「拙い願い」
「拙い願い」
「…おはよ~。」
優樹が起きてきたのは、十九時半を過ぎたころだった。
彼方はとっくに出勤準備を済ませ、客との同伴のために、そろそろ家を出ようとしていたころだ。
昨日、当日欠勤をしてしまったから、出勤前に優樹に謝ろうと思っていたから、
すれ違わなくてよかった、と彼方は思った。
「もう!お兄ちゃん、寝すぎ。今何時だと思ってるの?
何回も起こしたのに、全然起きないし!」
不機嫌そうに、京子は唇を尖らせる。
親切心で何度も何度も起こしたのに、寝起きの悪い優樹が起きなかったからだ。
そして、この時間は遅刻ギリギリだ。
京子が兄と過ごせる時間は、ほとんどない。
「え?起こした?」
優樹はまだ眠そうな瞳で、不思議そうに首を傾げる。
起こされていることにすら、気付かなかったのだろか。
「何回も何回も起こした!」
「俺が起きるまで起こさないと、起こした意味ないだろー?」
「起きない方が悪いでしょ!」
「そんなに怒るなってー。」
京子は優樹の前でだけは、年相応の子供っぽい仕草を見せる。
不機嫌そうに怒る京子に、優樹は平然とした顔で笑う。
まるで子供をあやしている親みたいだ。
「彼方もおはよ。」
ヘラヘラとしたまま、優樹は彼方に笑いかける。
「おはようございます。」
昨日は急に仕事を休んだりして、怒っていると思ったが、優樹はヘラヘラと笑っていた。
でもちゃんと謝らないと。この場所にいられなくなったら、困る。
「あの…優樹さん、昨日は急にごめんなさい。」
彼方はソファーから立ち上がって、優樹に頭を下げる。
その言葉に、優樹の笑みは消えた。
「あー…彼方、そこに座れ。」
「え…?」
頭を掻きながら、少しぶっきらぼうに優樹は言う。
やはり怒っているのだろうか。
ニコリともしない優樹は、少し怖い。
彼方は戸惑って、立ち尽くしてしまう。
「いいから、座れ。」
優樹の強い声に、彼方は大人しくソファーに座り込む。
ゆっくりと優樹が近づいてきて、右手を持ち上げる。
殴られるんじゃないかと、彼方は身構えてギュッと目を瞑った。
けれど、痛みなんてなかった。
優樹の手は彼方の頭にそっと触れる。
そして少し乱暴に、でも優しく、わしゃわしゃと頭を撫でた。
それはまるで、大型犬でも愛でているような感じだ。
「優樹さん…?あの…怒ってます…?」
突然の優樹の奇行に、彼方はただただ戸惑うしかできない。
「ん?怒ってねえよ?」
優樹の声は、いつもの軽い調子に戻っていた。
怒っていないのなら、これは一体何なんだろう。
優樹は、何を思ってこんなことをするのだろう。
「じゃあ…えっと…あの…何してるんですか…?」
彼方は恐る恐る顔を上げる。
今この瞬間も、優樹の手は彼方の頭を撫で続けていた。
せっかくセットした髪が、ぐちゃぐちゃだ。
「…飼い犬を愛でてる…って感じ?」
優樹は首を傾げて、答える。
自分でもよく分かっていないみたいだ。
「お兄ちゃん、寝ぼけてるの?」
「いや、俺はいつだって大真面目だ!」
呆れたような京子の表情に、優樹はいつものようにおどけて笑ってみせる。
どうやら、本当に怒っているわけではないようだ。
彼方は安心して胸を撫で下ろす。
「ちょっと彼方のことを、ヨシヨシしてやりたい気分だっただけだよ。」
そう言って、優樹は彼方の頭から手を離して、微笑んだ。
優樹の突拍子もない行動はいつものことだ。
いつも優樹は、突然よくわからない行動を起こす。
そうだ、いつものことだ。
そう思って、彼方は優樹の行動を気にはしなかった。
「お兄ちゃん、そんなこと言ってないで、早く準備しないと遅刻するよ。」
「うわ、やべ!彼方は今日同伴?」
壁に掛けられている時計を見て、優樹は完全に目が覚めたようだった。
慌てた様子で、寝巻のジャージのポケットから取り出した携帯電話を見つめる。
きっと客から、メールでも来ていたのだろう。
もしかしたら、優樹も客と同伴の約束をしていたのか。
「あ、はい。智美さんと焼き肉行ってから、出勤します。」
「わかった。同伴遅刻するなよ。じゃあまたあとで店で!」
そう言って、優樹は足早に風呂場へと、シャワーを浴びに行ってしまった。
彼方はぐちゃぐちゃにされた髪の毛に溜息を吐いて、時計を見ながら髪の毛をセットし直す。
優樹がセットを崩したせいで、同伴に遅刻しそうだ。
結局、宿題はあまり進まなかった。
夏休みということもあって、テレビでお笑い特番が3時間も流れ続けたからだ。
亮太も、真紀も、そして自分も、その番組に夢中になり、
宿題なんて、そっちのけになってしまった。
それでも、なんとか日向は、二枚だけプリントを終わらせた。たった二枚だけ。
テーブルの上には、まだ手を付けていない分厚いプリントの束が残っている。
あと何枚くらいあるのだろう。百枚近いくらいか。
どうして自分は、今日まで宿題があることを忘れていたのだろう。
もっと早く気付いていたなら、こんなに慌てる必要もなかったのに。
夏休み終了まで、たった一週間。
その期限の内に、百枚近いプリントを終わらせなければいけないと思うと、憂鬱になる。
明らかに時間が足りないし、自分は数学が苦手だ。数字を見るだけでも頭が痛くなる。
それに、バイトだってあるし、百合に会う時間も減らしたくない。
日向は、盛大に溜息を吐いた。
「はあ…。二学期までに、宿題終わらない気がする。」
時計は二十二時を回り、亮太と真紀は帰り支度をしようと、
テーブルの上の勉強道具を片付けていた。
いや、亮太はテレビを見ているだけで、
真紀が亮太の鞄に亮太の筆箱やプリントを詰め込んでいる。
まるで亮太の保護者みたいだ。
「彼女といちゃいちゃしてばっかいるからよ。」
真紀が言うことは正しい。
確かに、夏休みはほぼ毎日百合と過ごした。
でも、それだけじゃない。最近は、毎日働きに出ている。
「…バイト、始めたんだ。」
「え?マジで?何のバイトしてんの?」
亮太は視線をテレビから日向へと向ける。
「飲食店の調理。」
「あ、そっか。専門学校だったら受験勉強しなくてもいいもんね。…宿題はしなきゃだけど。」
日向が短く答えると、真紀は少し意地悪そうに笑う。
「どこの店で働いてんの?」
「学校の近くのプレーゴっていう、カフェダイニング。」
「かふぇだいにんぐ?」
聞きなれない言葉に、亮太は首を傾げる。
「へー。あのお洒落なお店?なんか意外ー。」
似合わない、と言われれば、そうかもしれない。
カフェ・プレーゴは、こんな田舎には珍しくお洒落な造りで、
主な客は地元の女子高生やカップルが多い。女性に人気なんだ。
メニューもパスタやオムライスなどのお洒落な洋食がメインで、スウィーツなども豊富だ。
「別に、そこが一番近かっただけだよ。」
こんな田舎じゃ、働く場所も少ない。
電車に乗って少し先に行った街には、此処よりも働くところがたくさんあるだろうが、それは遠すぎる。
夏休みだけじゃなく、学校が始まっても通える場所は、プレーゴしかなかった。
「なーなー!今度遊びに行ってもいいか?真紀ちゃんも一緒に!」
「いいけど…俺厨房から出られないぞ。」
百合も同じようなことを言っていたが、人のバイト先に来るのは、そんなに楽しいのだろうか。
バイトをしている姿を見られるのは、なんだか恥ずかしい。
「アンタは宿題を終わらせるのが先!遊んでる場合じゃないでしょ!」
「ちぇー。なんだよー。真紀ちゃんだって友達と遊んでるくせにさー。」
亮太は拗ねたように唇を尖らせる。
でかい図体をして、この男は子供のような仕草をするのだ。
「私は宿題終わってるからいいの!」
真紀はとっくに宿題を終わらせているらしく、随分と余裕があるみたいだ。
先程も日向と亮太が宿題をしてるのを見ながら、面倒見よく亮太に勉強を教えていた。
幼馴染とは、みんなこういうものなのだろうか。
亮太と真紀の関係は、ただの幼馴染には見えない。
それは真紀が亮太に好意を寄せているからだろうか。
けれど、亮太は百合のことが好きなず。
日向は自分のことばかりで、周りのことを全然見ていなかったことに気付く。
そうだ、亮太は百合のことが好きだったんだ。
亮太は自分の彼女の百合のことを、自分が百合と付き合う前から、好きだったんだ。
もしかしたら、今もその想いは変わっていないのかもしれない。
自分の前では屈託なく笑うが、本心はそうじゃないのかもしれない。
本当は、無理して笑っているだけなのかもしれない。
「亮太、あのさ…。」
日向は声を潜めて、亮太に話しかける。
真紀はテレビに視線を向けながら、亮太のプリントの数を数えていた。
「なんか…ごめん。百合のこと。」
謝ったって、どうなるわけでもない。
けれど、言わなければならない気がした。
そうでなければ、自分と百合の関係が、許されないような気がした。
許されたいだなんて、烏滸がましいけれど。
亮太は一瞬驚いたような顔をして、すぐにニッコリと笑った。
「何言ってるんだよ!気にするなよ、そんなこと!」
いつもと変わらない、大胆な笑顔。
明るい亮太の、眩しい笑顔。
「でも…亮太だって、百合のこと…」
伏し目がちになる日向の言葉を遮って、亮太はおかしそうに笑う。
「それは昔の話!よかったじゃん、両思いで!
それに、百合ちゃんは日向といたら、幸せそうだしな。」
その言葉には、嫌みなんて感じなかった。
それが、裏表のない亮太の、素直な気持ちなのだろうか。
自分が百合といることを、許しくてくれるのだろうか。
日向は少しだけ、心が軽くなった。
「…っていうかさ、どこまでやった?」
亮太は先程とは打って変わって、茶化すようにニヤニヤと笑う。
「は…?」
「百合ちゃんと!」
「何言って…」
「将悟の家では、暑い夜を過ごしたんだろー?」
亮太の言葉の意味を察して、日向は顔が熱くなるのを感じる。
亮太の言いたいことは、おそらく男女付き合いのアレだろう。
年頃の男子高校生が好きそうな話題だ。特に、亮太は。
将悟の家で、誠が茶化すように言ったキスマークのくだりで、完全に勘違いされている。
「なあなあ、どこまでやった?最後までした?」
亮太は純粋に聞くが、内容は不純だ。
そういうことは人に言うことでもないし、真紀だって傍にいる。
女子のいる前で、いや亮太にさえ、恥ずかしくて、
とてもじゃないけど、言えるわけない。
日向は顔を真っ赤にして、動揺してしまう。
「さ…最後って…」
「どーなんだよ、日向!」
亮太は赤面する日向を気にもせず、無邪気な笑みで答えを催促する。
「いや…どうって…。」
日向は照れ隠しのように、赤く染まる頬を隠すように手で覆う。
いかがわしいことは一切していないけれど、恥ずかしくてそんなこと言えない。
何も答えられず、日向は口を噤む。
そして、助けを求めるように、真紀に視線を向けた。
真紀は日向の視線に気付いて、手に持っていたプリントの束で亮太の頭を叩く。
「なんっつーことを聞いてんよアンタは!」
バサバサと音を立てて、亮太を叩いたプリントの束が、床に落ちる。
渡辺真紀は、少し男勝りで乱暴なのだ。
「いてっ!!真紀ちゃんひどいー。」
亮太は大げさに頭を押さえて、唇を尖らせた。
「アンタはデリカシーが無さ過ぎるのよ!」
「だって気になるじゃんー。」
「だってじゃない!」
真紀は小さな溜息をついて、散らばったプリントを拾い集める。
亮太には悪いが、日向は解放されたことに安心して、肩を落とす。
百合の話題を出した自分が馬鹿だった。
今度から亮太の前では百合の話は控えよう。
「ほら、帰るわよ!」
真紀は亮太の荷物を片付け終えて、亮太の鞄を押し付けるように亮太に手渡す。
「ええー、もうー?まだ帰りたくねーよー。」
亮太は唇を尖らせたまま、駄々をこねる子供のようなことを言う。
「もう十時過ぎてるんだから、迷惑になるでしょ!」
自由で本能的な亮太と違って、真紀は常識があるみたいだ。
ヤダヤダする子供のような亮太の首根っこを掴んで、
真紀は少し乱暴に玄関へと亮太を連れ出す。
慣れているのか、真紀は軽々と亮太の無駄に大きな図体を引き摺る。
我儘な子供と世話焼きの母親。夫婦漫才。喧嘩するほど仲がいいカップル。
いや、これじゃあ馬鹿犬と飼い主か。
引き摺られていく亮太と、引き摺って行く真紀を見て、日向は頭の中でそう思った。
「日向ーまたなー!」
亮太は玄関まで引き摺られ、少し名残惜しそうな顔を見せた。
しかしすぐ笑顔に戻って、長い腕をブンブンと振りながら真紀と自宅へ帰った。
帰り際の亮太が、尻尾を振って懐いてくるリッキーみたいだった。
そういえば、リッキーと、あの飼い主のお姉さんには、しばらく会っていない。
自分はリッキーが苦手だから、あの海岸には近寄らないだけだけど。
あのお姉さんとリッキーは、今でも毎日海岸を散歩しているのだろうか。
彼方は、動物が好きだった。
自分と同じくらい、いやそれより大きな体のリッキーと、楽しそうに遊んでいた。
自分はどうしたらいいかわからず、ただ逃げていたのに、
彼方は無邪気な笑顔で、懐いてくるリッキーを可愛がっていた。
手懐けていたというよりも、リッキーに遊ばれていたという感じだったが。
飼育委員の仕事でも、いつも一人で小さな兎を膝に抱えて、
自分の図書委員の仕事が終わるのを待っていた。
彼方は動物が好きだ。
けれど、人間が嫌いな一面があった。
誰とでも仲良さそうにニコニコと楽しそうに話すけれど、彼方は息を吐くように嘘を吐く。
その嘘は、他人を自分の深いところへ入れないための嘘だ。
他人に本心を見せないための、拒絶の嘘。
社交的で人懐っこいなんて言われているが、彼方は上辺だけの付き合いしかしない。
話しかけられたらにこやかに答えるけれど、自分からは話しかけない。
それに、絶対に他人に触れようとはしないし、触れられることすら拒む。
強く拒絶するわけではなく、言葉巧みにやんわりと、他人との線引きをする。
暗に『これ以上は踏み込むな』と壁を作り、相手を引き離す。
そうやって上手く線引きして、彼方はクラスメイトに囲まれながらも、孤独だった。
いや、自ら望んで、余計な人間関係を築かないようにしていた。
そんな彼方が心を開くのは、自分だけだった。
それは二人で作り上げた箱庭のせいか、ずっと昔から自分に恋心を抱いていたからなのか。
今はもう、日向にはわからない。
彼方は教室では楽しそうにクライスメイトと話すのに、
放課後や休みの日は、絶対に誰とも会ったり、遊んだりしない。
学校とプライベートを完全に分けていた。
彼方が髪を切ったあの日までは。
髪を切ってから、彼方は変わった。
百合の言うように、変わろうとして髪を切ったのだろうか。
だとしたら、彼方はどうなりたかったのだろう。
毎日のように、自分を置いて先に学校に行き、放課後は夜遅くまで帰って来なくなった。
何処で誰と何をしているのかは知らないけれど、
その頃から、知らない香りをチラつかせるようになった。
くどいくらいの甘い匂い。それは女性の化粧品や、香水の匂いのようだった。
化粧品や香水の匂いが残るくらい密着して、
誰と、何を、していたのだろう。
だって、意味がわからない。
自分のことが『好きだ』と言っておいて、
『離れていかないで』、『傍にいて』と縋りついてきて、
あろうことか、無理矢理キスまでしておいて、
髪を切った途端、手の平を返すように、自分を避け始めた。
もしかしたら、彼方が髪を切って変わったのは、自分のことを諦めようとするためではないか。
だから自分のことを避けるようになったし、夏休みも自分に会わないように、敢えて遠くのバイトを選んだ。
『ブリーダーになりたい』と言ったのも、自分が絶対選択しない職業だと思ったからなのではないか。
『彼女作りなよ』と言ったのも、本心じゃなくて、自分のことを諦めるための、口実がほしかっただけじゃないのか。
日向は山積みにされたプリントの束を見つめる。
全然進んでない。勉強は苦手だ。終わる気配すらない。
ああ、そういえば、彼方はいつも夏休みの宿題は、最終日になって慌てるタイプだったな。
バイトばかりでほとんど家に帰っていないのだから、今年も全く手を付けていないだろう。
自分の宿題が終わったら、写しておいてやるか。
だって、彼方はちゃんと帰ってくる。
彼方の帰る家はここだけだ。他に行く宛なんてない。
ここは自分と彼方の家だ。だから、ちゃんと帰ってくる。
真っ白のプリントに慌てさせないためにも、兄らしく弟の世話を焼かないと。
そうだ。自分たちは双子なんだ。離れるわけがない。
彼方が、自分の傍を離れられるわけがないんだ。
だから、帰ってくる。きっと、きっと。
静かになった部屋で、日向は独りでプリントにペンを走らせた。