「子供の純真さ」
「子供の純真さ」
午前十一時。
京子は近所のスーパーで買い出しをして、食材を冷蔵に詰めていた。
この家では、京子が家事全般をこなす。
炊事、洗濯、掃除。全てだ。
優樹は料理ができないわけではないが、めんどくさがって、ほとんどしない。
ほっとくとコンビニ弁当ばかり食べるし、それじゃあ体に悪い。
彼方は全く料理ができないみたいで、キッチンに立とうともしない。
だから、消去法で京子が毎日全員分の食事を作るのだ。
もっとも、この家では全員の生活時間が違う。
自分とは違い、二人は昼夜逆転の生活をしているし、
優樹と彼方の間でも、多少生活時間のズレがある。
優樹は早朝帰ってきて、夕方まで寝ることが多いし、
彼方は昼頃帰ってきて、出勤ギリギリまで眠っていることが多い。
だから、いつでも食事を摂れるように、作り置きした食事を冷蔵庫に入れておくのだ。
今日も、優樹は早朝に誠に抱えられて、酔って帰ってきた。
話に聞くと、優樹は酔って、店で眠ってしまうことが多いらしい。
それでちゃんと仕事をしているのかは疑問だが、
毎日毎日そうやって誠に迷惑をかけるのはやめてほしい。
優樹は一度眠ったらなかなか起きないから、仕方なく誠が抱えて連れて帰ってきてくれるのだ。
散々迷惑をかけた優樹は、今は自室で眠っている。
彼方は、まだ帰って来ない。
毎日『アフター』というものをしているらしい。
店が終わった後に、客と外で食事や買い物に行ったりしてるみたいだ。
優樹は『サービス残業みたいなものだ』と言っていた。
そうやって彼方は、毎日昼に帰ってきて、夜には『同伴』というもので優樹よりも先に家を出る。
『同伴』とは、出勤前に客と外で食事をして、そのまま出勤することらしい。
だから彼方は、この家にほとんど寝に帰ってくるだけのようなものだ。
『同伴』や『アフター』で、外で食事を食べてきているからか、家でほどんど食事はしない。
もしかしたら、外でもそんなに食べていないのかもしれない。
だって彼方は、明らかに痩せた。
本人は否定するが、誰が見ても気付くほどだ。
元々細身だった体は、さらに細くなった。
頬も痩けて、顔に赤みがない。不健康なほどに、青白い顔になった。
そして、少し老けたと思う。大人になったんじゃない。疲れたような顔になっている。
それは夜の仕事を始めたせいか、日向への想いが叶わなかったせいか。
それとも、過呼吸だとかいう病気のせいなのか。
気にはなるが、京子は深くは聞けずにいた。
冷蔵庫に食材を詰め終わり、京子はいつものようにソファーに座ってテレビを付ける。
別にテレビが好きなわけではない。
優樹が眠っていて、彼方がまだ帰って来ないこの家は、静かすぎる。
広いこのマンションに一人で座っているのは、少し寂しい。
だから、テレビから流れる雑音で孤独を紛らわす。
お昼のワイドショーは、いつもと変わらず、つまらないけれど。
ふいに、玄関の扉が乱暴に開く音がした。
彼方が帰ってきたのだろう。
その足音は不安定で、フラフラと心許ない。
おそらく、酔っぱらっているのだろう。
「ただいまぁー。」
リビングの扉を開けながら、彼方は少し気の抜けたような声を出す。
「おかえりなさい。」
疲れているのか、酔っているのか、フラフラと心許ない足取りで、彼方は真っ直ぐにソファーに向かう。
そしてソファーに座ったかと思ったら、ずるずると体を倒してソファーに沈み込む。
「あー疲れた…。」
そう言って、彼方は気だるげに息を吐く。
俯せでソファーに寝転がり、今にも眠ってしまいそうだった。
「ちょっと、寝るなら部屋行ってくださいよ。こんなところで寝たら、風邪ひきますよ。」
「んー。まだ寝ないよぉ…。」
京子が咎めると、彼方は気が抜けたふにゃふにゃな声のまま、
ゆっくりとソファーから体を起こす。
その瞳は眠たそうにトロンとしているし、
ぐったりとソファーの背もたれに寄り掛かって、完全に体を預けているみたいだ。
そして、ぼーっとしたまま、ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
最近彼方は、よく煙草を吸うようになった。
一日中煙草をふかしている優樹や誠に比べれば、本数は少ないけれど、
以前よりはずっと自然に、咳き込むこともなく紫煙を吐き出す。
その紫煙が揺れるたび、甘いバニラの香りが部屋中に広がった。
アフター帰りの時は、特に本数が増える。
ほら今も、燃えて短くなった煙草を灰皿に押し付けて、彼方は新しい煙草に火を点ける。
それはタバコが吸えない場所に長時間いたからか、アフターに多少のストレスを感じているからか。
彼方はアフターが多い。ほぼ毎日だ。
どこで何をしているのかは知らないけれど、帰ってくるのは昼だ。
最初は自分に気を遣って、優樹と過ごす時間を邪魔しないためかとも思ったが、
彼方はそんなに気を遣うタイプじゃない。
むしろワガママで甘えたで、あまり他人のことは気にしないタイプだ。
ふと彼方に視線をやると、彼方はうつらうつらと眠たそうだった。
頭が重力のまま下がってきていて、瞼が閉じてしまいそうになっている。
指に挟んだ煙草は、火が消えそうになっていて、灰が落ちそうだ。
「眠いんですか?」
京子の声に、彼方は僅かに顔を上げた。
そして指に挟んだ煙草を灰皿に押し付けて、ゆっくりと口を開く。
「うーん、ちょーっとだけー。」
気の抜けた声は少し舌っ足らずで、まるで甘える子供のようだった。
彼方がこんなに酔っているのは、珍しい。
夜の仕事を始めた最初の頃は、よく潰れて帰ってきていたけれど、最近はそんなことはなかった。
むしろ彼方が優樹の介抱をしていたように思える。
元々酒はそんなに弱くないみたいだし、むしろ強い方だろう。
それに、優樹のように馬鹿みたいに酒をガブ飲みするタイプでもない。
しかし、目の前の彼方は酒に酔って、情けないほどにふにゃふにゃになっていた。
「珍しいですね。そんなに酔うなんて。」
京子は、呆れて溜息を吐く。
彼方はヘロヘロと再びソファーに身を沈める。今度は仰向けだ。
「んー、薬のせいか、なんか変にお酒回っちゃってさー。フラフラする…。」
なんだそういうことか。
そもそも薬を飲んだのなら、酒を飲まなければいいのに。
そこまで考えが回らなかったのか。やっぱり彼方は馬鹿だ。
それとも、仕事上、酒を飲まないわけにはいかなかったのか。
よくこの状態で仕事をして、アフターまでこなしてきたものだ。
「さっきも言いましたけど、寝るなら自分の部屋行ってくださいよ。」
口を尖らせながら京子が言うと、
ぐったりとソファーに横になった彼方は、なんとも情けない声を出す。
「んー…。」
そして、力なく両手を京子のいる方へと伸ばした。
「ん。引っ張って。」
そう言って、彼方の両腕は宙をブラブラとしている。
まるで、ワガママを言って甘える子供のようだ。
「私じゃ、彼方さんのこと運べませんよ。」
京子は素っ気なく言う。
どう考えても、彼方を部屋まで運ぶなんて不可能だ。無理がある。
「引っ張るだけでいいからー。」
彼方は情けなく、甘えた声を出す。
手をバタバタと揺らして、今度は駄々をこねる子供のような仕草を見せた。
「はあ…。子供じゃないんですから…。」
京子は溜息を吐いて、仕方なく彼方の両手を取る。
そして、少し引っ張ってやると、彼方はゆっくりと上体を起こした。
「ん。立たせてー。」
ソファーの上に上げていた足を降ろし、彼方はさらに甘える。
京子は再び大きな溜息を吐いて、先程より少し高い位置から手を引っ張る。
彼方は京子に引かれるままに、ゆっくり、のろのろと立ち上がった。
しかし、足はおぼつかない。フラフラだ。
「そのまま、部屋まで連れてってー。」
そう言いながら、彼方の体はふらつく。
京子の肩口に凭れかかるように、彼方は体重を預けてきた。
その重さに、京子は少しよろける。
「ちょ、ちょっと!自分で立ってください!」
抱き付くような体制に、京子は少し動揺してしまう。
「むーりー…。」
「もう…。甘えすぎですよ。」
何度目かもわからない溜息を吐いて、京子は彼方の背中に手を回す。
そして、ゆっくりとリビングを抜けて、彼方の部屋まで彼方を支えて歩く。
彼方の足取りは相変わらずフラフラで、途中何度も廊下の壁にぶつかっていたが、
無理を言っているのは彼方の方だから仕方ない、と京子は思った。
やっとのことで彼方の部屋に着くと、彼方は京子から離れて、ベッドに飛び込むように沈み込んだ。
うーん、と低く唸り、布団を抱きしめるように、ごろんと寝転がる。
仕事着のスーツのまま、眠ってしまいそうだった。
「ちょっと彼方さん、そのまま寝たらスーツが皺になります!ちゃんと脱いでください。」
彼方が着ているのは優樹のスーツだ。
優樹と彼方は身長も体型も近いし、たかが一ヶ月とちょっとだけ働くのであれば、
新しいスーツを買うのがもったいないから、という理由で優樹が貸しているのだ。
貸しているのは優樹の古いスーツだが、まだ充分に着れるくらい綺麗なものだ。
「えー?んー…あとで着替えるからー。」
京子が咎めると、彼方は眠そうな、気だるげな声を出す。
瞼は完全に閉じていて、眠ってしまうのは時間の問題だった。
「男の人の『あとで』は信用なりません。
それ、お兄ちゃんから借りてるんでしょう?ほら。」
京子は、無理矢理彼方のスーツの上着を脱がそうとする。
「もー、京子ちゃんったら、や・ら・し・いー。」
そう言って、彼方はケラケラと笑う。
そして、体を起こして、上着を脱がそうとする京子の手を掴んだ。
「このまま、えっちなことしちゃう?」
余裕を持った挑発的な笑み。少年じゃない、男の強い瞳。
二つもボタンを外したシャツから覗く、肌蹴た胸元。
普段は全然気にしていなかったが、彼方の整った顔で見つめられると、心を射抜かれそうになる。
京子は不覚にも、ドキッとしてしまった。
「な…何言ってるんですか。」
京子は平静を装って、素っ気ない言葉を吐く。
けれど、まだ心臓がドキドキしている。
恥ずかしくて目を合わせられず、京子は俯いてしまう。
彼方にドキドキしてしまったなんて、バレたくない。
なんだか悔しい。
「冗談だよー。本気にしちゃったー?」
そんな京子を見て、彼方はおかしそうに笑う。
酔っているせいか、タチが悪いほど無邪気な笑みだ。
そうだ。この男の無邪気さは、タチが悪い。
「ね、添い寝してよ。」
笑い終えて、彼方はベッドに寝転がる。
スーツは着たまま。どうやら脱ぐ気はないようだ。
「嫌ですよ。なんで私が。」
京子は不機嫌だった。
不覚にも、彼方にドキドキしてしまった自分が腹立たしい。
なんで、こんな男なんかに。
「僕が寝るまででいいから。ほら、おいで。」
そう言って、彼方は両手を広げて見せる。
先程の男の顔ではなく、子供のような甘えた眼差しになっている。
「…嫌です。大人しく一人で寝てください。」
京子はベッドに腰掛けたまま、そっぽを向く。
「えー。京子ちゃん冷たいー。」
彼方は頬を膨らませて、拗ねるような仕草を見せる。
本当に大きな子供みたいだ。
「…じゃあ、手、繋いでてよ。」
小さく呟いて、彼方は右手を差し出す。先程よりも控えめに。
彼方を見れば、京子を窺うような瞳だった。
「はあ…もう、めんどくさい酔っぱらいですね。」
京子はまた溜息を吐いて、彼方の手に自分の手を添える。
彼方の手は温かいと言うより、熱かった。おそらく酒のせいだろう。
今日だけで、何回溜息を吐いただろう。幸せが逃げてしまうじゃないか。
自分よりも体が大きいくせに、この男は自分よりも子供だ。
「彼方さんが眠るまでですよ。とっとと寝てください。」
「うん…。京子ちゃんの手は冷たいね。」
彼方は京子の手をぎゅっと握って、確かめるように呟く。
まるで誰かと比べているような発言だ。
その誰かは、確実に日向だろうけど。
「…日向がね、よくこうして手を握ってくれたんだ。
悲しいこととか、辛いことがあるたびにね、手を繋いで日向と一緒に寝るんだ。」
彼方は目を閉じて、思いだすようにゆっくりと言葉を並べる。
その言葉は、愛しさと切なさで溢れている気がした。
京子は何も言わず、彼方の言葉に耳を傾ける。
「でも、僕は寝相が悪いから、何回も日向をベッドから落しちゃったりしてね…。
日向は怒ったりしないんだ…優しいから…。だからね、日向はね…
よしよしって、頭撫でてくれて…日向の手はあったかくて、ね…」
酔っているせいか、眠いせいか、脈絡のない話だ。
たどたどしい言葉は、徐々にゆっくりになっていく。
「それでね、…日向が…。」
しばらくすると、彼方の寝息が聞こえてきた。
彼方は眠ってしまったようだ。
それでも、京子の手を強く握ったままだった。
「諦めるとか言いながら…日向さんのことばっかりじゃないですか…。」
日向が、日向と、日向を、日向は、日向の。
彼方が呟くのは日向の名前ばかりだ。
その名前を呼ぶ時の彼方の声は、愛おしそうで、切なそうで、痛々しいくらいだった。
諦めるんじゃないのか。全然諦められていないじゃないか。
一体いつまでそんなことを続けるのか。馬鹿だ。彼方は大馬鹿だ。
京子は、静かに眠る彼方の髪を撫でてみた。
「ん…日向…。」
安心したような表情で、彼方は日向の名を呼んだ。
本当に、子供みたいな人だ。
このまま、彼方はここで夜の仕事を続けるのだろうか。
本当に、日向のことを諦めて、日向と二人で暮らす家を捨てるのだろうか。
京子は繋いだ手を解く。
彼方は、静かに寝息をたてていた。
けれど、手が離れた瞬間、少し悲しそうな顔をした。
彼方を起こさないように、ゆっくりと立ち上がり、京子は扉に手を掛ける。
扉を開けて廊下に出ると、そこには眠そうな顔をした優樹が立っていた。
彼方の部屋から出てきた京子に、優樹は少し驚いたような顔をした。
そして、すぐにニヤニヤと笑って、茶化すような口調で言う。
「なになに、お前らデキてんの?」
「デキてない!」
京子は反射的に否定する。
当たり前だ。自分が好きなのは、目の前にいる優樹なのだから。
そんなこと、言えるわけないけれど。
「…酔っ払った彼方さんを、部屋に運んだだけよ。あんまり彼方さんを酔わせないでよね。
彼方さん、酔っぱらうとめんどくさいんだから。」
先程の彼方を思い出して、京子はまた溜息を吐く。
本当に、彼方は手のかかる子供のようだった。
「そうか?どうめんどくさいんだ?」
優樹は不思議そうに首を傾げる。
「子供みたいになって、めんどくさいの!」
「ははっ。なんだそれ。甘えてくるってことか?
俺には全然甘えてこないのに。」
なんだ。優樹にはそんな素振り見せないのか。
確かに、彼方は優樹に対しては他人行儀な気がする。
優樹の前ではヘラヘラと笑って、ただのいい人を演じているようだ。
もしかしたら、彼方が素直な感情を見せるのは、自分にだけかもしれない。
日向のことで落ち込んだ様子を見せるのも、日向のことで泣くのも、自分だけしか知らないのかもしれない。
彼方は、あまり他人に本心を見せない。
日向以外に、信用できる人間はいないみたいだ。
自分にだけは本心を見せるけれど、
夏休みが終われば、自分は学校の近くのアパートに戻らなければならない。
けれど、そうしたら彼方はどうなるのか。
誰にも本心を見せられない彼方は、どうなるのか。
彼方のことなんて、どうでもいいと思っていたのに、急に京子は心配になった。
「ま、彼方のこと、ちゃーんと面倒みてやってくれよ。」
そう言って、優樹は少し困ったように笑った。