「知られたくなかった真実」
「知られたくなかった真実」
頭が痛い。体が熱い。意識が朦朧とする。
日向が重たい瞼を開くと、そこは見たこともない部屋だった。
人の生活の気配がしない、殺風景な和室。
何もない部屋に布団を敷いて、そこにただ一人で寝かされていた。
ここはどこだろう。
自分はどうして、こんなところにいるのだろう。
日向はぼうっとする頭で、おぼろげな記憶をたどる。
ああ、そうだ。自分は逃げ出したんだ。
母親の暴力に耐えかねて、家を出たんだ。
けれど行くところなんてどこにもなくて、
バス停で途方に暮れていたら雨が降ってきて、それから…
それからどうしたのだろう。
記憶が曖昧だ。
確か誰かに声を掛けられた。
誰に声を掛けられたんだっけ。
そんなことを考えていると、ゆっくりと襖が開く。
「あ。…目、覚めたんだな。」
そう言いながら、姿を現した人物は、将悟だった。
将悟は静かに襖を閉めて、部屋に入ってくる。
「…中村…?」
将悟の姿を見て、日向は身を起こそうとする。
しかし、熱のせいか体がふらつく。
「あ、おい、熱あるんだから寝とけよ。」
ふらつく体を腕で体を支えて座ると、
日向は自分が着ている服が、変わっていることに気付いた。
「あ…。」
黒い半袖のTシャツ。
これでは傷や痣が見えてしまう。
日向は慌てて、両腕を背中に隠す。
そんな日向の姿を見て、将悟は静かな声で呟いた。
「別に、隠さなくてもいい。」
その言葉に、日向は黙って腕を背中に隠したまま、気まずそうに俯く。
確かに、あんな傷だらけの体を見られるのは気が引けるだろうと、将悟は思う。
しかし、あの傷が何なのか、誰につけられたものなのか、気になって仕方がなかった。
「あのさ…、」
将悟が言いかけると、それを遮って襖が乱暴に開いて、銀髪の大男が姿を見せた。
「しょーくーん!日向君起きたー?」
その男は無邪気な笑顔で、両手で真っ白な毛の子猫を抱えて、部屋に入ってくる。
銀色の髪の襟足だけを伸ばし、耳には無数のピアスを揺らしていた。
「ちょ…!誠さん、その猫どこから連れてきたんですか!」
将悟は誠が抱えている子猫に気付いて、
少し怒った様子で、眉間に皺を寄せて誠に言う。
「そこで拾ってきちゃったー。」
誠と呼ばれた男は、悪びれる様子もなく、
ニコニコ笑いながら、その真っ白な子猫を撫でる。
「もううちにはサクラとスミレがいるんですから、ダメですよ。」
将悟がそう言うと、廊下から首輪を付けた二匹の猫が顔を覗かせた。
真っ黒な毛の猫と、白と黒のまだら模様の猫。
その二匹はチリンチリンと鈴の音を響かせて、ゆっくりと部屋に入ってくる。
そして、将悟の足に絡みつくように、頬擦りをした。
相当将悟に懐いているようだ。
「じゃあこの子は、アンズちゃんかにゃー?」
そう言いながら、誠は子猫と目を合わせて微笑む。
突然の見知らぬ男に、日向はただ黙って戸惑っていた。
窺うように誠を見つめていると、ふいに、目が合う。
「あ、日向君おはよう!
どう?熱は下がったかにゃー?」
誠は戸惑う日向に、ニッコリと笑いかけて、
アンズと呼ばれた子猫を、日向の膝の上に乗せる。
「え、えっと…。」
自分よりも大きな大人の男が猫を抱えて、猫撫で声で猫に話しかけている。
しかし、見た目は日向たちよりもずっと年上で、銀髪を靡かせ、耳はピアスだらけ。
腕からはタトゥーを覗かせていて、いかにも怖そうな感じだ。
そんな誠に膝に乗せられたアンズは大人しく、体を丸めて日向のことを見ていた。
「あー、まだちょっと熱あるねー。ゆっくり寝てなよー。」
誠は戸惑って何も言えない日向の額に手を当てて、熱を測る。
行動が予測不能で、マイペースな男だと日向は思う。
そして、自由気ままによく喋る。
亮太もよく喋るし、マイペースだけれど、亮太と少しタイプの違うこの男に、
日向はどうしていいかわからず、困っていた。
そんな二人の様子を見て、将悟はため息を吐く。
「うちのバンドでドラムやってる誠さんだよ。
お前、バス停のところでずぶ濡れで倒れてて、
ほっとくわけにもいかないから、俺と誠さんで俺の家に運んだんだ。」
将悟の説明に、日向は驚いた。
目覚めた時、自分がどうしてここにいるか、ほとんど覚えていなかった。
「嫌がってたみたいだけど、勝手に着替えさせちゃった。…ごめんね?」
誠は首を傾げて謝る。
自分は、あの場所で倒れていたのか。
二人は自分を、助けてくれたのか。
「その…ありがとう。」
日向は小さく礼を呟く。
しかし、服を着替えさせられたということは、痣や傷を見られてしまったのではないか。
こんな傷だらけの体を見て、二人は引いたりしていないだろうか。
気持ち悪いだとか、汚いだとか、思われていないだろうか。
背中で隠したこの腕の傷も、きっと見られてしまった。
必死に腕を隠す日向を見て、将悟は静かに口を開いた。
「…お前さ、家には帰れないって言ってたけど、その傷と…関係あるのか?」
その言葉に、明らかに動揺したように、日向は目を逸らす。
腕を隠しても、首筋の噛み跡や、首を絞められたような痣は隠せていない。
「…なんでも…ない…。」
目を逸らしたまま、日向は小さく呟く。
「なんでもないって…。じゃあこれ、どうしたんだよ。」
将悟はそう言って、背中で隠した日向の手を掴んで、引っ張る。
アンズはそれに驚いて日向の膝から降り、誠の方へと走った。
隠していた腕が、二人の目前に晒される。
痣や切り傷、火傷の痕が残った、醜い腕。
「これは…その…。」
二人の前に腕を晒されて、日向は言い訳ができずに、口ごもる。
そのまま日向は、口を噤んで黙ってしまった。
重い沈黙が、流れる。
日向は俯いて口を開こうとはしないし、
将悟は日向の腕を掴んだまま、離そうとしない。
そんな二人を見て、黙っていた誠は、アンズを抱えてゆっくりと口を開く。
「将君も心配してるんだよ。どうしても言えないようなこと?」
落ち着いた優しい口調で、誠は日向を諭すように語り掛ける。
そんなことを言われても、本当のことなんて、言えるわけもない。
心配してくれるのは有難いが、言ったところで、どうにもならない。
それに、何と言っていいのか、わからない。
口を噤んだまま、話そうとしない日向に、将悟は小さく呟いた。
「彼方か?」
日向の腕を握る手に、力が籠る。
将悟は日向を真っ直ぐに見つめて、静かに、けれど強い声で言った。
「これ全部…彼方が、やったのか?」
将悟の真剣な声に、日向は俯いたまま、小さく首を振る。
「違う…。彼方は、こんなこと…しない…。」
誠は日向の隣にしゃがみこみ、大きな体を小さく丸めて、
見上げるように、首を傾げて日向の顔を覗く。
「じゃあ、誰にこんなことされたの?」
それはまるで、子供を諭すように優しい口調だった。
誠が抱えているアンズも心配してくれているのか、小さく首を傾げている。
将悟は真剣な眼差しで、誠は心配するように、日向を見つめていた。
二人の真っ直ぐな視線が、辛かった。
「…母親。」
消え入りそうな小さな声で、日向は呟く。
俯いた瞳を揺らして、自分を守るように背中を丸めて、
絞り出したか細い声は、かすかに震えていた。
「は…?なんで、こんなこと…。」
意外な人物に、将悟は言葉を失う。
何故母親が暴力を振るうのか。
こんなの、虐待ではないか。
「理由なんて、ない…。いつものこと、だから…。」
日向が夏でも絶対に学ランを脱がなかった理由は、これだったのか。
体中に残る虐待の痕を、隠すためだったのか。
「いつから…いつから、そんなことされてんだよ…。」
信じられない現実に、将悟の声も震える。
日向は長い睫毛を揺らして、ゆっくりと小さな声を洩らす。
「…そんなの、覚えてない。…ずっと、昔から。」
よく見れば、日向の体は夏休み前よりも細くなった気がする。
まともに食事が取れていないのか、痩せたというよりも、やつれたように見える。
掴んだ腕も、細く、頼りないように感じた。
「なんで…ずっと黙ってたんだ…。」
ずっと、耐えてきたのだろうか。
誰にも助けを求めず、彼方とたった二人で、虐待を受け続けたのか。
ただ黙って、こんなに傷だらけになるまで、耐え続けたのか。
何故、話してくれなかったのだろう。
何故、気付けなかったのだろう。
何故、無理やりにでも聞きださなかったのだろう。
いつも自分は、後悔ばかりだ。
自分の不甲斐なさに、反吐が出そうだ。
将悟は、苛立ちが溢れた。
日向の腕を掴む手が震える。
この苛立ちは、怒りは、日向に対してではない。
気付けなかった自分への、怒りだ。
また身近な人間が傷付いているのを、悩んでいるのを、気付けなかった。
今思えば、サインはたくさんあった。
どうして気付いてやれなかったのだろう。
将悟は悔しさに奥歯を噛み締める。
そして、そっと日向の手を離した。
今自分にできることは、何だ。
自分にもできることが、何かあるはずだ。
「取り敢えず…お前、しばらくうちに泊まれ。」
将悟は、静かにそう呟いた。
「え…?」
日向は戸惑ったように、顔を上げる。
少し腫れた右頬と傷が痛々しい。
白い首筋には噛み跡と不自然な痣が覗く。
腕には煙草を押し付けられた跡まである。
そんなボロボロの状態の日向を、このまま家に帰すわけにはいかない。
「家には帰れないだろうし、まだ熱あるだろ?
部屋は余ってるし、ばーちゃんと二人暮らしだから、気を使わなくていい。」
「でも…。」
将悟は、何かを言いかけた日向に口を挟ませる隙もないくらい、強い声で言った。
「いいから、黙って監禁されてろ。」
「どーするの?将君。」
日向を寝かせて、将悟と誠は居間で机を挟んで座っていた。
将悟はギターを抱えて、適当なフレーズを弾きながら、
誠は猫じゃらしで三匹の猫と遊びながら。
「匿ったって、問題が解決するわけじゃあ、ないよねえ?」
誠は笑顔を猫に向けたまま、将悟の方は見ずに、真剣な声で言う。
「わかってますよ。…でも、ほっとくなんて、できないじゃないですか。」
ギターのフレットを見つめながら、将悟は小さな声を洩らす。
見つめたフレットの先で、ポロポロとアルペジオを爪弾く。
考え事をするとき、悩むとき、ギターを抱えるのが将悟の癖だった。
「将君は相変わらずだねえー。でも、どうするの?
他人の家庭の問題なんて、そうそう口出しできるものじゃない。
将君にできることなんて、ないんじゃないかなあ?」
猫じゃらしをピョンと跳ねさせて、誠は猫たちの気を惹く。
サクラとスミレは、猫じゃらしに興味深々な様子で、
誠は猫たちが手を伸ばすたび、ヒョイと猫じゃらしを引いて、
何度も何度も、猫たちの目の前で猫じゃらしを跳ねさせる。
それはまるで、踊っているようだった。
アンズはまだ慣れないのか、机の下に隠れて、
そんな二人と二匹を窺っているようだった。
「それは…そうですけど…。でも考えたら、きっと何かできるはずです。」
ゆっくりと、不揃いなリズムのアルペジオが、切なく響く。
チリンチリンと、サクラとスミレの首に着いた鈴の音が、
将悟のギターに合わせるように重なる。
「ははっ。そうなるといいねえ。」
誠はたいして興味がなさそうに、笑い飛ばす。
それもそうだ。
誠は日向のことを、たいして知らない。
将悟にとって日向は、同級生で友人だ。
そして日向が何かを隠していることを、ずっと気にしてきた。
しかし、誠は日向のことなんて赤の他人で、ただ居合わせただけだ。
たいして興味がないのも頷ける。
けれど、日向を脱がせたとき、誠は彼方の名前に反応した。
まるで、彼方と知り合いのような口ぶりをしていた。
誠は何か知っているのではないか、将悟はそんなことを思う。
「…誠さん。彼方のこと、知ってるんですか?」
将悟はギターを弾く手を止めて、誠を見据える。
「…知らないよ。」
誠は笑顔のまま、猫じゃらしを躍らせる手を止めた。
その一瞬、黒猫が猫じゃらしに噛み付く。
白と黒のまだら模様の猫も、器用に両手を使って、
動きを止めた猫じゃらしを捕まえる。
「でもあの時、何か知ってるような口ぶりだったじゃないですか。」
猫たちの首輪に付いた鈴の音だけが鳴り響く、静かな部屋の中、
将悟は少し身を乗り出すように、真剣な声で誠に迫る。
「日向の双子の弟の、彼方のことです。」
将悟の言葉に、誠は猫じゃらしを手から放す。
そして顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。
「やだなあ。俺には『将君の同級生』の知り合いなんて、いないよ?」
自分と違って、器用な生き方をする『大人』の誠の笑顔。
それは、どこか誤魔化しているような笑顔だった。
自分より何年も大人の世界に生きてきた誠は、嘘を吐くのが上手い。
嘘を吐く、というより、面倒事を嫌がり、回避する。
大事なことを知っていても、知らないフリをする。
自分に関係のないことには、首を突っ込まない。
厄介ごとには関わらない。
余計なことは言わない。
利口な生き方だとは思うけれど、そんな誠が隠した真実に、
将悟は何も知らずに、今まで何度も後悔した。
知っていれば、変えられてたこともあったかもしれない。
子供だった自分ができることなんて、たかが知れているけれど、
それでも、知っていれば何かできたはずだ。
けれど、当時から誠は、大事なことは何も語ろうとはしなかった。
「また俺だけ、何も知らないのは…嫌ですよ…。」
将悟はポツリと、小さな声を洩らした。