「丸い背中」
「丸いの背中」
「プリン作ったんだけど…食べる?」
「え?プリン…ですか?」
日向は甘い。
それはもう、際限なく甘い。
日向に甘やかされた百合の体は、夏休み前よりも少し、少しだけふくよかになっていた。
それも当然だ。毎日、日向と過ごして、日向と一緒に料理をして、
一緒に食事を摂り、おやつまでも作ってくれている。
日向の作る食事やお菓子は美味しいし、ついつい食べ過ぎてしまう。
それに、バイトを始めてから、日向は盛り付けにもこだわるようになった。
チーズケーキにはイチゴジャムを添えて、クッキーだって星型やウサギ、
ハートやクマなど色々な形で、ドライフルーツやカラースプレーまで乗っていることもある。
アイスクリームもコーンフレークと生クリーム、チョコソースにフルーツまで添えてパフェ風に。
自分のために、手間をかけて作ってくれているのは嬉しいが、
上手く料理もお菓子も作れない自分が、恥ずかしくなる。
日向の料理の腕を、少し分けてほしいくらいだ。
それに、夏休みに入ってから体重が三キロも増えた。三キロも、だ。
これは百合にとって、由々しき事態である。
最近になって、百合はダイエットを公言したが、
日向は相変わらず、毎日お菓子も欠かさずに作ってくれる。
「百合、プリン好きって言ってただろ?」
そう言って、日向は百合に小さく笑いかける。
その笑顔に、百合は弱い。
けれど、このままでは、どんどん太ってしまう。
「私…ダイエットしてるって言いましたよね…。」
百合は唇を尖らせて、小さく呟く。
せっかくダイエットしているのに、日向は甘い。甘すぎる。
自分を甘やかしすぎだ。また体重が増えてしまう。
「…食べない?今日のプリン、自信作なんだけど…。」
日向は首を傾げて、百合を窺う。
日向のそんな些細な仕草でさえも、百合には可愛く見えてしまう。
日向はカッコいい。けれど、自分に見せる仕草の一つ一つは、可愛らしいのだ。
恋は盲目だ。自分でもわかっている。
好きになってしまったから、日向の声、仕草、笑顔、全部が魅力的に見える。
自信作なんて、そんなことを言われたら、食べるしかないじゃないか。
百合は、今日も日向の甘い誘惑に負けてしまう。
「…食べます。」
その言葉に、日向は嬉しそうに微笑んだ。
「ちょっと待ってて。今持ってくるから。」
そう言って、日向はキッチンへ消えていく。
そして、何かを切るような包丁の音が聞こえてきた。
今日のプリンには何を添えるのだろう。
家に帰って体重計に乗るのが憂鬱だ。
しばらくして、日向はお盆に百合が好きなミルクティーと、プリンを二つ乗せて戻ってきた。
プリンには生クリームとイチゴがたっぷりと添えてある。
ああ、カロリーが高そうだ。
「おまたせ。」
日向はお盆からミルクティーとプリンをテーブルに並べる。
テーブルに乗せられたプリンは、見た目も綺麗で美味しそうだ。
いや、日向が作るものは、全部美味しいに決まっている。
「わ~可愛いですね!美味しそう~。」
店で出されるような綺麗な盛り付けのプリンに、百合は思わず溜息が洩れる。
「食べてみて。」
そう言って、日向はテーブルを挟んで百合の向かいに座る。
「わーい。いただきまーす!」
こんなに綺麗な盛り付けをされていると、崩すのは躊躇われる。
けれど、日向は『味の感想待ち』といった様子で、百合を見つめていた。
当然だろう。何しろ、『自信作』なのだから。
百合はスプーンでプリンを掬って、口に入れる。
「美味しい…!」
口に入れた瞬間に、言葉が飛び出す。
それほど、日向の作るプリンは美味しかった。
あまりの美味しさに、思わず頬が緩んでしまう。
「言ったろ?自信作だって。」
日向は嬉しそうに微笑む。
本当に日向は、よく笑うようになった。
百合はそんな日向の優しい微笑みが大好きだった。
「もー、日向先輩の作るものは全部美味しいから、全然ダイエットできないです…。」
百合は頬に両手を添えて嘆く。
そういえば、ほっぺにも少し贅肉が付いたような気がする。ぷにぷにだ。
「ダイエットなんてしなくていいだろ?」
そう言って、日向は百合をじーっと見つめる。
「俺はさ、俺が作った料理とか、お菓子とかを、
美味しそうに、いっぱい食べる百合が好きなんだけどな。」
「え…?」
日向は時々、平然と恥ずかしいセリフを口にする。
それはきっと、無意識に口を出た言葉で、
言った後になって、日向は恥ずかしそうに顔を背けた。
「俺…何にもできないから。こんなことでしか、百合に喜んでもらえないし…。」
日向は、自分に自信がない。
いや、きっと自分のいいところに、気付いていないのだろう。
日向のいいところは、たくさんあるのに。
日向はカッコいいし、可愛いし、真面目だし、器用だし、繊細で優しい人間だ。
毎日バイトで忙しいはずなのに、こうして日向は自分の好きなものを作ってくれる。
自分のことを考えて、自分のことを想ってくれる。
それだけで充分だ。
「そんなことないですよ!私は日向先輩と一緒にいられるだけで幸せですよ!」
そう言って、百合は微笑む。
そうだ。こんな素敵な人と一緒にいられる自分は幸せだ。
何もできないなんて、そんな悲しいことを言わないでほしい。
「百合はいい子すぎる…。」
顔を背けたまま、日向はボソッと呟く。
唇を尖らせて、まるで子供が拗ねているようだ。
「もっと…俺を困らせるくらいの、ワガママ…言ってもいいのに…。」
頬杖をついて、小さな言葉を洩らす。
これも無意識だろうか。いや、意識的か。
日向は恥ずかしそうに口元を手で覆って、俯いてしまった。
必要とされていないと、不安なのだ。
ワガママなんて、いつも言っている気がする。
バイトで疲れているはずなのに、毎日自分との時間を作ってくれる。
いつも日向に駅まで迎えに来てもらっているし、
食事だって、おやつだって、自分の好きなものばかりだ。
テレビだって、自分が見たいものばかりに合わせてくれる。
日向はそれをワガママだと思っていないのか、なんでも自分の言うことを聞いてくれる。
「…じゃあ、日向先輩から、キスしてください。」
百合は日向を見つめて、ニッコリと微笑む。
ワガママを言っていいのなら、日向からのキスがほしい。
いつも自分からばかりだから、日向からがいい。
「え?…今?」
日向は少し驚いた顔をして、顔を上げた。
「今、です。」
有無を言わせない微笑みで百合がニッコリすると、日向は顔を赤らめた。
「それはちょっと…恥ずかしい。」
日向は恥ずかしがりだ。すぐ顔が赤くなる。
手を繋ぐのも、抱きしめるのも、キスだって、何度もしているのに、
毎回最初は、少し恥ずかしそうな素振りを見せる。
そんなところも、可愛いのだけれど。
「日向先輩が困るくらいのワガママ、言っていいんじゃないんですか?」
そんな日向を見て、百合は意地悪に笑う。
日向の困ったような表情が、好きだった。
「…一回だけだぞ。」
日向は赤い顔のまま、椅子から立ち上がり、百合に近付く。
背中を丸めて少し屈んで、椅子に座ったままの百合と目線を合わせる。
長い睫毛の先の瞳は、照れたように、困ったように揺れていた。
そんな日向の表情が大好きだった。
百合が瞳を閉じると、日向は躊躇いがちに、百合の頬に手を添えた。
ほんの一瞬だけ、日向の唇が触れる。遠慮がちな、優しいキス。
プリンを食べていたせいか、甘いような気がした。
目を開けると、日向は真っ赤になった顔で、口元を手で覆っていた。
どこまでも純粋で恥ずかしがりな人だ。
「それだけですかー?」
恥ずかしがる日向が可愛くて、百合は日向の首に手を回す。
「あっ…百合…。」
そのまま日向を抱き寄せて、キスをした。
さっきより、長いキス。
日向は躊躇いながら、百合の背中に手を回して、抱きしめ返してくれた。
唇が離れると、百合ははにかんで笑う。
「…一回だけ、って言っただろ。」
照れ隠しのように、日向は顔を背ける。
耳まで真っ赤だ。
「もっと、です。」
ワガママを言っていいと言ったのは日向だ。
今日はとことん困らせてやろう。
困ったような顔をした日向に、百合は自分の中にある悪戯心がくすぐられた。
それから何度もキスをした。
最初は恥じらっていた日向も、徐々に照れがなくなってきたのか、
キスをしながら自分の髪を撫でてくれた。
その指先が優しくて、百合はもっと嬉しくなった。
唇が離れると、二人で照れて笑った。
それは二人の幸せで優しい時間だった。
それからは、ソファーに座って二人でテレビを見た。
けれど、相変わらず、日向から触れてくることはない。
百合から触れないと、日向は触れてくれない。
両手を膝の上で組んで、まるで自分自身の手を捕まえているようだった。
一昨日の夜、百合は無意識に、反射的に、日向を拒絶してしまった。
日向は、あの夜のことを引き摺っている。傷付いたような顔が忘れられない。
日向を拒絶したあの夜から、以前のように、日向から自分に触れてくることは無くなった。
遠慮しているんじゃない。怖がっているのだ。また拒絶されることを。
けれど、時々日向は、寂しげに自分の手を見つめてくる。
それは以前と同じ、手を繋ぎたい合図だ。
そんな視線に気付き、百合は自ら日向の手に、自分の手を添えた。
手が触れると、日向は少し驚いたような顔をした。
そして、自分に窺うような視線を向けて、遠慮がちに、ぎこちなく指を絡めた。
さっきまでキスをしていたのに、すぐ臆病に戻ってしまう。
日向は自分のことが、本当に大好きなんだと思う。それは自惚れじゃない。
言葉は少ないけれど、ちゃんと愛情は伝わっている。
日向の視線が、指が、鼓動が、自分のことを好きだと言ってくれている。
だからこそ、嫌われるのを怖がる。
今日向が臆病になっているのは、自分のせいだ。
自分が日向を拒絶してしまったから。
『自分は大丈夫だ』と言っても、日向は優しいから、その言葉を疑う。
その言葉は、強がりなんかじゃない。無理なんかしていない。
日向だから『大丈夫』なのに。
もっと触れてもいいのに。
もっと触れてほしいのに。
百合は隣で座る日向の肩に凭れかかってみた。
一瞬、日向の体が驚いたようにビクンと震えた。
「…どうした?」
「今日は甘えたい日です。」
百合は日向の手を取り、自分の頭に添える。
「もっと触ってください。」
そう言うと、日向はぎこちなく百合の頭を撫でる。
緊張しているのか、肩が固い。長い睫毛は伏し目がちだ。
優しい指先は、まるでガラス細工でも扱うように、そっと髪を梳いた。
「日向先輩って、意外と猫背ですよね。」
日向の背中は丸い。
それはまるで、壊れやすく脆い自分自身を守っているように、
内側へ、内側へ籠ろうとする日向の性格を表しているようだ。
怖がりで、臆病な日向の背中。
「うん。…彼方にも、よく言われてた。」
そう言って、日向は背筋をピンと伸ばす。
猫背のことを、気にしているのだろうか。
背筋を伸ばした日向は、座っていても、自分よりも頭一個分くらい大きい。
当たり前だけど、男の人だなあ、と百合は思った。
けれど、無意識だろうか。
彼方の名前を口にする日向の表情は、少し悲しそうだった。
「ねえ、百合は…俺とずっと一緒にいてくれる…?」
顔を上げると、日向は切なそうな瞳で自分を見つめていた。
『百合は』という言葉に、少し引っ掛かりを感じる。
けれど、日向の縋るような瞳に、百合は何も聞くことができなかった。
「当たり前じゃないですか。ずっと一緒です!」
そう気丈に微笑んで見せた。
けれど、日向はまだ不安そうな瞳で、百合の顔を覗きこむ。
「俺が高校卒業しても?」
「もちろんです。」
「専門学校行っても?」
「離れませんよ。」
「美容師になって、働き出しても?」
確かめるように、一つ一つ、ゆっくりと日向は問いかける。
そんなことを問いかけるうちに、伸ばした背筋は猫背に戻っていた。
無意識に、背中が丸くなっている。
私は、もう日向のことを傷付けたりしないのに。
「日向先輩が嫌だ、って言っても、離れてあげません!」
百合は、不安そうに呟く日向の猫背に手を回して抱きしめる。
細くなったままの日向の体は、少しだけ、頼りない気がした。
「それ、信じて…いいの?」
躊躇いがちに窺う日向に、百合は日向の胸に顔を埋めたまま言った。
「信じられませんか?」
日向は力なく首を振って、そっと、百合を抱きしめる。
また、日向の腕は、躊躇っているようだ。
「ううん。そうじゃない…。そうじゃないんだ…でも…」
百合の体温を確かめるように、日向は肩口に顔を埋める。
百合からは日向の顔が見えない。どんな表情でそう言ったかはわからない。
けれど、日向の声は震えていた。
やっぱり日向の様子がおかしい。情緒不安定だ。
一昨日からだ。自分が日向を拒絶したからじゃない。その前からだ。
もちろん、自分が日向を拒絶したことも、原因だと思う。
けれど、それ以前から、日向は落ち込んでいた。
何が日向を不安にさせるのだろう。
そこに、自分も踏み込んでいいのだろうか。
言いたくないことは、言わせたくない。
言わせることで、日向を傷付けてしまうかもしれないから。
けれど、その不安を、少しでも取り除いてあげたい。
日向を守れるのは、自分しかいないはずだから。
「どうしたんですか?日向先輩…一昨日から、様子がおかしいですよ。」
返事はない。
日向は自分の肩口に顔を埋めたまま、顔を上げない。
「日向先輩…?」
暫しの沈黙が訪れる。
エアコンの乾いた風音と、テレビから流れるワイドショーが静かな部屋に響く。
窓の外からは、遠くで夏の終わりを告げる蝉の鳴き声が木霊する。
百合は黙っていた。
日向が何か言葉を紡ごうと、口を開いては躊躇って閉じたからだ。
紡がれない言葉は、溜息にも似た呼吸になって吐き出される。
そんなに、自分には言えないことなのか。
自分は日向の彼女なのに。なにもかも、わかってあげたいのに。
何を隠しているのだろう。何が日向を、こんなにも不安定にさせるのだろう。
日向はまだ、重い事情を抱えているのか。
どれくらい沈黙が流れただろう。
その間に、日向は何度も言葉を紡ごうとした。
けれど、躊躇われた言葉は、音にはならなかった。
しばらくして、日向が口を開いた言葉は、とても悲しい言葉だった。
「俺…百合にまで、離れていかれたら…生きていけない。」
消え入りそうな小さな声は、不安そうに揺れていた。
自分を抱きしめる日向の腕は、弱弱しく縋りついてくるようだった。
今百合は、日向の丸い猫背の背中の内側にいる。
日向の守る世界の、内側にいる。
それはまるで、必死に自分を離すまいと、閉じ込めているようだった。
「ねえ…俺を殺さないで…。」
耳元で聞こえた、切ない声。
日向はまた、独りになることを怖がっている。