「望んでいたはずの、残酷な現実」

 「望んでいたはずの、残酷な現実」




昼過ぎの眩しい日差しの中、彼方は電車に揺られていた。
街の方から、彼方たちの住む田舎の方へと向かう下り電車。
普段から電車を使う人間も少ないこの田舎で、
彼方以外の乗客は、誰一人いなかった。

夏休みが始まって、日向から離れて三週間が過ぎていた。
携帯電話を眺めてみても、日向からの連絡は一度もない。
便りがないのはいい便り。
そんな言葉を思い出してみても、やはり少し寂しい。
けれど、もう日向に甘えるわけにもいかないから、
なるべく日向のことは考えないように、日々を過ごした。

「週に一度は家に帰る」と言ったけれど、
あんな大失態をした後で、日向に合わせる顔がなかった。
それにあの時、咄嗟に口をついた言葉で、日向を傷付けてしまった。
酒に酔って日向への想いを隠せなくなるのなら、
夏休みが終わるまで、帰らない方がいい。
いや、夏休みが終わっても、帰るべきではないのかもしれない。

日向から離れて、発作の出る頻度は減った。
それでも、いつ発作が起きるかわからない不安は拭えなくて、
病院から処方された、発作を抑える薬を飲み続けた。
何度か病院に通って、薬を調整してもらったら、
副作用に悩まされることもなく、ずいぶんと楽になったと思う。

その薬ももう既に無くなっているわけで、
彼方は家ではなく、病院へと向かっていた。

薬と酒と女に溺れて、絵に描いたような堕落生活。
けれど、どうでもよかった。
なんだってよかった。
適当に捌け口になるものを探して、日向への想いを、忘れようとしていた。

自分が滅茶苦茶になってしまえれば、
日向への想いもなくなるんじゃないかと、心の隅で考えていた。
自分が救えないほど堕落してしまえば、
日向だって自分になんて見向きもしなくなる。

それでいい。
日向は綺麗なまま、幸せになってくれれば、自分も少しは救われる。
日向の幸せが、自分の幸せだ。
日向を望むなんて、そんな烏滸がましいことは言えない。

彼方はそんなことを考えながら、窓の外を流れる景色をぼーっと見ていた。

ふいに、電車が山と田畑が広がる田舎駅に停車する。
目的地まであと一駅。
自分と日向が暮らす田舎の海町まではあと二駅だった。
扉が開くと、ホームには見慣れた少女が立っていた。

「あ…。」

彼方にとって、一番顔を見たくない少女だった。
その少女は、彼方の姿を見るなり、気まずそうに眼を逸らす。
扉の前に立っていたということは、彼女もこの電車を待っていたのだろう。

「…座れば?別にこんなところで何もしないよ。」

その言葉に、百合は恐る恐るゆっくりと電車に乗り込む。
そして彼方の向かいの、少し離れた席へと座った。
対面式のガランとした電車内、気まずい沈黙が流れる。
横目で百合を見れば、そわそわと、落ち着きのない様子だった。

いつも自分が被害者みたいな顔をしたこの少女が、彼方は嫌いだった。
彼方にとって百合は、自分から日向を奪う加害者なのだから。

「…日向とは、どうなったの?」

彼方は窓枠に頬杖を突き、流れる景色を見つめながら、小さな声で呟く。
百合は話しかけられたことに驚いたのか、一瞬肩を震わせた。

「え?あ、えっと…一応…お付き合いしてます。」

一応とは、どういう意味なのか。
胸を張って恋人だと言えないような関係なのか。
自分はその立場が、死ぬほど羨ましいのに。
妬ましくて妬ましくて、堪らないのに。

「…そう。」

彼方は奥歯を噛み締めて、唸るような低い声で呟いた。

静かな車内で、ガタンガタンと電車が揺れる音だけが響く。
彼方はそれ以上話すこともなく、百合に視線もくれずに口を噤む。

電車内に、重い沈黙が流れる。
百合は何か言いたそうに、自分の方をチラチラと窺っていた。

「…何?」

気だるげに彼方が聞くと、百合は少し言いにくそうに口を開いた。

「いえ…あの…。なんか…変わりましたね。」

その言葉に、彼方は窓から視線を逸らすことなく、
不機嫌そうに低い声で返事をする。

「…そう?」

百合は窓の外を見つめる彼方の横顔を、じーっと見つめる。
その横顔は、以前より痩せこけていて、顔色もあまりよくないように見える。

「はい…。なんか…疲れてます?」

疲れた様な顔のせいか、百合の目には彼方がまるで別人のようにも見えた。
以前とは全然違う、翳りのあるようなその姿に、百合は違和感を覚える。

「…君には関係ないでしょ。」

吐き捨てるように、彼方は呟く。
人を真っ直ぐに見つめる百合の癖が目障りだった。
こんな自分など、見ないでほしいのに。

「…冷たくなりましたね。」

百合は怯むことなく、彼方を見つめる。
その真っ直ぐな視線が、刺さるように痛い。

「…元からだよ。君にも優しくしたことなんて、ないでしょ?」

そう言って、彼方は百合に冷たい視線を向ける。
百合は少し戸惑ったように、目を逸らした。

日向のフリをしてして百合に近付いた時だって、
優しくなんてしてやらなかった。
ただ、酷く傷付けただけだ。
一度だって、百合に優しさを見せたことはない。
自分は優しい日向とは違う。何を勘違いしているのか。

彼方は、気まずそうに眼を逸らした百合を見つめる。
その冷たい視線に、百合は無言でゆっくりと顔を上げた。
そして彼方の顔をしばらく見つめた後、決心したように静かに口を開く。

「…どうして…日向先輩を、一人にするんですか。」

紡いだ言葉は、日向のことだった。
百合は真っ直ぐに、強い瞳で彼方を見つめる。

「君には…関係ない。」

彼方は目を逸らして、小さく声を洩らす。
百合の強い瞳があまりに綺麗で、
汚れた自分とは違いすぎて、見ていられなかった。

「どうして、日向先輩の傍にいてあげないんですか。」

先程よりも強い口調で、百合は彼方に問う。

「…関係…ないでしょ…。」

感情を押し殺すように、絞り出した声。
何も知らないくせに、自分と日向の関係に口を出さないでほしかった。
自分が何のために日向から離れたのか、
何のために日向の隣を百合に譲ったのか、
何も知らないくせに、自分を責めないでほしかった。

「日向先輩が寂しがりだって言ったのは、あなたじゃ…」

彼方を責めるような百合の言葉を遮って、
無機質な車内アナウンスが、次の駅の到着を告げる。
少しの沈黙の後、電車が停車すると、彼方は奥歯を噛み締めたまま、無言で席を立つ。
病院の近くの、田舎町の駅。

「え、降りる駅、次じゃ…。」

席を立った彼方に、百合は戸惑う。
行先は同じ、学校がある、日向たちが暮らす町だと思っていた。

「家には帰らないよ。日向にも会わない。」

これ以上、百合の言葉を聞きたくない。
その真っ直ぐな目で、自分を責めないでほしい。

ホームに降りて、振り返らずに彼方は冷たく言い放つ。

「ここで僕に会ったことは、日向には…いや、誰にも言わないで。」

顔の見えない彼方の言葉は、少し震えていた。
それは怒りから来る震えなのか、それとも、別の何かか。

「じゃあね。」

その言葉と共に、電車の扉が閉まる。
しばらくして動き出した電車の窓から見えた彼方の表情は、
夏休み前に空き教室で見た、辛そうな、自分を責めるような表情だった。






夏祭りの時、人ごみに紛れて、日向と百合を見た。
けれど亮太は、二人に声を掛けることができなかった。
向こうはこちらに気付いていなかったし、将悟も千秋も日向に気付かなかった。
何よりも、仲良さそうに手を繋ぐ二人を見て、邪魔をしてはいけないと思った。

百合への気持ちの整理はもうついている。
嬉しそうに日向と手を繋ぐ百合を見て、嫉妬なんてなかった。
ただ百合が幸せそうなら、それでよかった。
二人の幸せを、純粋に祝福できた。

けれど百合から来たメールは、
「相談に乗ってもらえませんか?」というものだった。
百合が自分に相談する内容なんて決まっている。日向のことだ。
あんなに仲良さそうに、幸せそうに手を繋いでいたのに、何かあったのだろうか。

「できれば早めに相談したい」という百合の言葉に、
亮太は百合を、真紀と共に勉強をするファミリーレストランへと呼んだ。
百合は日向と付き合っているのだから、
自分と二人きりというのは気が引けたため、真紀も一緒にいてもらった。
真紀は嫌がったが、なんとか頼み込んで、嫌々ながら隣にいてくれた。
何故だかわからないが、真紀は百合の話題を出すと、機嫌が悪くなる。

連絡から間もなく、目の前に現れた百合は、相当落ち込んでいた。
正面に百合を座らせて、隣に座った真紀は足を組んで、つまらなそうな顔をしていた。
改めて見ると、不思議な光景だと思う。

「で、相談って、何?」

少しの気まずさに、亮太が切り出すと、
百合は小さくため息を吐いて、ポツリポツリと言葉を洩らした。

「日向先輩と喧嘩しちゃったんです…。
 あ、喧嘩って言うより、私が一方的に怒っちゃったんですけど…。
 それからずっと連絡なくて…。
 もう一週間も電話出てくれないし、メールも返してくれないんです。」

あんなに仲良さそうだったのに、何が二人をそうさせたのだろう。
夏祭りの夜は、幸せそうに手を繋いで、笑い合っていたのに。

「なんで喧嘩したの?」

亮太が窺うように聞くと、百合はゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「日向先輩が…浮気してるんじゃないか、って…思って…。」

意外な言葉に、亮太は驚く。
亮太も日向が浮気をするような人間ではないと思う。
何よりも百合に誠実に向き合っていた日向が、浮気なんてするはずがない。

「日向が…浮気?」

言い辛そうに、百合は視線を逸らして小さく洩らす。

「その…日向先輩の首筋に、噛み痕が…あったんです。」

その言葉に、亮太は何かを思い出したように、口をポカンと開ける。
そして、慌てて口元に手を当て、取り繕う。

「あー…いや、それは浮気じゃないよ。」

目を逸らして言う亮太に、黙っていた真紀は訝しげに口を開く。

「何言ってんの?完全にクロじゃない。」

頬杖を突きながら、真紀は退屈そうにカフェオレをストローで混ぜる。
氷がグラスに擦れる音がカラカラと響く。

「…違う。…女の子じゃないよ。」

何かを知っているような亮太の口調に、百合は首を傾げる。

「坂野先輩…何か知ってるんですか?」

真っ直ぐに亮太を見つめて、百合は静かに続きを待つ。

「いや、えっと…その…。」

百合の真っ直ぐな目に、口ごもった亮太は、真紀をチラッと見る。
その視線に、真紀は訝しげに首を傾げる。
そして亮太は少し考えるように、静かに百合に言った。

「…どうしても気になるなら、百合ちゃんが直接日向に聞きなよ。
 二人のことなんだから、ちゃんと日向と話しなよ。」

亮太が諭すように言うと、百合は小さく肩を落とした。

「そんなこと言われても…日向先輩と連絡取れないんですもん…。」

しょんぼりと、百合は両手で抱えたココアのストローに口を付けて、俯く。

百合の力になってあげたい。
けれど、自分が余計なことをしたら、
また日向を怒らせてしまうのではないかと亮太は考える。
日向はあまり自分ことに口を出されるのが好きじゃない。
ましてや二人の恋愛のことだ。
自分が口を出すべきではない。

ない頭を働かせ、必死で考えていると、ふと亮太の携帯の着信音が鳴る。
ディスプレイに表示されたのは、将悟の名前だった。

「あ、将悟だ。」

「今日はよく携帯鳴るわね。」

真紀が呆れたように呟くと、亮太は断りを入れることもなく、
席を立つこともなく、この場で通話ボタンを押す。
そして、二人に遠慮することなく話し出した。

「もしもし?…うん、いや、大丈夫だけど、どうした?
 …え?なんで日向が?」

声を抑えることもなく話す亮太。
聞こえてきた日向の名前に、百合は食い入るように通話をする亮太を見つめる。

「知ってるけど…てか今、目の前にいるけど…。」

亮太は電話をしながら、百合の方をチラリと見る。

「え?」

意味も分からず百合は首を傾げていると、
亮太は繋がったままの携帯電話を百合に差し出す。

「将悟から。なんか日向が滅茶苦茶へこんでるらしい。」

麻丸。
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麻丸。

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