかないもんねー。
ちゃんと専門学校卒業したら、こっち戻ってきてよー?」
将悟の高校卒業後の進路は、とっくに決まっていた。
バンドでプロを目指すだとか、そんな非現実なことは言わない。
この田舎を出て、名古屋のギターを作る職人の専門学校に入る。
そして一人前の職人になったら、この街に戻ってくる。
そういう未来を、2年も前に描いていた。
「それはもちろんですって。アイツとの約束ですもん。」
そう言って、将悟は少し寂しそうに笑った。
今はもう、触れることもない彼女との約束を、守りたかった。
たとえそれが馬鹿だと言われようと、誰に何を言われようと、
ただ一人、大切な彼女の夢に近付きたかった。
「ははっ。将君は律儀だからなー。
そういえばさー、最近ねー、うちの店にイケメン入ってさー困るわー。」
寂しそうな顔をした将悟に気付いて、誠はわざとらしく話題を変える。
誠の仕事は、ボーイズバーの従業員だ。
夜の仕事ということに、将悟も最初は驚いたが、
誠は少しお喋りだが、普通の人間と何も変わらない。
人懐っこくて、明るくて、優しく、いい人だった。
「いいことなんじゃないんですか?」
将悟は誠の方を向いて、そう言うと、
誠は真っ直ぐ前を見つめたまま、いつものようにマシンガントークを始めた。
「もうね、顔はすごいカッコいいんだけどね、性格とか喋り方が可愛いの!
どっちも持ってるってすごいよね!ズルいよね!でもすっごいいい子なの!
なんか可愛い弟ができた気分なんだよねー!」
運転をしながら、身振り手振りを加えて、誠は楽しそうに語りだす。
楽しそうな誠とは裏腹に、遠くの方では雷が鳴っていた。
外は豪雨で、他に走っている車も、歩いている人も、誰一人いなかった。
「はあ…。そうなんですか。」
将悟はため息を吐いて、窓の外に視線を向ける。
誠は一度喋り出したら、その口を閉じることはなかなかない。
将悟の口を挟む隙もないくらいに一人で喋るため、
将悟はただ適当に、短く相槌を打つことくらいしかできない。
「確か地元がこの辺だって聞いたんだー。
だから将君ももしかしたら知ってるんじゃないかなーって思って!
ほら、田舎のコミュ二ティーって狭いって言うでしょ?」
車は、既に将悟の家の近くまで来ていた。
もう10分も走れば、将悟の家が見えてくる。
「田舎って…。誠さん酷いですよ。」
そうは言っても、否定はできない。
確かに見える景色は海と山ばかりだし、24時間営業のコンビニもない。
大きなショッピングセンターやチェーン店の飲食店すらない土地なのだ。
「あははー、でも事実じゃん?山と海しかないしー?
イケメンだから結構目立つし、こっちでも有名なのかなーって思って。
今二十歳の子でね、あ、でももっと若く見えるんだよねー。羨ましいよー。
茶髪のさわやか系イケメンなんだー。」
悪びれる様子もなく、誠は楽しそうに口を動かす。
話に熱が入ると、少し早口になるのが誠の癖だ。
「二個上だと、あんまりわかんないですね。」
将悟は話の切れ目を探して、誠の話に口を挟む。
いくら田舎と言えど、二つも年が離れたら、
よっぽどのことがない限り、顔見知りになることはない。
そもそも、同じ学校ですらないのなら、接点はない。
「そっかー。もうね、凄く可愛くてね、
毎日俺と優樹君で、おもちゃにして遊んでるんだー。」
そう言って、誠は一層楽しそうに笑った。
「…それは、その人も災難ですね。」
優樹という人物も、何度か会ったことがある。
誠の働くボーイズバーの店長で、
誠ほどではないがお喋りで、人をおちょくるのが好きな人物だ。
誠一人でも、長時間そのマシンガントークを聞き続けると疲れるのに、
そんな二人に遊ばれるなんて、そのイケメンくんも可哀想だな、と将悟は思う。
「凄いイケメンで仕事もできるし、お客さんもいっぱいいるし、
可愛くていい子なんだけど、ちょっと心配なことがあってねー。」
楽しそうだった誠の声のトーンが、少し暗くなる。
「心配なことって…?」
そう言って、誠の方を見ると、その目は真剣な目に変わっていた。
「なんていうか…お客さん相手に、枕営業してるかもしれないんだよねー。
いろんなお客さんとホテル入るところ見ちゃってさー、
まあホテル行ったとしても、本当にそういうことをしてるかはわからないんだけどさー。」
テレビドラマや映画でよく耳にする枕営業。
客と寝て、指名や売り上げを上げるという、あまり好まれない行為。
そういうことばかりテレビで取り上げられているから、
以前は将悟は夜の仕事というものに、偏見を持っていた。
誠と出会ってからは、そうじゃないことがわかって、
その偏見も徐々に薄れていったが、実際にそういう行為は行われているのか。
「やっぱ…そういうことあるんですね。テレビの中だけかと思ってた。」
愛情もない人間と寝れるということに、将悟は軽蔑を覚える。
そんなことをして何になるのか。
そんな不誠実なことをしても、心がすり減っていくだけなのではないか。
そんなことをする人間はきっと、愚かで、不器用で、寂しい人間なのだろう。
なんて考えながら、将悟は流れる景色をただ眺めていた。
雨は勢いを増して、地面に叩きつけていた。
誠が静かになったと思ったら、急に車にブレーキがかかった。
「あ…ねえ、将君あれ…。」
そう言って誠が指さしたのは、対向車線の方にあるバス停だった。
時刻は22時を指している。
こんな田舎では、この時間にもうバスは通らない。
田舎の簡易的なバス停は、屋根もなく、安っぽいベンチがただひとつあるだけ。
そこに、傘も差さずに、びしょ濡れになりながら俯いて座っている少年がいた。
「あの子…あんなところで何してるんだろう…?」
不思議そうに、誠はその少年を車の中から見つめる。
しかし、強すぎる雨で視界が阻まれて、よく見えない。
けれど、将悟には、その少年がよく見知った顔であるように思えた。
「え?…あれ…もしかして…。」
そう言って、将悟は雨の中、濡れることも構わずに車を降りて、その少年の方へ向かう。
「ちょ、ちょっと将君!濡れちゃうよ!?」
迷わず車を降りた将悟に、誠はただただ驚いて、見ていることしかできなかった。
将悟はびしょ濡れになりながら、その少年に近付く。
その少年は、将悟が思っていた通りの人物だった。
「おい日向!何やってるんだ、こんなとこで…。」
将悟が声を掛けると、日向はゆっくりと、顔を上げた。
そして将悟を見て、驚いたような顔をした。
「中村…?なんで…」
小さく呟く日向の顔は、心なしか少し赤らんでいるように見える。
そして、右頬に不自然な腫れと、切り傷があった。
「なんでって…お前こそ…。」
そう将悟が言いかけると、日向の体がぐらりと揺れて、
日向は、力なくベンチに倒れる。
「あ、おい!大丈夫か!?」
将悟は慌てて日向の体を抱きとめると、日向の体温は熱かった。
熱でもあるのか、少し呼吸が荒く、意識も朦朧としていた。
一体いつから、ここで雨に打たれていたのだろう。
伸びた髪の隙間から覗く首筋には、
爪で抉ったような跡と、まるで首を絞められたような痣があった。
これはなんだろう。
自分でやったのだろうか。
いや、そんなわけがない。
だとしたら、誰が。
そんなことを考えていると、誠がバス停の目の前まで車を回してくれた。
そして助手席の窓を開けて、将悟に声を掛ける。
「将君、友達?車、乗せてあげなよ。家まで送っていくから。」
将悟は今にも倒れそうな日向の肩を支える。
誠は近くで日向の顔を見て、少し驚いたような顔をした。
「あ、はい!…ほら、立てるか?」
将悟に肩を支えられながら、日向は力なく小さな声を洩らす。
「…家は…帰れない…。」
それは雨音に消え入りそうなほど、弱弱しい声だった。
「は?帰れないって…。おい!おい日向!」
そのまま、日向は意識を失った。
このままにしておくわけにもいかず、家にも帰れないというものだから、
将悟はとりあえず日向を車に乗せ、誠と共に自分の家へと運んだ。
将悟の両親は転勤で海外で暮らしていて、歳の離れた兄も東京で暮らしている。
将悟は祖母と、広い家に二人暮らしだった。
おかげで部屋はたくさん余っているし、誠もしょっちゅう泊まりに来る。
玄関の扉を開けると、びしょ濡れの将悟と、
将悟に支えられて意識が朦朧としている日向を見て、将悟の祖母は驚いた。
「あらあら、どうしたの?」
白髪だらけの髪に、腰の曲がった、優しい顔をした祖母だった。
誠は将悟の祖母を見ると、ニッコリ笑って挨拶をする。
祖母の後ろからは、二匹の猫が顔を見せていた。
黒猫と、黒と白のまだら模様の猫。
「あ、こんばんは、おばあちゃん。サクラも、スミレもこんばんはー。」
誠と祖母は何故か仲がいい。
広い家で二人暮らしというのも寂しいのか、
祖母は誠のことも、自分と同じように可愛がっていた。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。
「ばーちゃん、タオルと、適当に俺の服持ってきてくれ。」
「はいはい、ちょっと待っててね。」
祖母は慌てた様な表情をして、
でもゆっくりとした動きで、家の奥の方へと消える。
「奥の客間に布団敷くんで、誠さんは日向を運んでもらえますか?」
日向も細身だとはいえ、さすがの将悟も、
自分より体の大きな男を支えるのは、きつかった。
「うん、わかったよ。」
そう言うと、誠は軽々しく日向を抱える。
ドラムをやっているだけあって、力仕事はお手の物だった。
日向の肩と足を支えて、両手で日向を持ち上げて、
まるでお姫様抱っこのような格好で、誠は将悟の後に続いて奥の客間へと向かう。
「とりあえず…体拭いて、服着替えさせた方がいいよね。」
客間の壁に凭れかけるように日向を座らせて、誠は呟く。
将悟は布団を敷き終えて、祖母が持ってきてくれたタオルと着替えを抱えていた。
そのタオルと着替えを日向の傍に置き、日向に声を掛ける。
「日向、脱がすぞ?」
学校では、夏でも絶対に学ランを脱がない日向。
その服の下に、何を隠しているのか、なんとなく想像できた。
首筋に覗く痣が、不穏な想像を駆り立てる。
将悟は日向のシャツのボタンに手を掛け、脱がそうとすると、
日向は将悟の手を弱弱しく掴んで、小さく首を振る。
「…だめ…だ…。」
消え入りそうな声で制止しようとする。
掴まれた手は、熱を持って熱くなっていた。
意識も朦朧としているのだろう。
瞳もハッキリとは開かないようだ。
「だめって…自分で着替えられねーだろ?」
服を脱ぐことを拒む日向に、将悟は小さくため息を吐く。
無理矢理にボタンを外そうとすれば、日向は体を捻って抵抗しようとする。
「嫌だ…。」
意識も朦朧としていて、自分の力だけで座ることもできないのに、
日向は頑なに服を脱ぐことを拒む。
将悟は困った顔をして、どうするべきが考え込んでいた。
このまま着替えさせないわけにもいかない。
びしょ濡れのまま寝かせたら、風邪をひくかもしれない。
いや、むしろ今風邪をひいているのか。
ならば尚更、悪化するかもしれない。
早く着替えさせて布団で寝かせてやりたい。
将悟は大きくため息を吐いて、
仕方なく無理矢理に日向を脱がせることにした。
「…何見ても、誰にも言わないから。」
その言葉に、日向も諦めたように、顔を背けて、抵抗しなくなった。
シャツのボタンに指を掛けて、ゆっくりと、上から一つ一つボタンを外していく。
鎖骨が見えるほどボタンを外せば、鮮やかな噛み跡が、たくさん見えた。
「なんだよ…これ…。」
将悟は驚いて声を洩らす。
その真新しい噛み跡は、以前よりも、赤く、深く、大量につけられていた。
「おい…これ、彼方がやったのか…?」
日向を見ると、顔を背けたまま、静かな呼吸をして、目を瞑っていた。
熱に浮かされ、眠ってしまったのだろう。
将悟は言葉を飲み込み、黙って日向の服を脱がせる。
ゆっくりとシャツを脱がせれば、体には痣や切り傷、火傷の痕がたくさん残っていた。
そんな日向の姿に、将悟はただ戸惑うことしかできなかった。
これは全部彼方がやったことなのだろうか。
噛み跡も、切り傷も、痣も、火傷の痕も。
全部、彼方が日向にしたことなのだろうか。
彼方は日向のことを、大切にしていたのではなかったのか。
それの傷を見て、黙っていた誠が、静かに口を開いた。
「…これ、根性焼きだよね。彼方君じゃないと思う。
彼方君は、煙草吸わないんじゃない?」
冷静に、一つ一つ傷を眺めて、ゆっくりと呟く。
「この傷も新しい。きっと、彼方君じゃないよ。」
まるで彼方のことを知っているような誠の言葉に、
将悟は驚きを隠せなかった。
「え…?なんで誠さん、彼方のこと知って…。」
戸惑う将悟に、誠は優しく微笑んで、日向の着替えを差し出した。
「将君、とりあえず早く着替えさせて、寝かせてあげよう?」
「…へくしょん!」
優樹のマンションのリビングで、彼方と京子はテレビを見ていた。
突然の彼方のくしゃみに、京子は呆れた様な顔をする。
「風邪ですか?今日から誠さん休みなんですから、体調管理ちゃんとしてくださいよ。」
誠は今日から一週間の休みだ。
従業員の少ない店で、彼方まで風邪で休むわけにはいかない。
「いや、風邪なんてひいてないよ。」
ケロッとした顔で、彼方は否定する。
「じゃあ誰かが、噂でもしてるんじゃないですか。」
京子は興味なさそうに、テレビに視線を向ける。
彼方は自分の右耳のピアスに触れて、小さく呟いた。
「なんか最近、悪い予感がするんだよねー…。」