「傷だらけの心」
「傷だらけの心」
「いらっしゃい。」
百合は亮太と真紀と共に、将悟の家に来ていた。
亮太から渡された携帯電話で将悟と話した内容は、
何故か日向がずっと将悟の家に泊まっていて、
ひどく落ち込んでいる様子だから、顔を見せてあげてほしい、というものだった。
けれど、詳しいことは一切話してくれなかった。
どうして将悟の家に泊まっているのか、
落ち込んでいるのは、やはり自分と喧嘩したからなのか、
どうして日向ではなく、将悟が連絡してきたのか、
聞きたいことは山ほどあったのに、将悟は何も教えてくれなかった。
「そこの角曲がって、一番奥の客間に日向がいるから、顔見せてやってよ。」
そう言って、将悟は家の奥を指さす。
将悟の家は広く、古くからあるであろう和風の作りだった。
「はい…お邪魔します。」
あれから何度も連絡を取ろうとしたが、
メールを送っても返事はないし、電話も出てくれようとはしない。
ついには「電源が入っていない」という音声まで流れた。
着信拒否をされているのではないかと、疑ってしまう。
将悟に呼ばれたものの、日向は自分と話をしたくないのではないか、
顔も見たくないのではないか、と不安になる。
「なー、俺も日向と遊びてえ!」
「アンタは遊ぶより、受験勉強しなさいよ…。」
能天気な亮太に、真紀は呆れたようにため息を吐く。
「はいはい、お前らは居間でくつろいでろ。」
百合に気を利かせてくれたのだろう。
そう言って、将悟は亮太と真紀を居間へと誘う。
「百合ちゃん、頼むな。」
将悟は二人を居間に案内しながら、振り返って百合に言う。
「はい…。」
その背中を見送ると、百合は少し震える足で奥へと向かった。
角を曲がって一番奥。
この白い襖の先には、日向がいるのだろう。
けれど、その部屋からは物音一つせず、静かだった。
「…日向先輩。百合です。」
いきなり入るわけにも、白い襖にノックをするわけにもいかず、
百合はどうしたものか、と考えて、襖越しに声を掛ける。
「百合…?なんで…」
眠っていたのだろうか、その声は力なく、低かった。
微かに襖越しに、布が擦れる音が聞こえる。
「入っても、いいですか?」
静かに百合が聞くと、少しの沈黙が流れる。
そして布の擦れる音が止むと、日向は小さく返事をした。
「…いいよ。」
襖を開けると、頭まで布団を被った日向が、
こちらに背を向けて、膝を抱えて座っていた。
「なんで…布団被ってるんですか?」
その言葉に、日向は何も答えなかった。
やはり、嫌われてしまったのだろうか。
百合は襖を閉めて、背を向ける日向に声を掛ける。
「…怒ってますか?」
日向は百合の方を見ることなく、小さく呟く。
「怒ってるのは…百合だろ…?」
日向は顔の半分ほどを布団で隠して、
背中を丸めて、膝を抱えているようだった。
「私のこと…嫌いになりましたか?」
顔も見たくないくらい、嫌われてしまったのだろうか。
百合の心にも、不安が募る。
「違う…そうじゃない。」
そう言った日向は、どんな表情をしているのだろうか。
百合からは、日向の顔が見えない。
「じゃあ、こっち向いてください。」
百合の言葉に、日向は俯いて、小さく首を振る。
「…それは、できない。」
顔を上げようとしない日向に、百合は静かに近付こうとする。
日向の顔が見たい。
顔を見て、ちゃんと話をしたい。
けれど、日向は、百合が近づくことを拒んだ。
「ごめん…。近寄らないで…ほしい。」
拒まれたことに、百合はショックを受ける。
自分のことを嫌いになったのか、という問いを否定したのに、
自分が近付くことを許してくれない。
顔も見せてくれない。目を合わせようともしてくれない。
やっぱり、嫌っているのではないか。
自分のことなんて、好きではないのではないか。
「あの…日向先輩…、」
何か、言わなければ。
ちゃんと、話をしなければ。
必死で切り出した言葉は、日向に遮られる。
「待って。…言わないで。」
その言葉に、百合は口を噤む。
泣いてしまいそうだ。
日向と話をすることさえ、拒まれるのか。
百合は唇と噛み締め、静かに日向の次の言葉を待つ。
そんな百合の様子を、知ってか知らずか、
日向は躊躇うように、ゆっくりと言葉を洩らす。
「百合…。…その、…別れるとか…言わないでほしい…。」
その言葉は、震えていた。
どんな顔をして、日向はそう言ったのだろうか。
日向はまだ、自分のことを好きでいてくれるのか。
日向も自分と同様に、嫌われていることを、怖がっていたのか。
「日向先輩…。私、日向先輩のことが、好きですよ。
別れるなんて、言うはずないでしょう…?」
百合がそう言うと、日向は少し顔を上げた。
「本当に…?」
窺うような、弱弱しい日向の声。
その声に、百合はゆっくりと日向に近付いて、
日向の纏った布団越しに、後ろからそっと日向を抱きしめた。
「本当です。日向先輩のことが好きすぎて、
この間は、あの女性に嫉妬しちゃいました。…ごめんなさい。」
布団越しに抱きしめた日向の体は、少し細くなっている気がした。
けれど、久しぶりに触れる日向の体温が温かかった。
「…もう怒ってない…?」
怒ってはいないが、疑惑も晴れない。
首筋の噛み跡について問い詰めたいけれど、
こんなに弱弱しい日向を見たら、百合は何も聞けなくなっていた。
「怒ってないですよ。日向先輩、顔、見せてください。」
そう言って、百合は布団で顔の半分を隠した日向の正面に座り、
そっと、その布団を剥がす。
日向は一瞬、抵抗しようと布団を握る手に力を込めたが、
諦めたように目を逸らして、布団から手を離す。
露わになった日向の顔に、百合は息が詰まった。
少し痩せこけた頬。
泣いていたのか、少し赤くなった瞳。
あまり眠れなかったのか、目の下にはうっすら隈ができていた。
そして不自然に腫れた右頬と、鋭い刃物で切ったような切り傷。
「そのほっぺ…どうしたんですか?」
震える声で、百合は問う。
日向は目を逸らしたまま、手で頬を覆って小さく答えた。
「…猫に、ひっかかれたんだ。」
それは嘘だ。
視線を背けた日向の目は、泳いでいた。
「…腫れてますよ?」
先程よりもハッキリとした口調で、百合は日向に迫る。
日向は百合の目を見ることができずに、ただ俯き、長い睫毛を揺らす。
「転んで…ぶつけたんだ。」
目を逸らしたまま、日向は小さく呟く。
「…嘘、吐かないでください…っ!」
日向が言っていることが嘘だということは、明白だ。
どうして、嘘を吐くのだろう。
どうして、こんな姿になっているのだろう。
日向に何があったのだろう。
痛々しい日向の姿。
何よりも目を引いたのは、首筋につけられた首を絞められたような痣。
猫に引っ掻かれたものじゃない。
転んでぶつけたものじゃない。
これは明らかに人為的なものだ。
どうして日向が、こんな目に遭わないといけないのだろう。
日向は優しい人間だ。
口数は多い方ではないが、何よりも他人を気にして、さり気ない優しさをくれる。
感情表現が不器用で、寂しがりのくせに、素直に甘えられない。
それでも、こんな自分を愛してくれた。
不器用な優しさで、喜ばせてくれた。
それなのに、自分は日向に何もできないのか。
どうして何も言ってくれなかったのか。
自分だって、日向を守りたい。
百合はそっと、日向の首元に触れる。
その指先に、日向の体が一瞬、ビクッと震えた。
けれど百合の手は、優しかった。
温かい手で、そっと、その首筋の痣をなぞる。
日向はゆっくりと、おそるおそる顔を上げると、
百合は泣きそうな表情をしていた。
「百合…?」
百合は瞳いっぱいに涙を溜めて、日向を真っ直ぐに見つめる。
いつもの強い瞳は、涙でキラキラと揺れていた。
「…なんですか…これ…。なんで…。
誰に…誰に、こんなことされたんですか…!?
なんで私には…本当のことを話してくれないんですか…!?
私は日向先輩の…彼女じゃないですか!
私に…私にだけは、全部教えてくださいよ…。
日向先輩のこと…大切なのに…なんで…。」
感情が昂り、畳みかけるように紡いだ言葉。
叫ぶような悲痛な声には、嗚咽が混じった。
「日向先輩のこと…全部知りたいです…。」
そう言った百合の瞳からは、涙がポロポロと零れていた。
日向は泣きじゃくる百合の体を、そっと抱きしめた。
久しぶりに抱きしめた百合の肩は、一緒に過ごした日々と同じで、
柔らかくて、細くて、温かくて、愛しさが込み上げる。
その体温と甘い香りが懐かしくて、日向は百合の肩に顔を埋めた。
「…全部知っても…俺のこと、嫌いにならない…?」
百合の耳元で、日向は不安そうに声を洩らす。
「嫌いになんて…なるわけないでしょう。
日向先輩の全部を、受け止めてあげます。」
百合は日向の背中に手を回して、優しく頷く。
「…離れていかない…?」
百合を強く抱きしめて、日向は確かめるように問う。
「当たり前じゃないですか。」
不安そうな日向に、百合は涙を拭って、
いつもの芯の強い、凛とした声で答える。
躊躇いながらも、ポツリポツリと、日向は語りだした。
ゆっくりと、言葉を詰まらせながら。
細く脆い体を、震わせながら。
百合の肩で、涙を滲ませながら。
千秋とは何もないこと。
彼方がつけた噛み跡のこと。
離れてしまった彼方のこと。
幼いころから、母親に虐待されていること。
母親に「殺してくれ」と乞うたこと。
死ねきれずに、逃げてきたこと。
独りが、怖いこと。
百合は日向のあまりに残酷な現実に、
何も言うことができずに、ただ静かに頷いた。
全てを話し終わった後、日向は百合の肩で静かに泣いた。
「百合…どこもいかないで…。ずっと一緒にいて…。」
百合の肩を強く強く抱きしめながら、日向は切ない声を洩らす。
「日向先輩…。」
そっと、日向の髪を撫でる。
変わることを拒んだ、伸びきった髪。
「…捨てないで…。独りに…しないで…。」
いつもと違う弱弱しい日向の声に、百合は胸が締め付けられた。
自分が守らないと。
孤独に怯える、弱いこの人を。
「日向先輩、顔上げてください。」
その言葉に、日向は弱弱しく首を振る。
「…やだ。」
子供のように肩を震わせて泣く日向。
日向が顔を埋める肩は、涙が滲んでほんの少し温かい。
「日向先輩…ちゃんと私のこと見てください。」
百合が日向の耳元で優しく言うと、
日向は手で涙を拭って、ゆっくりと顔を上げる。
真っ赤になった瞳で、日向は百合を切なそうに見つめた。
百合は、顔を上げた日向に、ニッコリと微笑む。
そして、日向の細くなった肩に手を添え、目を瞑った。
唇が触れる。
触れるだけの、優しいキス。
日向の唇は、温かくて、柔らかくて、少しだけ荒れていた。
触れた指先から、唇から、愛しさが溢れる。
短いキスの後、唇が離れると、日向は驚いたように、手で口元を覆っていた。
「好きですよ。日向先輩のことが、大好きです。」
その言葉に、日向はまた泣きそうな顔をした。